錬金術師のボローニャ石 −ひま話(2002.2.24)より


ちょいとプライベートな話題から。このサイトの中に「蛍光する石たち」というコーナーがあり、蛍光(燐光)鉱物の紹介文や蛍光標本の画像をおいてあります。たまさか頂戴するメールから判断すると、わりと気に入って戴いてるのではないかと思います。ここはある明け方にひょっと思いついて、がーっと作ったページで、以来あまり更新していません。理由は簡単、蛍光している標本をデジカメに撮るのがとても難しいからです。よほど強い蛍光を発する鉱物でないと、シャッターを押しても何も映りませんし、写ってもピンぼけになってしまうのです(あるいは全然違う色になっているか)。フランクリン鉱山の各種鉱物や喜和田のマラヤ石など、撮っておきたい標本がいくつかありますが、そんなわけで、いつお見せできるやら見当がつきません。(⇒鉱物の蛍光写真撮影について 2011.8.24

それはともかく、鉱物好きの方なら、誰もが一度は蛍光鉱物に目を(魂を)奪われた経験があるでしょう。暗闇に光る石は人を不思議の世界へ誘ないます。私自身、ミネラライト(紫外線ランプ)を買って初めて標本を蛍光させた時の感動は忘れられません。禁断のめくるめく世界が、突如神秘のベールを脱いで顕われたかのような、驚くべき啓示でした。

蛍光鉱物の素敵な点のひとつは、昼光下で見たときとはまったく違った様相を示すところです。思いもかけない(地味な)標本が、思いもよらない鮮烈な蛍光を放ちます。
一番印象的だったのは、神子畑(みこはた)の土手で拾った丸い石でした(明延鉱山から出た鉱石の残廃です)。表面が真っ黒に汚れており、なんでこんなもの持ち帰ったかと我ながら首をひねっていたものです。もちろんランプを当てても何の変化もありませんでした。ところがある日これを割ってみようという気になり、さらにしばらくして、ふとライトを向けたときに奇跡が起こりました。今まで光らなかったこの石の、半透明の白い破面が実に強烈な青い蛍光を放つではありませんか。
そうか、君はそういう石だったのか!
あまりの意外さに、いまでは私の宝物になっています。


1800年代の半ば、ジョージ・ストークス卿という人が、分光(スペクトル)を観察しようとして、蛍石で作ったプリズムを暗い部屋の中に置きました。そして小さな窓の隙間から一条の光線を導いたところ、太陽光に含まれる紫外線が蛍石を青く光らせることに気づきました。卿はこの現象をフルオライト(蛍石)に因んで、フルオルセンス(蛍光)と名づけました。実はそれ以前にも蛍光する鉱物が知られていたのですが、科学は先に言い出したものの勝ちです。卿のおかげで蛍石は最も有名な蛍光鉱物となりました。このとき実験に使われたのはイギリス北西部、アルストン・ムーア産の石でした。余談ですが、ここの亜鉛鉱山から出る蛍石は、付近の道路の敷石に使われており、雨が降った直後に通ると、太陽光で美しく輝いてみえるそうです。

フルオライト(蛍石)という言葉はフルオールから出て、フルオールはラテン語の「流れる」(fluere)が語原になっています。製鉄の際、原料の鉄鉱石と一緒に蛍石を混ぜておくと、鉱石だけを熱したときよりも低い温度で鉄が溶け出し、かつ溶銑の流動性がよくなって、鉄と不純物(スラグ)との分離が容易になります(鉄の純度が上がる)。以前にはフルオールは製鉄の溶剤(フラックス)に使う鉱物全般を指していました。1771年にフッ化水素酸が発見されると、以後フッ素を含む鉱石だけを呼ぶようになり、さらに降ってその代表格である蛍石を指すようになりました。
一方、和名の蛍石は中国起源の言葉で、「暗処で熱すると燐光を発する」(「字源」)ことに因みます。和田博士の「金石学必携」には、「和漢これを蛍石と唱するものは、その火中に投ずれば、黄青の燐光ありて飛揚し、真に蛍の如し。故に以って名とす」とあります。
ついでに備中三子岩久の水中に産する蛍石は青紫石と称して、火中に入れると青く光ると石亭の「奇石産志」にあるとか。


ヨーロッパで初めて発光(燐光)現象(ルミネッセンス)が記録された石は、イタリアのボローニャ市から3マイルほど郊外にあるパデルノ山で採集されたボローニャ石です。17世紀初めのことでした。

