C17. 翡翠指輪  (ミャンマー産)

 

 

feicui

ひすいの指輪(順光撮影)−ミャンマー産

feicui

ひすいの指輪(強背光撮影)・普通光下では上の石と似た色あい
−ミャンマー産

 

翡翠(ひすい Fei tsui)は清代中国を代表する宝玉で、18世紀後半頃から熱烈な愛好の対象とされた。日本には明治以降、西洋の宝石類と前後して入ってきたが、当初は帯留めや簪など和物装身具の飾り石に組まれて浸透していった。
20世紀の日本は中華圏以外で翡翠に需要のある国 No.1 として世界に知られた。元々、中国文化を積極的に取り入れてきた歴史があるので、地の利や人の繋がりも加えて、馴染みやすかったのかもしれない。

翡翠の緑(碧・翠)色にはさまざまなニュアンスのものがある。概して現代の中華系の人々は明るい色目のものを好み、日本人は暗い色目(濃いめ)のものを好むといわれる。とはいえ明治後半から大正にかけては涼しげな色合いが好感されて、夏用の装身具に用いられていた。
透明感のあるものを好む点は共通しているが、中華圏では玻璃種(ガラス透明)・氷種(半透明)・氷糯種(おこわの握り飯の質感)等と細かく区別して呼ぶ。日本では半透明のものを琅玕(ろうかん)と称するが、この語には質のよい緑色の含みが伴う。中華圏に言う老坑(ろうかん)氷種のニュアンスに近い。

以前はよく銀杏の実の色と透明感を引き合いに描写されたが、今日の宝石業者さんはより緑が濃く、より透明感の高いものを琅玕と呼んでいるようで、むしろ老坑玻璃種に近いというべきかもしれない。ただ透明度は樹脂含浸によって劇的に向上させることが出来る。
老坑は「古い鉱山」のことで、19世紀前半にミャンマーの翡翠鉱山(老坑)で採れた美しい緑色の高品質の玉、または鉱山を限らずこれに匹敵する品質の玉を呼ぶ。西洋に言うインペリアル・ジェード(帝玉)に等しい。

科博「翡翠展」(2004)のガイドは、「新坑(シンカン)から採取される翡翠のなかでも良質のものを、旧称にちなみ老坑(ラウカン)ダチと称し、通常品と区分して取り引きをしたようだ。その後、老坑と琅玕が混同使用されたのだが、琅玕の字の美しさが混用を巧妙と化したようだ」と、日本の宝石業界の慣習を解説している。巧妙は功名と書いていいかもしれない。
なお、かつて老坑と呼ばれた歴史的産地も、20世紀後半以降、機械採掘による再開発の波を被っているので、老坑産といっても老坑質とは限らないというややこしいことになっている。

翡翠はもともと宝玉の名(雅称)なので、宝石質でない石を翡翠と呼ぶことはいろいろ問題があると思うが、此の頃の日本は「国石ひすい」のキャンペーンもあって、その傾向が強くなっていると感じる。もともと鉱物学徒は Jadeite/ Jadeitite をひすい輝石、ひすい輝石岩と訳すのでケジメに乏しい。私もサイトに標本(レベルの品質のもの)を「ひすい」と書いて紹介しているので他人事ではないのだが、鉱物(・岩石)と宝石とを簡単に混同してしまう。まあ、世間一般には通用しないことを忘れないようにしよう。(※鉱物標本は所有する本人にとってだけ宝石ダ。)

 

参考:「もっとも高価なのは斑紋のはいらない緑一色で、しかも半透明のものです。炒りたての銀杏の実をむいてとり出した、透き通った緑に光る果肉の感じ、そんなのがヒスイとしては最上のものとされています。ローカンという名前でよばれているのがそれです。」(崎川範行「宝石」二版1992) 

補記1:翡翠の発音はマンダリン(標準語、北京官話) に Fei tsui フェイツイ、広東語(香港など翡翠取引の中心地)に Fei cui フェイツゥェイ。日本では古くから「ひすい」の音を宛てている。

