490.青色ひすい Jadeite (日本産) |
青みがかったひすいである。誰が呼んだか、コバルトひすいの愛称がある。「コバルト」の語が顔料のコバルトブルーをイメージしていることは、「コバルトの空」というスポーツ番組定番の行進曲がよく知られているから、「空」との連想によって思い浮かばないでもない。が、鉱物の名に用いるとコバルト元素を含んでいるとの錯覚を呼ぶ。凝らず、単に青ひすいと呼んだ方がいいだろう。(ちなみに子供の頃、私は、「コバルトの空」は何か原爆体験に関係あるのかと思っていた。長じては、スターウルフ・ケンが♪あの日みた空とか)
発色には鉄、チタンなどが関与しているらしい。フォッサマグナ・ミュージアムの研究によると、青色の部分は実際にはひすい輝石でなく、チタン含有量が最高 6.6 wt. %に達するオンファス輝石であるとのこと。ちなみに青海や糸魚川周辺で採れるひすいの場合、ひすいの特徴である鮮翠色の部分も、やはりクロムを含むオンファス輝石であるという(白い部分はひすい輝石)。(補記)
このあたりの海べりで見出されるひすいは、縄文時代の前期末から古墳時代に至るまで、石器や祭祀器あるいは装飾具に加工された長い歴史がある。知られている最古の加工品は山梨県の天神遺跡から出た大珠で、約5000年前のものと比定されている。やはり糸魚川付近に産したものだろうという。
別のところで書いたが(⇒ひすいの話1)、糸魚川流域はフォッサマグナが通る日本有数の断層地帯で、硬玉(ひすい)のほかに蛇紋石や軟玉の産地でもある。縄文時代には、木を伐ったり加工したりする石斧にこれらの強靭な石材が好んで用いられたとみられ、そうした中で生活用具ではないひすいへの愛好が育まれていったらしい。後に小型の獣形勾玉や獣牙形の勾玉など、独特の器物が一帯を加工拠点として製作され、全国に広まってゆく。
初期の大珠は墓の中から、それも人物のお腹のあたりに置かれた状況で出土していることから、同時代に類似の埋葬風習があった中国山東省の大汶口文化(BC4300-2400頃)との関連が示唆されている。玉器への愛好はあるいは中国から渡ってきたDNAかもしれない。大汶口では死者の手にキバノロ(鹿の一種)の牙を握らせる風習もあったそうで、勾玉文化の淵源であるかもしれない。
それにしても奇妙なのは、時代の古い大珠や勾玉にはあまり宝石クラスの美品がないことである。時代が下ってそれらの器物が不要になったときに、別の器物に再加工されて残っていないということも考えられるが、出土品を見るかぎり、ひすい特有の翠色へのこだわりはさほど感じられないように思う。良質のひすい原石は今でも結構発見されていることだし、欲しければ手に入らなかったわけはないと思うのだが。その点、中国の古代玉器と同様の傾向があるようで個人的に興味を持っている。
ところで、ひすい文化は奈良時代までに衰退を迎え、やがて完全に歴史上から消滅してしまう。その経緯もまたよく分からないが、国立科学博物館の図録「翡翠展」に松原聰(さとし)博士が示した推測は、慧眼であり、説得力もあると思うので、以下に紹介したい。
博士はあるものが不必要になる理由として
1.必要であっても入手が困難、またはよりよい代用品が見つかったため
2.使ったり所持していると罰せられるため
3.必要がなくなったため
の3つを挙げ、その上でひすいをこれに当てはめて考えている。1は今でも糸魚川流域でひすいが採集できるので否、2も仏教によって国がまとめられていく過程でのひすい文化の否定はあったとしても罰するほどのことはないから否、そして3がひすい文化消滅の理由らしいとしている。
「縄文時代から形態は変化するものの、翡翠は副葬品として見つかる場合が多いことである。生きている時に何に使ったのかはわからないが、亡くなって一緒に埋葬したわけである。故人が好んで使っていたものを一緒に埋葬することはきわめて自然なことである。しかし、別の考え方をすれば、埋葬するために作っていたのかもしれない。魂を鎮め亡者として出てこないよう、あるいは再生を祈って、心臓の近くに置いたのかもしれない。もし、この翡翠が権力や富の象徴であったなら、副葬品という役割を終えても、形態を変えながら代々伝えられても不思議でない。しかし、誰もが興味を持たなくなったからこそ歴史から消えてしまったのだ。つまり「少なくとも古墳時代の終わり頃には、翡翠が現在考えるような宝石の概念にあたる石ではなく、祭事、鎮魂あるいは再生願望の石であり、それが飛鳥時代以降は全く不要になった」というのが翡翠文化消滅の理由ではないだろうか」
