ひま話  光をもたらすモノ Phosphorus またはリンの発見 (2012.3.20)


★古来、金や銀が貴重視された文化的な背景には、ひとつに珍しさがあっただろうし、社会的に有力な他者が所有する物品への模倣的な興味もあっただろう。もしかしたら経済的・通貨的な価値を担ったことが最大の要素であったのかもしれない。が、その金属的な美的質感、すなわち光り輝くものとしての色と眩さが人々を無性に惹きつけたことこそ、その本質であったろうと私には思われる。
金属は光を宿すものであり、あるいは光を発するものであった。金は太陽の色と光を帯びた金属であると、銀は月の色と光を帯びた金属であるとみなされ、太陽や月のエッセンスが地上に凝ったものとする観念が世界のさまざまな文化圏に見られる。光を放つ日月星辰に対して自然な尊崇の念が抱かれたように、輝く金や銀は貴重な物質として大切に扱われた。それはある面では心理学的な(無意識的な)心象イメージのもたらす揺るぎない実感であったのかもしれない。

アラビア〜ヨーロッパ世界に、金属を主とするさまざまな物質を金や銀に変化させる学が研究されたとき、その方法はそれぞれの時代・学統の物質観に応じて差異があったにせよ原理は同じで、物質を構成する諸要素の比率を操作することによって目的が達成されるとする仮定に従っていた。
現代流にいえば、元素はそれぞれ固有の原子量(おおまかには陽子と中性子数の組み合わせ)と原子番号(陽子の数)とを持っており、原子番号を変化させることが出来れば元素の種類が変化する。そのように2つ、3つあるいは4つの本質的な構成要素の比率を変化させることによって、ある物質は別の物質に転換すると予想された。その考え方は間違っていなかったが、変化に必要なエネルギーを物質に与える方法が見出されるには20世紀を待たねばならなかった。
錬金術が隆盛であった頃、錬金術師は変化の原動力を炎の熱に頼った。後には放電火花や電気にその力があると考えられた。しかし残念ながら灼熱の劫火といえども物質(元素)を変換するには足りず、今日的な視点では錬金術師の試みは成功すべくもない徒労であった。彼らの直観的な思考に時代が追いついていなかったのである。
もっとも現代においても、例えば鉛を変化させて充分量の金塊を得ることは採算のとれる事業ではまったくない。そのような物質の変成は、金よりもはるかに高価な放射性元素(例えば放射性の中性子源であるカリフォルニウムなど)の製造に用いられるのが関の山である。ウラン238を核燃料プルトニウム239に換える高速増殖炉はまだ実用化されていない。(補記5)

★それはともかく、錬金術の時代において、金属変化の目安はまずは色の変化であり、それに続いてさまざまな物理的性質の変化が確認されるべきであった。(cf.No.654)
物質を金に変化させる薬、錬金薬、触媒、反応促進剤、賢者の石、万能薬、エリクサ、なんと呼んでもよいが、その薬は従ってなによりもまず、元の物質に金の(太陽の)色を与え、また金の(太陽の)輝きを与えるものでなければならなかった。
17世紀初、ボローニャの靴職人ヴィンセンツォ・カッシャローロが、パデルノ山で見つけた石は太陽の色(黄色)をしていた。彼はその石の粉末をV焼して固めた焼結物が太陽の光を吸収して暗闇で光を放つ性質を持つことを知って驚喜したが、残念ながらこの「ボローニャ石 Bolognian phosphor」は卑金属を金に変えることはできなかった。(cf.ひま話 錬金術師のボローニャ石
だがヨーロッパ世界に発光石(フォスフォラス/フォスフォール/フォスフォリ phosphorus/ phosphoros/ phosphor/ phosphori 「光をもたらすもの」の意 ※)に対する強い関心が生まれた。ボローニャ石
は微量の金属アクチベータを含む燐光性の硫酸バリウムであったが、製法は半ば秘匿され、また後にレシピが失われて製造されなくなった時期があったため、いっそう神秘的な物質と受け止められた
また同様の物質として、
バルドウィン(クリストーフ・アドルフ・バルドウィン 1632-1682)のフォスフォラス Phosphorus Balduinus/ Baldewinian phosphor」あるいは「ヘルメス(錬金術)の光体 Phosphorus Hermeticus」として知られる発光石が作り出された。1673年のことで2番目の人造燐光体であった(※燐光現象に限らない発光体としては本項の主眼である「リン」に次いで3番目のフォスフォラス)。この石の主成分は白亜の硝酸溶液を蒸留して調製した硝酸カルシウムであったという。
バルドウィン石もやはり金を作り出すことは出来なかったが、17世紀は発光性をもったフシギな物質が繰り返し発見される時代となった。これらは賢者の石が持つであろう性質の一つ、光を発する性質を具えており、フォスフォラスの研究は真の錬金薬を作り出すための確かな礎石であると考えられた。

