■この一年ほどの間に「水晶が分かる本」とか「水晶の本」といったタイトルで、水晶に特化した著作が相次いで刊行されている。流行に敏感に反応したものだとすれば、巷ではかつてない水晶ブームが起こっているのであろうか。内容は硬軟さまざまだが、いずれもなんらかの縁で石に踏み入れた方を想定していると思われる。愛好家の間にいかに水晶に心を寄せる方が多いか、またバラエティに富んだ水晶の世界を案内する専門書が求められていたかをあらわすものだろう。
それにしても「水晶」であって「石英」でないところが、私のようなタイプにはつい微笑ましく思われる。
鉱物学をいうと、水晶の学名は Quartz である。 Quartz
に対応する和名はしかし水晶ではない。石英だ。そこで「正しくは石英と呼ぶべきである」と正面切っていうべきかどうかはちょっとアヤシく、建前としては
Quartz
の成分・結晶構造を持つ物質を石英と総称し、そのなかで六角柱状の結晶(欧米に
rock crystal
と俗称するもの)を水晶と呼ぶことになっている。
こんなふうに種名(総称)と自形結晶の名称とを区分する例は、ざっと見渡して石英・水晶以外にまずない。鉱物はそもそも結晶する性質のものなので、区分を設ける必然性は鉱物学側には実はないのである。
このことは比較的歴史の浅い鉱物学上の名称と、昔から人々の間で親しまれてきた名称との間の折り合い、あるいは力関係の反映として理解する必要があろう。
鉱物学は科学的知識を基準として体系的な分類を行い種名を定めてゆくが、その分類法は有史以来色や性状をもとに石を区分してきた人間の感性に必ずしも一致するものではない(むしろ研究が進むほど離れてゆく?)。古くからの石の名前は、本来、鉱物種名と同列に扱いうるとは限らない。しかしその意味するところが鉱物学の理解に近いものであれば、旧知の名称を学名に取り込んで整合を図ることが社会的理解と円滑なコミュニケーションのために望ましい。
明治時代の鉱物学者は Quartz
に対する言葉として石英を選んだが、その際、水晶(水精)という古い名称も敢えて廃しえなかった、あるいはそうしたくなかったのだろうと思う。 cf.
No.996
水晶(和田博士)
実際、模範国(英・独)に石英のサブグループを表現する複数の語彙があったから、和名としても別称を採用することに便があった。石英の類にはほかに玉髄(Charcedony)、めのう(Agate)、碧玉(Jasper)など多くの名称が通用している。
むしろ改めてこれらに鉱物学的な定義を加えることで、Quartzを整理し、奥行きを深められたというべきか。シトリン、アメシスト、ローズクオーツといった宝貴石名も依然用いられる(この分野では同種でも色(≒外観)による石の区分は大切なことだ)。
名づける行為は分類する行為に等しい。さまざまなバリエーションを表現する語彙(分類)が用意されたことは、Quartzがそれだけ身近な存在であったこと、そうした分類が社会的に(感性的に)十分コンセンサスの得られるものであったことの証拠であろう。ちなみに石英類の別称、異称、亜種名を並べていくと、名称の解説だけで1冊の本になるそうである。(学名がなぜ
Quartz になったかも興味深いが、それはまた別の機会に)
■ところで鉱物学が導入される以前(江戸時代以前)、石英と水晶とはどんな類の石を指していたのか。上記の「鉱物学上の」定義と同じだったのか。またこの定義は現在一般的に(世間に)認められているものだろうか。その辺りの事情はいろんな鉱物書や鉱物サイトにわりと定説的な説明があるのだが、私は私なりに思うところを書いてみたい。
★まず石英だが、これは中国に起源する言葉で、神農本草経(2-3C)の上品に白石英、紫石英が載っている。呉晋本草(3C)は「白石英の形は紫石英のようで、長さ2,3寸」とし、名医別録には「白石英は大きさ指くらいで長さ2、3寸、六面削る如し、白く透って光あり、長さ5,6寸あると佳し」とあるので、白・紫石英ともに六つの柱面を持つ水晶(結晶)であって、そのなかの白いもの(透明感のあるもの)、紫色のものを表したと考えてよさそうだ。
別録は続けて、端が黄色で稜が白いのは黄石英、端が赤くて稜が白いのは赤石英などとし、青石英、黒石英の名も挙げている。いずれも色名が頭についていることに注意したい。(※オリジナルの神農経は散逸したが、古書の記載を総合した陶弘景(5-6C)以降の著作によって内容が知れる。中国では古い文献に著者の知見を上乗せするのが一般的な本草書の在り方だった)。
掌禹錫(ショウウシャク 11C)は「『嶺表録』を按ずるに瀧州(広東省羅定県)の山中に紫石英多く、淡紫色で質はよく徹る。大小皆五稜で両端が矢じりに似ている」といい、寇宗奭(コウソウセキ 12C)は「紫石英は明徹で水精の如し、但し色は紫で均しくない」「白石英は紫石英に似るが、六稜であり違いが大きい、白色は水精の若し」と述べている。
六面が五稜になったり六稜になったり異同があるが、標本を実見していれば五稜とは書かなかったろう。こうした定義は明の李時珍が集成・考証して伝え、近代に至るコンセンサスの礎となった。
★今日
Qaurtz
の肉眼的結晶を水晶と呼ぶ関係で、石英はいきおい結晶以外の、塊状・不定形の石や不透明な石を指すのに用いられるケースが多いが、もとは普通に自形結晶をも指す言葉なのだった(もちろん今日でも定義上はそうなのだが)。
