465.ペリドット Peridot (ミャンマー産)

 

 

Peridot ペリドット

ペリドット -ミャンマー、モゴック産

Peridot from Myanmar ペリドット

ペリドット −ミャンマー、モゴック、ピャン・ゴウン産

 

前項まで、中世以降、上流階級の道楽だったキャビネット・コレクションが、次第に啓蒙的意義を帯びて社会現象化し、18世紀には庶民階級にも浸透していった流れを簡単に振り返ってみた。18世紀の大陸、19世紀のイギリス(アメリカも)は、まさに大博物学時代を迎えていた。
博物学を仲立ちにした交流が、その限りにおいて、社会的階層の垣根を取り払った。労働者と貴族、あるいは学者たちの間で、研究をめぐる議論や標本の交換が盛んに行われた。コレクションを見せ合ったり、発見について語り合う喜びは、多くの人を博物学に熱中させ、また実生活の憂さをしばしなりと忘れさせた。

誰もが気軽に学問に携わるようになった背景のひとつに、学術書(啓蒙書)の入手が容易になったことが挙げられる。情報の宝庫である書物の類は、かつて貴重な財産だった。保管者はしばしば命がけで古文書を守り、長い歳月をかけて筆写した。知識の泉はごく限られた特権者のみが触れられるものだった。
ところが15世紀にグーテンベルクが活版印刷技術を確立させたことで状況が変わった。書物の再生産が容易になり、時代につれて次第に安価かつ大量に流布されるようになった。
また17世紀までの学術書はラテン語で書かれるのが普通で、読み解くにはまず専門の教師について語学を修める必要があった。それが18世紀以降は日常生活に用いる自国語で書かれるようになったのだ。こうして権威の証だった学問が身近なレベルに降りてきた。
一方、産業革命によって近代化の始まった社会では、知識によって新しい発明や事業で身を立てることが可能となり、勤勉、向学心が美徳とされて、労働者の精勤を促した側面もあった。

とはいえ、博物学の流行にもっとも貢献したのは、おそらくコレクションの採集と分類とが、多くの人びとに、なにかしらアカデミックかつロマンチックなものと受け止められたことだろう。
井形慶子氏は企業ブランドを話題に、「企業が客に提供できるもっとも力強く永続的なものは、情緒だ」という哲学があることに触れ、「商品の奥にある心を揺さぶる文化、未知のエピソードは、手にとった商品の品質以上に私たちをひきつけてやまない。イギリスの人々は、若いうちからアンティーク・ジュエリーを美しいと思い、裕福になるほどに年代物の骨董家具に目を向ける傾向があるといわれる。物の奥に潜む歴史やいにしえの人々の生活感を手に入れたいと思うからだ」と語っているが(「英国式スピリチュアルな暮らし方」)、その源流となる精神性は、博物学が盛んだった時代、ナチュラリストたちが日々感じていた自然界への共感のうちに、すでに体現されていたことだろうと思う。

実際のところ、それは現代日本の素人鉱物愛好家である私たちにとっても、まったく同じことである。関心のない人にはただの石くれにすぎないものが、愛好家には神話性を具えた魅惑のアイテムとして立ち現れるのだ。あるときは自然界の精妙な物理法則や不思議な性質、石そのものの美しさ珍しさとして、あるときは鉱物と人との関わりあいの歴史物語として、またあるときは言葉に乗せられない交響的な啓示として…

標本はミャンマー産のペリドット。漂砂タイプの単結晶と、初生母岩付きの結晶。
こんな標本が手に入るなんて、ホームページを始めた頃は思いもよらなかった。⇒No.36 かんらん石鉱物記 ミャンマーのペリドット

cf. No.438 くさび石 No.441 魚眼石 No.446 ぶどう石 No.449 輝沸石 No.454 ぶどう石 
(18,19世紀の博物学に関連のあるトピック)

備考:欧米の大博物学時代、書物が入手しやすくなったといっても、例えば手彩色の図鑑類などは依然極めて高価なものだった。購入出来たのは相当な資産家に限られ、また発行部数も数百部がせいぜいだった。それ以上の販売先は見出そうとしても見出せなかったのである製作に大金を要するこうした書物は、先に購入予約を募ってから作り始められた)。特に人気だったのは、極彩色の羽を持つ鳥類や葉に露をおく繊細な草花の図鑑であり、息をのむほど見事な図譜は、それ自体、芸術品と呼べるものだった。

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