ひま話 イギリス紅茶のゴールデン・ルール  (2025.8.13)


何かを好きな人なら、それに関する一家言を持っている。紅茶好きの人は誰しも自分なりの淹れ方がある。なくて七癖というが、「んなもんテキトーだよ」という人でも、なにかしら自分のゴールデン・ルールを守っている。普段ティーバッグでちゃちゃっと飲む人も、ときどきポットに茶葉を入れて作る時はいわゆるお仕着せのゴールデン・ルールが板付カマボコで、その上に自分なりのお点前があったりする。そうして各人それぞれ自分の淹れる紅茶が一番おいしいと信じているのがよい社会である。

本腰を入れるとき、手ほどきが欲しい、社会的規範を知りたい、と思うのは良識人で、特に日本には良識人が多いが、そんな時顔色を窺うのは我々が本場と目するイギリスの流儀である。イギリス人は 17世紀の中頃から茶文化に接して、リッチな東洋への憧れとともに大枚はたいて日本や中国産の高級緑茶を喫した。17世紀末頃には中国との直接貿易に力を入れるようになり、アモイ港から積み出される福建省崇安県武夷山(ウーイーシャン)産の発酵茶に開眼する。つまり、「ウチら緑茶よりこっちの方が好き」と思うようになった。
当時(明代末-清代初)の中国人が飲むお茶は概ね緑茶だったが、福建省では 17世紀頃から青茶、すなわち半発酵の烏龍茶も作られるようになっていた。これは安定した品質を得るに比較的高度な製茶技術を要し、初めは偶然の事故的産物だったにしても、西洋人の嗜好に応じて工夫されていったものとみられる。
そして武夷山の標高 1,000m 近い山岳地にある緑茶の産地、桐木(トンムー)村では 17世紀半ばに比較的製茶の容易な全発酵茶が生まれた。武夷山に自生する茶葉には本来の特徴として果実の龍眼に似た香りが具わる。茶葉を乾燥させる工程で燃料に松を用いたが、生乾きでも構わず使ったので煙が屋内に周り、燻された匂いが加わって期せずして独特の薫香を帯びた。正山小種(チェンシャンシャオチョン)といい、その名の通り産量は少ない。正山は武夷山の意。

エキゾチックな喫茶文化は上流階級のステータスめいて、贅沢品ながら次第に需要が増えていく。北国に住む彼等には半発酵茶(烏龍茶)や発酵茶(紅茶)のコクが口に合い、1730年代以降は無発酵の緑茶より輸入量が上回った。総輸入量は年400-500トンほどだった。その多くはボヘア(武夷岩茶:半発酵の烏龍茶)と称して流通したが、武夷山(ボーヒー)産だけではまかなえず、周辺の外山で採れた茶葉も集合して出荷した。
当時の金満家の家では鍵付のキャディ・ボックスに緑茶と発酵茶を分けて保管してあり、両者を混合してハウス・ブレンドを作った。淹れ方は銀器に茶葉と水を入れ火にかけて煮出すオランダ流と、アジアン風に小さなポットに茶葉を入れ熱湯をかけて抽出を待つ手法とがあった。後者は湯を注ぎ足して二煎、三煎するのが当たり前、高尚なアジアの味あいを吞み尽くすように味わった。ポットから注ぐ碗もアジアンで取っ手(耳)がなく、熱いので受け皿に移して飲んだ。その時、ズズッと音を立てて啜るのが、日本の点茶の「吸い切り」作法を取り入れたか、正しいマナーなのだった。こうすると熱い茶は空気を取り込んで適温となり、かつ芳香がよく感じられるのである。紅茶商が茶葉の出来をテイスティングするときは、今も啜って吟味するのが倣いある手筋。そう言えば、日本酒の利き酒もそうか。但しこちらは常温でするもの。