そして白石英でよく光を透すものは水精(すいしょう)のようであった。というより、後でまた述べるが水晶と同類の石だった。(※「如し、若し」という言い回しは、今日では「そのものではないけれど似ている」というニュアンスがあるが、語源は「同じ」の意で、同類中の一例として示す表現であり、はっきり断定せずに「…のようである」と婉曲に述べる表現でもあった。よって件の如し(m(_
_)m)。)
さまざまな色のバリエーションがあり、色名を頭につける慣例から、石英自体はある特徴的な形状・性質の石に共通して用いられた語であることが分かる。キーワードは「指のように細長い六角柱状」、また「端部がやじりのように尖っている」ことだろう(そして明るく徹る)。しかし本来はもっと別のイメージがあったのではないだろうか。
石英の語源だが、石の中でも優れた(「英」の意のひとつ)ものを指したという解釈がある。が、私としては英のもうひとつの意味、花房(はなぶさ)のイメージが含まれていると思いたい。英の字はもともと艸(くさ)の央を示した。央は中心または頭部の意味で、草が群落をなして生い茂るなかに凛と際立ちそびえるもの、あるいは枝や茎の先端に載って優れて美しく咲いた花、房のように集まって咲き乱れる花々を表す言葉だろう。
水晶は(水晶に限らないが)草叢のように群生する性質がある。これを英に重ねると、細かな結晶があるいは折敷き、あるいは筍のようにてんでに突き出す中に、一際見事に立っている美晶の様子や、同じ大きさのきらきらした結晶が放射状に広がり、花びらめいて咲いている、たくさんの小さな花びらがあちらにもこちらにも密に集まって大きな花房の賑わいをみせている、そんな様子が彷彿されないか。いがいが・トゲピー・もこもこ水晶の群落。
石英の本来のニュアンスは、一本独鈷の分離水晶よりも、山野にあって、清水湧く岩の裂け目に清楚な素顔を覗かせる、光に満ちた花々のような結晶集合体に面影を求めたものではなかったか。石英は石の花である。(補記:ほかの説として…)
★一方、水晶だが、これもやはり中国起源の言葉である。晶はお日様3つで皓々と明るく輝くさまを表し、水のように透明でよく光ることに由来する。古くは水精と表記され、仏典類に頻繁に用例が見られる(※晶と精は同じ発音(
jīng)で発声上の区別はない)。
例えば西晋(3-4C)「大樓炭経」巻一、閻浮利品に「仏は言った、比丘よ、須弥山王は四宝を以って城を作す。琉璃・水精・金・銀である」とあり、四宝・七宝の一品たる美石に数えられている。
別名に水玉と呼ばれ、その光り方は水がきらめくよう、堅いことは玉(軟玉:中国人がこよなく慕う石)のようというのが由来。また碧玉ともいう。中国で碧水とは澄んだ水や青みがかった清水を意味するので、碧玉は透明に澄んだ玉の意だろう。現在の碧玉(ジャスパー)とはやや異なる。
水玉や碧玉の名は古く「山海経」にすでに見られ、例えば南山経に「又東へ三百里、堂庭の山という。木多く、白猿多し。水玉多く、黄金多し」とある。
水精の原義は文字通り水の精髄で、凝って魚や石に化すことがあると信じられたらしい。後漢、王充の「論衡」に、「山頂の渓は江湖に通じてはいない。それでも魚が棲んでいるのは、水精が自ら化したものである」と説かれている。魚になるかどうかは識らず、水晶の方は水(溶液)から分離・析出するエッセンスだから、古代中国人の感性は的を外れていない。
水から現れるのは塩でもあられ石でも湯の花でも同じことだが、透明な水晶には霊水がそのまま凍りついた風情、ひんやりした心地よさと澄明さがあって、水精の名にふさわしい。「千年を経た老氷が化したもの」ともいう。後代の碩学(例えば李時珍)は、「水が化したという説は誤りだ」と明言しているが、そんな夢のないことを真顔でいってはいけない。
古人は水晶の輝きに神聖な気配を感じとっていたに違いない。今日でも水晶は数珠や占い玉、杖、お守りなど宗教的な用具に好んで用いられるが、古くは仏教信仰と結びついた舎利石、菩薩石も(日本ではメノウと呼ばれているが)、実態は透明で色ムラの少ない淡色(無色〜淡赤褐色)の水晶片であった。これらの霊石は神光、怪光を放つと信じられ、中国の説話を翻けば放光石の逸話に事欠かない(本邦、木内石亭の雲根志にも類話が多数あって、「蛍光鉱物&光る宝石」にいくつか引用させてもらった)。
宋代の「談苑」には「嘉州(四川盆地)の峨嵋山に菩薩石がある。形は六稜で首部が尖っている。色は無色で明るく透き徹る。泰山狼牙のように上質な水晶の類だ」とある(※峨嵋晶ともいう)。水晶を狼牙に喩えるのは不穏な気もするが、方解石の犬牙状結晶と同じ伝か。牙形の水晶は確かにある。
★水玉、水精、水晶の語が、つねに今日言う
水晶/Quartz
のみを指したかどうかは定かでない。例えば魏の「魏略」西戎伝に、大秦国(ローマ帝国)では「水精をもって宮及器物を作る」とあるが、この場合、水精は石の水晶とも透明なガラスとも受け取れる。結晶形を失ったマテリアルとしての水晶はガラスにそっくりで、歴史的に琉璃(ガラス)や玻黎(ハリ)と語義の接近・混同・対抗を避けえなかった。
(※玻黎は仏典中の言葉(スパティカ)の音訳で、古くは水精と漢訳されていた。水玉、白珠とも呼ばれたが、これは水精の別名でもある。当初、水晶に比定されていたが、後に別の宝石として扱われるようになった。といって何の石かは分からない。唐代の「慧苑音義」には「形は水精の如く、精妙な光とつやは水精に比す。黄、碧、紫、白の4色に別つ」とある。今日、玻黎には(天然)ガラスと水晶の両義がある。)
