ひま話 ゴスラーとランメルスベルク鉱山(その1) (2006.1.23)


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4年ぶりにヨーロッパ、ドイツを訪れた。私にとっては3度目の、懐かしのエッセンだ。たいした思い出があるわけじゃないが、ドイツ好きの私は単純に嬉しい。
前回、帰国したらドイツ語を勉強しようと決心し、すぐに教本を買いに走ったのはよかったが、10ページも繰ることなく置き去って今日に至り、よもや再び渡欧の機会があると信じてなかったせいか、あまり英語が通じないことをすっかり忘れて、のほほんとデュッセルドルフに降り立った。夜も10時でありました。
泊まるホテルは行き方が分からないので、空港からタクシーに乗れと教えられた通りタクシーに乗り、ミュルハイム・アム・デア・ルールという町にあるはずの、宿のアドレスを写した紙片を差し出す。運転手はとにかく町まで走って、あとはそのへんに止まっているタクシー仲間に聞けばいいと算段したらしく、実際道を問うこと4度に及んだ。その後、くるくる回る料金メーターを打ち止め、なおも狭い町の同じ通りをぐるぐる回って、ようよう小高い丘に続く坂道を登った。やけに閑静な場所に連れてこられたなあと、言葉の通じない不安にあせりはじめたとき、運転手が「ここだ!」と歓声をあげた。こちらもほっと胸をなでおろしたのだ。
玄関にカギがかかってなかったのはもっけの幸い。照明が消えて暗い帳場をうろうろしていると、奥から老婦人が現れた。名前を告げたが分かったのか分からなかったのか予約を検めもせず、宿帳への記載も求めない。空いてる部屋のカギを差し出して何事かドイツ語で説明をひとしきり。分からないのでダンケと謝し、ジャバラ扉のエレベータにのって部屋にあがった。安宿と呼ぶに相応しい部屋に荷物を解く。シャワーを浴び、飲み水がないのは我慢してベッドに入る。それでも、ああまたドイツに来れた〜とほくほく気分の私だった。

翌朝、町の中心にあるハウプトバンホフ(国鉄中央駅)に向かって昨夜の坂道を歩いて下る。坂の下まで林間の墓地が続き、これは閑静なはずだと知る。隣駅になるエッセンでの所用をもにょもにょ終えたのは、午後のお茶の時間が近づく頃。こうして旅が始まりましたのだ。
話をさっさとランメルスベルクにもっていきたいので、さあミュルハイムを去る日。私は既視感につつまれた。
宿を出て駅に向った後、仔細あって、もう一度徒歩で引き返す仕儀になった。年季を経て車輪の傷んだトランクを引き摺り摺り、墓地のあたりまで戻ってきたが、ここから宿までが急な坂道。限りある身の力試さんとて、ずうるずうる登り始めた、その時はやく、前を行き過ぎてぴた止まった一台の車。ドアを開けて降りてくる老人と若人。
「乗っていきませんか?」のオファー。
「大丈夫、すぐ先の宿までですから」は日本人の遠慮。
「それでも乗った方が楽だし、早いでしょ」とダメ押し。笑顔に照れている間にトランクを荷台に載せてくれた。おふぁ〜、これはいつしかのイダー・オバーシュタイン劇の再現だ。(⇒宝石の町イダー・オバーシュタイン
やっぱりドイツ人は親切だなあ…と、漸くここに来て、よい旅になりそうだと実感した。


ゴスラー(Goslar) という町の名を知ったのは、かれこれひと昔の前になる。同僚と一緒に出張し、途中で用件を分担、彼らは北へ、私は南へと向った。帰国してから聞くに、ハノーヴァーから車で1時間くらいのゴスラーという町に案内されてクラシックな宿に泊まったよ、半日歩きまわったけどおとぎの国のような町並みでとてもいいところだったよ、きっと気にいるよ、行けば〜? と激しくお奨めがあった。
1992年に世界遺産に登録された町だと今こそ知っているが、当時はまったく未知の名前。ガイドブックを開くと、「郷愁の町ゴスラル」と載っていた。中世のたたずまいが残るハルツ山脈の麓の鉱山町らしい。登録される前のまだあまり観光客が訪れなかった頃の描写を、実業之日本社ブルーガイド「ドイツ」に引くと、
「ここには80kmほど北のツェレのようなはなやかな色彩も、観光地としてのにぎわいもない。しかし、モノクロの名画にも通じる落ち着きがある。家々の屋根はグレーの瓦でおおわれ、街全体がこの静かな色の中にうずくまっている。思い切り傾いた木骨組みの家、それと古さを競うように斜めになった石畳。夕暮れ時に裏道を散歩したら、ひっそり静まりかえった路地に、中世の人の足音を聞くかもしれない。」とある。

