ひま話 日本における鉱山(地下)世界のイメージ(1) −2013.7.13


日本は風土記の昔から各地に銅やら金、また銀が出て、剣や鏡や貨幣や仏像やが作られてきた。石見(1309?,1526?-)や生野(1542?-)の銀山、佐渡の金山(1601 ?-)、尾去沢(金、銅)(708,1598-)、阿仁(1660代-)、足尾(1550?,1610-)、別子(1690-)の銅山など、江戸期以来、あるいは戦国期以前に開かれた名だたる鉱山が現代に至るまで光芒を放ち、ヨーロッパ世界に匹敵する−数百年間にわたる−鉱山業の歴史を刻んだ。
和銅開珎、奈良の大仏、マルコポーロが記述した黄金の国ジパングの伝説。日本刀に鍛えられた伝説的な和鉄・鋼。丹や水銀(みずかね)や鼠取りや鉛白といったさまざまな鉱物質の薬物・顔料の生産。戦国武将の軍事力を支えた各地の金・銀、南蛮・紅毛貿易の輸出資源であった銅など、豊かな鉱産にまつわるエピソードに困らない。

鉱山や精錬・鍛冶の場では古い起源の神々、大山祇(大山津見)、金山彦、金山媛、天目一箇神(金屋子神)らが祀られ、信仰されてきた。また岩や石自体が示す霊験、怪異、不可思議、あるいは本草的価値にまつわるお話も枚挙に暇がない。
そんな国であるから、鉱山や鉱夫が関係するフォークロアも、いわゆる迷信も、探せばいろいろと見つかることであろう。(補記1)

そもそも地下世界が舞台となる伝説や文学は、日本に少しも珍しいものではない。古くは「黄泉の国」(イザナギが通路を閉ざした)や天の岩戸、スサノオが支配する「根の国」の神話群、民話「おむすびころりん」の鼠穴の奥に広がる世界、各地に残る風穴伝説−たとえば吾妻鏡の富士の風穴、地下に埋没した巨樹(神木)が朽ちて生じた長大な地下通廊の説話(洞穴を辿って地表に出たとき神通力を得ていた英雄譚)等がある。また修験者や行者や鬼が棲んだ峻嶮な岩山の洞・岩屋にまつわる伝説・作話がある−たとえば役の行者の岩庵、伏姫が八房と結んだ洞…。
冥府、桃源郷、異形(異人)の棲家、修行の場。いずれもこの世ならぬ国、あるいは神仙的な力が働く超常の場所として記述され、人界との隔絶性、到達の困難さ、そしてときに死と闇と再生とに彩られた世界である。ひとはさまざまな理由でこの世界に踏み込み、試練をくぐる。

現代では探偵小説作家の横溝正史や江戸川乱歩が好んで鍾乳洞や地下空間を怪奇幻想の苗床とした−たとえば八墓村。伝奇小説や冒険活劇に地底世界(または迷路)は欠かせない。トンネル、暗渠、古い防空壕跡、蜘蛛の巣のように広がる地下鉄網、マンホール下の水道管等もまた地下世界を象徴する。村上春樹は「やみくろ」が跋扈する大都市の地下や異界に通じる井戸の底を描いている。

そこで我々日本人にとっては、鉱山のイメージもまた、こうした地下世界が共通して担う象徴性を帯びていると考えてよいだろう。
ただ鉱山は他の地下世界よりずっと明確に、現実的な富とその探索とに結びついている。従ってそこには、よくいえば一攫千金の宝探し的な要素、悪くいえば欲と道連れの、万難を排して収奪へ向かう要素がより色濃く含まれるであろう。鉱山の富は地上にもたらされた時に(精錬された後に)きわめて世俗的な価値を発揮するがゆえに、地下への降下のモチーフも、探求の営みもまた、世俗的で生々しいものとならざるをえない。
…にも関わらず、ときにそこに聖の次元が−精神的なもの、純粋なるもの、探索そのものの喜びが−顔を覗かせる、ように私には思われる。闇の中を行く探求が、いまだ混沌として形をとらない心の探求と二重映しの関係を持って迫ったりする。金鉱探しが心の中の宝の発見に繋がる。我々は誰か、世界とは何か、根源的な問いが問われ、ある生き方が−たとえば蓮の花のような生き方が−指し示される。

