693.石膏 Gypsum (オーストラリア産)

 

 

石膏 矢筈形双晶 -オーストラリア、SA、アイアンノブ近郊ジリーズ湖産

 

我々は忘我と熱狂の瞬間に留まっていることはできない。世界創造神が創造の後には隠居して遠く去るように、黄金時代とアトランティス(理想郷)もまたつねに遠くに去る。我々日本人はその「移ろい」を世界の成り立ち方として受け入れる。一方ではあらゆるものが神を宿す瞬間を持ち、旅人である神の来訪はいつかまた繰り返されうる、と信じている。その時はあるいは生涯一度きりであるかもしれないが、みの笠被って偽装した神がふいに(定期的に)戻ってくることも否定されてはいない。我々はただ安心立命のうちに静かに待つ姿勢を教えられる。

西洋でもそのような考え方を持つ人はあるだろうが、一般には楽園からの退去は追放、失墜とみなされる傾向にある。そして原因が人間の性質のうちに求められる。裡なるこころは分立して理解され、誘惑された初動責任が女性性に、男性性には自らを神に並ぶ者とみなした高慢と欲望の責任が問われる。かく堕落の原罪は2極の共同責任として標識される。
楽園は還るべき故郷であり、男性は意識的努力によって罪を浄め、かの地に戻ろうと試みる。だが神が父性であり秩序である以上、それはまあそんなにうまくはいかない。ところが清らかな女性の愛に導かれて悔悛するときは、なぜだかほとんど罰らしい罰に苦しむこともなく天上に引き揚げられてゆく、のであるらしい。

例えば「神曲」では、ダンテはただただベアトリーチェの美しい頬にぽ〜っと見惚れ続けることによって天界の最上層(至高天)まですらすら昇っていけたし、ゲーテにあっては、ファウスト博士の生涯にわたる悪魔との契約上の負債が、マリア(聖母)とグレーチヒェン(悔い改めた昔の恋人)との介入によって、あっさり反故にされてしまう。母性(と自由意志と)の勝利である。
それはちょうど道に迷った子羊というか、ちっちゃな男の子が、元気が余って遠出して恣意にまかせて遊んでいるうち夕闇が迫り、茫然と立ち尽くしていると、心配して探しにきた女性に見つけてもらって強く叱られる。そして悔悟だか安心感だか嬉しさだかで今しも泣き出さんばかりのところ、優しく頭を撫でられて、「もういいから。さあ、お家に帰りましょう」と手を引かれてゆくようなもんである、と私には思われる。

随分男性に都合のいい話にみえるが、これは一人の人間の心の中で展開されるプロセスなので、肉体上の性別とはひとまず関わりがない。男であれ女であれ、まず男性性(アダム)が意識され、ついで女性性(エヴァ)が力を持ち、相伴って失冠の道を歩む、というか気がつくと暗闇の淵に佇んでいる。それから(男性の理解を超えたところで)女性(無意識)が先に目覚めを迎え、午後の上昇気流を捉えた女性(我が貴き婦人)は男性(意識)を救済して、全き人間となる。後から来たものが先に立ち、エゴは最後まで抵抗するが愛によって溶け、人類補完計画は完了する、そういう構造の物語なのである。あるよね。あろうか?… あんた、ばぁかぁ?

いずれにせよ人はみな瞬間的な楽園の記憶を抱えて浮世(憂き世)を生きてゆく運命にあって、あがいたり、あがかなかったりしながら、最後には永遠の楽園に入ることを予期している。そしてその途上で、ときたま至福の閃光を浴び、憑神・忘我の時間を、一時的な楽園再回帰を経験するように出来ている。
言い換えれば、我々は訳も識らずひたすら心のうちに「好きだ〜」と念じ続けて「かの時」以後の生を送るのであるが、鉱物愛好家においては、一時回帰の瞬間がたまたま趣味の時間であり、鉱物とのひとときである、ということであろう。
そして女神が天が下を照らす国の我等は、どちらかというと西洋流儀のドラマティックな葛藤や理詰めの構造解析とは無縁に、「ええなあ」とか、「粋なもんです」とか、「う〜ん、まんだむ」とか、「さーびす、さぁびすぅ」とかつぶやきつ、脳天気に鉱物を眺めて過ごして了るのだが、このテキストを綴りながら思ったのだけれど、我等のこうしたシンプルな振る舞いは実は、ベアトリーチェの頬に見惚れているうちに楽園に入ったダンテのそれと、ほとんど等しいような気もしてくる。我等が庭の 美しき気高き 鉱物たち。

画像は石膏の矢筈形双晶。結晶内部に茶色い砂のインクルージョンがあり、おそらくは結晶構造の転回に呼応して角錐状に氷結されている。矢筈の中に、かの地へと貫通すべき先駆けの鏃(やじり)が封印されているのであり、見入れば、激しい角速度を持つ砂嵐も幻視される。これは地獄への大渦を巻く下降線か、それとも憧れの炎に翻弄される天界への竜巻螺旋か、と迷う。

補記:「サクラ大戦」のあやめさんは「罪科の道に落ちたサタンと共に歩み、そして導く者」であって、彼女に思慕を寄せた大神には、「コラ!何て顔してるの。男の子でしょ。しゃんとしなさい」と叱ってから、天に昇っていく。「よろしい。じゃ、またね。大神くん」
ついでながら、我々は大枚はたいて鉱物標本を購うときにこう言う。「か、体が勝手に…」