以来、チャンスを伺っていたが、いつも南の方にばかり足が向ってかすらない。今回、次はいつ来れるか分からないと(いつもそう思っているのだが)、多少無理な行程を思い切り、ゴスラー行きを心に期した。
鉄道を乗り継いで、お昼前ゴスラーに着いた。


16世紀に書かれたアグリコラの「デ・レ・メタリカ」に、「ゴスラーの鉛鉱脈は馬の蹄によって掻き出された」と出ている。発見譚はすでに伝説に埋もれた観があるが、概ね次のような次第である。
ランメ(ランム)という名の騎士がいた。ハルツ山脈の麓の森に狩りに出て、ある場所に馬を繋いでひとり森の中に入っていった。騎士がいなくなると馬は蹄で地面を引っかき始めた。騎士が戻ってきた時、土の中から鉱脈が顔を覗かせていた。
あるいは、騎士は町に戻ったとき初めて馬の蹄に鉱石が挟まっているのに気づき、急ぎ引き返して鉱脈を発見したという。
また騎行の途中で馬が地面を踏み抜いて鉱脈にあたったともいう。
馬が騎士の前で地面を叩き、「ここ掘れ、ぶひひん」と言ったともいう。(補記参照)
別のバリエーションでは、緑の闇濃きハルツの山谷の奥、ブロッケン山に棲む、黒真珠たらいう魔女が、山中で迷っていたランメを保護し、死に際に宝の在り処を明かし云々というのもあるが、これはまあおとぎ話というべきか。
かくランメルスベルク鉱山は始まった。いつだか定かでないが、鉱山のもっとも古い記録が 968年にあるので、それより後ということはない。ベック博士は、「ランメルスベルクは10世紀にハインリッヒ1世(在位 919〜936)治下に開発されたということになっているが、おそらくはオットー1世(在位 936〜973)のときに開発されたものであろう」としている。以来1988年まで、曲折を経ながら1000年以上に亙る歴史を誇った。(cf.鉱脈を占う杖のこと 末尾 参考

ゴスラーはランメルスベルクの麓町として、鉱山とともに歩んだ。
10世紀の初め、まだ小さな集落だった町は、ドイツ(後にローマ帝国)国王の居城都市ヴェルラに近かったことから次第に発展し、ランメルスベルクで銀と銅の採掘が始まると、さらに賑いを増した。皇帝ハインリッヒ2世はゴスラーに居城を築き、ハインリッヒ3世が街区を全面的に改修・拡大して、お膝元に相応しい体裁を整えた。11世紀半ばであった。中世期の帝国は定まった都を持たず、皇帝は各地を巡回統治していたが、その後の150年間、ここは皇帝が好んで滞在する土地となった。

ランメルスベルクは「皇帝の宝物庫」と呼ばれた。鉱山に対する君主権の授与が、皇帝の大事な収入源だったから。鉱山を大公(Herzog)が所有し、ゴスラー市民は鉱石の製錬を請け負った。掘り出された銀で貨幣が鋳造され、欧州で広く通用された。
ゴスラーは最古の自由帝国都市(freie Reichsstadt)として皇帝に忠誠を尽くし、フリードリッヒ(1世)・バルバロッサとザクセンのハインリッヒ獅子王との争いでも皇帝側に立った。そのため、1180年、獅子王に製錬場を破壊されたが、それが鉱山の終りではなかった。
実際、1186年に市は鉱業に関する条例を発布している。これはおそらく慣習法が明文化され皇帝の承認を受けたもので、ドイツ最古の鉱山法規則とみなされている。
皇帝フリードリヒ2世は、1219年、都市権の基礎となる特権をゴスラーに与えたが、その中には鉱業に関する次のような記述がある。
「鉱業を営むもの、すなわち森の人は、その所有権を保護される。また森の人は財産に関する煩いを受けてはならない。ただし帝国税は別である。溶解炉について、彼は国家に税を納める義務を負う」「自由地に製錬場をもつ森の人は、炉2基について、週に1ロットペニッヒを帝国に納めなければならない。そのかわり木材を、彼らにとって都合のよいところから採ることを許される」
1290年に市は帝国直属都市となり、領主支配を免れて、以降自由な発展をみる。排水が困難になったため一時採掘が中断されていた鉱山が、1450年に新たな技術を導入して再開された時、市は自ら採掘権を獲得した。こうしてゴスラーは最盛期を迎え、ランメルスベルクの銀を基盤に、ドイツでもっとも富裕な市のひとつとなったのだ。