とはいえ、どんな言葉もたいてい広義・狭義が相伴うもので、また諸方歴代の文献は、石英と水精(晶)は類物または同物なりとほぼ口を揃えているので、水精の語がまったく「水晶/Quartz」を意味しなかった時期があったとも思われない。やはり水精は「水晶」だろう。この言葉のキーワードは「無色透明で光りを宿すもの」である。そして(結晶の場合)形は六稜で先が牙のように尖る。
★李時珍は「本草綱目」(16C末)に水精を述べて、「光沢のある透明な美石できらきらと光る。字義通り、水の精英のようだ。玻黎の属で、黒・白二色ある。倭国に水精の多いことは第一で、南の水精は白、北の水精は黒、信州武昌(信州は江西省の一地方、武昌は湖北省にあり明代の武昌府)の水精だけが堅く、削っても色・透明感に変化がなく泉のようである。清明にして明るく光る。水中に置いてキズが無く、珠が見えなくなるものが佳い」とまとめている。ヌエのような説明でちょっと困ってしまうが、最後は磨いた水晶珠(あるいは「アイタイ/眼鏡玉」)の描写になっているようだ。白・黒二色というのは白石英・黒石英に引っ張られていると考える。
後に付会された附図には、水精として透明な玉が、白・紫石英として水晶原石(結晶)の稚拙な絵が載っている。この頃には水精といって目にするのは玉ばかり、倭国に水精(もちろん結晶のはず)が産することは知っていても、結晶の姿(石英の図)に結びつかない人が多かったのかもしれない。もちろんそんな人ばかりではなかったろうけども。あるいは明代には日本から水晶珠を盛んに輸入していたのだろうか。(※ちなみに本邦「延喜式」は、唐への献上品の中に「出火水精 十顆」を載せている。おそらく火起しに用いるレンズ状または珠状の水晶だろう。)
私見だが、石英の語は石薬によく結びつき、水精(晶)の語は仏典の影響もあって宝物・器物的なイメージに結びついている。どちらの場合も最終用途として結晶形はあまり問題にされなかっただろう。ただ薬材としての石英は(真贋を保証するために)結晶の形で出回っており、水晶は加工された形(宝珠や印材、後代にはメガネ玉も)で市中に提供されることが多かったということはありそうである。我々のような愛鉱家があったら、彼らはもちろん結晶形の水晶を求めただろう。
このあたりは江戸期の碩学、小野蘭山も感じるところがあったらしく、木世粛(木村蒹葭堂)の説を長々と引いている。
★中国において石英・水晶(水精)は、歴史的にどちらも
「水晶/Quartz」一般を指す言葉として用いられ、そのとき表現したい特徴によって、あるいは好みや状況に応じて、使い分けられていたと考える。水精は透明感に、水晶は光り方に着目した言葉であり、石英は、これは推測だけれども、もとは形状に基づいた言葉であったと思う。ただし水精・水晶は水のイメージ、透明感やきらめきに結びついている(また宝物に)。従ってその性質を持った結晶や水磨礫、珠などの器物に対してより限定的に用いられただろう。(最後の意味では石英珠というのはありえない)
一方の石英は、花だという推測が適当でないとしても、一本独鈷の結晶を指す言葉ではあった。ただ今日、石英の語からはその様子があまり彷彿しない。むしろ具体的なイメージ喚起力が弱いことから、塊状、砂粒状のものを含めてさまざまなタイプのQuartzに違和感なく用いられるようになったのではないかと考える。それは英という字の二義性、もとは花房の意味であったのが、優れたものを指す言葉として多く用いられるようになったことからも言えるのではないか。
今日の中国では、石英は二酸化珪素を主成分とする鉱物一般に対し、形状を問わず総称として用いられており、水晶は透明な結晶を指す言葉となっている。これには西洋鉱物学の影響が入っているだろう(また日本の鉱物学の)。
ただ紫石英については、紫水晶だったり、紫色の蛍石だったり、紫色の方解石(マンガンによる淡赤紫色か?)のことだったり、地域によって指す鉱物種が違っているのが実情だという。文献だけを追っているといかにも解せない仕業であるが、言葉は生き物、人々の生活や要求のなかでその指す処も自在に変化してゆくということなのかもしれない。それにしても、これらの薬効はみな同じなのだろうか。
■さて日本である。この国では記紀の昔から大陸の新しい文化や発明を折あるごとに輸入し、その知識によって新しい時代の流れを創り出してきた。飛鳥時代には神仙家の葛洪や道教医術の陶弘景に典をひく本草書が渡ってきたし、仏典の類ももたらされた。
それで、水玉、水精(水晶)、石英といった語は、その頃までに日本でも用いられていたとみられる。この以前に水晶をなんと呼んでいたのか知らないが、これらの語はさまざまな記録の中に見出すことが出来る。(※余談だが、「唐新書」東夷・日本に、「日本は古の倭奴なり。…永徽初、其の王孝徳、即位す、改元して白雉と曰う、斗の如き大きな虎魄(こはく)、五升はありそうな瑪瑙(めのう)の器を献ず」がある。これは高向玄理が押使として遣わされたとき(654年)のことらしい。)
「続日本紀」には「和銅六年(713)、陸奥国が白石英、雲母、石硫黄を献上した」とあるし、仁明天皇(8C)は白石英を含む散薬を服していたという。当時の朝廷は中国の道教的な石薬知識を取り入れ、伝統的な方法とあわせて用いることがあったらしい。
胸病を患った仁明天皇を憂えた先帝が、「予も昔この病を得たことがある、いろんな方法を行ったが効かないので金液丹と白石英を併せて飲もうとした。医者たちはこれを禁じて許さなかったけれど、予は強いて服し、ついに病を癒した。今、患っていると聞いたが、草薬では治るまい、金液丹を飲みなさい」と薦めたエピソードが「続日本後紀」に記されている(嘉祥三年卯月(850年))。仁明天皇は病から回復し、その後も白石英や寒食散を飲んで養生したらしい。