鉱山はアンビバレントな(両義価値を持つ)場所として捉えられ、世俗性と聖性とがせめぎ合う場として記述されることにもなる。各地に類話の多い砂金採りの民話、金洗いの沢では、ありあまる金を採集して長者となるのは、金の価値すら知らずに暮らしていた質朴な男である。しかも彼が長者になりえたのは、金の世俗的な価値を知る女性と結ばれることによってであり、その女性は自分の幸せがそんな男に添う暮らしの中にある、ということを予言されるか、または自ら気づくに至ったのだった。

ところでひとくちに鉱山と言って、実際にはさまざまな規模、採掘される鉱石種、運営形態、地理的条件の組み合わせがある。樹木も生えない険しい岩だらけの山の斜面を掘る鉱山があれば、緑濃き平野の田んぼの下を掘る鉱山もある。地面や斜面の広い範囲を少しずつ掘り崩してゆく露天掘りもあれば、井戸のような縦坑を深く深く掘ることもある。鉱脈を追って地中を縦横無尽に掘り進む「狸掘り」があれば、垂直・水平坑道を計画的に開き、地中の鉱床を階段状に崩して採掘してゆく方法もある。素朴な人力の道具を使って人海戦術で掘ってゆく鉱山があれば、ダムや発電設備を背景に大規模機械化採掘を行う鉱山もある。金属鉱山と炭坑とでは労働条件は随分違った。もっとも鉱山と聞いてそうした区別を意識する人は一般にはそんなに多くないだろう。

現代であれば、我々の鉱山に対するイメージは、時代劇に出てきそうな江戸期の佐渡の金山の様子か、明治期以降の(セピア色の風景絵葉書に見るような)大鉱山のそれ、あるいはディズニーランドの遊戯施設が端的に表現する−白雪姫の森の小人(ツヴェルク:補記2)がつるはしを担いでハイホーハイホー歩き歌う鉱山、といったあたりに集約されるのではないだろうか。
あるいは、昭和の一時期、映画やテレビに盛んに出てきた類の鉱山と坑夫のイメージ。その後にはRPGゲーム中の鉱山のイメージ。それから平成以降、閉山した鉱山の一部施設を公開して企画された数々のマインランドが提示する点景。

それらは現実の(現在の)鉱山を必ずしも包括的に精確に素描するものでなく、むしろお芝居の一場面を幕の裾から垣間見るような、限定的で、いくらか偏向した視点で捉えられた(過去の)断片に過ぎないかもしれない。それでいながら、そんな雑多な幻燈的鱗片の寄せ集めは、鉱山という言葉の下に統合されて、ある程度普遍性を持った元型的鉱山の心象風景として我等の裡に立ち現われてくるのではないだろうか。
一方でそのディテイルには、人によって、場合によって、相当の差が、ときには相反する要素が含まれていて、少しもおかしくないと思われる。

ひとつには谷間に製錬所の建物や巻き揚げ機の櫓が聳え、ミル(鉱石粉砕機)が回り、山の斜面に開いた坑口に鉄のレールが吸い込まれて、トロッコや労働者が送り込まれてゆく近代的な大規模鉱山の風景。坑道の中は地下鉄のトンネルのように整備され、ところどころに巨大な空洞が生じている。坑内服を着てヘルメットをかぶり、ヘッドランプを点けた鉱夫たちが削岩機を押さえ、ダイナマイトを仕掛け、声を掛け合って働いている。