初代トーマス・トワイニング(1675-1741)がロンドンのストランドに「トムのコーヒーハウス」を開いたのは 1706年だった。1717年には紅茶専門の「ゴールデンライオン」を開いて、こちらは女性客も歓迎した。上流・中流階級を主体に 1729年には 900人、50年代には 1,500人の顧客を抱えるまでに取引を拡げ、主にコーヒーと茶を扱った。顧客の1割ほどが貴族だった。
50年代頃の茶の輸入量は年1,000トン。一般庶民の間にも喫茶文化が広がり始めていたが、エールやビールのような国民的飲料よりはまだ高価だった。1780年代後半になると年4,500トンを超え、値段も穀物不足で高騰した酒類を下回って、大衆飲料として不動の座を築く。でろでろの酩酊を誘う飲酒よりずっと健康的な習慣として労働者の喫茶が勧奨された。東海岸植民地でかのボストン茶会事件が起こったのは 1773年、アメリカでも人々の生活を彩る大切な文化飲料となっていたことが分かる。

旺盛な需要を背景に貿易会社や茶商は莫大な利潤を上げたが、一方で中国への支払いに必要な銀の調達は頭の痛い国家的問題となっていた。中国側ではイギリスから買いたいものが特になかったのだ。1773年にアヘンの専売権を得たイギリス東インド会社は、対応策としてインドのベンガル地方で栽培・製造したアヘンを持ち込んだ。すると清朝中国内でアヘン喫煙の風習が急速に広まったので、アヘンを対価に紅茶を購えるようになった。1827年以降は逆に中国が銀の流失問題を抱えた。アヘン貿易はほどなく英中間に戦争を引き起こし、その帰結は中国貿易の自由競争に繋がった。

◆このようにイギリス人は憧れの東洋の神秘的な効用を謳われる本草を喫する習慣を文化として取り入れたが、味覚の嗜好は必ずしも適合せず、コクのある風味の濃い発酵茶を好んだ。製造者側も顧客の意中を汲んで販売促進を図り、国内消費用とは異なる輸出用の茶葉が製造されていった。ただ緑茶は(好みに合わなくても)健康によいと信じられ続けたので、なにがしかを紅茶に混ぜる習慣が長く残った。

前述の正山小種は希少品でイギリス人も珍重したが、必ずしも茶葉本来の繊細な風味を佳しとしたのでなく、かえって松葉の燻し香を特徴と捉えて、より香りの強いものを上品とみなして求めたらしい。製造者はいったん乾燥した茶葉を湿らせて再び燻すなどして故意に香りづけを重ねるようになったというお話がある。
イギリス訛りでラプサンスーチョンと呼ばれるこの紅茶は、現在では強烈な香りを賦与したものが大半で、日本では「正露丸の匂い」「薬臭い」と判断されて不評をかこつ。しかし伝統を重んじるイギリスでは最も由緒正しい紅茶とみなされ、格式高い茶会で供される。スモークド・サーモンやチェダー・チーズのようなクセのあるツマミを合わせるのが正調、これまた文化であろう。茶にミルクや砂糖を加える作法も文化。昨今は日本でも抹茶ミルクなる甘味飲料がブームである。 ※補記1

チャールズ・グレイ(二代目グレイ伯爵: 1764-1845)という政治家貴族は愛茶家として知られた。1806年当時ハウィック子爵を名乗っていた彼は海軍大臣を務めており、中国派遣の使節団から武夷山産の正山小種を受け取った。その味わいが気に入ったので、出入りの茶商に同じものがもっと欲しいと注文した。茶商は在庫を持たず、またどういう伝手で入手出来るかも分からなかったらしい。代わりにその頃シチリア島で栽培されて菓子類の風味付けに使われていたベルガモットでオイル着香した(正山小種でない)茶葉でお茶を濁したところ、「これはこれで気に入った」と嘉納された。後に「アール・グレイ」と呼ばれて定番化した銘柄の始まりと伝わる。
やがてさまざまな茶商が芳しいべルガモット香の紅茶を同名で商品化するが、たいていは香の薄い無難な茶葉をベースに用いている。独りフォートナム&メイソン社だけが、個性的な「ラプサンスーチョン」にさらにベルガモット香を加えた最強アレンジを提供する。元祖アールグレイ茶を納品した茶商は不明だが、ジャクソン社とトワイニング社とが、我社のご先祖様が…とそれぞれ名乗りを上げている。

