ひま話 (2007.9.23)


中国青磁と玉の色

先般、出光美術館で開催された「中国・青磁の美」展を見てきました。例によってそんな予定はなかったのですが、駅前のちらし立てに挿してあったパンフレットをふと手にとると、「青磁がこれほどまでに愛されたのは、中国で貴金属以上に尊ばれた独特の石−玉の色沢の再現を目指したやきものであったからではないでしょうか。本展では、この仮説を糸口に、作品ごとに微妙に異なる釉薬の色合い、時代を反映する器形と合わせた青磁の美の変遷を、出光コレクションの青磁の名品の数々によってたどります」と、青磁と玉との関連性が指摘されているではありませんか。そうと気づいた限りは、どんな趣向が用意されているのか、鉱物愛好家として見逃すわけにいきません。

実は青磁の色が「秘色」(ひそく)と呼ばれて、玉の模倣を焼き物において行ったものであるという説は、古屋奎二さんの故宮博物館蔵品のガイド本によって以前から知っていました。それで大阪の東洋陶磁美術館の所蔵品を見に行って、ちょっと違うのではないか?と思ったこともあったのですが、それからもう長く経ちますし、今の自分の目で見たらどうなんだろう? と考えて、足を運ぶことにしたのでした。  

■青磁の略史と発色の違い
青磁は、およそ3500年前の殷代中期に作られた「原始瓷器(しき)」と呼ばれる本格的な施釉陶器の流れを汲んだ陶磁器です(補記1)。技法が確立した後漢期の紀元1世紀頃から現代に至るまで営々と焼き続けられ、中国陶磁の主流を担ってきました(補記2)。
器の表面にガラス質の釉薬(うわぐすり)をかけて焼成され、そのとき釉薬中の鉄分が炎の還元作用によって「青とも緑とも呼べない微妙な色」に発色することから「青磁」の名があります。ただ、ひとくちに「青磁」といっても、その色は器によってさまざまです。釉薬の質、母胎となる土、焼成条件の微妙な違いで、発色がまるで変ってくるからです。
美術館の受付でもらったリーフレットには、「青磁の色は地方・時代でちがいます。唐代の越州窯の青磁はオリーブ色、宋代の耀州窯は黄色みがあります。龍泉窯は、南宋から元時代には明るい青緑ですが、明時代には暗い緑色になってゆきます。鉄分の含有率などの粘土と釉薬の性質、炎の具合でも異なりますから、青磁の色は一点一点異なるとさえ言えるのです」と説明されています。
言い換えれば、「これが青磁の色」という決まった色はないことになりましょうか。

しかし一方で本展の図録を開くと、「青磁は灰釉陶の流れを受けて漢代に完成されたが、なお数百年は青磁特有の美しさを示すことがなかった。漢代青磁も古越磁と言われるものも、いわば原始的な青磁であり、生産地は次第に拡大したが、青磁はまだ揺籃の中にあったと言わなければならない。
青磁が青磁らしさを発揮するようになったのは、唐代後期、越窯が盛んになってからのことである。越窯の青磁は邢窯の白磁と競い合いながら、中国国内に行きわたり、海外へも輸出された。
白磁は隋〜唐代にかけて技術が完成し、生産が盛んになった。「端渓の硯と邢窯の白磁は、天下貴賎無くこれを用いる」といわれるほど普及した。唐白磁の完成と一般への普及に対して、越窯はその独自性と優越性を強調しなければならなかった。そこで青磁らしさの追求が始まり、その結果として現れたのが、宮廷御用品としての秘色青磁であった。その精巧な作調はともかく、淡い青緑色をしたつややかな青磁釉には、独特の深く静かな美しさがあり、それはもちろん白磁には求めても得られない、青磁だけがもつ魅力的な美しさであった。」(図録 「青磁の美」 出光美術館 2006) とあって、一般には唐代後期、越窯青磁以降の作品が、青磁らしい特徴を具えた青磁であると指摘されています。

