ひま話 メキシコ征服とチャルチウイテ  (2011.3.21)


アステカ王国(メシカ=メキシコ)のチャルチウイテについて、もう少し話を続けよう。コルテスがいかにしてメシカを滅ぼすに至ったかを語ることは元々の目的でないけれど(優に一冊の本になる長いお話だ)、しかしこの魅力的な歴史物語のいくつかのエピソードには、鉱物愛好家として是非触れてみたいのだ。

★まず征服の成り行きを大まかに述べておくと、時のアステカの王モテクソーマは種々の予言や占術によって、白い肌の神ケツアルコアトルが1519年に再来し、彼の支配する世界が終わりを迎えることをあらかじめ予測していた。それで、この年コルテスが彼の領内に上陸したとき、王は「やはりな」と思った。予言に逆らっていいものかどうか分からなかったので、対応の方針は臨機応変であった。つまり定まらぬ心のままに、得られた神託のままに、ころころと変わった。歓迎するふりをしたり、食料を提供しなかったり、魔法を使ったり、待ち伏せをしたり、属国の兵士に攻撃させるかと思えば、使者を送って懇ろな挨拶をしたりした。しかし出来ればおとなしく帰ってもらいたい、というのが常に変わらぬ本心だったようで、また神の化身(と彼は考えた)に対して言い逃れの出来ない決定的な敵対姿勢を明らかにすることをなんとしても避けようとした。結局、さまざまな術策の甲斐なく、コルテスはメシコの都にやってきた。
コルテスはモテクソーマが最初に派遣した歓迎の使者と会合した付近に入植地ビレリカ・デラ・ベラクルス(以下ベラクルス)を作り、ここにわずかの人員を残すと高原を越えてメシカに進軍してきた。彼らはアステカに好意的でない部族の住む町から町を辿って行った。途中でアステカ人の宿敵であるトラスカラ人らがコルテスの味方につき、彼に大軍を提供するほどの肩入れを示した。(メシコに入るとき、トラスカラ兵士は都の外で待機し、入城しなかった)
モテクソーマは抗い難い運命の声を聴き、おとなしくコルテスを王宮に受け入れた。無血開城である。

一方、コルテスの方でも自分たちの意図の無謀さは明らかであったし、モテクソーマが次にどんな行動に出るのか予測するのは難しかったので、常に最悪の事態に備えた。眠るときに武装を外すことはなく、どんな友好的な歓迎に出会っても警戒を怠らなかった。彼もまた臨機応変に行動した。彼は心の中ではモテクソーマを虜囚とし王国を転覆させることを意図しながら、つねにモテクソーマに親愛の情を示し、よき友人たることをアピールした。
メシカ市に入城したとき、カルロス1世王の使節を僭称するコルテスの遠征隊はわずか400人ほどにすぎなかったが、モテクソーマの権威が冒されない間は自分たちが安全である可能性が高いことを機敏に察知し、態よく王を王宮に拘束しつつ、王に従来通りの治世を行わせた。そしてモテクソーマが毎日よこす黄金の貢物を喜んで受け取った。

★そんな芝居がいつまで続くべきものだったか分からない。事態は違った方向に進んでいったからだ。
その頃、クーバ総督ベラスケスは解任を受け入れなかったコルテスに叛意ありとして追討軍を差し向けていた。この一隊が上陸してベラクルスの入植地を占拠する事件が起こった。
報せを受けたコルテスは盟友の「太陽」アルデバラードを留守居に残し、討伐のため都を出た。そして追討軍を存分に破った。というよりも指揮官を捕虜とし、その軍隊を自分の戦力に組み入れることに成功した。追討軍もまたコルテスが見つけた途方もない黄金をもたらす土地の征服に参加したいと思ったのだ。