※フォスフォルス、またルシフェル lucifer は共に「光をもたらすもの」、明けの明星を意味した。新約以来、ルシフェルは天から落下したサタン・悪魔、堕天使とされる。錬金術においては生命や魂の根源的な火花。

★ドイツのハンブルクにヘニング・ブラント(1630年頃-1692年)という医師があった(商人という説も)。錬金術の研究をしていた。それまでヨーロッパでは幾世期にもわたって、水銀から金を採る実験や人骨から「賢者の石」を取り出す試みが行われ、失敗が繰り返されてきた。それでも時代につれてより精妙な実験器具が開発され、より強力な加熱法や物質の精製・分離法が工夫されて進化を遂げ、いまだ見ぬ頂点へ向けてのたゆみない努力が続けられていた。彼もまたそんな風潮に与かる一人であった。
ブラントは銀を金に変化させるエッセンスが人間の尿の中に含まれているかもしれないと考えた。科学史書は「なぜ彼がそう期待したのかは知られていない」と素っ気なく語っている(補記6)。しかし人体を含む生命体に潜んで健康を保ち、病気の際には治癒力を発揮するエッセンス、言い換えれば若さを保ち生命を永続させるエッセンスが、卑金属を最高度に調和させてバランスのとれた純粋状態に導く、すなわち金に変化させるエッセンスであることは、理念としてすでに伝統的に理解されていた。

そもそも聖書によれば、人間は土くれから生まれ、神によって生命の息吹を吹き込まれた存在であって、物質的には金属に親しいものである。また金や銀を吹き分けるように神によって試され精錬される存在であった(cf. No.656)。
金属に作用する薬は人に作用し、人に作用する薬は金属にも作用する。また遠く天上の星辰から地上・地中に存在する物質・生命体に至る万物の間に感応力ともいうべき相互作用が認められていた。その法則の理解と調和への手法こそ錬金術の成就に必要不可欠な知識であると考えられていた。(No.651 ※印注記No.655 付記2、付記3
具体的には尿の持つ色、すなわち金の色を帯びる性質、そして堆厩肥料として畑に撒かれ大地を肥やし、農作物を育くんで味をよくし、豊かな収穫をもたらす性質、すなわち生命力を賦与する性質を考慮するなら、ブラントの発想はむしろ優れて論理的であったといえるだろう。
今日我々は、生命体(有機物)と金属などの物質(無機物)を別のカテゴリーにあるものとして自明のうちに区別して考えるが、この思考体系はむしろ伝統的なキリスト教世界の物質観からは隔たっている。

★ブラントは新鮮な人尿を大量に集め、腐敗させた後で火にかけた。次第に加熱を強めてペースト状にし、生じた黒い残留物(錬金術的に言えば黒化された原質)を清浄な水で溶いて漉した。プロセスの詳細は補記に述べるが、最終的に白いろう状の純粋物質を得た。その物質は加熱された試験管の中で白く輝いてみえたが、驚くべきことに羽毛で刷いて集めた微小なカケラは冷えた後でも暗闇の中で美しいおだやかな白い光を放っていた。1669年のことである。
ブラントはこの白化(アルベド)したろう状物質を使って金を作ろうとしたに違いないが、成功しなかったはずである。しかし未知の発光物質は彼を大いに喜ばせ、最終的に求める錬金薬への未だ途上の物質に過ぎないとしても、十分に誇れるものだと考えさせた。彼はこのフォスフォラスをハンブルクの知人たちに見せ、また求めに応じて分け与えた。
この物質は予め太陽光にあてた燐光体が暗闇でしばしの間だけ光るのと違って、暗闇の中に置かれたまま、いつまでも持続的に光り続けた。(緩やかな)化学反応による発光現象であったからだ。そのため「驚異の発光体 Phosphorus mirabilis」と呼ばれた。