10C初の「本草和名」は石薬として白石英、紫石英を取り上げている。産地として前者は近江国、備中国、後者は伯耆国が載っている。
正倉院の宝物に白石英(はくせきえい)が現存している。長さ2cmに満たない水晶の単晶3ケと群晶が1ケだ。(⇒ 宮内庁ホームページ 正倉院宝物 白石英 )
(※ただしこの石が納品当時、白石英と呼ばれていたかどうかは定かでない。東大寺「種々薬帳」に載っている「石水氷」に比定する説もある。この名前もまた千年老氷たる水精を強く匂わせるものだ。白石英の名は「種々薬帳」にはない。)
(出典:宮内庁 「正倉院の宝物」)
戦後すぐにこの宝物を実見調査した益富博士は、「正倉院の白石英に似た水晶は東大寺の宝物中にも見ることができる。古来、我国には透明無色の巨晶を産するところも少なくないのに、さほど美しくもなくまた大きくもなく、琢磨しても念珠となり得ないような水晶が多数東大寺の宝物として伝えられていることは、或は宗教上の意味があるのかも知れない」と述べている。
思うに、服薬するには白石英を砕き磨り潰さなければならない。その目的なら小さい結晶の方が便利だっただろうし、同程度の大きさで数も集まったろう。砕くときに未練も少なかっただろう。私なら大きい結晶は選り分けて、ぽっぽないないしてしまう。
また博士は産地について、「岩手県玉山鉱山の産と思う」と語られたという。「続日本紀」が傍証となろう(陸奥国産)。
★一方、水晶(水精)だが、出雲国風土記(733)に「長江山。郡家の東南五十里なり。水精有り。」が見える。平安期の「延喜式」に献上品の「出火水精」があることを前述したが、これは太陽光と火のイメージがある。(中国では古く日取りに用いる水晶を火精玉(火齊玉)と別称したとの説もある。)
一方、「倭名類聚抄」(10C)には「水精は水玉、あるいは月珠とも云う」とあり、こちらは月光のイメージである。枕草子(10-11C)に取り上げられて、長く日本人の心に水晶の名と風情をとどめ、はかり知れない影響をあたえた(と思う)。
「あてなるもの。薄色に白重の汗袗。かりのこ。削氷のあまづらに入りて、新しき鋺に入りたる。水晶の珠数。藤の花。梅の花に雪のふりたる。いみじう美しき兒の覆盆子くひたる。」(39)
「月のいとあかきに川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水のちりたるこそをかしけれ。」(215)
[それに続きて尼の車、後口より水精の珠数、薄墨の袈裟衣などいみじくて、簾はあげず。」(259)
「かねなどおしへぎたるやうなるに、水晶の滝などいはまほしきやうにて、長く短く、殊更かけ渡したると見えて…」(283,
これは氷柱の描写)
など、女性らしい繊細な感性に誘われ、水晶、水精が言の葉にのせられている。この水晶は清らかで雅びなイメージであり、火精よりも月珠であろう。(※枕草紙は写本のみが残っているが、水精/水晶のもとの語は「すいせう」とかな書きされて、後世に漢字があてられたようである。)
正倉院には「水精玉」がいくつか納められた記録がある。上記宮内庁サイトには「水晶双六子」が紹介されているが、清少納言はこういう玩具で遊んだのだろうか。
また、平安末期の「色葉字類抄」(12C)に水精があり、室町時代の「撮壌集」(15C)には金玉部の珠玉類に、水晶、水精ともに載せられている。
★日本において水晶は古くから知られ、あるいは石薬として、あるいは数珠や日取り玉として用いられてきた。しかし日用品レベルにまで普及していたとは思われない。だからこそ石薬として有難く、数珠として雅びであり、献上品に格好の宝物ともなったのだろう。しかし後には、ありふれた石になってしまったことも確かだ。
貝原益軒(篤信)(1630〜1714)は「大和本草」(1709)に、「水晶: 日本に多い。梵に頗黎(ハリ)と言う。大小みな六角である。昔は稀なもので、水晶の念珠は貴人高僧でなくては用いられなかった。今は火打ち石にまで使っている。」と書いている。
また続けて、山州や近江、日向など産地を述べ、「空が晴れているとき、水精をよく摺り暖めて日に向かって火をとる。下にモグサを以って火を受ける」とし、また「留青日札」に「アイタイ(メガネ)」の記述があることを述べ(大きなコイン形で薄くて透明でガラスのよう)、オランダのガラス製よりも日本の水晶製の方が砕けにくくてよい」としている。
面白いのはこの本草書(時珍の本草綱目を範としている)には、水晶と水精の語が混交して用いられる一方、「石英」が載っていないことである。水晶の語だけで不便はなかったのだろう。
石英の語は(中国)本草書の中に石薬として載せられていることが多く、一方、水精の語は(宝物として)仏教との結びつきが強いと先に書いたが、これは日本でも同様だっただろう。そして石英と水晶と、どちらがポピュラーな語であったかと言えば、水晶の方がずっと世間的に知られていたのだろうと思う。益軒に1世紀遅れ、小野蘭山(1729-1810)の「本草綱目啓蒙」(1803)は白石英を載せているが、「本邦ではみな水精と呼ぶ」としている。