またひとつには自然に出来た鍾乳洞にも擬せられる風景。湧水の溜まった冷たい池があり、奇怪な形状の岩石があり、坑道はときに広く、ときには人ひとり屈んでようやくすり抜けられるほど狭い。地面から水晶が生え、金属鉱石の結晶や破面がカンテラの灯りを受けてキラキラと瞬く。鉱脈を追って掘られた迷路のような穴の先端で、タガネと槌を持った鉱夫が泥と粘土にまみれ、姿勢を変えることもままならず、昼も夜もなく、孤独に岩を刻んでいる。

鉱脈の拡がり、狭まり、予断を許さない断続に一喜一憂する。富脈が発見されれば舞い上がり、どこを掘っても新しい脈が見つからない時は悄然と肩を落とすばかり。努力が実を結び、鉱脈が開示された時の高揚。行く手を阻む固い岩盤、落盤、出水、熱、湿気、毒気との格闘。
黒く汚れた顔。汗。石のカケラや発破で傷ついた目と耳。鉱水でぼろぼろになった服。放恣と節制。自恃と信心。筋肉隆々の体躯。異様に痩せて咳き込む人々。毎朝、死を覚悟して潜る坑口。晩方の生還。
急速に生命を擦り減らしてゆく過酷な労働が行われる危険な場所の(リアルな)イメージ。その一方で、善良で気のいい小人たちがひとめの届かない地下で陽気に働き、貴重な金属や美しい宝石を掘り出し、見事な細工物を作ったり、自足して幸せに暮している(メルヘンチックな)イメージ。

つまり鉱山は、苦と楽の、生と死の、刹那と永遠の、富と貧の、欲望と無垢の、栄光と悲惨の、恵与と搾取の、巨大資本と個人の、あるいはその他さまざまな要素が極端な対照となって現れる場所としてイメージされるのである。それらは一般の日常生活の中では、なだめられ、まるめられ、意識に上らないように覆い隠された刺であるが、鉱山ではその鋭い刺が日常の殻を突き破ってむき出しになるのだともいえよう。かっちょよく言えば、鉱山において闇はいよいよ深く、闇濃きがゆえに光もまた明るく輝くのである。そして日常生活を離れた場にあってこそ、我々は「心の深いもの」を出してくることが出来るのだ。

ここで歴史的に明らかなことを一つ指摘しておくと、機械化された大規模鉱山は近世以降になって初めて現れた。それはヨーロッパにおける産業革命の第一の申し子であった。というのも産業革命をもたらしたイギリスの蒸気機関は、そもそも鉱山(炭鉱)の湧水を坑外に排出するための動力源として発明され、実用化されたのであったから(補記3)
従来の人力(または馬力・水車)による排水装置が 18世紀を境に主に石炭を燃料とする強力な蒸気機関に置き換えられると、鉱山業に飛躍的な発達が起こった。それまで地下水レベルより低い位置の鉱脈を掘ることは事実上不可能だったのが、今や突破口が開かれたのである。坑道は地底へ向けて深く長く延ばされていった(排水の問題は後に電気ポンプが登場して根本的に改善された)

蒸気機関は掘削道具にも展開された。 1813年にトレビシック(英)が回転式削岩機を製作したのを始まりに(彼は蒸気機関の小型化に成功した)、1849年にはクーチ(米)が打撃式削岩機を開発した。
立坑には蒸気式の巻き揚げ機が設置され、採掘された鉱石を高速で地上に引き揚げた。水平坑道の鉱石運搬には 16世紀頃から木製レールが敷かれていたが、鉄の大量生産が可能になった 18世紀後半頃から鉄製レールに替わっていった。19世紀末から20世紀初になると、動力源として電気やエンジン、またエア圧、油圧システムの利用も可能になった。鉱山の規模は拡大し、製錬技術も進歩して、生産性は比較にならないほど向上した。
先のひま話でファールンの大銅山の光景をアンデルセンの目を借りて述べたが、これはすでに鉱山設備の機械化がある程度進んだ時代の様子である(電気設備は未だ)。ついでにいうと、天空の城ラピュタに描かれた谷間の鉱山は、やはり蒸気機関によって近代化された 20世紀初のヨーロッパの鉱山がモデルであろう(飛行船や飛行機が考案され、キャタピラ付の戦車もある時代)

