ひま話 ワシリー・コノフレンコ氏の彫石細工コレクション

デンバー自然科学博物館 (DNSM)  その3 (2024.1.7)


デンバー自然科学博物館(DNSM)には地階があって、そこに可愛らしい貴石細工コレクションがひっそりと展示されている。作者はワシリー・コノフレンコ Vasily Konovalenko 氏(1929-1989)という元ソ連人の石工だ。

氏はウクライナ東中部、黒海の北方にあるペトロフカという村(意訳すると石村)に生まれた。父はウクライナ人、母はロシア人。一家は彼が 5つの時に鉱工業都市ドネツクに移住した。15の時にドネツク国立オペラ・バレー芸術劇場の舞台美術見習いとなった。翌年スターリン劇場で働くことを認められ、同時にドネツク・ポリテク協会学校で芸術と建築の専門教育を受けて学位を取得した。49年から50年にかけて、スターリン地域連合の芸術家として彫刻作品を制作した。50年秋に海軍に徴兵されたが(皆兵制だった)、健康状態を理由にわずか 5ケ月で免除された。

その後、氏は憧れのレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)に行き、マリノフスキー劇場(当時キーロフ芸術劇場)に職を得た。1957年にセルゲイ・プロコフィエフのバレー、「石の花」に携わった。これはパーヴェル・バジョーフの短編集「孔雀石の小箱」中の作品のアレンジで、ダニーロという石工が主人公である。舞台セットの製作主任を命じられたコノフレンコは、昔とった杵柄で小道具として孔雀石の小箱を制作した。余技ではあったが、美しい小箱は熱狂的な称賛を集めた。以来、彼もまたダニーロさながら彫石芸術に魅せられ、60-70年代にかけて趣味的にミニチュア作品を作り続けてゆく。孔雀石、バラ貴石、軟玉、碧玉、瑪瑙、蛋白石などさまざまな半貴石を使い、時に木材その他の天然素材を加えて、組合せの妙を演出した。

1959年に制作した「ダニーロ親方」は孔雀石の小箱を捧げた石工の青年の立像で、象徴的な作品として知られる。人々はしばしば氏をダニーロ親方と呼んだのだ。この年、彼は作品展を開きたいと願ったが、ソビエト政府の上層に伝手を持たない一芸術家が公式の許可を得るにはそれから 14年の歳月を要した。
その間、ウラルやシベリア、ウクライナの鉱物産地をさかんに訪ねて回り、地質学者や鉱物学者に会って、彫石細工の素養を深めた。71年頃には舞台装置家として声価が定まっていたが、石工としては依然無名のままだった。
73年、氏と妻とはモスクワに行き、ソビエト・アカデミー所属の著名な作家で国歌の作詞者セルゲイ・ミカルコフと会う機会を得た。夫妻は二つの彫石作品、「戦士」、「皇帝の片腕」を持参した。感銘を受けたミカルコフは個人的な伝手を使ってレニングラードの国立ロシア博物館で個展が開かれるよう根回しした。こうして 10点の作品が公開され、たいへんな評判をとったのだった。
氏は国家的芸術家とみなされるようになったが、好事魔多しで、利益供与と政争に絡んだ不運に巻き込まれてしまう。ある種の意趣返しから違法行為と思想的な嫌疑を掛けられ、 KGBの捜査を受ける破目になった。知人たちの奔走によって収監を免れたものの、いくつかの妥協は免れなかった。展示作品はすべて国家に寄贈されることになり、家族とともにモスクワに移って非公開の地質博物館「宝石」に所属することを余儀なくされた。
「宝石」に小型造形彫刻研究所が新設されて、その所長に任じられたのだが、実質的な仕事は、党幹部のために、知人・要人への贈り物に使う美術品を制作することだった。作品は政治的に正しいモチーフを持っていなければならなかった。彼はまたつねに KGBの影に脅かされていた。