少し長くなるが、同書の水精の項を引用すると、「水精 和漢通名。 一名、玉瑛(事物異名)」「水精和に多し。集解にも倭国第一という。広興記及び物理小識にも日本国水晶、青紅白三色あり、という。然れども紅なるものは稀なり、青も多からず、ただ白黒の二色は多し。水精、石英もと同物なり。故に水精釈名に石英の名を載せ、石薬爾雅に白石英、一名水精と云う。従来、土中にあるを水精とし、石につくを石英と云う説あり。綱目にも各条に出す。異称同質なり。」
そして木世粛の説として、「水精はこれ石英に於くもの(類の一つ)で、異称同質である。石英には産状がさまざまあって、石上に生えるもの、砂中に産するもの、メノウなど諸石の内に胎されるものがある。メノウ内のものはキメ細かくて鮫皮のようである(※鮫水晶のことだろう)。実に石の英華だ。砂中のものは近江州に多くあり、石上のものは諸州に産するが、この二者は大小等しくない。天然の六稜は削り成る如く、最上のものは磨いて「アイタイ・火珠・念珠・諸器」に作り、称して水精となす。異邦の書にも往々、日本の水精念珠と称している。また「倭国、水精多く第一なり」というが、いずれもすでに器に成ったものを指しているようだ。その素材が石英であることを論じていない。李氏の綱目は随分簡略で、水精に六稜あるとさえ言っていないが、釈名にすでに石英の名があり、また石薬爾雅に、石英一名水精とあるのがその徴となる。さらに皖桐方氏が真っ直ぐに起つものを水精筍としているし、櫟下老人は含水水精の名を使っている。わが国には石英で含水のものが極めて多いが、これは水精と石英が一物であることを明らかに示している。「土中に生るものを水精とし、石上にあるものを石英とする」といい、「稜角削る如きものを石英とし、稜角のないものを水精とする」などというが、これらは皆適当なこととは言えない。私は昔、稜角がなく泉のように透き通ったものを一塊、庭際で掘り出したことがあり、これはすでに破砕したものであってもとより原質ではないが、我が国に古来多産して器に造るものはみな、この石英である。これを水精と呼ぶのは異称同質をなすものであり(同じものに別の名を与える仕業であり)、穏やかならないことではないかね」
木世粛(蒹葭堂)(1736〜1802)の熱弁は、つまり、「中国では器になったものを水精と呼んでいるようだが、その素材は石英である。水精とは石英(の加工物)に別の名を与えたに過ぎない。水精と石英の区別がいろいろ説かれているが、理屈をこねずにすべて石英と呼べ」ということだと思うが、当時は石英、水精の区別があいまいになっており、混乱を招くこともあったのだろう。
蒹葭堂と同時代の平賀源内(1728〜1780)は「物類品隲」(1763)に、「水精: 東壁(時珍のこと)曰く倭国水精多し。このもの本邦所在に産す。石英と一物二種なり。石英は大小皆六面削るが如し、水精は顆塊定まる形なし。貝原先生が水精大小皆六角なりと言うのは石英を指すに似たり」と、石英と水精を二種に分け、益軒の解説に反対しているが、蒹葭堂はこれを小理屈として退けていることになる。
また白石英について源内は、「和名 ケンジャリ またカブトスイシャウと言う。山中の土石の上に生ず。皆六角にして上鋭れり、上品なるもの明徹にして色白し。暗色なるもの下品なり。」としているが、ここで白石英がカブト・スイショウ(兜水晶?)と呼ばれることをはからずも認めている。
紫石英の項には、方言としてドウメウジ(道明寺)の名を載せている。淡赤紫色をした道明寺餅(桜餅)の見立てだろう。おいしそうだ。
再び蘭山の綱目啓蒙から白石英を拾ってみると、「シロズイセウ、剣舎利、カザブクロ、山ノカミノタガネ、カブトズイセウ、白素飛竜(石薬爾雅)、素玉女、銀華、水精(共に同上)」などの別名を載せている。白石英は白水精とも呼ばれていたことが分かる。
「本邦にて皆水精と呼ぶ。諸国に生ず。舶来上品。和産も上品あり。皆六稜ありて削りなすが如し。明徹なるを良とす。」「江州大堀村相谷の奥に、水精ゲ嶽あり。千本水精を生ず。長さ2,3寸ばかり。広さ2,3分ばかりなるもの多く乱れ生ず。」「出羽ノ東禰に水精の井と呼ぶあり。自然の洞穴にして、その中四面に水晶生じ、盈て(満ちて)牡丹花の如し。」とあって、前者は明らかに肉眼結晶の水晶、後者は結晶または今にいう玉髄様のものだろう。
「また石英の中空にして水あるあり。…俗に水入りの水晶と呼ぶ。因樹屋書影にこれを含水水精という」 白石英の項にやはり水精の名が出てくるのが面白い。ほぼ混同状態である。
★昔この国に、今の我々のように結晶標本を集めては悦に入っているお気楽な鉱物愛好家があったかどうか、私はよく知らないのだが、少なくとも源内や蘭山らと同時代に一代の奇人、木内石亭(1725-1808)があったことは知っている。蒹葭堂と同門、源内とも交流のあった人物だ。彼は石英と水精をどう扱っているか。
代表作の「雲根志」には、実は水晶の項目はあるが白(黒)石英はない。ただ軸石英(軸水晶)、紫石(紫石英)という石の項はある。といって石英が出てこないわけでなく、普通に水晶の説明に使っている。しばしば同じ石に水晶と石英の語を用い、「水晶石英」という言い回しもしている。では同じとみているかというとそうでないフシもあり、後編巻之一の水晶(6)に、「もと水晶五色あり、また紫あり金砂あり貯水あり。玲瓏と氷の如きものを水粧(ママ)としるべし、また透かざる物を石英としるべし。」とあるのが分かりやすい。透明度によって区分しているのだ。水晶、石英の語は肉眼結晶に対していずれも普通に用いられている。「水晶五色あり」というのは、中国では古く、石英に五色あるとされていたことが、水晶に置き換わっているものだ。啓蒙でも同様の扱いである。