1866年に発明されたダイナマイトも採掘現場の作業効率を飛躍的に向上させたひとつだった。珪藻土にニトログリセリンを浸み込ませることで、危険な爆破薬をずっと安全に取扱うことが出来るようになった。鉱夫は切羽にダイナマイトを仕掛け、導火線を横坑の出口まで這わせた。着火すると後はひたすら縦坑を駆け登って爆風から逃がれた(cf.イリノイの蛍石の話 用語解説

このように鉱山の機械化の歴史は高々200〜250年に過ぎず、ヨーロッパにおいては漸進的に成立していったものである。その以前には、一部で馬力や水車を駆動源とした装置や道具類が利用されていたにしろ(16世紀の鉱山技術書「デ・レ・メタリカ」に水車駆動の排水装置の図が載っている)、基本的には鉱石を掘るのも、水平坑道や斜坑を運ぶのも、縦坑の底から引き揚げるのも人力であった。排水や換気作業も人間が頼りだった。長い間、それが鉱山というものだったのである。
従って我々が抱く大規模鉱山のイメージは、古代から続く人力による鉱山が形成してきた、いわば古層的イメージの上に、この1、2世紀の間に新しくかぶさった層なのだといえよう。但しそれは浅くともきわめて強固な層である。

地下深部を掘るこの種の鉱山は、日本においてはヨーロッパから1世紀以上遅れて、初めからほぼ完成された形で出現した。言い換えれば、日本の鉱山は幕末まで旧態依然の運営が続いていたのが、明治維新を機に最先端の西洋技術が導入され、少なくともいくつかの鉱山は大規模機械化鉱山として生まれ変わったのであった。

明治時代(1868-1912)、日本政府は鉱山事業を殖産興業政策の最重点項目のひとつに掲げた。政府はめぼしい鉱山や工場を官営とし、英米仏独から鉱山技術者や地質学者、坑夫長らを多数招聘して、技術導入を図った。
たとえば佐渡の金山は 1869年(明治2年)に官営となり、翌年英人技師の下で製鉱場建設が始まった。また独人技師の指導で日本初の洋式縦坑が掘削された(1878年)。1881年には打撃式削岩機が導入された。これも日本初である。
同様に各地の鉱山で、組織的かつ機械化された探鉱・採鉱が、排水や鉱石運搬の機械化が、選鉱・製錬への最新技術の導入が、進められた。

立坑には蒸気機関の巻き揚げ機が据えられ、水平坑道に鉄レールが敷かれた。切羽では黒色火薬を用いた発破採掘が普及した。1878年にはダイナマイト発破法が導入されて、開削効率の改善が図られた。やがて官営鉱山は民間に払い下げられ、国家主導の本邦鉱山技術が民間企業に水平展開されていった。
1890年代には鉱山付属の発電所が建設され、電気機械化が始まった。電気巻き揚げ機、電気機関車、空中索道(ケーブル)、そして電気ポンプによる排水が行われるようになった。この間わずか四半世紀の出来事である。
そして今日我々がイメージする近代的な鉱山とは、おそらく「レトロな」蒸気機関でなく、電化設備によって運営されるものであろう。