図録の別の箇所では別の執筆者が、弥生時代の遺跡等から出土するひすい製品は1個か多くて5個までであることを指摘しつつ、ひすいは非常に貴重で権力の証であったと示唆しているが、博士はその説をとっていない。実際、それほど貴重であるのなら、果たして埋葬して地上からなくしてしまうのか?という疑問に対する、この説はもっともらしい回答になっているように思う。
また、埋葬を前提とした消耗品であるのなら、品質にこだわりを持つ必要もなかったのかもしれない。(それなら生者は宝石質のひすいを使用していたか?)(※因みに中国では貴重品を権力者の崩御に伴って実際に埋葬してきたが、一方で時代や王朝によっては生者が用いる玉器と葬礼用の玉器の材質を分けて、後者に質の劣るものを用いた例がある。玉葬は漢代にもっとも盛んになったが、魏晋南北朝期には法で禁じられた。)
最後に。コバルトひすいは一定の人気があるが、浅学ながら知る限り、その愛好はかつてのひすい文化に目立って語るべき例これなく、むしろ現代のレアアイテム文化の中で新たに生まれた嗜好だろうと思う。
cf.ひま話 2004年科博「翡翠展」 ひすいの話1
cf2. 保育社「原色鉱石図鑑」(1957)にはすでに小滝村産の青碧色の翡翠が示されている(図版55)。(が、「コバルト」の語はない)
補記1:コバルトと原爆の関わりだが、私が子供の時分は「コバルト爆弾」という言葉がテレビドラマなどでそれらしく使われていたのである。
自然界の元素コバルトは質量数59の非放射性物質だが、原子炉中などの高中性子環境では質量数60の同位体が生成される。これは半減期
5.3年の比放射能の高い物質で、比較的高エネルギーのガンマ線を放射する。コバルト爆弾とは、自然コバルトを混在させた核兵器で、爆発時のコバルト60生成により、殺傷力を高める意図を持つものである。つまり普通の原水爆よりさらにアブナいイメージの兵器である(実際には作られていないらしいが)。
因みにコバルト60の発するガンマ線は比較的厚い鉄板を透過する能力があるので、炉のレベル計や鋼材の溶接部検査に用いられる。日本では新幹線建設事業の当初からレール検査に採用されたことで知られる。医療・研究用途でも「コバルト照射」(放射線治療)という言葉が馴染だった(現在は直線加速器で発生させたよりエネルギーの高い放射線を利用している)。
補記2:糸魚川・青海地区の青色ひすいの発色がチタンと鉄とによることはおおむね定説となっている。チタン含有量についてフォッサマグナミュージアムは約7%に達すると報告したが、2017年のG&G誌の記事では最大値は 0.75 wt% とあり、また1点がオンファス輝石である以外は多数の試料がひすい輝石と判定されている。試料によって随分ばらつきがあるのかもしれない(分析手法によっても)。
追記:中国の玉の歴史は 8,000年にわたる(国立科学博物館「翡翠展」)。良渚文化(BC3300?-2200?)の遺跡では完成度の高い大量の玉器が発見されて、「玉器文化の華」と称えられる。この頃には高度の石器加工技術が確立していたのである。
cf. 太陽と鳥1
日本では5,000年前から石器の材料にひすい輝石が利用されているが、その製作・技術はおそらく大陸ですでに盛んだった石器文化の延長上にあるものだろう。
初期のひすい大珠が埋葬儀礼に関連すること、中国山東省の大汶口文化のそれに類似することを本文に書いたが、大汶口文化圏は良渚文化圏と交流があった。これら文化圏の玉信仰は殷、周を経て春秋〜漢代に再び大きな花を開かせる。背景には西域からの多量のホータン玉の流入と、文化の爛熟による神仙思想の流行とがあった。金銀糸で綴った玉衣や含玉の埋葬儀礼がよく知られる。葬玉の風習は長く続いていたのである。cf. 軟玉の話4
一方、日本では縄文時代に東日本に広く流通していた玉類(ひすい)は、弥生時代になると西日本が消費の中心となった。製品としては勾玉が主流になり、これを模したガラス製の勾玉も増える。勾玉は多く身装品に用いられたとみられ、墳墓中でも身体につけて埋葬されている。
古墳時代には有力者の墳墓の規模が大きくなり、副葬品も多数に上ったが、そうなると逆にこれを惜しむ気持ちも高まったと思われる。
中国では後漢から三国時代に移る頃、盗掘の横行もあって玉衣埋葬を禁じる国が現われ(AD2-3C)、(おそらく仏教の伝来や仙薬ブームが与って)六朝期に葬玉の風習が廃れる。隋・唐期(AD600年前後)にはすでに過去のものであった。
そしてこの頃日本に伝来した中国の新しい文化や仏教は日本人の生活習慣や精神風土に劇的な変化をもたらしたと思われる(※百済からの仏教伝来は538年頃、四天王寺の創建が
