996.水晶 日本式双晶3 Quartz (日本産)

 

 

 

水晶 日本式双晶 

水晶 日本式双晶 凹部の柱面が発達したタイプ
−長崎県五島市奈留町(奈留島) 水晶岳産

水晶 日本式双晶 

水晶 日本式双晶 軍配形 外側の錐面が長く伸びたタイプ
−長崎県五島市奈留町(奈留島) 水晶岳産

水晶 日本式双晶 

同上 軍配形のものの接合部
剥離層があり、アイリス効果で虹色が出ている
黒粒状のインクルージョンあり

 

明治維新の欧化政策に伴ってドイツ鉱物学が日本に入ってきた。和田維四郎(1856-1920)はその最初の息吹に接し広めた人である。和田は若狭の産で、 14歳の時に小浜藩の貢進生として上京し、ドイツ語を学び始めた。 1873年に所属した学校・コースが開成学校鉱山学科となり、図らずも C.シェンクの下で鉱物学を学ぶこととなった。そしてシェンクの推薦で、75年から開成学校の助教として金石学を講じた。この年 H.E.ナウマンが来日し、開成学校に金石取調所が設けられると、ナウマンと共にその主任に任じられた。翌年 J.ロイニースの「金石学」を訳して教科書に供した。

77年に東京大学が設立されると、理学部地質学科の助教として金石学と地質学とを受け持った。同年、第一回内国勧業博覧会の鉱物分野の審議官を務めた。翌 78年、内務省地理局に地質課が置かれ、和田はナウマンと共に最初の全国的地質調査に取り掛かった。「本邦金石略誌」を執筆し、国内の鉱産物誌を概説した。
ほどなく地質課は農務省の管轄に移り、地質調査所の開設を準備した和田は 82年に初代所長に就いた。このように、和田博士は日本に産する鉱産物を総覧し、金石学(鉱物学)の視点で整理して殖産を導く立場に置かれた人だった。

本邦金石略誌(1878/明治11年)の序によると、政府は 1873年のオーストリア万国博覧会にあたり、国内の金石を蒐集させて出品した。次いで文部省下に金石取調所が国内産の金石を調査し、和田は試料を試験して金石試験記をまとめた(75-76年)。 77年の内国勧業博覧会では、各府県に産する金石を蒐集展示する機会をもち、「従来明らかならざりし内国普通の金石、およそこれを実験するを得た」。
こうした経験を踏まえて、金石取調所が蒐集し東京大学理学部が収蔵した標本、勧業博覧会で親しく実験した標本、また私蒐の標本等に拠って略誌を書いたという。

ここに水晶は、石属「水精」として紹介された。
「今更めて石英を以て Quartz に適せしめ此種類の総称とし、水精を Rockcrystal に当らしめ以て石英中透明のものの称とす。而して其異色なるものには黒水精、紫水精等の称を下して可ならん。」とある。今日の本邦鉱物学はこの定義を継承している。cf. ひま話 水晶の話

博士は国産水晶のもっとも良質のものとして山梨県産を推した。
「今其主たるものを挙れば、就中水精は甲斐巨摩郡金峰山、山梨郡玉宮村(※竹森)の所産を最良品とす、無色透明にして晶をなす」「花崗石中に産出す、其大なるに至りては直径六寸余無疵の宝玉を琢成しうるものあり」「此種の石中他石を混有するものあり、緑繊石 Actinolite を以て最も多しとす、即ち緑色の繊維状を含有す、俗に草入水精と云うもの是なり」 cf. No.935 水晶

次いで挙げたのが長崎県奈留島産だった。
「又肥前松浦郡奈良島村、船廻郷に産出する水晶は、双形にして両ら略(九十度)直角をなし、且つ概形は相対する柱身の二面圧平せられて板状をなし、殆ど六方底晶属に非ざるが如き状あり」 「圧平せられし両面の直径は大約此面に直接せざる(相対の)柱稜の直径四分一なり、此種の水晶は透明にして圧平の面には側軸に平行の細線あり、又是の如き晶形の者、稀に美濃恵那郡田代村に産す」 と。
平板状の結晶が二つ、ほぼ直角に結んだ形のものを産するというのだが、もちろんこれは後に傾軸式双晶〜日本式双晶と呼ばれた類のものだろう。