その間に都で決定的な事件が起こった。テノチティトランに国中の領主や有力者が集まり、アステカの神ウィツィロポチトリの祭りを行っていた。コルテスは出発前に祭りの開催を認め、また勧めてもいたのだが、留守居のアルデバラードは祭りの最中に広場を封鎖し、仮装して奉納の舞いを踊っていた領主や貴族たちを悉く殺したのだ。嘆きの夜であった。
この行為は当然アステカ人の激しい怒りをかった。モテクソーマは、それでもなお(神の化身である)スペイン人との衝突を回避しようとしたが、残された有力者たちにはもはや忍耐の限度であった。彼らはモテクソーマを罷免して別の王を選出すると、その指揮の下にアルデバラードらが起居する王宮を包囲した。
急報に接したコルテスは、1500人ほどに拡大したスペイン軍を率いてメシコの都に向かった。トラスカラ人らも加わった。彼らは戦闘もなく都に入城できたが、それがアステカ人の作戦で、湖上にあって数キロに及ぶ堰堤を辿るしか出入りの出来ない都に閉じ込められる形となった。コルテスの側にいたモテクソーマは激しい戦闘が数日続く間に死亡した。コルテスは攻囲を強行突破して都を脱出するほかなくなった。
夜明け前にひそかに始まった脱出行は露見し、たちまち橋が落とされた。まだ橋を渡っていなかった者はアルデバラードら数人を除いて助からなかった。コルテスはすでに渡った者をまとめて撤退を続けたが、何度も圧倒的な大軍勢に襲われ、玉砕もやむなしの危機に陥った。部下の3分の2を失ったものの辛くもトラスカラ人の勢力圏まで辿りついたのは神慮というほかなかった。(1300人で逃げ出し、生き残ったのは440人だった)

★こうしてコルテスはアステカに対する神通力を失ったが、トラスカラ人らは最終的に落ち目のコルテスを支持し続けることを決断した。その後はどういうわけだか幸運が続いて、スペイン人兵士の数は膨れあがり、武器弾薬も補給できた。湖上の都市を攻略するためブリガンディン船が建造された。アステカに敵対する先住民を含めて数万の軍が整った。
そしてモテクソーマ亡き今や武力衝突は避けられず、連日の激しい攻囲戦は93日に及んだ。両軍よく戦ったが、篭城するアステカ側は深刻な食糧不足に悩まされ、最後は逃亡を試みた新王が湖上で拘束されたのを受けて降伏勧告を受け入れた。1521年8月、絶え間なく続いていた騒音が止み、都は不気味なほどの無音に包まれた。
コルテスは3度めの都に入城し、廃墟と化したテノチティトランに新しい都を築いてスペイン領ヌエバ・エスパーニャを宣言した。この都が今日のメキシコシティである。その後征服者(コンキスタドール)たちはアステカの統治機構を引き継ぎ、アステカの属国や敵対国に軍や官吏を差し向けて遠征の完成に各地を飛び回ったが、今は数年のうちにスペインが中央アメリカに確固たる勢力を張り、新たなキリスト教世界を実現させたと述べれば十分だろう。

★先のひま話で書いたが、3次に渡る遠征隊にすべて参加したベルナール・ディアス・デル・カスティーリョは、長い艱難辛苦の末にアステカ征服をその目でみた。彼は観察眼に優れ、おそらく直情的で曲がったところのない冒険野郎だったように思われる。
彼の征服記は時に無邪気に、時に鋭い眼光を持って、時に欲望を丸出しに、神と国王以外、何者にも遠慮するところなく己の信じるところを述べている印象があり、好感度大である。ただし、都合の悪いスペイン人の行動については巧みに記録から省き、何事もなかったかのように見せていることも確かだと私は思う。
チャルチウイテをはじめとする宝石について言えば、カスティーリョは遠征のはじめ、知識らしい知識はさまで持っていなかったと思われるが、それだけにいろいろなことを曇りのない目で偏見なく観察していたように思われる。