先般、秋田県の旧小坂鉱山事務所を訪れた。小坂鉱山は1861年に小林与作が銀鉱を発見したことに始まった。藩営鉱山として西洋式製錬所の建設が計画されたが戊辰戦争により中断、1869年官営化されて再スタートを切り、大島高任、ドイツ人鉱山技師クルト・ネットーらの下で本格稼働の緒に就いた。1881年(明治14年)に産銀日本一を達成し、1884年民間に払い下げられた。その後も盛んに銀を製錬して 1888年まで8年連続で産銀日本一を維持したが、20世紀を迎える前に土鉱(泥状・砂状の銀鉱石)が尽きた。鉱山は存続も危ぶまれたが、黒鉱自溶製錬技術の開発に成功し、1902年頃から操業の主力を黒鉱(補記4)からの銅、亜鉛、鉛製錬にシフトして、またたく間に沈滞ムードを払拭させた(この起死回生の出来事は伝説性を帯びて語られる)。

小坂は別子・足尾と並んで日本の三大銅山と称され、1907年(明治40年)には2位の別子を大きく引き離して、総鉱産額日本一(887万円)を記録した。翌年、日本初の大露天掘りが始まった(補記5)
この頃から綿密な都市計画が進められ、山間に社宅や病院、娯楽施設、鉄道などが整備されて労働者を集めた。銀行、警察、郵便局も企業の求めに応じて設置された。小坂の人口は大正初めに2万人に達した。最盛期には3万人を超えたと伝えられ(公簿上の数字ではない)、8,000人近い労働者が鉱山で働いたという。県内では秋田市に次ぐ都市であった。

1905年に竣工した鉱山事務所は現在復元公開されて、パネル展示などで鉱山の歴史を伝えている。展示スペースの入口付近に汽車(小坂鉄道)の車両を模した映像ルームがあり、都会に住む鉱山技師の一家が夜行列車に乗って小坂に赴任するところ、という趣向の映像が流れる。一家は技師のお父さんとお母さん、それから男の子で、見学者はまずこの汽車で彼らと一緒に夜の旅をし、時空を超えて華やかなりし頃の鉱山に辿り着く、というか迷い込むのである。

旅の途中、男の子はいつか眠ってしまったようだが、本人は車窓の風景を眺めているつもりでいる。住み慣れた街を離れたのは心細いが、まだ見ぬ小坂も楽しみで、早く着かないかな、などと言っている。汽車はトンネルに入り、あたりは真っ暗になる。そしてずっと真暗な中を走り続ける。少し怖くなる。お父さんとお母さんは眠ってしまって目覚めない。亡霊じみた車掌さんが現れて告げる。この汽車は「怖い坂」行きだ、と。そこは闇に包まれた地底のような、地獄のような世界だ。男の子は震えあがった。
そのときお母さんの呼ぶ声が聞こえた。気がつけば闇は退き、汽車は明々と電気の灯る建物が並びそびえる谷間の町に入ったところである。こうして一家は怖い坂でなく小坂に着いた。明るく美しい町の様子を見て、それぞれが新しい土地での生活に希望を抱いたところで映像は幕。見学者も汽車を降りて、これから小坂の栄光の歴史を辿っていくことになる。

印象深い導入だったので詳しく紹介してみたが、製作者の意図なのかどうか、見学者はこの導入ですでに2つの対極的な鉱山のイメージが提示されたことに気づかざるをえない。
ひとつは、夜も電気が灯り続け、豊かな生活が約束されているかのような、活気に満ちた鉱山町のイメージ。ひとつは暗闇の中でももっとも暗いところを、行く先も定かでないまま転がり落ちていくほかない怖い坂のイメージ。
もちろん映像ナレーションは、小坂は怖い坂ではないと強調する。だが、男の子と一緒に悪夢を覗いた我々に、その言葉を額面通りに受け取らせることはすでに手遅れである。明と暗、二つのイメージは表裏一体となって刻まれている。

暗い方の面は措くとして、汽車が現実の(過去の)小坂の町に着いたときの光景。夜を押して電気の光があふれる幻想的なイメージは、まさに鉱山の現世的な富を象徴している。「電気と水道はタダ」という文化生活をアピールして全国から労働者を集めた功利的かつ誘惑的な約束の側面、それを裏打ちする資本力が如実に示された典型的な鉱山イメージと思われる。
そう言えば岡山の柵原鉱山なども、盛時は住宅の明かりが一晩中灯り続け(なにしろタダだから)、不夜城と呼ばれたのであった。(cf. No.205)