日本産のこの種の双晶がヨーロッパで注目され、標本が流通した経緯は No.938 で述べた。ドイツのラート博士によるハート形双晶の報告は 1874-75年のことだが、略誌執筆時の和田はおそらくまだその報に接していまい。山梨県産の段に言及がないし、奈留島産についてもただその形状の特殊性を指摘するに留まっている。しかし 1884年にドイツへ留学した折には甲斐産の双晶を携行したこと、1890年代になると標本が市中に出回ったことを、後に回顧している。

1904年刊の「日本鉱物誌」では次のように述べた。
「甲斐産水晶中無色透明なるものを出すは乙女坂、倉澤、八幡等を主とし又往々向山にも之を産す。…此地の水晶の双晶に三種あり、(一)ドーフィネー式双晶…、(二)ブラジル式双晶…、(三)傾軸式双晶…」 「第三種の双晶は我国に於ては甲斐、信濃、日向(※補記)、五島等に産し稀ならざるも、外国に於いては其産出稀にして、我国の産外人に貴重せらるるものなり、此種の双晶往時より我国に産出せしは疑を容れざるも、多数に吾人の耳目に触るるに至りしは最近十年間のことにして、其以前に於いて此双晶に就いて第一の消息を伝えしは独逸人モーニッケ氏が日本産として之を函館に於いて買収し本国へ携帯し、ラート氏之を研究したるを以て嚆矢とす。」
「肥前五島奈留島は彼の傾軸式双晶をなせる水晶の産地として著名なり、此地の産は既に明治十二三年の交より知られたるものとす、此地に於いては主として此双晶を産し普通の結晶は却て稀なり、其双晶は他の産の如く扁平にして無色透明、横径10ミリ已下のもの多し、小晶なれども美麗なり、此種の水晶尚二三の地に於て河砂中に産す。」
以来、ドイツ派の本邦鉱物学者たちは、国内産の傾軸式双晶を大いに称揚し、大いに蒐集して研究及び観賞したと思しい。ただこの種の双晶がワイス式双晶、ガルデット式双晶等の名で知名だったことは、ついに気づかなかったようである。

長崎県に属する五島列島は九州本土の北西方に浮かぶおよそ 150の島嶼からなる。人が住むのはそのうち 30島ほどだ。五島とはたくさんの島の意だが、大きな島を五つ挙げれば、北東から南西にかけて、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島と並ぶ。古く大陸の漁民、航海者、日本への渡海者が通過したと考えられ、旧石器時代にすでに住民があったといわれる。五島列島は奈良時代に遣唐使船の寄港地として利用され、ヤツデ形をした長く複雑な海岸線を持つ奈留島はその後も風待ちに適した天然の良港として重宝された。歴史的に住民はほぼ漁労に頼って生活した。

奈留島に水晶の産することは、「簡約にして正確なるもの」と和田が褒めた「本草綱目啓蒙」の水精、白石英(シロズイショウ)の項にも、和田が低く見た玩石家による「雲根誌」の水晶の項にも出てこないから、江戸中期本土の博物学家は双形の水晶をさほど顧慮しなかったか、知らなかったらしい。しかし明治初期の内国各地の金石調査にあたって中央に標本が送られているのだから、地場の人々が知らなかったとは思われない。いずれにしても、この水晶が傾軸式双晶として脚光を浴びるのは明治半ば、西洋人士間に標本需要を得て以降のことになる。