17世紀といえば錬金術が最高潮に達した時代ですが、ボローニャ石もまた、始まりは錬金術でした。この石を発見したのは、ヴィンセンツォ・カッシャローロ(ウィンケンティウス・カスキオロルス)というボローニャ生まれの貧しい靴職人でした。彼はもうせんから靴作りに見切りをつけ、錬金術、すなわち卑金属を金に変える最新の科学に興味を抱いていました。ある日パデルノ山で異常に重たい石を見つけた彼は、この石が太陽の金色の光を引きつけることから「太陽石」と名づけ、石を手に、当時その道にもっとも長けていると評判のスキピオーネ・べガテーロの門を叩きました。1602年だったと伝えられます。ベガテーロは、石の重さと硫黄を含むことから(硫黄は錬金術において、水銀とともに最も根源的な物質)、金を得るのに最適の石だと考えました。かくて魔法使いとその弟子は、懸命に四大の操作に明け暮れたのですが、煮ても焼いても炙っても蒸しても、これを金に変えることは出来ませんでした。しかし、実験を通じて二人は驚くべき現象を発見しました。石を炭と合わせて灼熱すると、暗所で赤い光を放つことを知ったのです。彼らは原石と加工したものとをボローニャ大学の数学教授、アントニオ・マギノ博士に贈りました。博士はこの不思議な光を放つ石を幾人かの知人に送りました。こうしてボローニャ石は広く世に知られることとなったのです。

「西洋事物起原」の著者ヨハン・ベックマンによれば、ボローニャ石は「板状または小さな塊で発見され、普通はほぼ円錐形で、濁った白色または半透明の水色。割れた面を見ると層状構造を持ち、別の方向からこれを見ると繊維状に見える」そうです。その重さを除けば、石膏質スパー(スパーとは、割れやすい、ガラス光沢の結晶状の鉱物の意味)、すなわち透明石膏(セレナイト)に非常によく似ていました。今ではボローニャ石はバリウムの硫酸塩、すなわち重晶石の一種であることがわかっていますが、発見当時バリウム元素はまだ知られていませんでした。
(今日、パデルノ山産の重晶石とされる標本の断面を見ると、柱状(縦に条線あり)結晶が中心核から放射状に広がって集合しており、その様子が太陽光の放射を連想させ、「太陽石」の名を得たと思われます。太陽のような黄色をしていたとも言われます。)

ボローニャ石は原石のままでは光らず、ある種の操作を加えて初めて光を放ちます。カッシャローロが調製法を隠したことは疑いありませんが、1622年にはすでにバレていたと見え、この年に書かれたフランスの物理学者ポティエ(ポテリウス)の本に、そのレシピが載っています。
ポティエのものよりベックマンのレシピの方が、より適切だと思うのでこちらを紹介しますが、「石を暗闇で光るようにするためには、とくに、重量のある薄片状の、純粋なものを選ぶ必要がある。石を赤熱した後に、搗き砕き、微粉末にして、トラガカントゴムの溶液でペースト状にしたものを小さなケーキに成形する。これを乾燥し、石炭の中でV焼し、冷却した後に、気密容器に入れて空気と湿気とを絶つ。これらのケーキの一つを、数分間光にさらしてから暗所に置くと、まるで燃えている石炭のように光る。この石は、まるで光を引きつけるか、あるいは光磁石であるかのようである。この発光力は、時間の経過とともに失われるが、加熱してから、その後再びV焼することにより回復する。」ということです。ポティエは、トラガカントゴムではなく、ただの水か卵白で練るとしています。

ボローニャ石の神秘的な輝きは、知識人たちを大いに引きつけ、発光の原因を巡ってさまざまな説が発表されました。かのガリレオ・ガリレイもその議論に加わっています。ボローニャ石は太陽の光や火を蓄積することが出来るというのが、当時の一般的な見解でした。スポンジが水を吸うように光を吸い、その後徐々に放出するというわけです。あるいは、この石の中で何らかの燃焼作用が起こっているとの説があり、磁石が鉄を引きつけるように光を引っ張るという説があり、V焼の結果、石が多孔質となって光を貯めておけるのだという説がありました。やがて、どんな色の光を当てても発光色は変わらないのだから、ただ光を貯めているわけではない、という一歩進んだ説が提出されました。こうした議論が長年にわたって繰り返され、私たちはより真実に近い科学的な知識を手に入れていったのです。

カッシャローロは、この石のパウダーを固めたケーキを売り出しましたが、以後ボローニャではこれをちょっと洒落た贈り物品として薦めていたそうです。例えば光る石の置き物をもらった子供たちは、夜枕もとで闇に輝く石を見てどれほど驚異の念に打たれたことでしょう。ボローニャ石は、Phosphorus(発光石・燐光石【注1】)とも呼ばれ、ベックマンの時代(18世紀の終り)にも売られていました。沢山の人がこの石を求め、その魔法に触れました。「ファウスト」の作者ギョエテもまた、1786年にパデルノ山を訪れて採集を試みたそうです。(付記3)