ちなみに正山小種が本来持つと言われる龍眼(ロンガン)の香りは、龍眼とよく似た果物ライチ(茘枝)に通じる。市場にはライチの果汁で香りづけした紅茶がある。ライチはかの楊貴妃お好みの果実で…と常套の謳い文句が続いて人気商品のようだ。ネット上には 1960年代に安徽省の茶商が開発したという情報や、広東省発祥(1950年代に生産が始まった同省産の英徳紅茶がベース)という情報などがある。

中国茶続きで書くと、発酵茶の需要を受けて、中国は18-19世紀にかけて烏龍茶や紅茶の増産に励んだ。福建省以外でも発酵技術を導入して生産した。中国人は日本人と同様、儲け口の匂いに敏感で、売れるとなると熱心に技術を習得して短期間で自家薬籠中にしてゆく気質がある。紅茶の三大銘柄に数えられるキーマン茶は安徽省の祁門(チーメン)産で 1875年から紅茶を作り始めた。当時、正山小種の需要が増え価格が高騰したことから、安価な緑茶を作っていた祁門県でも正山小種の工夫(コンフー)を取り入れ、「萎凋⇒微発酵⇒100℃以下の温度での長時間の炭焙(ベイキング)」を行って製茶したものという。炭焙の過程で茶の成分に化学変化が生じ、果実や濃厚な花の香り、蜜を連想させる香りをまとう。キーマン茶の特徴にしばしばスモーキーという言葉が使われる。イギリス人にはやはりその燻り香がエキゾチックなオリエンタル・テイストに受け取られるのだろうか。糖蜜、蘭香、バラ香という描写もなされる。炭焙の詳細な方法は各茶家の工夫で門外不出といい、空想的な東洋の神秘を守っている。
今日なおキーマン紅茶の90%以上は輸出用で、国内ではほとんど飲まれないらしい。キーマン茶はミルクティーに合う。最近の中国は台湾からのタピオカミルクティー上陸を機に、雲南茶のミルクティー等も若者の間で流行っているそうだから、そのうちキーマン紅茶も国内消費が増えていくかもしれない。

◆ 1823年、あるイギリス軍人がインドのアッサム地方に自生の茶の木があることを知った。地元民の族長に教えられたのだ。その弟アレキサンダー・ブルースは兄から苗木を受け取り、同じ地方での栽培を試みた。彼自身も自生する茶の木をサディア地方に見つけて、同様に栽培を試みていくつかの土地で成功を収めた。
折しもイギリスと中国との関係はアヘンを巡って決して良好でなく、茶の安定供給が危ぶまれていた。ロンドンでは茶葉委員会が設立されて、インドで茶葉を栽培する計画を熱心に議論した。委員会は調査員を中国福建省に派遣して、中国産の苗木を手に入れ、アッサムの北部やインド南部のニルギリ等に植えてみたが、どこにも根付かなかった。ただ寒冷なダージリン地方は例外で、ここでだけ中国種は生き延びて栽培され続けることになった。1836年頃のことだ。
一方、ブルースは 1837年にアッサム産種から緑茶の製造に漕ぎつけている。翌年には紅茶を作ってロンドンに送り出し、高額で落札された。

その後も曲折を経たが、紅茶はイギリス人の監督下でインドでも生産可能であることが実証され、19世紀のうちにインド産が紅茶の代名詞となった。中国産は高級茶として残ったが、安価なアッサム茶は庶民の味方で、かつ製法の工夫もあってイギリス人好みの、味も香りも濃厚な紅茶に仕上がったのだ。中国茶では一般的な仕上げ段階の釜炒り -渋みを抑え、仄かな花の香りを与える- を省略して、「濃ゆい」味わいを残した。20世紀前半には CTC製法が採用されて、抽出はより早く、茶の色はいよいよ濃く、より安価な三拍子そろったミルクティー向きの銘柄として確立した。今日インドは世界最大の紅茶生産国で、国内にも大きな市場を抱える。インド人の喫茶の習慣は、イギリス植民地時代からの伝統を継いだものだ。 ニルギリ地方でもアッサム種が栽培されている。