■越窯の青磁
この越窯の青磁ですが、8世紀、唐の陸羽(AD733-804)の「茶経」には、「邢瓷を銀にたとえるなら、越瓷は玉である。邢が越に及ばない理由の第一だ。邢瓷を雪にたとえるなら、越瓷は氷である。邢が及ばない理由の第二。邢瓷は白いので茶の色は丹となる。越瓷は青いので茶の色は緑となる。邢が越に劣る理由の第三である」とあって、白磁に優るものと評価されていたようです。(へんな理屈ですが)
また越窯の上品は、後世「秘色」と称えられるようになりました。

本展の説明パネルに、「本来、「秘色」は晩唐期(9世紀)の上質の越州窯青磁を指した呼び名です。「秘色」の語が最初に見られるのは、晩唐の陸亀蒙(りっきも)(〜881)の詩の題名「秘色越器」であり、同詩に「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来」とあり、秋の日に越州窯の窯が開かれると、その色は峰々の翠色を奪ってきたようだと形容して、越州窯青磁の釉色を山の緑の美しさにたとえています。以来「秘色」は越州窯の精品の釉色を指し示す言葉として用いられるようになりました。
また1987年、陝西省扶風県の法門寺の唐代仏塔の地宮から、端正な器形で美しいヨモギ色の青磁釉のかかった上質な越州窯青磁とともに咸通十年(874)銘の奉納物が出土し、「瓷秘色」と明記されていたことから、晩唐期の秘色青磁の実態が明らかになりました。
いっぽう、中国語の「秘」(ぴい)の音は「碧」(ぴい)=青緑色と同じ(Bi)であり、「秘色」は青緑色の別名でもあります。
なお、高麗青磁に用いられる「翡色青磁」の呼称は翡翠色の青磁で「秘色」とは異なります。」と紹介されていました。

では、越窯青磁の色は玉に似ているでしょうか。
今回の企画展では、入口すぐのところに古い玉器4点が展示されていました。殷代二里頭期の玉戈、殷〜西周時代の玉戚、新石器〜殷時代の玉斧、戦国時代の玉璧で、いずれもホータンに産地が発見され、大量の玉が中原に入ってくる前漢期以前の器物です。
 上2つはちょっと珍しい調子の玉で、新潟県糸魚川産の翡翠に「コバルトひすい」と呼ばれる暗灰青色の部分を含んだ石がありますが、それに似た暗青色の斑や脈を含んでおり、地色は淡い水色でした。後の2つはこの時代の一般的な青白玉で、くすんだ白〜淡緑〜暗緑色で色調にムラのあるタイプでした。この4点を代表に選んだ理由は説明されていませんでしたが、推測するに、前2者の青まじりの玉は青磁の青みとの関連で、緑っぽい後2者は、青磁が帯びる緑味との関連で提示されたのでしょう。 
玉器の後に、さまざまに釉色の異なる70余点の青磁器が並べられていました。これら玉の色調と青磁のそれとを比較してみて下さいという趣向でしょう。

その中で、くすんだ灰緑色の玉に多少なりと似ていたのは(淡い水色の玉は似た色の青磁がなかったです)、五代〜北宋時代の越窯系のいくつかの作品だったと思います。それらについては(個別的に)玉との類似を語っていいかもしれません。ただ、私としては、対照に挙げられた玉とそっくりな色の青磁はすべての展示品を通して皆無であって、越窯系の青磁といえども色沢の再現を目指したというほどは、玉に近い色でなかったと言いたいです。

ちなみに法門寺出土の「秘色」青瓷は、「一般の越磁とは全く違って、薄手の端正な姿をした碗や皿で、淡い青緑色の釉薬がかかった、つややかな青磁であった」ということですから、本来の秘色は今回展示されていた越窯青磁の色とはまた異なった色あいのものであるかもしれません(見てないので分かりませんが)。
それにしても、パネル説明からして、秘色は山並みの緑の色を映した器だとの言説を紹介しているのですから、玉との類似はどうなったのだ?と不審な気がします。
また上述の出土品が現れるまで、秘色の実態は中国でも長い間不明のままだったそうなので、「玉に類する」と茶経にあっても、誰にも確かめようがなかったでしょう。