★未知の大陸の先住民との交易にガラス玉が有利な商品となりうることは、ポルトガルによるアフリカ大陸での経験や西インド諸島での経験からすでによく知られた常識であり(⇒大航海時代とガラス玉の宝石)、メソアメリカへの遠征にガラス玉を用意し、ガラス玉の贈り物が実際に先住民に感銘を与えたことを、カスティーリョは当然のこととして受け止めていただろう。
しかし、彼らが特に緑色や青色の玉を喜ぶことを見てとり、またメシコの都に着く以前に、チャルチウイテと呼ばれるエメラルドに似た石を特に珍重する風習がメソアメリカ一帯にあることを聞き知っていたと考えられる。
例えば、彼らがモンテスーマから最初に受け取ったケツアルコアトルの装束にはチャルチウイテがついていた(⇒アステカの宝石チャルチウイテとシウイトル)。おそらく友好関係を結んだ住民たち(タバスコ人やトトナコ人など)や贈り物にもらった妻たちから、この石がいかに値打ちのあるものかを聞かされたことだろう。これは人種の異なる西インド諸島の島民の間にはない文化であった。

メシカの姉妹都市であり、ケツアルコアトルを祀る神殿を持つチョルーラの町に入ったとき、町の人々は最初はコルテスらを歓迎した。ところが、モテクソーマから食料を与えてはならないという指令が来たり、軍を攻め立てるようにという指令がきたりして(したらしく)、人々の態度が突然よそよそしくなったことがあった。コルテスの陣には直接モテクソーマの使者が訪れ、「食べ物がないからメシコ市に来るに及ばない」と権高に言った。コルテスは使者にガラス玉を与えて彼らの態度を和らげる一方、チョルーラの神官たちにはチャルチウイテを1個づつ与えて、町の首長らを呼んできてほしいと頼みごとをした。この場合、ガラス玉は儀礼的な贈り物であるが、チャルチウイテは明らかに買収の手段として用いられたことを指摘したい。
神官の求めに応じて首長らがやって来ると、コルテスは全員を捕縛し、ついで市内の粛清作戦を行った。

粛清の後、彼らはチョルーラを発ち、タナマルコに入った。そしていよいよメシカ市へ向かおうとする時に、再びモテクソーマの使者がやって来た。王の甥でテスココの領主だったカカマツィンである。コルテスはこれまで会ったアステカ人の中でももっとも身分の高い彼に、「マルガヒータ石といって内部に様々な色の模様が入っている石を3個与え」た。そしてほかの要人には青いガラス玉を与えた。カカマツィンは、メシコまでの道中のお世話をさせていただくと挨拶した。こうしてコルテスは表面上は実に穏やかにアステカの都に迎え入れられたのだった。

モテクソーマと対面したコルテスは繋ぎ糸に麝香の香りを染ませたマルガヒータ石の首飾りを王に贈った。一方モテクソーマはコルテスのために宿舎として王宮を提供し、部屋に案内すると、黄金で出来た「海老のような形をしたものが付いている実に見事な首飾り」をコルテスの首にかけた。王の武将たちはこの破格の対応に驚いたという。
コルテスらはその後、数日をかけて市内を案内された。モテクソーマは毎日、彼らに金細工や布地など諸々の贈り物をした。メシコ市の神殿に祀られていたウィツィロポチトリの様子をカスティーリョは次のように描写する。
「身体はすべて宝石や金や真珠で飾られ、さらにこの国の人々がある種の木の根のようなものから作る糊を使って小粒の真珠が顔から身体まで余すところなく張られてあった。また胴の部分には金と宝石で大きな蛇に似たようなものが巻きつけてあった。ウィチロポチトリの首には人間の顔と心臓を象ったようなものがいくつかかけられていた。顔は銀と沢山の青い宝石で造られ、心臓の方は金でできていた。」青い石は言うまでもなく、トルコ石だろう。

★スペイン人たちはスペイン社会での身分に応じたやり方でもてなされた。王宮に入れなかった部下の中には市中で略奪を働くものがあり、コルテスはおおっぴらな騒乱を禁じようとしたが、黄金に目がくらんだ彼らを抑えるのはさすがに無理な相談だったようだ。やがて、モテクソーマが別の建物に起居して自由に治世を続ける状況に焦燥を募らせたコルテスは一計を案じ、アステカ人とは別の部族がベラクルスを襲ったことを理由に、モテクソーマに身の証を立てるよう迫り、自ら進んでコルテスの下に(王宮に)留まると言わせることに成功した。