ブラントの発見がヨーロッパ中に広まる過程には、クンケルとクラフトという2人の人物が深く関与した。
ドレスデンの化学者ヨハン・クンケル(1630-1702/03)は発光性の物質に関心を抱いており、バルドウィン石を手に入れたとき、驚かせるつもりでハンブルクの友人に見せにいった。ところが友人は、以前にこの石を見たことがあったばかりか、もっと明るく輝く物質があると言ったのだった。そしてクンケルをブラントの家に連れていった。
その時ブラントはあいにく試料をすべて人に分けてしまって手持ちがなかったが、試料を譲った知人の家にクンケルを連れてゆき、その不思議な発光物質を見せた。クンケルは早速友人で仲介業者の J.D.クラフト(1642-1697)へ「冷たい炎」についての手紙を書き、ハンブルクにやってきたクラフトと一緒に再びブラントの家を訪れた。
この日、2人はフォスフォラスをどこかの王侯に大金で売ることが出来るかもしれないと持ちかけ、ブラントからその調製法を教わったと伝えられている。
クンケルは家に帰ると早速製造にかかったが、うまくいかなかった。ブラントに手紙を書いてアドバイスを求めたが、返答をもらえなかった。彼は試行錯誤を続けて操作の誤りを修正し、とうとう発光物質を作り出すことに成功した。最終的にブラントの指示にない手順、蒸留前に尿に少量の砂を加える改良を加え、この処方によって自らを「ノクチルカ・コンスタンス Noctiluca constans (いつまでも闇に光るもの)」の発見者とした。クンケルがフォスフォラスを作ったことはまず友人のキルヒマイヤー教授の論文に紹介され(1676年)、世に知られるようになった。ただ彼がフォスフォラスの製造で利益をあげたかどうかは分かっていないそうである。
(バルドウィンの石は1673年に発見され、クンケルは1676年までにフォスフォラスを作っているので、彼がブラントを訪れたのはその間のいつか、ブラントの発見から数年後だったと考えられる。科学界にこの発光物質が知られたのはバルドウィンのそれよりも遅かったのである。)

★一方クラフト博士はフォスフォラスを携えて、オランダ、イギリス、新大陸などを回ったので、「驚異の発光体」のニュースが世界中に広がった。彼はブランデンブルクの大選挙侯の宮廷や、ハノーヴァーのフリードリヒ公の宮廷で、ツチボタルのように光る神秘の物質をデモンストレーションしてみせた(cf. No.658 クロロフェン)。フォスフォラスを間近で見た顧問官のライプニッツは、大きな塊を使えば部屋中を明るく照らせるのではないか?と尋ねたが、クラフトは「製造工程が複雑なのでムリ」と答えたという。製造法は明かされなかった。
後にライプニッツはブラントに会うためにハンブルクを訪れ、発光物質の製造法や最新の研究成果をフリードリッヒ公(の宮廷)に開示することに関する契約を結んだ(1678年)。大量のフォスフォラスを製造することが出来れば、賢者の石を発見出来るかもしれないと考えたのだという。製造法を明かしてほしいという依頼は他からもきたが、ブラントはクラフトと相談した上でフリードリヒ公に教えることに決めた。こうしてライプニッツはブラント、クンケル、クラフトについで、フォスフォラスを製造した4人目の(歴史上の)人物となった。