奈留島産の水晶を研究した報告書に目を通すと、たいてい夥しい数の結晶を入手して形態を調べている。僻遠の地の産物ながら、行けばいくらでも採集することが出来たのだろう。
益富博士は「完全な結晶を多産したので甲府に次いで有名である。」と述べた(保育社「鉱物」(1974))。
草下「フィールドガイド」(1982)は 24章「長崎県の双子水晶の島」で、奈留島の水晶岳尾根筋にある露頭を紹介した(しばしば水晶岳永這産と標識される)。「まるで蝶が羽をひろげたような形だ。山梨県の乙女鉱山などでは、左右の幅が 30センチもある巨大な双晶もあるのだが、ここのは小さいのがかえって愛らしく、鉱物マニアのあこがれの的となっている」と賛し、ただ、「良晶は昔とくらべると、ずいぶん少なくなってしまった」と牽制する。
しかしこの当時、益富博士ら日本地学研究会の一行が、「教育委員会の許可を得て」訪れ、あこがれ品採集の時をもたれていたらしい。以降、産地報告がいくつか書かれている。砂川博士の「水晶」(2009)は見開き 1ページを費やして 50ケ余の標本を示し、形態変化の順を説く。

堀博士も島を訪れたことがあり、役場で許可を得てから産地へ行った、と書かれている(「水晶の本」(2010))。自治体に一言お断りしてから採るのがマナーだったらしい。
もっとも許可を求めて与えられるのは、地学会に属する人とか学校等公的機関の研究者や社会的知名人、公務員に限られるのが世の慣いで、一般人がただ「好きで集めてます」と願っても門前払いに遭うのが相場である。
実際に現在、「水晶岳の双晶」は五島市の天然記念物になっているから(1991年指定)、市(教育委員会)の許可を得ることが採集の法的条件となっている。許可といっても原則は禁止であり、「学術研究や教育のためにやむをえず」という大義名分が問われる(成果の社会還元も求められよう)。
なお、産地は立ち入り禁止になったとも説かれているが、ネット情報を見ると、水晶岳(標高 183m)や周辺の山への入山は「イノシシ出没地区のため」ガイドなしでは許可されないらしい。五島市の観光物産課が出したトレッキングガイド誌(2019)にそう書いてある。山筋を歩けば水晶が見つかるようだが、無許可の持ち帰りはいけない(普通の水晶も)。
ともあれ、和田博士が奈留島産の水晶を略誌に示した 1878年からほぼ 150年、まだ産地が残っているのはたいしたものである。

水晶岳付近は砂岩や泥岩等の堆積岩が互層をなす地質で、山頂東側の斜面を下ったあたりに断層破砕帯が分布し、幅10cmあるいはそれ以下の石英脈がいくつも走っている。脈中の晶洞に水晶が(双晶が)多産する。脈は地底に伸びて掘れば採集が可能とみられるが、採集してきた研究者たちが揃って日本式双晶の学術的意義や産地の保護を主張するのだから、一般人には手が届かない。
もっとも産状の観察や採集にこだわらなければ、鉱物ショーに出向けば、あるいはネットショップやオークションサイトを検索すれば、標本の出物はいつでも潤沢にあるのがここ 30年来の状況だ。教育資料として頒布されているわけ。ある老舗標本商さんの言葉を借りれば、「自分で採りに行くより、金銭的にずっとリーズナブル」である。とはいえ、何百個も集めて研究したいというなら話は別。



補記:三菱マテリアル所蔵の和田標本中に、宮崎県西臼杵郡高千穂町山裏(登尾)産の日本式双晶が保存されている。ダトー石、斧石と共生する。これが日向産ないし山裏産として明治・大正期の鉱物書に述べられるもの。
ちなみに長野県川端下(カワハケ)産の日本式双晶は「かま水晶」(鎌形水晶)と俗称された。

補記2:略誌等、和田が初期にまとめた内国金石産地の情報は、地場から報告されたものをリストアップしたと思しく、必ずしも実地調査を経たわけではないようだ。後に篠本二郎博士は、「甲斐巨摩郡金峰山」というのは甲府あたりの地場業者の通説で、実際の産地は巨摩郡にない、と解説している。我々、鉱物愛好家が購入した標本のラベルに記載の産地をそのまま紹介する感じか。

補記3:奈留島は僻遠の離島だったことが幸いして(商業的採掘もされず)長く産地が残ってきたが、今日の自治体は採集阻止の工夫をしなければ産地を守れないと危機感を持っているようだ。

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