余談ですが、越窯の青磁は日本にも渡来しました。源氏物語(AD1000年頃の成立?)の末摘花(すえつむはな)の巻に、「御台 秘色やうの唐土のものなれど 人わろきに 何のくさはひもなく あはれげなる まかでて人々食ふ」と、唐渡りの高価な秘色の器を用いながら、つましい食事をしている末摘花の様子が描写されています。

かく秘色と讃えられた越窯の青磁ですが、やがて窯を経営していた五代十国の呉越が宋に討たれたため、一地方の窯となり下がってしまいます。
しかし不純物を含まない素地(きじ)を練り上げたり、秘色の青の発色をもたらす釉薬を調合したり、1300度に達する窯の高温度を管理したりといった技術は当時の最先端をゆくものでした。宋(北宋)の朝廷は、天下を統一した後も越窯から青磁を貢納させ続けました。

■汝窯の青磁
芸術天子、徽宗の時代(在位AD1100-1125)になると、首都汴京の近くの汝州(河南省)に窯が新設され、そこで越窯をしのぐ青磁が焼かれるようになりました。
汝窯(じょよう)青磁と呼ばれるもので、宋が金に滅ぼされるまでの19年間、他に類のない発色の優品を世に送り出しました。
その色は「雨過天青(うかてんせい)」といって、雨が上がった後の空のように澄んだ青色が命です。伝説では、徽宗に皇子が生まれたとき、雨が止んで雲が切れ、青空が現れました。徽宗はその空を指差して、「あの空の色を再現せよ」と命じました。そして工人たちが苦労の末作り出したのがこの器の色だといいます。
色の秘密は釉にめのうの粉末が混合されていることにあるとかで、宋の朝廷は各地から献上されためのうを加工して器や装飾品を作っていましたが、そのときに出た粉末を釉に混ぜたと古い文献にあるそうです。(技術的には北の邢窯白磁の伝統を踏襲)

汝窯青磁は、「玉に似るも玉にあらずして玉に勝る」との評があります。玉に勝るというのですから、評者はこの磁器に玉を超える価値を見出したのでしょう。ただ、こんな感じの淡青色の軟玉はけして一般的なものではありません(→cf. フォンセン・ブルー・ジェード)。実際の玉と比べて優劣を述べたというより、汝窯青磁の色沢の清爽な美しさを称揚するために、古来もっとも貴重視された玉を観念的に引き合いに出したとみるのが妥当でしょう。(本展では汝窯青磁は展示されていませんでした)

■龍泉窯の青磁 ほか
北宋が北の異民族・金によって滅ぼされると、徽宗の子・高宗は南方に逃れ、臨安に都を移して国を再建しました。南宋の朝廷は磁器職人を北から呼び集め、再び直営の窯を開きます。朝廷の修内司が管轄していたところから「修内司官窯」と、あるいは後に窯が郊壇(歴代の皇帝が天を祀る天壇)の下に移されたと伝わることから「郊壇下官窯」と呼ばれます。しかし、汝窯の色彩と造形が再現されることはついにありませんでした。

一方、この時代には、かつての越窯の流れを汲む龍泉窯(りゅうせんよう/浙江省南西部の山中にあった)が優品を生み出し始めます。龍泉窯は北宋時代には民間窯として主に生活雑器を焼き、ときに朝廷に良品を献上していた地方窯だったのですが、南宋になって都が近くに移ったため、朝廷から直接注文が入るようになったのです。
龍泉窯の青磁の色は、梅子青(ばいしせい)、葱翠青(そうすいせい)と呼ばれて賞賛され、やはり古玉の味わいにたとえられたといいますが、私は詳らかにしません(より純粋な青に近い青磁の色を「粉青(ふんせい)」と呼び、この語は汝窯青磁の色を表しますが、龍泉窯にも粉青の作品があるそうです?)。
分析によると、素地には鉄分を含んだ雲母が混入されていて、それが素地自体に微妙な青を発色させ、また長石を多く含んだ釉薬を用いることによって、焼成の際に細かな気泡が生じ、落ち着いた色合いがつくられるのだそうです。