クラフトは 1677年にイギリスに渡り、ボイル卿ら王立協会の会員たちにいくつかの実験を見せた。雨戸を閉めて暗くした部屋の中で小瓶に入れたエンドウ豆2個ほどの大きさのフォスフォラスの塊を見せ、「2年の間ずっと輝いているのだ」と言った。塊から少量をかき取り2,30片に分けてトルコ絨毯の上に撒き散らした。それぞれの小片が夜空にきらめく星々のように明るく輝いた。ボイルらは高価な絨毯が傷んだのではないかと心配したが、彼らを大いに安堵させたことに少しも損なわれていなかった。
次にクラフトは指先に少量のフォスフォラスをつけて紙の上でなぞった。すると、 DOMINI の文字(神/主の、の意)が闇の中に浮かびあがった。その見事さ、美しさ、奇妙さにボイルらは虜になった。ボイルはその紙から硫黄かタマネギに似た臭いがすると感じた。クラフトは自分の顔とボイルの手に発光物質を塗った。塗ったところが不気味に光った。
数日後クラフトは発光物質が燃えるところを見せた。水の入った保存瓶から取り出した塊を紙に包むと、紙が燃え出した。また小片を少量の火薬に触れさせると爆発した。ボイルは茫然としたが、同時に強い興味を持ち、自分たちの手でもっと研究したいと思った。製造法を聞き出そうとしたが、クラフトは教えなかった。またフォスフォラスを置いて帰ることも拒んだ。ただその物質の原料が人体に属するあるものだ、とだけ告げた。

★だがボイルもさるものである。彼は錬金術師や医科学者が、黄色い液体を見るとその中に錬金薬のエッセンスが隠れているのではないかと過剰に反応する傾向があることを知っていた。それでおそらくフォスフォラスの原料は尿であろうと見当をつけた。
彼は助手に命じて便所から大量の尿を集めさせて、蒸留物を得る実験を繰り返した。が、うまくいかなかった。そこでもうひとつの方かもしれないと考えて糞便を集めて実験した。がこれもうまくいかなかった。最終的に尿からフォスフォラスを得る方法を見つけるまでに2年かかった。それも助手のハンクヴィッツ(イギリスではアンブローズ・ゴドフリーの名で知られた)が、蒸発残留物をきわめて高温で処理することを示唆したおかげで成功したのだが、ハンクヴィッツはブラントの実験室を訪ねたことがあり、その経験が適切な方法を思いつかせたのだという。
ともあれ、ハンクヴィッツが処理を試みると、レトルトは高温のために割れてしまった。しかしボイルはレトルトに付着した残渣がかすかに光っていることに気づいた(1680年)。
ボイルはフォスフォラスを使ってさまざまな実験を行ったが、成果をほとんど公表せず、製造法を記した書類を王立協会に託して秘した。書類は彼の死後まで開封されず、遺稿集が出版されたのは1694年のことだった。
その間にハンクビッツはフォスフォラスを商業規模で安定して製造する方法を開発し、大量に販売することができた。ロンドンの新聞に、「固体のフォスフォール、1オンスあたり卸値50シリング、小売り3ポンド」と広告し、「可燃性フォスフォール、黒色フォスフォール、調製したフォスフォールを製造できるのはロンドンでは当店のみ、全品純粋物」と述べた。彼は、クンケル、クラフト、ブラントらはいずれも不透明で軟膏状のフォスフォラスしか作れなかったが、自分が提供するフォスフォールは堅く透明で氷状である、とその優良性を主張した。
ハンクヴィッツは半世紀の間製造法を秘匿し続けたが、1735年、宮廷医師のハンプ博士が巧みにもちかけてその秘密を明らかにした。その頃ハンクヴィッツは年老いて物忘れがひどくなっていたが、博士は苦心して基本的な処方を聞き出すことに成功したのだ。

★この発光物質/フォスフォラスこそ、今日知られるリン(燐)の同素体の一つ、白リン(黄リン) P4であり、錬金術の時代にヨーロッパ世界で発見された3つの半金属元素、砒素、アンチモン、ビスマスと同族の非金属元素だった。(cf.No.652)

リンは17世紀後半から18世紀にかけてさまざまな人物の手で製造された。それは光るモノとして人々の興味の対象となったが、残念ながら卑金属を金に変えることは出来ず、長生の薬にもならなかった。リンの研究から「賢者の石」は得られなかった。リンは扱いにくい物質で、量が集まると容易に発火し、しばしばこれを扱う者を傷つけた(そのため小分けして水中で保管した)。ちょうど放射性物質が発見された初期に、研究者たちにヤケドを負わせたと同じように、錬金術師や製造者の体を焼いた。
発見当初の熱狂がおさまると、危険性のあるリンはあまり流行らなくなった。リンの重要性、死と生を司る元素としての性質が明らかにされるのは、発見から2世紀近く経った後のことになる。