旧事務所ではもうひとつ、友子(ともこ)制度を取り上げたホログラフィック映像も流されていた。鉱山労働者はこの互助集団の下で、親分・兄分に技術を教わり、身内の階級を上って一人前になってゆく。また怪我や病気をしたときは相互扶助が受けられる。という明るい側面を笑劇風に演じたものだが、怖い坂を見た見学者は、「ふたつよいこと、さてないものよ」、新参のお調子者の行く末にはどんなしたたかな闇が潜んでいるかと、つい窺ってしまうのである。

維新を機に導入された西洋の鉱山技術が、幕末には低迷していた、あるいは休山状態にあった鉱山の息を吹き返させた例も少なくない。足尾はその代表的なシンボルであろう。
栃木県の足尾は16世紀中頃に採掘が始まり、公儀御用銅山となった。1684年に銅産1500トンを上げたが、坑道が深くなるにつれて湧水に悩まされ、急速に産量を落とした。余談だが 18世紀中頃、足尾山元に銭座が設けられ、16万貫弱の鋳銭が行われた時期があった。銭貨の裏には足尾を示す「足」の字が鋳されて(足字銭)、これが「おあし」の語源になったという説もあるが、いささか牽強付会気味である。
鉱山の運営形態は時期により変化したが、1815年、山師1名の幕府御手山(おてやま)稼ぎになった後、1844年に廃されて休山状態に入った。維新を機に政府が接収、県管理の銅山としたが振るわなかった。1872年、政府に資金援助が要請されたのを潮時に払い下げられ、民営化に向かった。

1877年、古河市兵衛が鉱山を(48,380円−現在の5〜10億円くらいで)買収した。近代的手法による再建を試みたものの、当座はまるで成果が上がらなかった。しかし古河は諦めず、背水の陣で鉱脈を探し続けて、1881年(明治14年)、ついに鷹之巣坑に神保の直利(なおり:富鉱脈)をとらえた。以降銅山は再興に向かう。
1884年には(古い坑道を再開していた)本口坑に横間歩大直利(よこまぶおおなおり)が見つかり、月産が前年の年産を上回る。この年足尾は別子を抜いて産銅日本一の座についた(2,286トン、翌年は4,090トン)。一連の直利発見はある種の畏敬の念とともに伝説となった。古河は銅山王と呼ばれた。

引き続き積極的な資本投下と設備改善が進められ、1890年には水力発電所が完成して、電気ポンプ、電気巻き揚げ機が導入された。鉱石運搬には電気鉄道、空中索道も取り入れられた。
製錬技術としては1893年、日本で初めてベッセマー式転炉による
錬銅法の実用化に成功し、精銅の生産性が大きく改善された(32日かかっていた製錬日数は 2日に短縮された)。

最新の鉱山技術が集成された足尾へ、全国の鉱山関係者が視察にやってくるようになった。また一般の見学者も受け入れられた。明治中頃から大正にかけて、関東の中学校では、日光への修学旅行に組み合わせて東洋一の大銅山を見学するのが定番のひとつとなっていたという。
一方では排煙や排水による環境被害が次第に社会問題として意識されるようになっていた。また待遇改善を求める労働者の憤懣は、 1907年にダイナマイトを使った大暴動となって世間の耳目を集めた。大得意の最中にもっとも醜い面が鮮烈に示される。光と影が分かちがたく絡りあう鉱山のイメージが、ここにも現れている。
ちょうどそんな時期に−1908年(明治41年)1月から4月にかけて、足尾銅山を材に採った小説が朝日新聞に連載された。夏目漱石の「坑夫」である。
地下深くまで延びた坑道を下ってゆく青年の物語は、日本において近代化された鉱山が興隆し、同時にその暗部をも見せ始めた時代にあって、またいわゆる(これも西洋から入ってきた)近代的自我がインテリの間に萌芽しかけた時代にあってこそ、成立しえた作品と思われる。
ふわふわした頭でっかちの家出した青年遊民は、自分はどう生きるべきかを、鉱山への旅、そして坑道の奥底への下降を通して、益体もなく、脈絡もなく、堂々巡りに考える。