南宋代の青磁は日本では「砧青磁」または「砧手」の名で親しまれています。なめらかで明るい釉色をもった上質の青磁であり、日本人の美意識に適った美しく艶のある色あいだと言えましょう。その名は布を叩く「砧」を立てて置いた形の瓶が典型だったことに因ります(別説あり)。
ただこの色もやはり玉の色とは思われず、むしろ、深山に横たわる湖水のような色、または淡い緑のトルコ石の色と形容したい気がします。少なくとも、こんな色の軟玉を、私はまだ見たことがありません(自分のもの識らずは承知していますが)

 龍泉寺窯の青磁で日本に伝わったものに、「馬蝗絆(ばこうはん)」という有名な器があります。平重盛が宋の寺院に黄金を寄進したとき返礼に授かった品で、後に室町幕府に渡って将軍・足利義政が愛用しましたが、彼の代に割れてしまいました。あまりに惜しいので明国に送り返し、同じ類の器を送ってほしいと望みを託しました。のですが、明国ではもはやこんな素晴らしい器は作れないということで、破片をかすがいで止めて修理して返しました。今は東京国立博物館に収められています。この器の色も軟玉の色というより、やはり淡色のトルコ石あるいはクリソプレーズ(緑玉髄)のニュアンスでしょう。
余談ですが、中国映画「初恋の来た道」で、継ぎ職人が割れたどんぶり鉢に穴を開けて、金属のかすがいを打ち込んで修繕するシーンがありました。映画とはいえ、それは見事な手わざでした。

このほか、日本では、元・明時代の黄色味を帶びた沈んだ緑青色の青磁を「天竜寺青磁」、透明な淡い翠青色で特徴的な貫入が入った明末期の青磁を「七官青磁」などと呼んで区別していますが、いずれも玉の色というにはちょっと…??かと思います。

冒頭に、ちらと書きましたが、どうも私は青磁と玉とが似ていると観じる感受性に恵まれていないようです。

■玉器を象った青磁
「青磁は玉の色沢の再現を求めたもの」という仮説について、美術館のパンフレットは、「どうして中国の人々は、2000年もの長い間青磁を愛用し続けたのでしょう?その理由は、中国の人々が金銀より玉という一種の石に、美しさや尊さを感じる、独特な感覚をもっていたからです。中国の西の崑崙山でしか採れないという玉は、神秘的な光沢を放ちます。人々は、玉には”徳”−優れた性格や力があると考え、貴族は身分の印に身につけました。この貴重な玉をやきもので再現しようとしたのが、青磁だったのです」と、断定に近い形で記述しています。しかし展示説明パネルでは仮説として提示するに留まり、どの青磁器が玉の色に合致しているかという議論や、仮説に対する美術館なりの考証はほとんどなされていませんでした。観覧者の感性に判断を委ねていたようです。

唯一、仮説に触れていたのは、南宋期の青磁j形瓶(龍泉窯)に添えられたコメントだけでした。この青磁は、良渚以降、西周の頃まで使用されていた古代中国文化を代表する玉器「j」(そう)を象ったものです。「j」は方形柱状の玉に丸い孔を貫通させた形をしており、もともとはなんらかの祭祀に用いられ、やがてステータスシンボルとして尊崇されたと考えられますが、実際の用法は漢代までに分からなくなっていました(⇒ひま話 「太陽と鳥1」)。
説明パネルの主張は、古代に玉で作られた道具が(色のよく似た)青磁で作られているのだから、青磁は玉の色沢の再現を試みたものであるとの仮説に説得力があるということでした。しかし、玉器「j」が実用に供された時代は千年以上も昔に終わっていたことを考えると、なぜこの時代にそんな試みをする必然性があったのか首をかしげたくなります。