アッサム茶の成功に次いで、インド半島の南のセイロン島でも栽培が始まった。この島は 19世紀半ばにはコーヒーのプランテーション栽培地として知られたが、1865年頃からコーヒーの木に伝染病が広がり、数年で島の木が全滅してしまった。後釜としてアッサム種の茶葉が導入され、イギリス人労働者ジェームズ・テーラー(1835-1892)の献身的な尽力によって素晴らしい仕上がりの紅茶が生産されるようになったのだ。

一代で紅茶王と呼ばれる地位を築いた茶商トーマス・リプトン(1848-1931)が活躍したのはこの頃だ。一言で言えば彼には商才があった。アメリカで働いて商売の元手を稼ぐと 1871年に自分の食料品店を開業した。巧みな宣伝で顧客を増やし、支店を作っていった。1880年には 20店を数え、90年代にはイギリスの大都市を網羅するチェーン店を展開した。
1880年代はイギリスで喫茶の風習が特に盛んになった時期で、茶の卸商人たちはトーマスの店で茶を売らせようと働きかけた。ところが茶商たちが不当に高い利益をとっていることを知った彼は自ら茶の卸商を兼ねることにした。紅茶を扱い始めた翌 1890年にセイロン島に渡って土地を買い、茶園に投資した。ウバ山脈の南斜面の茶園では直接経営も行った。彼の製茶工場はどこよりも衛生的で良質の茶葉を低コストで作り出した。リプトン系列の茶園の茶葉はすべてコロンボに集められ、そこでお馴染みのパッケージに包装され、世界中へ送られた。「茶園から直接ティーポットへ」が合言葉だった。

トーマスは予め袋詰めにした茶葉を素早く受け渡して待たせない等、さまざまな工夫で顧客を惹きつけ、流通経路を省きつつ薄利多売で大衆向けの商売をした。彼の店は紅茶を他店のほぼ半値で扱いながら利益を出した。イギリスの地方毎に水質に合わせたブレンドも提供した。扱い量が増えると系列農園の茶葉ではまったく足らなくなり、コロンボやカルカッタ、ロンドンの市場で集めて自社ブランドで販売した。
おかげでそれまで茶を飲む習慣のなかった客層が開発され、イギリスの紅茶消費はうなぎ上りに増加した。1875年には1億4,400万ポンド(6.5万トン)だった総量は、1890年に 1億9,400万ポンド(8.8万トン)、1900年には 2億4,900万ポンド(11.3万トン)に達した。余談だがトーマスは生涯独身で、理由を問われると、「ウチの紅茶の薄利では妻を養うに足りないから」と答えたという。

こうして20世紀初のイギリスでは、紅茶と言えばインドやセイロン産を指すようになったのだ。
アッサム種の茶葉は 19世紀のうちにインドネシアにも移植されて、今日のジャワ茶に繋がっている。20世紀に入るとケニアなどアフリカのイギリス植民地でも移植・栽培が始まった。現在、国別の茶葉の生産量は本場の中国がダントツ一位にあるが、緑茶が過半を占める(緑茶の産量が急増している)。一方、世界市場では茶葉の7割が紅茶に加工されており(約370万トン)、生産量はインド、ケニア、スリランカ、インドネシアの順に多い。インドは国内消費も盛んなので、輸出はケニアやスリランカ産が太い。

ちなみに20世紀初には中国のキーマン茶、インド北東部のダージリン茶、スリランカのウバ茶が世界三大紅茶として高い評価を受けるようになった。こういうランキングは一度定まると実態に関わらず評価が独り歩きするもので、現在も同じ顔ぶれで宣伝されている。メジャーなケニア、アッサム、インドネシア産に比べると生産量の少ないマイナー品だが(その分付加価値があるとも言えるが)、それぞれ独特の味わいを持つのは本当である。気分を変えて普段とひと味違う紅茶が飲んでみたい時に手を出すといい。
一般にキーマン茶は中国種の優勢な栽培株の茶樹から作られる。ダージリン茶は特にクローナルと呼んで、中国種の中でも選抜されたハイブリッド株から作ることを優位点に謳っている。スリランカ産の茶はアッサム種がベースだが、高地で栽培される茶樹は寒冷な気候に強い中国種の遺伝子を取り入れており、今日のウバ地方の茶もその類だ。してみると、いずれも中国種が関わっているのが、エキゾチックな紅茶文化の系譜を留めた好みといえるか。