王宮で日々を過ごす間にスペイン人らは建物の内部をくまなく探しまわり、やがて財宝庫に続く隠された扉を見つけ出した。カスティーリョによると、コルテスは扉を開いて中にある夥しい量の黄金を確認すると、再び扉を封印させ、誰も勝手に近づくことはならないと厳命した。
しかしサアグンの記録は次のようである。
「テオカルコという名の秘密の宝物庫に達すると、ただちに、そのとき、高価な布製のござ、ケツァルの羽毛で飾られた儀式用甲冑、武器、黄金の円盤、神々の首飾り、三日月型の黄金の首飾り、黄金のすねあて、黄金の腕輪、黄金の鉢巻など、彼らはあらゆるものを手当たり次第に部屋の外に持ち出した。そうしてから、ただちに彼らは盾やその他のすべての武具から黄金を剥ぎ取った。そして黄金を剥ぎ取ってしまうと、スペイン人は火をつけ、燃やして、さまざまな貴重な品々を火に投じて、跡形もなくして、すべて燃やし尽くしてしまった。黄金はといえば、スペイン人はそれを金の延べ棒にした。チャルチウイテについては、美しく上等と見えたものは、すべてこれを奪った。また残りのチャルチウイテは、トラスカラ人が盗んでいっただけのことにすぎない。」
「モテクソーマの私有物、個人財産、彼の生涯がもたらした物、あらゆる貴重品がめったやたらと取り出された。それらは何本もの下がりのついた首飾り、貴重な羽根飾りの腕輪、黄金の腕輪、鈴のついた金の足首飾り、トルコ石の王冠、トルコ石でできた鼻飾り、そして数限りなくあるその他のあらゆる財宝などであった。彼らはすっかり奪いとった。すべてを横取りした。」(フィレンツェの絵文書)

一方、カスティーリョによれば、モテクソーマは先祖代々積み上げてきた財宝が見つかったことを知っていた。そして毎日行われた会談の場でコルテスに、宝物庫にある財宝はみなあなた方のものだ、と言ったのだという。コルテスは笑いながら、いや、あなたのものだ、と応えた。するとモテクソーマはその中から特に貴重な品を選んであらためてコルテスに贈ったということになっている。モテクソーマは言った。
「それからまた非常に見事なチャルチウイテなる宝石をいくつか差し上げるゆえ、それも余からの贈り物として陛下(スペイン国王-sps)にお届け願いたい。その宝石は一個が金の2カルガ(今日の重量単位とは異なり、約40-60kgくらいと思われる -sps)の値打ちがあり、他のだれにもまして諸君の偉大なる皇帝陛下にこそ献上するに相応しい逸品である。」

★モテクソーマは監視役の一般兵士にも贈り物を欠かさなかったので、彼らはこの王に敬意と親愛の情を覚えるようになったらしい。ある日、カスティーリョは監視役の同僚に、自分は財産がなくて嫁ももらえないので、モテクソーマに若い娘がほしいと頼んでみてくれないかと、言った。
それを聞いた王はカスティーリョを呼んで血筋のよい女性を引き合わせた。そして黄金と布地を渡して、よく面倒を見てやってほしい、といった。カスティーリョのモテクソーマへの好感度は大いに上がり、王が死んだ時、彼は心からの悲しみにくれた。この女性はキリスト教徒となって、ドーニャ・フランシスの名をもらった。「立ち居振る舞いがまさに貴婦人のそれであった」彼女について、この後カスティーリョは一切触れていない。都から脱出するときに命を落としたのであろう。