ところでコノフレンコの作品に注目する人々が西側にもあった。米国の実業家アルマン・ハマーは 74年に展示された作品の価値を認めて、15万ドルで買い取るオファーをソビエト政府に送った。商談は成立しなかったが、その後氏が米国に来れば、自由な作品作りに専念できる環境・施設を提供すると申し出た、といわれる(DNSMの展示説明による)。
1981年4月、コノフレンコは家族とともに米国へ発ち、妻の兄が住むニューヨークに移住することが出来た。ほどなくスポンサーがついて、作品作りを始めることになった。氏は 2年間で 18点を制作する契約にサインした。それはかなりハードな労働に他ならず、睡眠時間はいつも 3,4時間ほどしかとれなかった。報酬は一家の生活を維持するに辛うじて足りたが、米国で快適に暮らせるレベルではなかった。資本主義国には資本主義なりの厳しさがあったのだ。彼は強いストレスにさらされて、米国生活 1年目で最初の心臓発作を経験した。しかし契約を守って、予定された数の作品を期限内に仕上げた。
スポンサーたちは DNSMでの宣伝展示をアレンジし、84年3月の開催に漕ぎつけた。お披露目は好評を博し、その後も展示点数を増やしながら、 89年まで何度も期間が延長された。作品を求める富裕層の顧客が現れ、注文をこなすために氏の監修で制作を行う工房が組織された。が、多くの作品はやはりコノフレンコ自身の手で制作されたという。89年 1月、脳溢血によって死去するまで、生涯におけるミニチュア石彫像の作品数は 60点を超えた。

DNSMに展示された作品は全点スポンサーが買い取って、博物館に永久貸与された。 20点が常設展示されている。ソ連に留められた作品を収蔵するモスクワの国立博物館(Samotsvety, Gokhran)を除けば、彼の作品が一般公開されているのは DNSMだけだという。他の作品はほぼ個人蔵に帰す。

「洗濯婦」
孔雀石に囲まれた瑪瑙の水溜まりにくるぶしを漬けた洗濯婦。
洗濯物は層状の紫水晶。根元を掴んで、黄鉄鉱の洗濯台に
叩きつけて洗っている。(後ろに木化石の洗濯板もある。)
頭にバリッシャー石の頭巾を巻き、茶金石の半袖服を着る。
露出した人肌部分はチェリャビンスク県ベロレツク産の石英。
コノフレンコは好んでこの石材を人肌に使った。
首飾りは小粒の真珠。

「流浪の人」あるいは「信仰篤き老人」
17世紀にロシア正教から離れて独自の信仰を表明した
キリスト教原理主義者の像という。
掲げた手の二本の指先は、父なる神と息子なる
救い主を信じることの表明。
(三位一体教義の精霊の介在を認めない。)

老人の顔や手はベロレツク産石英。
目は白目部が白石英、瞳は金線の虹彩に巻かれた
サファイヤ(コランダム)で作られている。
(コノフレンコの定番表現のひとつ)

髪とヒゲは、ルチルまたは電気石入りの水晶、
トルコ石の内着に、紫水晶の外着。
さまざまな色の碧玉類で袖なし外套を、
ルビー・ゾイサイトで腰布を表現している。
画像には写っていないが、足に金のわらじを履く。

山師たち。左の膝立ちの老人は椀掛け皿を持ち、
右の立った男は掬い上げた石粒を日に透かして見ている。
多分、粒金を探しているのだろう。

粒金探しと言えば、バジョーフ「黄金のダイコ」を連想する。
ダイコは外来の言葉でロシア語ではストルビク、岩肌。
英語なら dike (岩脈)か。ロシア人が金の採り方をまだ知らず、
エカテンリンブルクに来たドイツ人にもまだ分かってなかった頃、
ペリョズフスキーでいかに金の鉱脈が発見されたかのお話。
「鉱脈に電気石が光っていたり、あるいは、角岩の交わる緑色の
粘土であれば、金は期待できない。しかし、かすかに硫黄が臭い、
あるいは、針鉱と呼ばれる針状の鉱石が出る時は、
金の粒を発見できるかもしれない」といった覚え書きが残っている。
この土地の金は地中の鉱床に蛇のような形で
帯状にうねって分布しており、金の主はダイコという
名の蛇で、その頭から金の帽子を脱がせた者だけが
金の帯を手に入れることが出来るという言い伝えが生まれた。

「およこし、ダイコ。おまえの黄金の冠と、帯をおよこし」
「ちょっと砕くと、横に走る鉱条にぶつかり、
金の鉱石が光っていた。金の粒もいくつか見えた。…」

ジャスパー、ゼブラストーン、苔めのう等、
複雑な模様の石英類を多用した作品。
山師の足下には緑柱石が群生しているが、
彼らはそんな宝石はおいて金を探しているのだろう。