また後編巻之一 紫石(69)に「紫石は佐渡国名産の一なり、専ら玉匠に彫琢す。大なるもの拳のごとく、小なるもの棗に似たり。円にして白き石也。これを破砕すれば紫色光徹、至って美なり。俗に緒締めに用ゆ、佐渡の紫石と称す。予按ずるに恐らくはこれ真の紫石英なるべし。本草綱目、時珍が所謂紫石英は紫水晶なり。水晶石英一通り同性といひて可なれども、これを別つに口伝あり。問う人を待って弁ぜん」と書いているから、透明度とはまた別の分類法が存在していたかもしれない。
こういう書き方をする限りは、「結晶形のあるものが石英で、不定形のものが水晶だ」とか、「土中のものが水精で、石に生えるものが石英だ」とった程度の標語的な簡単なノウハウではなかったはずで、もっと奥の深い、マニアでなければ付き合いきれないような細かな特徴を捉えたものであったと推察したい(笑)。私は気になるが、一般の人にはどうでもいいことだろう(蒹葭堂にとっても)。
ちなみにこの紫石の形状は明らかに塊状だが、石亭は真の紫石英だと言う。石英=結晶派には都合の悪い発言だろう。
水精砂の項があり、「水晶が砕けて細かくなったもの」と述べる。丹後琴曳浜のものは「琴曳砂」と呼ばれる。今の琴引浜の鳴き砂だろう。水粧砂とも表記しており、彼の中では「すいしょう」と訓むかぎり、水晶でも水精でも水粧でも同じことだったようだ。
蘭山(また蒹葭堂)、源内、石亭とある中では、私は石亭のように、透明度の高いものが水晶よ、というのが一番伝統的(語義に忠実)であり、穏当だと思う。
今日の愛好家の中には貝原益軒が水晶と石英の定義を取り違えたと考える人があるが(石亭や蒹葭堂もそう考えているが)、益軒の書いていることは中国に遡る伝統的な解釈であり、何も間違っていない。(それに石英のことは書いてない)。
同様に、「昔は石英は結晶を、水晶は不定形の塊を指した」という説も、そんな説もあったろうけども、格別に一般のコンセンサスを得た定義ではなかっただろうと考える。
日本では、特に江戸期には石英、水晶の区別が明確でなく、諸説紛々していたようだが、少なくとも石亭のように、透明度で分ける(=水のようなものが水晶)という古くからの見方も残っていたことは明らかである。
また世間的には水晶の語でたいてい間に合っていたようだと考える。
日本には石英、水精の語ともに入ってきたが、時代を経るにつれて、石英の語は専門分野は別として、一般にはあまり用いられなくなっていたのではないか。石英について中国で言われていたことは、日本では水晶の語の下に語られるようになっていたのではないか。そして時珍の「本草綱目」が日本に入ってきたとき、(この書は本邦物産学・本草学の展開にきわめて強固な土台石として働いた)、石英・水精の解釈論がさまざまに浮上してきたものだろうと思う。
なお水晶と水精の表記については明治初頃まではどちらも同じものを指す(同じ音の)文字として普通に用いられていたようだ。金石学(鉱物学)でも初め水晶と水精の表記が並行的に(恣意的に)用いられたが、明治後半にはほぼ水晶に統一された観がある。また石英とかいてスイショウと訓じる風もあった。
和田維四郎は「本邦金石略史」(明治11年/ 1878年)では「水精」の語を用いている。石英の項に次のようにある。
「石英の内国に産する者数種に下らず、而れどもその名称太た錯乱して一定せざるを持って今之を洋名に照してその所属を明にせんとす。往時より石英水精の区別については数説ありて或いは土中、石上(すなわち岩石中)に生ずるの異同により或いはその晶形に尖稜の有無に因りて之を区別すれどもともに確実の解あらず、かつ学術上要する所の区別にあらざれば今更めて石英を以て
Quartz に適せしめ此種類の総称とし水精を Rockcrystal
にあたらしめ以て石英中透明のものの称とす。而してその異色なるものには黒水精紫水精等の称を下して可ならん。」
ここでは透明であることを水精の要件としているだけで、自形結晶を示すかどうかは問うていない。その後の著作では水晶を用いている。
ついでながら、「洋名 Jasper
に適すべきものは今之に碧玉の称を付して可ならん。」として、ジャスパーの和名に碧玉をあてているが、このため中国でいう「碧玉」と鉱物種を異にすることとなった。
cf. C17 補記2
■ 以上、長々と綴ってきたが、まとめると、日本では Quartz といえば水晶であり、水晶と言えば、水のように清らかに澄み、きらきらと光る宝物的なイメージを持った貴重品であった。我々鉱物愛好家(愛鉱家)の水晶に寄せる思いもまたその延長線上にある。だからこそ、最近の(鉱物学的な)水晶本のタイトルには「石英」でなく、「水晶」の名が載っているのだと微笑むわけなのだ。
★最後に、日本での現代の石英と水晶の一般的な用法について、いくつか文献をあたっておきたい。冒初に「鉱物学での定義は石英が総称(鉱物種名)で、そのうち自形結晶を持つものが水晶である」と書いた。が、実は実際にその通りに扱われているかどうかは、少しあやしい。
手元の鉱物書・宝石書から、いくつか定義を拾ってみる。
「水晶は分類上では石英の一種で、石英は@水晶類、A石英(猫眼石など※虎眼石?)、B玉髄、Cメノウ類に分かれている。水晶は透明な無色の石英で…」「わが国で水晶といっているのは中国でつくった名前で、水が結晶したものという意味だから、西洋のクリスタルの語源に似ている。」「水精という呼び方があるが、これも漢語で、「淵鑑類函」には「千年の水」、「倭訓栞」には「実に氷の如し、西土に千年老氷化する所という類なり」とでている…」(春山行夫の博物誌 宝石)