キーマン茶の特徴は上述の通りで、蘭や蜜の香り、スモーキーな香り。
ダージリン茶は「マスカテル」とレッテルされ、これはマスカット種のぶどうで作られたフルーティーな香りのモスカテル・ワインと同様ある種のボディ感のあるもの、またマスカットに似た果実の匂いを持つもの、と宣伝されている。5-6月のセカンド・フラッシュ(2番摘み)にこのタイプが現れる。
ウバ茶は 7-8月(9月)に採集される茶葉に顕著なメントール(サリチル酸メチル)臭が具わり、収斂味(パンジェンシー)が強い。いうなれば、いずれも香りに特徴がある。というか、「普通の紅茶」はこれらのとんがった匂い/渋みを持たない普通に芳しい(紅茶らしい)香りと豊潤なコクのある味わいということになろう。

伝統のラプサンスーチョンが三大銘茶から外れているのが面白いところで、どうやらこの茶葉はとんがりが過ぎて、一握りのイギリス上流階層ご用達としてマイナーな上にもマイナーな通好みの地位を保っているらしい。
ついでに言うと、特徴として「スモーキー」を謳う茶葉は他にもいろいろあり(例えばダージリン茶の4番摘み(オータムナル)、スリランカのルフナ茶、茶商各社のオリジナル看板ブレンド)、高級志向品はえてしてスモーキー・フレーバーがなければ大きな顔が出来ないらしい。

◆以上、初めは東洋への憧れから始まった喫茶の試みは、20世紀までにすっかりイギリス文化に変容して、日々の生活のうちに息づくようになった。その茶は東洋人の好みから離れて彼ら自身の意に適うテイストを持つ紅茶へと変化していった。上流から一般大衆(労働者)まで誰もが茶を嗜む国になり、自国の植民地/連邦圏内で生産し、自国の文化圏内で消費した。
彼らは紅茶の淹れ方に通暁して(なにしろ一年365日、一日何杯も飲み続けたのだ)、各々がゴールデン・ルールを見い出した、と思しい。我々日本人のある世代が、呼吸をするように美味しいお茶を淹れることが出来、湯呑みで何杯でも啜り、茶受けをポリポリいただいてきたのと相同であろう。
そしてまた、それぞれの属するコミュニティの文化風習に応じた望ましい喫茶作法が生まれた。しかしその作法は時代環境の変化と共に、やはり移り変わり続けている、と思しい。※補記2

20世紀の初め、欧州は第一次世界大戦を経験して魂の底から震撼した(ようだ)。そして二度と過ちを繰り返すまいと誓ったが、ほどなく二次大戦が起こり、戦禍はさらに拡大した。その間に古い文化は崩壊して、戦後はもう同じに戻らなかった(と彼等はいう)。とはいえ別の見方をすれば変化は時代の要請であり、新しいライフ・スタイルの創造であった。 ※補記3

イギリス内地では 1940年から紅茶の配給制が始まって戦後 1952年まで続いたが、一方戦時下の軍隊では紅茶は兵士の士気に関わる重要な戦略物資扱いであった。「兵士にとっては弾薬より紅茶の方が大事だ」と言ったのはチャーチルで、戦地への紅茶とビスケットの補給が欠かせなかった。兵士らは戦闘の合間に、沸騰殺菌した湯で抽出した、砂糖をたっぷり入れた甘々の熱い紅茶でカロリーを補給した。大戦末期の陸軍戦車には湯沸かし器が装備された。戦車を離れて焚火で湯を沸かす間に攻撃される悲劇を繰り返さないためだった。「お茶の時間は戦闘休止が紳士の嗜み」、なんと言っても始まらなかったのだ。
内地でも紅茶は心の支えで、炊き出しに欠かせない救援物資だった。空襲火災の消火作業の傍ら、湯を沸し紅茶を振る舞い、体を暖めたという。
米人の茶史研究家ユーカースは「イギリス人は、幸せになりたいなら、飲みたい時にいつでも紅茶、しかもおいしい紅茶を飲むにちがいない。」と書いたが(1936年)、確かにそういうところがあったに違いない。