続き ⇒ リンの利用(肥料として)

補記1:W.ホンベルク(ホーンベルグ)は、「バルドウィン発光石はボローニャ石に似ているが輝きはもっと弱い」と書いている。彼はまたクンケルからリンの製造法を手に入れたが、その代価はゲーリッケが発明した精巧な晴雨計だったという。彼は当時ベルリンにいたクンケルに接触し、クンケルが是非装置を欲しいと願ったことで取引きが成立した。この晴雨計は、晴れて乾燥した天候の時は小人が家の戸口に姿を見せ、空気が湿ってくると中にひっこむ仕掛けがついており、「ゲーリッケの予言小人」と愛称された。

補記2:人間は古来、光を放つものに魅せられる。17世紀、錬金術師たちが発光物質に強い関心を持ったように、次の世紀の科学者たちは、放電火花に途方もなく魅せられた。上述のゲーリッケ(1602-1686)は真空ポンプや摩擦起電機の発明者で、電気と放電との関係を初めて指摘した人物とされている。
ボローニャ石やリンなど、新しい画期的な物質の発見はフシギと光に関係しており、19世紀末の放射線の発見も発光現象に導かれたものであった。キュリー夫人が得たラジウム塩は闇の中で美しく光った。(詳しくは拙著「蛍光鉱物&光る宝石」)

補記3:1726年に出版されたダーハムの書物に「ハンブルクのブラント博士による元素状リン」と題してリンの製法が記されている。次のような段取りであるらしい。

@定量の尿を用意する。(1回につき手桶5〜60杯以上)
A1ケまたは複数の大タライに貯めておき、腐敗して虫が湧くまで待つ。14,5日かかる。
Bその一部を大釜に入れて、強火で沸騰させる。蒸発して液が減ったら追加してゆき、最終的に全量を煮つめてペースト状にする。火加減により2,3日で終わることもあるが、2週間以上かかることもある。
Cこの黒色のペースト(いわば石炭)をとって粉末にし、15指幅の高さまで清浄な水を加える。
D15分ほど沸騰させてからウール地で漉し、濾過液の全量を沸騰させて、塩を生じさせる。2,3時間を要する。
Eカプト・モルトゥム(硝石の塩に濃硝酸を作用させて硝酸を得た後の残渣)をとって、前述の塩1に対して2の割合で加える。どちらも事前に細かく砕いておくこと。2〜3指幅の高さまで精製ワインを注いで24時間おく。パン粥様の物質ができる。
F温砂に浴して全量を蒸発させると、後に赤〜赤茶色の塩が残る。
G塩をレトルトに入れて、最初の1時間弱火で熱し、次の1時間少し強く、次の1時間強く、次の1時間さらに強く、その後は可能な限りの強火で熱し続ける。火加減次第だが24時間で充分なこともある。
容器が白い炎のように輝いてみえ、レトルトから火花や飛沫が跳ばなくなったら作業は完了する。生じた白い物質を羽毛で、こびりついた部分はナイフで掻き落として、集める

賢者の石の生成は黒化→白化→(黄化)→赤化の過程を辿るが、この発光物質を得る過程は黒化→赤化→白化の順で反応が進むことが分かる。
ユングは後者の順の反応過程を肯定した上で、白化はまだ銀の(月の)状態であり、その後に黄化(黄金化)が期待されている、と述べる。

ちなみにダーハムは、少量のリンがまわりの火薬を爆発させること、紙に書いた文字が暗闇でよく輝いてみえることに触れた後、コンクル氏という人物(クンケル?)がハノーヴァにいたとき、リンの塊をろうに包んでポケットに入れたまま火の側で作業をしたため、火の熱でリンが発火して衣服がすっかり燃え、指にひどい火傷を負ったと書いている。その炎は泥に擦りつけても消えず、水がなくては消しようがなかった、氏の皮膚はむけ、15日間ベッドから出られなかった、という。