「水晶 石英の無色透明のもので、水精とも書く」(原色鉱石図鑑)
「Quartz クオーツ、石英、珪石 石英に属する主なる種類は次の通りである。」 (以下 「水晶 Rock Crystal 無色」をはじめ、種類・別称が150ほど並べられる。図表として石英>透明石>水晶(無色)とクラス分類されている。(新宝石辞典)
「現在われわれは石英はガラスの塊のようなもの、これに対し水晶は六角柱状で先がとがり、透きとおった結晶と思っているが、昔は結晶の方を石英と呼び、塊の方を水晶と呼んでいた」(昭和雲根志)
「水晶とは無色透明な石英(低温石英)をいう。」「水晶 SiO2なる成分を有し、六方晶系偏六面体晶族の柱状結晶をなす。一般には石英Quartzと称する…低温石英のうち無色透明なものは、明瞭な結晶をなすと否とを問わず水晶という。」(鉱物資源辞典)
「たとえば、水晶という鉱物がある。水晶は、ガラスのような無色透明、六角形でふつうは一端がとがった六角錐をつくる美しい結晶形を示す。」「花崗岩の中の水晶は、きちんと結晶しているのは少なく、ほとんど塊状で、石英という名で呼ばれる」(鉱物採集フィールドガイド)
「水晶という用語は、どこからきたのであろうか。「本草綱目」には「明に透き通る晶光が水の精英のようだという会意の名称である」とある。また佐藤信淵は「経済要録」の中で、「篆書の水の字の形に似たり、是水精の名の由で起こりたる所なり」と述べており、はっきりしない。」「最近は『無色透明で結晶形の明瞭な石英の一般的な名称』(地学事典)ということで落ち着いているようである。とはいえ不透明の水晶でも捨てたものではない」(鉱物の博物誌)
「石英 クオーツの和名である。」「通常石英と呼ぶ時は、透明度が落ち、半透明ないし不透明のものを指し、透明度の良いものは水晶の名称があてられ、工業用原料としてみる時は、珪石の名で呼ばれる」「水晶 ロック・クリスタルの和名であるが、清流の源で結晶原石が良く発見されたことから、古くは”水精”と呼ばれ、それが語源といわれている。無色透明の石英(クオーツ)をいい、時に区別のため白水晶ともいう。色のついたものは、各々その色名を冠して呼んでいる。しかし半透明ないし不透明ならば水晶といわず、単に石英という」(宝石宝飾大事典)
「珪酸鉱物は、化学組成が二酸化珪素そのもの、あるいはこれに非常に近い化学成分を持った鉱物です。…鉱物でよく知られている石英(Quartz)は、これに属します。水晶(Rock Crystal)は石英の別名で、結晶(幾つかの平面で囲まれた立体)をなしているものです。」(櫻井コレクションの魅力)
「石英は長石に次いでもっともよく見られる造岩鉱物。岩石の構成物としての石英はほとんど不定形をしている。石英が自由な空間で結晶成長した場合には、6角柱状の形態をとる。これを水晶と呼んでいる。」(鉱物と宝石の魅力)
「石英が肉眼的な大きさに結晶すると、とくに水晶という」(楽しい鉱物学)
「実用的な定義では、石英は肉眼的な結晶が見えないもので、ふつうは白色塊状になっている。それに対して水晶は、肉眼で確認できる大きさの結晶に成長したものをいう。」
「正倉院の目録を見て気づいたのは、自然のままの無加工の水晶に「白石英」の名前を使い、加工品のほうに「水精」を使うという、使いわけをしている」(堀秀道の水晶の本)
だいたい古い本から並べてみたが、こうしてみると昔は石英の透明なものが水晶という観念があったのが、最近は肉眼的結晶になっているものが水晶という考えの方が前面に出てきているようである。
鉱物・宝石学者や愛好家の間でも、細かいニュアンスにこれだけバラツキがあるなら、世間一般ではもっと幅広い解釈があるだろうと思う。(というか、水晶はいいとして、石英の語にピンとくる人は必ずしも多くないだろう)
世間の常識的な見方として国語辞書を引くと(←小学生レベルの発想で恐縮だが)、
(大辞林)
「石英: 二酸化ケイ素からなる鉱物。六角柱状または錐状の結晶。無色ないし白色で、ガラス光沢がある。流紋岩・花崗(かこう)岩など多くの岩石の造岩鉱物、また砂・礫(れき)などとして多量に存在。」
「水晶・水精: 肉眼で見えるような石英の大きな結晶。普通、六角柱状で無色透明であるが不純物の混じった草入り・煙入りや、紫・黄色などのものもある。光学機材・水晶振動子・印材・装飾などに用いる。水玉。」
(大辞泉)
「石英: 二酸化珪素(けいそ)からなる鉱物。ふつうガラス光沢をもつ六方晶系の柱状か錐状の結晶で、透明なものを水晶という。花崗岩(かこうがん)・片麻岩などの主成分の一。装飾品・光学材料・ガラス原料などに利用。」
「水晶: 無色透明で結晶形のはっきりしている石英のこと。ふつう六角柱状で先がとがる。装飾品・印材・光学機材などに利用。水玉(すいぎょく)。」
(新潮国語辞典)
「石英:珪素と酸素との化合物。六方晶系錐状または柱状の結晶で、ガラス光沢を有し、純粋なものは無色透明で水晶という。」
「水晶・水精: 石英がきれいに結晶したもの。成分は無水珪酸。六角の柱状で、普通は透明。印材、装身具、光学器械用。六方石。水玉(能因本枕49)。」
ともあれ中国でも日本でも、その昔から「六角柱状の結晶で無色透明な
Quartz 」は水晶と呼ばれていた、ということで。
結論。学名は Quartz(石英)だけど、水晶でいいやん、響きがキレイやん、みたいな?