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補記1:ちなみに日本に宗教的な「宝珠」の観念はあったが、西洋流の経済的ステータスとしての「宝石」は明治以前にはほとんど認められず、自前の宝石鉱山もないに等しかった。ヒスイ文化は奈良期を境に途絶した。

補記2:森の小人。岩波文庫「グリム童話」(金田鬼一訳)に収録された白雪姫(KHM 53)では、小人は「一寸ぼうし」と訳され「ツウェルク」と注がある。
注釈に、ツウェルクはゲルマン神話では大地の霊で、地中に作用する諸力が人格化されたもの、その仕事は山や山の大地の中で金銀鉄鉱その他地下の財宝を掘り取って、希代の武器を鍛えたりすること、とある。
ツウェルクは3歳で成人し、7歳で老人になるが、その後、正直で質素な食を好む彼らはいつまでも長生きすること、ツウェルクは男ばかりでおばあさんのツウェルクはいないこと、頭でっかち、肌は黒かねずみ色、長いヒゲにガチョウ足か山羊足、身の丈は大きくて約1m、人間の4歳児くらいの丈の者もいるが、一番小さいのは親指くらいの大きさで木の葉の舟に乗る、はにかみ屋だが気立てのいい人間とは仲良くなる。人には姿が見えないことがあるが、それはかぶっている赤ずきんや、ねずみ色の上着、猩々緋の外套などが、かくれ笠やかくれ蓑の魔力をもっているから、などのコメントが付されている。
cf. ドワーフ小人と鉱山師

補記3:排水用蒸気機関。1698年にイギリスで特許が認められたトーマス・セイヴァリの「鉱山の友」は、この種の蒸気機関の最初のもので、次いで1712年にトーマス・ニューコメンがやはり湧水排出用蒸気機関を製作した。ニューコメンの装置を改良して熱効率を上げ、強力な動力機関に仕上げたのがジェームス・ワットである。彼の最初の業務用機関は1776年に完成した。早速コーンウォールの鉱山から揚水装置の注文が入り、ワットは組立てに大忙しとなった。

補記4:黒鉱(くろこう/くろもの)。日本海側の鉱山で採集される外観の黒い鉱石。閃亜鉛鉱、方鉛鉱、黄銅鉱などの混合物で、その周辺(の土鉱)に金や銀が濃集して産する。黒鉱にも貴金属が含まれるが、抽出は難しかった。

補記5:小坂の露天掘りは1908年から1920年にかけて行われ、盛時は 15段以上の階段を有し、約3,000人が働いた。採掘跡は東西300m、南北750mの巨大な窪地をなし、深さは150mある。 

補記6:明治時代、銅は貴重な外貨獲得資源で、精錬された銅は大半が海外に輸出された。銅山の盛衰は国家の一大事でもあった。

補記7:フランスのビクトル・ユゴーは「レ・ミゼラブル」(1862年)に、ジャン・バルジャンのパリ地下下水道の彷徨を象徴的に描いた。それは地獄への下降であり、聖書における怪物に飲まれたヨブの体験であり、冥界からの生還・再誕生であった。ジャンは崩壊した下水道が造った流砂泥に捉えられて死地に踏み込み、瀬戸際で生の世界に戻ってきた。それは漱石の「坑夫」の体験にも呼応する。

参考文献:井上真治「足尾銅山の絵葉書」(別刷合本: 2004年)


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