以前「軟玉の話1」に次のように書きました。
「前漢以来、ホータン玉は事実上、玉文化の発展を一手に担ってきました。前漢、後漢を通じて、玉器の用途はさまざまに拡大し、加工法も発達しました。この時代の彫刻は繊細で、遊糸白描と賞賛される細い線刻が特徴となっています。この後、中国は三国・晋・十六国・南北朝時代に入って戦乱が続き、一時玉器の生産は質・量ともに低下しますが、隋、唐時代に政治が安定すると、再び進歩を遂げました。羊の脂のような温かみと潤いを持ったホータン白玉の持ち味を十分に活かした美しい玉器が盛んに作られたのはこの頃です。この時代の玉器の特徴は、祭祀器としてよりも美術工芸品の素材として、絵画や彫刻と歩調を合わせるように発展していることです。宋の時代は、芸術性がさらに増し、一方、古代(主に周代)の青銅器や玉器を模した工芸品が珍重されるようになりました。古代玉器の模造品、また玉を焼いたり地中に埋めたり、煙でいぶしたりして人工的に古味をつけた倣古(ほうこ)玉が盛んに作られました。」
宋代にはたしかに古代器物のデザインの復古(模倣)がもてはやされたのですが、それは焼き物やら玉やらを素材にして、古典的な(すでに宗教性を失った青銅器や玉器などの)デザインを倣ったということであって、玉器の代用を青磁で行ったわけではないと思います。 

とはいえ私はこの仮説を否定するほど事情に精通しているわけではありませんし、むしろ仮説を信じたいと思っていることを言っておかなくてはなりません。
古屋奎二氏は著書の中で、
「宋までの中国の陶磁器は、祭祀に用いられる青銅器の形を模し、神秘的な霊力を持つと信じられた玉の色を再現しようとする努力によって発展した。その意味では、陶磁器という器自体、霊力の宿る文物だったのである。そう考えると、汝窯の素朴な造形と色彩は、宋の人たちが「天」すなわち自然との調和を願う精神の具現といわなくてはならない。」
「宋の陶磁器は単色のものが貴ばれた。象牙の白さを再現したような「牙白」といわれる定窯の白磁、「雨上がりの空」を映した汝窯の青磁などがよく知られる。…宋時代の陶磁器は、形は古い青銅器にならい、色は玉の色を再現するところにあったといわれる。青銅器も玉も、古代から天地の神や先祖の霊を祀るときに用いられた礼器であった。宋の人たちは土による自由な造形によって、古代の神霊をしのぼうとしたのだろう。」
と、繰り返し述べられています。おそらく、まだ私の知らない、また本展では言及されなかったなんらかの典拠があるのでしょう。
(古屋氏の文章を読むと、玉を模したのは青磁に限らず白磁を含めた陶磁器だったようで、そう考えると古代に帝王の玉とされた白玉への連想が自然と思い浮かびます)

また中国人の色に対する好みが古代から続く玉文化の影響を強く受け、そうした好みの延長線上に白磁や青磁の色があり、発色への努力があったということは十分に考えられることでしょう。これは考証でなく感覚的にそう思います。

以上、青磁と玉との関連性は私には未解決のテーマです。今回の展示会ではそれに対する明確な答が得られませんでした。しかし、美しい青磁器をたくさん見られたことは、とてもありがたく、よかったと思います。
これまでに見聞したことを、暫定的ですが整理し、記しておく次第です。
おわり。

補記1)3000年以上も昔の殷墟帝王墓からも、青銅器や玉器とともに、青と白の2種類の陶器片が発掘されて話題になった。土をこねて器とした土器は、割れやすいし、水が漏ってしまう。しかし、これに釉をかけて焼成することによって、堅く、水を漏らさない陶器となる。この技術が実用化されて間もなく、すでに「青」と「白」の陶器が作られていたことを物語る。青い陶器片は、天地の神や、先祖の霊に、肉を供えるために用いられる青銅器の「豆(とう)」という祭祀具をかたどったものだった。当時、青銅器はよほどの権力者でなくては手に入れることのできない貴重品だった。祭祀にあたって、重要な役割をになう青銅器の代用品として、青い陶器が用いられたものだろう。事実、周時代までの小規模な墓からは、青銅器の代わりに陶器の副葬品が発見されることが多い。それも日常生活に使われた陶器ではなく、明らかに葬礼のための副葬品として作られた陶器である。(古屋奎二著 「故宮の秘宝」 二玄社刊 1998 より)     >戻る<

補記2)漢代青磁の最古の遺例は、これまでのところAD67頃の墓から出土したものです。>戻る<

(補記3)この展示は昨年、東京の出光美術館で開催された企画展を、年遅れで門司でも開催したもののようです。

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