だが16世紀前半、ルターの宗教改革が始まると、ドイツ全土が戦乱に投ぜられた。皇帝に対する一方の権威であった教皇への積年の鬱憤が爆発したのだ。この騒動で得をしたのは各地の諸侯諸公で、ゴスラーは最終的に鉱山の採掘権、ハルツの森林の3分の2を取り上げられ、その後は職人と農民の住む小さな市に落ち着いた。一方、時の大帝カール5世は、ランメルスベルクを「神がドイツに与え給うた最大の贈り物」と称えた。
その後も鉱山は稼動を続け、町は19世紀に一時的な活況を取り戻した。1988年の閉山に至るまでに、おびただしい銀や鉛や銅(近代に至って亜鉛)の鉱石が採掘された。その量3000万トンに上るという。

ゴスラーの町並みは19世紀以降に再建されたものが多いが、16世紀の面影をそのまま留めているという。「ゴスラル旧市街の約3分の2の建物は19世紀半ば以前のもので、そのうち170棟が、中世から16世紀半ばまでの建築そのものなのである。」と上述のガイドにある。
もっとも私の見たところ、世界遺産に登録されてからかなり改修されて、新しく小綺麗になっているのではないかと思うのだが。


鉄道駅は町の北西端にある。南側の大通りがそのまま町の外縁を周回し、いわゆる旧市街は環状線の内側にすっぽりおさまっている。歩いて散策するに手頃な規模だ。
ランメルスベルクへは808番のバスで行けばいい、と調べてあったが、駅前のパネルの地図を見ると、環状線の外側、市の南西にある鉱山のとば口までさほどの距離とみえない。見物がてら町を歩いて抜けることにした。

大通りを渡って小路に入るとさっそく迷路だ。というか旧市街だ。車一台やっと通れるほどの曲がりくねった狭い石畳の両側に、木組みがかわいい2階建ての家屋の軒がえんえんと連なる。地面は暗く、見上げる空は狭い。交差する道はときに鋭角にときになだらかに逸れ、同じようで少しずつ違う家並みが続く。これは素敵な異世界だ。出口が隠されている。
私はこういうところではいっぺんに方向感覚を失ってしまうのだが、果たして道に従うまま距離感を誤り、岐路を誤り、鉱山に向うつもりが次第に町の中心へ導かれていたのであった。
後で知ったが、ジーメンスの生家という黒とれんが色の立派な館の前を通り、ここで最後の決定的な方向違いをして左に進んだ結果、教会聖堂の裏に出た。まばらだった人通りが繁くなり、ぱっと視界が開けた。ギルドハウスや時計台、かつての富裕商人の家(今はホテル)が向って建つマルクト広場だった。こんな成り行きに慣れっこの私は、広場にあった観光案内所に入って、町の地図を購った。この後は地図と通りの名前を記した標識を目印に西南西に舵をとり、皇宮の前を横切って、一路鉱山へと向ったのだ。

マルクト広場

広場前で見かけた牽引式の観光バス

広場に面する人気のホテル(らしい)

木組みの美しい建物

地図を片手に鉱山へ向う途中(まだ市街の中)

皇宮前を通り過ぎ

町の南西のはずれへ(高台から町を望む)

そして再び環状線の外側に出た。
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補記:グリム兄弟のドイツ伝説集( Deutsche Sagen) 475 ランメルスベルク に鉱山の発見譚がある。
この話では、オットー一世がハルツ城に住んでいた頃、ハルツ山麓ではよく盛大な狩りの会が催された。ある時、腕っこきの狩人として知られたラム(レメ)は城の西の前山あたりで獲物を追っていた。道が険しくなると、馬の手綱を木に結わえて徒歩で獣を追った。馬は待っている間、もどかしげに足踏みしたり地面を引っ掻いたりしていた。そしてラムが戻ってみると、馬の前足の下に素晴らしい鉱脈が現れていたのだった。
彼は鉱石のカケラを持ち帰って帝に見せた。帝は早速、鉱層を採集させ、試しに横坑を掘らせた。すると実に豊かな鉱脈が見つかった。
鉱山は狩人ラムに因んでランメルスベルク(ラメルスベルク)と名づけられ、山の近くに築かれた町は彼の妻ゴーザに因んでゴスラーと呼ばれた。町を流れる河と、その河で醸すビールをゴーゼと呼ぶのも彼女に由来する。
別の伝説によると、ある若殿がラメルという馬を持っていた。この馬が山麓で木に繋がれている時、周りをしきりと歩き回ったり(ラメルン)、足踏みをした。そうして金鉱脈があらわになったという。
「ラメルスブルクはこがねの山よ だからおいらは鼻が高え」 こんな文句で始まる古謡があるという。

ちなみに、ランメルスベルクの坑道を整備するには、ブラウンシュヴァイクやゴスラーの町を造るよりもずっと多くの木材が必要だった。


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