当時のイギリスの紅茶消費量を覗うと、一次大戦の開戦時に 6万トン(1914)、終戦時に 4万トンまで減って、二次大戦前に 10万トン(1939)に回復、終戦時は 5万トン(1945)に減少、1950年に 9万トンに回復というデータがある。
一人あたりの消費に換算して長期的に見ると、インド産の紅茶が普及し始めた 1850年頃が約 0.9kg、1880年代に 2.2kg、1900年 2.7kg、1930年 4.5kg と急速に増え、1961年頃にピークを迎えてその後は漸減傾向に転じる。戦時の配給は成人一人に週 2オンス(3kg/年)だったから、少ないと言えば少ないが、欠乏していたと言えるのだろうか。

今日のイギリスの国内消費量は約 11万トン/年(2020)、一人あたり約 1.7kg だ。数値は減少傾向で、総消費量のピークは 1980年代の 18万トン/年(3.2kg/人)あたりといわれる。ちょうど戦時の配給量くらいである。(成人の配給量と、全人口[紅茶党でない人含む]で割った平均値を一概に比較すべきでないかもしれないが。)(タイム・ライフ・ブックス「イギリス料理」(1972)は 20万トンと書いている。3.5kg/人。)
消費減少の背景にはライフスタイルの変化(昔のように朝から晩までお茶の時間を設けない)、コーヒーやハーブティー、その他ノン・ミルク、ノン・シュガーの低カロリー飲料へのシフトが挙げられる。

イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは二次大戦が終わった翌 1946年1月、夕刊紙に「一杯の素敵な紅茶」という記事を寄せた。茶葉の配給制時代にどうやって美味しい紅茶を淹れるかを論じた、読者の心を暖める話題だ。
彼のゴールデン・ルールはおそらく庶民的な作法で、茶葉はインドかセイロン産でポットを遣って淹れ、冷めないように円筒形のマグカップに入れて飲む。
広口薄手の磁器のカップより無骨なマグカップを好む志向は戦後の人心にマッチしたらしく、今日では階級を問わずマイ・マグで飲むのが普段遣いのスタンダードとなっているそうだ。
茶葉については配給制が終わった 1953年にアメリカ式のティーバッグが入ってきた。60年頃の普及率は 3%程度だったが 70年代に広く受容され、今日では 96%とも 98%とも言われる。仮にティーバッグ1袋(1杯分)の茶葉を 2g -2.2gとすると、年間 1.7kgの茶葉は 770-850杯の紅茶になる。一日平均 2.2杯飲んでいる計算だ(ん? 少ない?)。
ティーバッグの普及率を97%とすると、ルースリーフタイプの茶葉の平均使用量は年 51g、24-25杯分に過ぎない(月 2杯)。それでは日本人の私が、茶葉で淹れて飲む量よりめっきり少ないではないか、と思う。

ポットを使うかどうかは統計データに当たっていないが、マグカップ+ティーバッグの組み合わせだと、普通はポットを使わず、そのままマグカップで抽出するのが成り行きと考えられる。(もちろんカップは予め温めておき、沸騰するヤカンのそばへ持っていって湯を注ぐであろう。抽出中はカップにフタをするであろう。)

オーウェル生誕100年の2003年、王立化学会のニュースレターに「完璧な一杯の紅茶の作り方」というオマージュ記事が乗せられた。誰に向けて書いた記事なのかはっきりしないが、少なくとも研究者仲間の会員たちは面白がって読んだだろう。茶葉はインド産(アッサム)のルースリーフで、ポットを遣って淹れ、円筒形のマグカップに注いで飲む、というあたりはオーウェルをリスペクトしている。但し、時代はすでにティーバッグ全盛で、抽出にポットを使わないのが日常であろうから、このレシピはすでにイギリス人にとっての非日常体験であろう。さればこそ、わざわざ雨に打たれて凍えながら、熱いお茶をありがたくいただくわけだ。

ところでエキゾチックな金満イギリス(西洋)文化に憧れた、日昇るアジアの島国に住む私たちがお手本にしたいのは、現代イギリス流の作法ではもちろんない。
良識ある日本人にとってイギリス紅茶と云えば、当然あの優雅な午後のお茶会、古き良き時代、ビクトリア朝期から20世紀戦前にかけての、アフタヌーンティーの世界観に連なっているべきものだからだ。
「ばあや クイーンメリーをおねがいね」、のお姫さま世界である。