結果的にボローニャ石は、金に変わるべき「賢者の石」でなかったかもしれませんが、科学の発展に寄与した功績は測り知れないほど大きいものでした。
もっとも大切なことは、この光る石が人々の心を捉え、物質と化学の不思議に目覚めさせたことです。学校の実験室でボローニャ石の蛍光を見た生徒たちは、その魔術に夢中になり、鉱物や物質への愛と「センス・オブ・ワンダー」をしっかりと胸に抱き、科学への道を歩んでゆきました。その影響は、ひとり蛍光現象の解明に留まるものではなかったのです。
有名な心理学者ユング博士は、年を経て錬金術に近づいた人です。彼は、難解な原理と技法を記した錬金術の書物の中に、単なる物質の操作(卑金属を貴金属に変える)を超えた崇高な理念を読み取りました。ユングによれば、錬金術師たちは、実際に金を作り出そうとしていたばかりでなく、彼ら自身の魂をも金に変えようと努力していたのでした。彼らは物質の救済を説き、不完全な金属からより完全な金属への移行を試みます。そしてその過程を通じて、自らもまた死を潜り抜け、生まれ変わり、よりよき生に生きようとしたのでした。そうした観点から見るならば、ボローニャ石は、人々の魂に火を点し、よりよき知へと導いた、真の意味での「知を愛する者の石(Philosopher's Stone)」だったと言えるでしょう。

 

付記:蛍光現象についての説明は、「蛍光する石たち」⇒「蛍光とは」を参照。

付記2:大学組織が出現する以前のヨーロッパにおける学問は、主に教会によってなされた。それは聖職者を育てるための無料の教育だった。しかし中世以降都市が発達するにつれ、求められる知識をお金をとって伝授する「知の商人」、すなわち教師という職業が誕生し、教師と生徒の集まるところに学校が生まれた。ボローニャ大学は学生組合を主体として設立された学校で、ヨーロッパ中から優秀な法学生が集まった。14世紀には、中世医学史上に重要な地位を占め、その後のヨーロッパの大学の鑑となった。

付記31786年10月20日。
 「…この晴れた美しい一日を、私はまったく戸外で過ごした。山地に近づくと、私はまたしても岩石に心を引かれる。私には自分が、母なる大地に強く接触すればするほど、ますます新たに力づけられるアンテウスのような気がする。
私はパデルノまで馬で行った。いわゆるボローニャ重晶石がそこに発見される。人々はそれを用いて小さな菓子(おそらく「ケーキ=焼結物」の誤訳 -SPS)をこしらえているが、あらかじめ太陽にさらしておくと、焼けて石灰に変化するので、暗闇でも光を放つ。この土地ではそれを簡単に『燐 フォスフォリ』と呼んでいる。」
「それから私は、最近の豪雨に洗われて崩壊した山峡に下りていって、求める重晶石をそこここに発見して大いに喜んだ。多くは不完全な鶏卵状をなしており、ちょうど崩壊しつつある山の所所に露出していた。一部分はかなり純粋であり、一部分は粘土に包まれて、その中にひそんでいる。これが決して漂石でないことは一見して確信しうるのであるが、粘板岩の層と同時に出来たものか、あるいはこの層が膨張ないし崩壊するに際して初めて生じたものか、その点に関してはなお詳細な調査を必要とする。」 
「私はまたもや石を背負いこむことになってしまった。八分の一ツェントナーの重晶石を私は荷造りした。」(ゲーテ著 「イタリア紀行」(相良守峯訳 岩波文庫)より)

ちなみに、9月4日に旅に出たゲーテは、そのときは「こんどの旅行では石は一切集めないことに決心をした」のだが、そんな決心はすぐに忘れてしまった。

注1Phosphorusという言葉自体は、1669年、ドイツ・ハンブルクの医者(商人という説も)で、後に錬金術師となったヘニング・ブラント(Henning Brand)が、尿を蒸発させた残留物を空気遮断下で加熱して分離した物質、燐(白リン)につけた名前で、ギリシャ語の「光をもたらすもの」の意味です。彼の得た未知の物質も暗闇で光ったのです。⇒光をもたらすモノまたはリンの発見
なお古くフォスフォルス(光をもたらすもの)は、明けの明星を意味した。錬金術思想において神秘的な含みを持つ言葉でもある。

ゲーテの「ファウスト」に、ファウスト博士が死んでその魂が体から離れる場面で次の描写があります。「このファウストの足もとで、燐のようなものが光るかどうか、見はっていろ。それが霊魂だ、羽のはえたチョウチョの形をした霊魂だ」(高橋健二訳)
E.T.A.ホフマンの「黄金の壺」(1814)には、ひかりかがやく人物、青年フォスフォルスが出てきて、百合の花咲く谷間を訪れる。物語の終り近く、フォスフォルスは霊界の王にして、思考の(認識の)炎を灯すものであることが明らかにされる。言うまでもなく、フォスフォルスは「光をもたらすもの」。

注2:ダイヤモンドの燐光現象は、AD2〜3Cにはすでに知られており、「リティカ」はその知見を踏まえて書かれた、とクンツ博士は見ています。-The Curious Lore of Precious Stones /Dover P.163-


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