補記4:例によってプリニウスの博物誌に記された尿の薬効を述べると、小便には「自然的であるばかりでなく超自然の大きな薬効がある」。まだ思春期を迎えない子供の小便はある種のエジプトコブラの毒唾を解毒し、白膜眼、かすみ眼、瞼の病気など眼病に効き、ヤハズエンドウの粉とまぜて火傷に用いられる。湯気は通経剤となる。人間の小便は痛風を癒す。古い小便をカキ殻を焼いた灰に加えたものは、赤ん坊の発疹や、膿の出るあらゆる潰瘍の治療に効果がある。アカギレや皮膚の過敏症、サソリの刺し傷に塗るとよい。イヌに咬まれたキズ、ハリネズミの針がささった筋肉に塗ると抜群の効果がある。オオムカデに咬まれたときは、自分の小便を一滴つけて頭頂に触れると不思議に治療効果がある。ということダ。

妖精の伝説を持つアイルランドには取り替えっ子(changeling) という言い伝えがある。妖精が赤ん坊をさらって代わりに妖精の子を置いていくというのだが、それを避けるために子供は大切に守られてきた。赤ちゃんの揺り籠の横に鉄の塊をおくといった風習がある。また聖水や塩や尿がふりかけられた。尿には子供を守る強い力があると信じられた。(河合隼雄「ケルト巡り」p78)

補記5:アーサー・グリーンバーグは、加速器で金を1オンス(28g)つくるための費用は全宇宙の富をすべて注いでも足りない。なおかつ、出来た金は放射性のため数日でまた別の元素に変換してしまう、と冷静に述べている(A Chemical History Tour 邦訳「痛快化学史」)

補記6:アラビア錬金術の師アッ・ラジー(850-923頃 ラーゼスとも)は、「秘密の秘密」の中で、毛と塩と尿とを蒸留して塩化アンモニウム(磠砂/ろしゃ)を作る方法について述べた。この物質は金属を着色したり、溶解する際にきわめて有用で、後に各種の酸とともに錬金術作業の必需品のひとつとなった。従ってブラントの発想の根拠が分からないという史家の言葉は、むしろオトボケであろう。
金彩の技法のひとつに「彩色金」(モザイク・ゴールド)があり、二硫化スズの金色の結晶を顔料として用いる。スズ粉、水銀、硫黄、塩化アンモニウムを使って容易に製造でき、ヨーロッパでは14世紀頃から知られるようになった。中国の朱砂の製法が伝わって、水銀や硫黄の代わりにスズや塩化アンモニウムが使われたのが始まりだろうとみられている。

余談だが、18世紀、「結合同志会」という結社に属した錬金術師デュシャントオは、薔薇十字の魔法を記した前世紀の錬金術書を解読して、賢者の石を作り出すには「下にあるものと上にあるものとを統一する」必要があり、そのための「火、容器、原素材は一人の人間のうちに在る」との見解に至った。彼は40日間かけて賢者の石を製造してみせる、と宣言し、実際にその作業に入ったが、36日目にして同志たちが作業に介入しこれを中断させた。彼はその期間食物をとらず、ただ尿を飲んでは排出し、また飲むという純化精製作業を繰り返していた。同志が介入した時、尿量は減少して粘りを増し、色は暗赤色で、香油のような匂いを放っていた、という(種村季弘「薔薇十字の魔法」)。
この類の錬金術的作業は、ウロボロスの蛇に象徴される円環/循環による原初の黄金期再来、過去と未来をひとつに繋ぐ here and now への凝集、永劫回帰のプロセスといえるが、しかしその実際は現代風にいえば同じ位相に戻るのでなく螺旋(スパイラル)を描いてより高次の状態へと進化する作業ともいえる。
さらに脱線するが、糞便もまたこの種の思想の対象となっていたらしく、洋の東西を問わず、便を食する夢は吉夢であり、財産が増殖する吉兆とされているそうだ。
また毒キノコにあたったとき、便を食すと解毒になるという(周密「癸辛雑識」
(宋代)、種村季弘「迷信博覧会」)。
日本語には「○くらえ」という表現があるが、もとは魂を危うくする魔を払うまじない言葉であったらしい。その昔、クシャミをすると魂が抜け出してしまうという考えがあり、防ぐに「クサメ、クサメ」と唱えた。語源は「休息万命」(くそくまんみょう)を早口につづめたものという説があるが、柳田国男は「○はめ(食め)」を語源としている。


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