593年)。祖霊・神霊に対する意識の変化が起こり、篤い葬礼をしなくても(後生/来世に)何の問題もないという死生観の変化が生じたかもしれない。
大化2年(646)年に布された薄葬令は、「死者に含ませる珠玉は必要ない。玉の飾りを用いた衣や飾り箱は無用」と指示している。それまで葬玉儀礼が続いていたわけだが、以後ほどなくして廃れる。(※とはいえ、13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」はジパングの風習を伝聞して、「人が死ぬと口の中に真珠を含ませる」と述べているから、含玉の風習は当時の中国では東海の国の(野蛮な)風習として未だ記憶されていたようだ。ちなみに正月にいただくお屠蘇の風習は唐代に日本に伝わった。中国では早くに廃れたが、長く日本に残り、清代に来日した中国人を驚かせた。)
飛鳥時代にはまだ勾玉などの玉類を、地鎮のため仏塔の礎石に多数収めたり、仏像の荘厳具に用いることがあった。しかしそれらは旧時代の遺物で、新たに玉類が製作されることはなく、また人々が身に着けることもなかったようである。
飛鳥末の高松塚古墳(7C末~8C初)の壁面に描かれた人物群は唐風の装束を帯び、玉類の装身具は見られない。
ちなみに中国への仏教伝来は AD1C頃で、
3Cから仏典の漢訳が始まる。中国の玉器文化はAD2C頃から晩唐にかけての数百年間、退潮期にあったが、その後また盛んになる。しかし新たな玉器は宗教儀礼とは無縁の装飾・愛玩品(倣古玉)となっていた。葬玉の風習も戻らなかった。
(土中で風化されていない羊脂玉の玉器作品が残るのもこの頃からで、晩唐から宋代にかけて優品が現れる。)
ひすい文化衰退の原因について、本文中に松原博士の説を紹介させていただいたが、今の私としては、あるものが不必要になる理由の2、「使ったり所持していると罰せられるため」というのは、旧来の信仰に代えて国家的に新たな宗教・規範を取り入れる過程では、有形無形の圧力・迫害はむしろ大いにありそうなことに思われる。
また理由の3、「必要がなくなったため」についても、例えば明治維新の際の急激な西洋化に見るように、国体が急激に変化する時期にはあたかも自発的に起こったかのように旧来の風習が捨て去られ、あっという間に新しい文化に移行するということがありうると思われる。必要がなくなったというよりは、深く考えずに新しい文化モードに迎合したといった方があたっていそうである。
ところで心理学者のユングがよく語ったエピソードだが、アフリカのある地方では部族の指導者は「大きな夢」を見ることがあり、それを判断して民を導いていた。ところがイギリス人がやってくると、彼らは夢を見なくなった。状況を判断したり、どう行動したらいいかといったことは、イギリス人の総督がみんな心得ていて面倒をみるからだという。
玉器文化は古来日本人にとって何らかの精神的な支えになっていたと思われるが、ある時期を境にその繋がりが切れてしまい、気がつけば新しい生活と引き換えに心の中から失われていたのかもしれない。
日本では
20世紀半ばのひすい産地の発見、20世紀末の鉱物ブームによって、国産ひすいへの関心を高めようとする動きが起こった。そのモチベーションはしかし、かつての勾玉文化への精神的回帰とはまったく違ったものだと思われる。(2020.6.14)
※「日本書紀」巻25, 孝徳天皇大化二年(AD646)2月22日、詔。
「朕は聞いている。西土の君がその民を戒めて、古の葬りは(身分の)高さによって墓をつくっている。不封不樹で、棺や槨、骨、衣ともに朽ちて完るだけである。そこで丘墟不食の地に墓をつくって、世代が変わると、どこに葬ったかもわからないままで、金銀銅鉄を蔵する(副葬)こともなかったと。ただ瓦の器と古の塗車芻霊、明器、棺はその際に漆を塗り、奠は三過飯で、珠玉を口に含ませることもなかった。珠衣腰衣もなかった。もろもろの愚かな俗である。また葬は蔵すことで、人の見えないところに埋めるものである。このころわが民の貧しさの甚だしいのは、墓を営むのに専すことにある。…」(李家正文「真珠と珊瑚」より)
※ 魏王曹操は薄葬を強く提唱し、建安10年(AD205)、「民に私讐を復するを得さしめず、厚葬を禁じ、皆之を法において一」つにすることを命じた。また遺言に「斂するに時服を以てし、金玉珍宝を蔵すこと無かれ」と述べた。その後、魏の文帝曹丕は厚葬を天下動乱の原因とみなして、黄初3年8(AD222)、「含をふくますに珠玉を以てすることなくく、玉襦玉匣(玉衣)を施すこと無かれ」と勅した。こうして漢代に隆盛した玉衣斂尸の葬礼が厳格に廃された。