学名はニッポニア・ニッポンだけど、トキって呼んでええやん、て感じ?
最後まで読んで下さって、ありがとう。
補記:石英の語源について、ほかに考えられること。中国には雲母の別名として、雲華、雲英などがあり、すでに神農本草に載っている。雲母の意味は雲の元となるもの(母)、雲華は雲の精華、雲英は雲の精英・精髄(エッセンス)といったニュアンスだろう(あるいは花房(はなぶさ・英)のように集まる雲)。
また軟玉の雅称に「玉英」がある。戦国時代の屈原の詩に、「崑崙に登って玉英を食む。天地と寿齢を同じくし、日月と光を同じくする私なのに、南夷(野蛮な楚の国)が知らないのが哀しい」というくだりがある。崑崙は古来玉の伝説的な産地とされ、やや降って漢代には西王母の住む仙境として知られていた。玉英はホータン玉のことを指し、仙薬的性質を持つとされたものだろうと考えられる。玉英は玉の精髄(エッセンス)のニュアンスと思う。
古来、水精を水の精華が凝ったものであり、水の精英である、と表現するが、これも水の精髄(エッセンス)と言い換えられそうだ。すると石英の語も単純に「水の精英が凝った石」を略して石英としたものかもしれない。この場合、石英と水精は本来等価な名称だったことになる。あるいは石の(純粋な気の)精英が凝ったもの、という見方も可能だろう。(戻る)
余談:松田聖子の「ピンクのモーツァルト」という歌の出だしは、「水晶の熱い砂 つま先立って…」というのだが、地学的に言えば、この(砂浜の)砂は石英粒のはずである。が、「石英の熱い砂…」では、歌にならない。言葉に対するなじみの度合いが違うし、「水のように透明で透き通った砂粒」というイメージは石英にはないが、水晶からは(たとえ水晶を知らなくても)連想が容易である。
(2010.2.8)
追記:吉野政治著「日本鉱物文化語彙攷」(2018
和泉書院)に「水晶 −晶光から結晶へ-」という論考(初出2016)が収められてあり、石英との関係を明らかにしつつ日本での水晶の語の歴史を辿られていて、大変参考になる。
・石英の語は主に本草書に見られ、石薬の名とみられる。
・水晶は古く水精と書き、宝石の名として用いられている。15世紀頃までの文献の漢字表記は水精。
・水晶の語は食べ物の名として 14世紀に現れる。水晶包子、水晶紅羹などで、その凝った様子が水精に似るからだと述べる(禅林小歌)。江戸中期(18世紀後半)の「類聚名物考」に水晶包子は様子が水晶に似ているから、とあるのが鉱物に「水晶」表記を用いた初め。その後、雲根志(1779)なども水晶の表記をする。
・李時珍の「本草綱目」(1596)は、水精、水晶、石英が同じ項に並べられており、本書が日本に伝えられた頃(1604)から日本の学者たちが石英と水精の関係について論ずるようになった。
本草綱目では現在の「水晶」(六角柱状の結晶)は「石英」と呼ばれていたが、そのように理解したのは平賀源内だけで、両者は同物、別種、一般名は水晶、産状の違い、水精は工芸用の上品等々、さまざまな解釈がなされてきた。(石英と水晶との語義の入れ替わりは貝原益軒の解釈が原因という説は賛成できない。)
また本草の水晶の名は鉱物学の水晶とは語義が異なる。
・水晶の語は、オランダ語の Kristal
などの訳語として現れる。
・Kristal
には結晶の意味もあり、蘭学者は「結晶」と訳している(氷は水の結晶する者、など)。晶は本来、光・輝きを示す会意文字だが、Kristal
の訳として用いた水晶・結晶の晶は、規則正しい配列を意味して用いたと考えられる。
・明治初期、「牙氏初学須知」(1875)にロッククリスタルは結晶石と訳された。和田維四郎は「金石学」(1876)に「石英」を総称とし、六角柱状の結晶を「水晶」とした。以来、この分類が踏襲されるが、そのニュアンス(結晶の意)で水晶の語を使ったのは蘭学者たちが先行する。
つまり、中国本草書の石英と水精の語の解釈が入れ替わったわけでなく、西洋の科学・鉱物学が入ってきた時に、結晶した水精の意で、(晶を結晶の意味で使って)、水晶の語が用いられるようになり、明治期に用語が固定したという説明。脱帽です。
水精と水晶の表記の違いについては、私自身は中国でと同様(同じ音)、日本でも「すいしょう(すいせう)」の音の下にどちらも古くから受容されていた(同じものを指した)と考える。吉野博士が指摘された、菓子の水晶包子の語源が水精だという説明はその傍証で、枕草紙写本で「すいせう」の語の表記に水精・水晶が混在して伝わるのもその故かと思う。。(2020.6.27)
※ちなみに食物名に見られる「水晶」は中国にも水晶糕(シュイツィンカウ)という蒸し菓子があった。糯米7分、粳米3文を粉にして冷たい水でこねまぜ、白砂糖、猪油少し加えて蒸して、冷めた時に長角に切って用いた、と「清俗紀聞2」(東洋文庫)にある。 p18
このページ終り