補記2:チベット仏教の聖者ジェツン・ミラレパは、マルパに師事し最後には大悟を得たが、悪業に染まったミラレパに教えを授ける前に、マルパはそれはそれはたいへんな試練を課した。ミラレパがなんとかその時期を通過できたのは、マルパの妻(つまりはミラレパにとって精神的な父となるマルパに対して精神的な母)である優しい女性ダクメマの励ましと援けがあったからのことである。
仏教の祖となる釈迦は激しい苦行の果て、善生スジャーターから乳がゆの供養を得て心身を回復した後に、菩提樹の下に座して悟りを開いた。
だいたい、昔話や神話において、男性は女性の援けを借りてようやっと困難な試練をクリアするんである。

補記3:ヘッセの「荒野のおおかみ」。ヘルミーネは言う、「あなたが私を好きなのは前に言ったような理由でよ。」「私があなたの孤独を突き破って、地獄の門の前でつかまえ、あなたを呼びさましたからよ。」

補記4:ベルヌ著「80日間世界一周」のフォッグ氏は、あらゆる知恵と手段を尽くして世界をひと巡りしたが、「けっきょく、彼はこの旅行からなにを得、なにを持ちかえっただろうか?なにもない、と、人はいうだろうか?もちろん、ひとりのうるわしい女性以外に、なにも得るところはなかった。しかし、ちょっと信じられないことだが、その女性は彼をもっとも幸福な男にした。」(田辺貞之助訳)

補記5:サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。ホールデンのとめどなき彷徨を打ち止めして帰還へのターンを切らせるのは、彼の心の真底まで届く妹フィービーの所作言動である。妹、姉、母、祖母、恋人、妻、見知らぬ女性。男性原理は常にこれら諸力の干渉を受けて、社会との相対的な関わりの正当性に気付くのだ。
「…僕は木馬から落ちやしないかと心配でなくもなかったけど、何も言わず、何もしないで、黙ってやらせておいた。子供ってものは、かりに金色の輪なら輪を掴もうとしたときには、それをやらせておくより仕方なくて、なんにも言っちゃいけないんだ。落ちるときには落ちるんだけど、なんか言っちゃいけないんだよ。」(野崎孝訳) ここに彼は、もはやライ麦畑の捕まえ手になろう、と考えてはいない。

補記6:「霊の導き手としてのアニマを考える時、私たちはついダンテを天国に導いたベアトリーチェを考えますが、彼がそれを経験したのは、地獄を経めぐった後にはじめてであったことを忘れてはなりません。普通アニマは、男性の手をとって天国に導きあげる、ということはやりません。彼女はまず彼を熱い大鍋に入れるので、しばらくの間彼はそこで適当に焼かれるのです。」(M-L. フォン・フランツ著「おとぎ話の心理学」より) 追放・放浪・絶望、そうして転回点に女性が現れる。

補記7:世界各地の創世神話において、神は創造の後隠居して人間の時代(銅の時代)の人間の行動には干渉しない例が多いが、みながみなそうではない。イスラムの神アラーは現役である。アラーは毎瞬毎瞬創造を続け、無から有を起こし、有を無に帰す力をふるう。
ちなみにアダムとエヴァの楽園追放の物語は、イスラムではキリスト教ほどの重みをもたない。二人はシャイターン(サタン)の親身な(と二人は思った)忠言を信じて禁断の木の実(知恵の実)を味わい、その結果恥ずかしさの感情を知る。そして神の呼びかけをきく。「だからこの木にだけは近寄るなと言っておいたのに。シャイターンはお前たちの(神の、ではない)仇敵だとはっきり教えておいたのに。…落ちてゆけ。互いに敵同士となれ。地上にあって仮の住処を得て、一時の儚い楽しみを生きよ」
この神は「お前たちのためを思って」知恵の実に手を出すなと教えた。そして人間が地上に下り、争いと刹那の楽しみに一生を費やすことは、知恵を得た代償として余儀なく起こった。とはいえ神はすぐに怒りを解き、優しい言葉をかけて二人を地上に送り出す。「主は限りなく慈悲ぶかいお方」であり、「よく思い直すお方」だからだ。
だが神の力を持ってしても、知恵ある人間を楽園に留めておくことは出来なかったのだ。

従って、上に書いたようなことは、世界中に大勢いるイスラーム教徒にはまったく納得できないことだろう。逆に言えば、我々がこうした物語を受容するのは、我々が日本人であって、日本のメンタリティを持ちながら西洋の(表層的な)文化知識にもある程度まで慣れ親しんでいるからである。

補記8:導き手としての女性を考える時、松本零士の「銀河鉄道999」のメーテルもひとつの元型的存在といえよう。星野哲郎は彼女を一緒に連れてゆく契約を結んで無期限パスを手にいれ、999に乗る。そして宇宙軌道の導くまま星々の間を旅して予定された終着駅に辿りつくのだが、その途次、メーテルはつねに哲郎を試練に導く。そして旅の終わりがきたときに、遠く時の輪の接するところでの再会を期して去ってゆくのである。

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