補記2:中国では古くから琅玕と呼ばれる装飾材があった(ひすいの話4)。古い書物中のものは翡翠以外の物産に比定されている(ひすいの話6(琅玕))。(「c玗hしゅんうき、瑤琨ようこん、球琳琅玕きゅうりんろうかん」−軟玉の話1 追記2
和田維四郎「本邦鉱物標本」(1907年)では、石英の項下に琅玕があり、「俗に碧玉と称するものなり不透明にして濃緑色なる塊なり」として、出雲意宇郡湯町村産を挙げている。(※中国新疆のウルムチ近くの瑪納斯/マナシは清代以来、透閃石質の暗緑-黝碧色の美しい玉を出した。濃色の翡翠そっくりの石で碧玉と呼ばれた。和田の念頭にこの名称があったかもしれない。ただし湯村産は透閃石質でなく、石英質。)
清代の辞書「通雅」(1666)に「屑金之翡翠、碧玉也」とあることをひすいの話4に述べたが、翡翠〜琅玕〜碧玉と連想が繋がるようでもある。
鈴木敏「宝石誌」(1916年)には和田が友人として序を寄せているが、琅玕の語が玉類(硬玉及び軟玉)と関連づけて示されている。暗緑色青碧色を帯び半透明のもの、と。

補記3:江戸期からの嚢物業者の間では、古渡りの皮革類などとともに渡来した玉類が緒締めや根付けに用いられていたらしい。明治・大正期にはこの種の玉(軟玉)に、白玉、紅玉、黄玉、羊脂玉、青玉、玵青玉(かんせいぎょく)、満斑(まんぱん)などの種類が認識されていた。青玉は「多少鮮やかな碧色を帯び」たもの、玵青玉は「青味の優れているもの」という。
一方、中国では古玉(地中に長くあった後に掘り出された古い玉類。共に地中にあった物質の成分が浸みて変質したり着色されたものがある)の色の形容に、蒸栗のような黄色が沁みたものを「玵黄」、黄色が深く蜜蝋のようなものを「老玵黄」と、青天のような藍色のものを「玵青」、青色が深くてサファイヤのようなものを「老玵青」と描写する。
この老玵青(ろうかんせい)を約めて、深みのある青玉を日本で「ろうかん」と呼んだということも考えられる。大正・昭和初期の宝石書にみられる琅玕の色の描写はこれに近いと思われる。当時はその種の深みのある色の玉が(軟玉、硬玉を問わず)「琅玕/ろうかん」と呼ばれたが、中国人が上質の古い翡翠を「老坑」と呼んだことと合わさって、戦後は専ら翡翠を指す語として定着したのではないだろうか。 なお、「玵」は「玕」と同義の語(良い玉、美玉)で入替可能。

補記4:李時珍「本草綱目」の寶石(宝石)の項に、「宝石は西番回鶻(西域ウイグル)地方の諸坑井中から産出し、雲南、遼東にもある。紅、緑、碧、紫等の数色があって、紅なるものを刺子と名づけ、翠なるものを馬価珠と名づけ、碧なるものを木難珠と名づけ、紫のものを蝋子と名づける。また鴉鶻石、猫眼石、柘榴子、紅扁豆など色に因って名づけたものもあり、いずれも同一種類である。」と述べている。
古来、各種の宝石が西方からシルクロードを伝ってウイグルを介して中国に入ってきたことがわかる。また(インド〜)雲南からも入ったことが窺われる。
「碧色のものを唐代に瑟瑟といい、紅色のものを宋代に靺鞨といったが、今は一様に宝石と呼び、頸飾りや器物に装填する。」
「張勃の呉録に『越雋、雲南の河中に碧珠が出る。祭りを行ってから之を取るのであって、縹碧、緑碧のものがある』とあり、これが即ち碧色宝石である。」などとあり、あるいは碧珠はミャンマー産の翡翠であったかもしれない。(※縹はハナダ色だが、ピュウの音はミャンマー土着のピュー族を指すようでもある。cf. No.713 補記7)

鉱物たちの庭 ホームへ