(たぶん続く)

cf. 「思い出のマーニー」とクイーンメリー紅茶

補記1:武夷山は茶の発祥の地とされ、また初めて紅茶が作られたとされる地でもある。近年、桐木では松の燻し香をつけない紅茶の製造も始め、2005年に無煙正山小種として市場に出し、大評判をとった。

中国の茶ポットは抽出中に茶の香りを吸うので、一つの茶種を使ったポットはその後もその茶葉専用に用いる(茶種ごとに沢山ポットを持つ)。繰り返して使っているうちにポットもいい具合に馴れて、より香りのよい茶が出るようになると言われている。波津「雨柳堂夢咄」にポットの精が出てきて、武夷山産以外の茶葉を入れると拗ねるのは、武夷山産の茶葉が良品とみなされることもあるが、その上にこうした背景がある。

補記2:「この午後のお茶という宴楽 −と呼んでもほとんど差支えないだろう −の慣例ほど、イギリス人の家庭趣味を顕著にあらわしているものはない。賤が伏屋にあっても、お茶の時間には何か神々しいものが感じられるであろう。なぜなら、それは家庭の仕事や煩労が終わったことを、そして安らかな団欒の夕べが始まったことを、しるしづけるものであるから。茶碗と台皿とがカチリと触れあう音ばかりで、心はめぐまれた安息へと整調されていく…」(ヘンリー・ライクロフトの私記 1903)

「今世紀(※20世紀)に入ってから、イギリスでは大人はもちろんのこと、子供でも味のいい紅茶のいれ方についていっぱしの知識をもつようになった。彼らは世界中のどこの国よりも、紅茶のいれ方や飲み方について、すぐれた心得があると自信をもっていて、それを芸術だと思っている。」「イギリス人にとって、茶のいれ方は日本の茶道のように『儀式』だといわれていて、まず最初にティー・ポットは三時間以前によく洗って乾かしておき、それに湯を注いで温める。茶の葉は冷たい陶器になじまないからである。茶葉は注意深くスプーンで計らねばならない。一人につきスプーンに一杯と、さらにティー・ポットのために一杯を加える。ヤカンの湯は沸騰させ、ティー・ポットをヤカンのところにもってゆく。」…「湯が沸騰していないと(すこしでも温度が下がると)茶は完全に駄目になる。そして茶を軽くゆすぶり、ティー・ポットのフタをしてティー・コージーで一分ないし二分そのままにしておく。」(アンソニー・グリーン「イギリス人の肖像」 ※戦後のエッセイ)(※1,2分で抽出出来るということは CTC製法の茶葉なのだろう。)
春山行夫は上記を引いて、「これは戦前に読んだお茶のいれ方と全く変わっていない(日本の茶道の作法が昔と変わっていないのと同じである)。」と述べた。
ところが今や、ティーバッグとマグカップでちゃちゃっと飲むのが、普段の作法になっているらしい。

補記3:戦時に失われた文化の例。
「トワイニングの社史によると、紅茶を混合するのは、最初は同一種類の茶の数個の茶箱の茶を混合して、同一品種の茶を客に供給することがはじまりで、オールド・ファッションの小売店では、客のみている前で混合し、客が満足する味になるまでそれをつづけ、それを売っていたし、客のなかにはオリジナルな茶箱から茶を買い、それを自分で混合する者もいた。高級な茶商では、支配人が個々の客の好みを記録して保存し、いつでもその好みに応じていたというが、そのような習慣は、1930年代に終わったと述べている。」(春山行夫「紅茶の文化誌」)

補記4:坂田靖子の「東は東」(「月と博士」所収)に次の文句がある。
「どんな国に来ても我々イギリス人はネクタイと紅茶を忘れない」…「ここでお茶会が始まるのが東洋人にはいまひとつ理解できないのであった!」

理解は出来なくても、こういうのが昭和世代の日本人がイギリス人(紳士)について抱くイメージといえる。


このページ終わり [ホームへ]