★コルテスはアステカ領(371にのぼる貢納都市があった)の各地に人を送り出し、金鉱とその生産量を調べさせるなど、国情の把握に努めていたが、ベラスケスの追討軍が上陸すると、その対応に追われるようになった(懐柔のため、たくさんの黄金を使った)。そして嘆きの夜の後はアステカ人の包囲を受けて、とうとう夜明け前の脱出作戦に命運をかけるときがきた。
コルテスは宝物庫の財宝をすべて持ち出すことは不可能だと悟った。彼や王室の官吏らは、めぼしいものを先に取った後、まだ半分以上残っていた金塊(装身具などの金細工は、かさばらないよう融かして地金に変えてあった)を部下に示し、各人持てると思うだけ持っていくがいい、と言った。最初からコルテスに従っていた遠征隊の面々はともかく、ベラクルスで新たに加わったスペイン人らはその魅力に逆らえず、無理をして重たい金の延べ板を背負って脱出した。そのため、人も馬も動きが思うに任せず、湖で溺れたり、戦場で殺されたりして、かなりの者が黄金のために命を落としたと、カスティーリョは記している。

かく言うカスティーリョは、「小さなペターカ(籠)の中からこの国の住民が大いに珍重するチャルチウイテという宝石を4個ばかり咄嗟につかむや着ている武具の懐にしまいこんだ。この後、コルテスは自分の家令にいいつけて、まだチャルチウイテがいくつか残っているそのペターカをしまわせた。私がもらっておいた4個にしても、もしも私が一足先に懐に入れていなければ、コルテスに取られていたはずである。この4個のチャルチウイテがあったおかげで、私は後に傷の治療代を払ったり食物を手に入れることができて大変に助かった。」
という次第でコルテスに先んじてチャルチウイテの分配に与ったが、撤退戦の間の生活資金として手離さざるを得なかったようである。トラスカラ人が最終的にコルテス支持を決定するまで、彼らは金の小片やチャルチウイテをトラスカラの住民に支払って糧食を確保するほかなかったのだ。またこのエピソードが示す通り、自分の面倒は自分で見るのが慣いであった。

あるよく知られた伝説によると、モテクソーマはスペイン人がまるで豚のように貪欲に黄金を欲しがることに困惑しながら、次のように述べたとされている。「彼らがチャルチウイテを欲しがらないのは、実にありがたいことだ」
宝石業界では、このセリフは「彼らはエメラルドの値打ちを分かっていない」または「翡翠について何も知らない」と置き換えられていることが多いが、これは後世の著者の誤認や宝石学者の目的にあわせた解釈というべきだろう。メシコ征服の後、ヨーロッパではこの緑色の石はエメラルドとして紹介されることがあったのである(ヒスイという宝石は当時まだ知られていなかった)。
しかし実際には「征服者」らはチャルチウイテについての知識を持ち、よしんば本国では換金価値がないとしても、これを大切に扱う感覚を身につけていた。少なくともカスティーリョはその価値がアステカでは金よりはるかに高いことを知っていた。コルテスは「王侯が持つに相応しい」この石に大いに魅せられていた節がある。彼は緑の石を後々まで大切に持っていた。

★コルテスが捲土重来を期してメシコ市に引き返し、ついに戦いに勝利して王宮に戻ったとき、残念ながら宝物庫の中にはほとんど黄金が残っていなかった。脱出の際に湖に落ちて死んだスペイン兵が持ち出したはずの財宝を引き上げるために湖が浚われたが、思うほどの収穫はなかった。身柄の保証を条件に降伏したアステカの王グアテムース(クアウテモク)を詰問すると、トラスカラ人がみんな持っていったのだと言った。コルテスはスペイン国王の官吏に強く迫られ、やむなく王らを拷問にかけたが、得られた答えは同じであった。しかし彼らの持つ財宝は手に入れることが出来た。