「おばあさん」
屋外の転がった木の幹に一人のおばあさんが座って、
毛糸を紡いでいる。毛糸玉はルチル入りの水晶。
引き出された糸は金の撚り線。左手の錘に巻き取る。
頭巾は紫水晶、長衣はスノーフレーク・オブシディアン。
ベストはジャスパーで、あられ石(山サンゴ状)の縁取り付き。
木の幹はもちろん木化石(ペトリファイド・ウッド)。
下の地面は孔雀石。

私はこの発想にシビれましたん。

毛糸を引き出す個所のクローズアップ。
手指は美しく均整がとれ、指先には爪の形
までしっかり彫られている。職人芸と思う。

コノフレンコは、ソビエトの田舎の(古いスタイルの)
庶民の生活風景を好んでモチーフにした。

「蒸し暑い午後 T」 
暑い午後に、布袋腹の男が水浴をしながら、
桶に載せたスイカをかじっている。
スイカはルビー・ゾイサイト。
腕に掛けたタオルはジャスパー。
桶は木化石に燻し銀のタガを嵌めたもの。

「蒸し暑い午後 U」 
丸ぽちゃの女性がプールに浸かりながら、
紅茶(サモワール)を楽しんでいる。
波紋の広がるプールの水が瑪瑙の縞で表現され、
金張りの銀盤に囲われている。
女性の金髪はルチル入り水晶、額にトルコ石のバンド、
瞳はサファイア。浴衣はラピスラズリ(おそらくロシア産)。
紅茶のカップはカショロン、紅茶はカーネリアン(縞めのう)。
左手に氷砂糖をつまむ。
紅茶に入れるのか、それとも口に放り込むのか。

画像には見られないが、女性の頭上にエナメル七宝細工の
パラソルが広がっていたらしい(図録の写真に付いている)。

ちなみに二人の婦人がサモワールを挟んで向かいあい、
ティータイムのおしゃべりに耽る趣向の
作品もある。(やはりプールに浸かっている。)

コノフレンコ夫人は、この作品を米国で作っていた頃が
彼の生涯でもっとも幸せな時間だった、と述べている。

「散歩中」
カップルが森の中を散歩している様子。
女の子はバラライカを弾きながら無邪気に歌っている。
男は黙って後ろから体を寄せ、頬を彼女のこめかみにあてる。
画像にないが、二人は黄銅鉱と苦灰石の微晶が群れた
鉱石(その様子が森の地面を想わせる)の上を歩いている。
男は青いサファイヤの靴を、女の子は赤いジャスパーの靴を履く。
女の子の顔はベロレツク産石英、髪はオニキス、頭巾は茶巾石。
男はタンカラーの蛋白石の内着に、ラピスラズリの
ジャケットを羽織る。帽子に白石英、髪は瑪瑙。

「塗装屋」
コノフレンコが 60年代初にレニングラードのアパートの
塗装を頼んだ職人がモデルという。表情に虚ろな雰囲気があり、
長年の労働で荒れて、酒浸りになった姿を表現する。
彼が立つのは木化石の上で、
白い塗料で汚れた保護シートで覆った床らしい。
顔面は淡色のジャスパー。鉄錆色に染まった部分を
うまくあごひげや鼻の頭にあてている。
帽子はスノーフレーク・オブシディアン、毛皮の縁取りが
葡萄状(仏頭状)の瑪瑙で表現される。
上衣は濃色のラピスラズリ。

「親友」
陽気に歌う3人の友だち。
このモチーフはコノフレンコのお気に入りで、
さまざまな素材を使って、いくつもの類型作品を作った。
左の男はバラライカを、右の男は角笛を携える。
中の男は左右の二人より身なりがよく裕福らしい。
七宝細工の豪華なパンチボウルを抱えている。
三人はボウルの酒を酌み交わして酔い機嫌。
歌っているのはウクライナ民謡か。

中の男の顔はベロレツク産石英で色艶がよく、
左右の二人の顔はジャスパーで少し肌が粗い。
中の男の帽子は高い。
右の男のシャツは苔瑪瑙で、ズボンはネフライト。
右の男のシャツは薔薇色瑪瑙で、帽子は虎目石。

 

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