No.82 ハイデルベルク (ドイツ)  その1

 

世の中の出来事や気分には
流行りすたりがあって、
人は多感な若い時期に接した物事に
長く影響を受け続けるのではないかと思う。
その時代の思い出やトーンが自分の
中にあって、また同世代の人たちの
中にも息づいてあることに気づくと
自分が one of them であったことに
他愛もなく頬が緩む。

一方で自分より上の世代、下の世代にも
それぞれ別の思い出やトーンがある。
自分が感激したことに、
若い人たち(の世代)がなんの縁も
結んでいないことはよくある。
それもまた世界の在りようであって、
自分が大海の中のほんの一滴である
ことをほろ苦く教えてくれる。
彼らには彼らの神話がある。

ドイツ中西部のハイデルベルクは
学生都市・観光都市として今なお
有名なところで、観光パンフを開けば
河の畔の古い街並みや
河にかかる美しい石造りの橋
街を見下ろす丘の上の廃墟と化した古城が
慕わしく描写されている。
とはいえ、町の名の響きが呼び起こす感懐は、
昔の人(日本人)たちが持ったそれと、
私たちのそれとは
おそらく随分違っているだろうと思う。

「アルト・ハイデルベルク」(古きハイデルベルク)
という小説(1898)、戯曲(1901 ベルリン初演)が、
マイヤー・フェルスターにある。
Wikiを見ると、20世紀前半に最も数多く
上演されたドイツの演劇作品の一つだとある。
この青春恋愛劇がハイデルベルクの
町を世界的に有名にしたといい、
日本でも事情は同じだった。

明治時代にドイツ語を学んだ学生の
必読書であり、昭和前期にも
その雰囲気は残っていたらしい。
興業としては 1912年に有楽座で上演され
松井須磨子がヒロイン役を務めた。
その後、20-30年代に築地座等で上演され、
また宝塚少女歌劇の演目ともなった。

この戯曲はもっと身近なレベルでも
親しまれたそうで、俳優の薄田研二は、
「昔の中学校や女学校では必ず一度は
『修善寺物語』などと共に
学校劇に取り上げられた」
「いわば過ぎ去ったよき時代の、
私たちの青春を代表する”思い出”のひとつです。」
と書いている(1975)
それがもう半世紀前だ。

映画「ダウンタウンヒーローズ」(1986)では
バンカラ高校生たちが劇中劇
「理髪師チッターライン」(ヘッベル作)の練習を
しており、ヒロインのアガーテ役として
彼らの現実のマドンナ、房子(薬師丸ひろ子演)
協力してくれることになって、
学生たち大いに意気上がる。

このようにして純情な恋愛劇は
青春の思い出に刻まれてゆく。
私の時は…とか言い出すのは
まあ止めておいて、
つまりハイデルベルクという名は
その昔の、ある種の日本人の間では
マイアー・フェルスターの戯曲の科白や、
自分たちの学生時代の光景と共に
想起される名前だったろうと、
思わないでいられないわけ。

ハイデルベルクは、フランクフルトから
 DB鉄道で1時間ほど、
Flixbus で1時間半かからないくらい。
至便といってよい。

私のバイブル、ブルーガイド(1992)を引くと、
「古い橋のたもとの近くに立ち、
ネッカーの流れのかなたに古城を望む。
レンガ色の古色に満ちた町並み、
苔むした赤い砂岩の城、
静かなネッカーの流れ、
オーデンの森を抜けてくる
さわやかな風のそよぎ…
マティソンが、ヘルダーリンが、フォルスターが愛し、
ゲーテが恋に落ちた町ハイデルベルク。
しかし一歩町中へ入れば、大学町
ハイデルベルクの若やいだ雰囲気があり、
町角の学生酒場からは若者たちの
学生歌もひびいてくる。」
ああ、慕わし。

大学町というのは、カバンを提げて自転車を走らせていたり、
キノコ を耳に生やしてジョギングしている若者たちの姿で
それと知れるものです。
と私は思いますが、昔は上記のブルーガイドにあるように、
羽目を外した若い賑やかな騒ぎ声が
酒場から聞こることが目印だったのかもしれません。
ちなみに私の学生町のイメージは
マキリップ「星を帯びし者」のケイスナルドです。

東西に流れるネッカー川の南岸の裾の平地に
旧市街があり、町の南側も、河を挟んで北岸も
小高い丘が連なっています。

町の中心を東西に通るハウプト通り(中央通り)を東へ。
ハイデルベルクの歴史は古く、
13世紀から1720年にかけての 500年間、
ライン宮中伯の宮廷所在地であり、
プファルツ選帝侯領の首都だった。

大学が開かれたのは 1386年で
神聖ローマ帝国内ではプラハ、ウィーンに次ぐ
3番目の、現ドイツでは最古の大学になる。
現在の旧市街が形成されたのもこの頃。

若い感じの町並みですが、
二次大戦の空襲をほぼ無傷で逃れて
都市としては比較的古い姿が保存されているそう。

町のシンボルである聖霊教会の尖塔。

通りの右側(南側)。すぐに丘が迫ってます。

金毛の羊?

東へどんどん進むと
丘の上の廃城が見えてきます。

通りの左側(北側)は、少し下ってすぐネッカー河。

北岸の裾の上、小高いあたりに散策道があり、
哲学者の道と呼ばれています。京都みたい。
旧市街を一望出来るそう。

橋門(カールス門) 
1781年に完成し、選帝侯カール・テオドールに
市民から贈られた。

 

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