相当な量の財宝がコルテスのもとに集まったことは確かで、彼はそのうち国王の取り分を船に乗せてスペインへ送り出した。
「船が二隻仕立てられ、8万8千カスティリャーノ(約400kg/今日なら12億円相当だが、当時はもっと値打ちがあったはず-sps)にのぼる金の延べ棒と、かつてモンテスーマのものでグアテムースが引き継いでいた財宝が積み込まれた。財宝の中身は数多くの見事な金細工、ハシバミの実ほどもある大粒なものも混ざった真珠、エメラルドに似たチャルチウイテという宝石−この内のひとつは幅が手の平ほどもあった−、その他さまざまな宝石の類だった。」
モテクソーマからスペイン国王に贈られたチャルチウイテもその中に含まれていた。ただし、航海の途中で船がフランスの海賊に襲われたので、財宝はスペインには届かなかった。カスティーリョはその次第を述べて、
「これらはテルセイラ島からさほど離れていない所でフランス人の海賊ジャン・フロランに襲われて船もろとも金を全部奪われてしまった。…そしてフランスへ戻ると、国王と同国の海軍提督にヌエバ・エスパーニャからの金と品物からなる大層な贈り物を献上した。我々が皇帝陛下のためにお送りした財宝にはフランス中が吃驚し、フランス王はヌエバ・エスパーニャの島々の富に自分も与りたいという思いにかられた。『皇帝が我がフランスを攻撃するにはヌエバ・エスパーニャから送られてくる金だけで十分だ』とのことばがフランス王の口からもれたのはこのときのことだった。
『貴公とポルトガル王とで世界を分割し、余がこれにまったく与らないというのはいかなることか。それとも貴公達だけにあれらの土地の相続と領有を認める我等の人祖アダムの遺言書でもあるならばお示しいただきたい。貴公達は二人だけですべて自分のものにしてしまい、余には一片の土地も残さなかった。よって海上で手に入るものを余がことごとく頂いても差し支えはないということになる』
この後、フランス王はジャン・フロランに別の船を率いてまた海での運を試すようにと改めて命じた。」

まるで、フランス王にはフランスに君臨してもよいというアダムの遺言書があったかのような口ぶりだが、おそらくフランス人が初めてメソアメリカの緑色宝石チャルチウイテを目にしたのはこの時であったろう。

★アステカ征服について、あと2つのエピソードを述べてページを結びたい。
まずカスティーリョであるが、彼はアステカ征服の日を迎え収穫の分配に与った。このとき、一緒に女性捕虜の分配が行われたが、彼は受け取った(わずかな)黄金を、意中の人を買い戻すためにすべて使わねばならなかったと書いている。カスティーリョは勇猛果敢な人物で、戦場での働きはコルテスにも大いに認められていたが、長い苦労の末に得たのは(この時点では)愛する女性一人ということだったようである。
彼はその後、コルテスや盟友サンドバールの求めに応じて各地を転戦した。これにも生き延びて一時はエンコミエンダをもらって歳入を持ったが、本国から押し寄せる官吏が「征服者たち」を権力中枢から押し出していった流れには逆らえず、諸々の不満を抱きつつ、期待していたほどは裕福でない余生を送ったようである。

次に征服を指揮したコルテスだが、彼は一時はヨーロッパの王侯をもしのぐ宮廷生活を新世界で送った。彼は総督となり、途方もない財産家となって権勢と名誉を手にした。数年の後、スペイン国王に謁見し、オアハカ谷に侯爵領を賜った。彼は貴族に序せられたが、しかし総督の任からは解かれた。彼は大いに幻滅した。ペルー(インカ)を征服したピサロが1535年にアステカを上回る黄金をスペインにもたらすと、彼の栄光は急速に過去のものになっていった。
1541年、国王がアルジェリアに勢力を張るイスラム教徒への十字軍を呼びかけたとき、コルテスは作戦に志願した。そのとき地中海で嵐に遭い、船を捨てざるをえなくなった。それまで常に携行していた貴重な宝石の数々を腕に巻いた布の中に嵌めこんで船を降りたが、救出までのどさくさに紛れて、非常に大切にしていた緑色の石を失ってしまった。この石はモテクソーマの財宝に属した異常に大きなエメラルドだったと史家は書いているが、まず間違いなくチャルチウイテであったろう。
彼はその類まれなる美しさのためか、値段のつけられないほどの価値のゆえか、あるいはモテクソーマを偲んでか、この石をずっと肌身離さず持ち続けていたのであった。コルテスは1547年にこの世を去った。

続く ⇒ 私家版鉱物記 チャルチウイトルの話


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