692.セシウム・ベリル Cs-Beryl (ミャンマー産)

 

 

セシウム・ベリル(ウォロビエフ石)-ミャンマー、マンダレー管区産

 

ある瞬間に、「聖なるもの」と呼びたいなにかが事物に宿る。あるいは我々の心にそのように受けとめられる。そのとき事物−たとえば鉱物標本−は超越性のハロをまとい、ひときわ神々しく輝いて見えるのだが、そんな特別な状況はいずれの時にか去ってゆく、という良識が日本人にはあるのだろうと思う。我々自身もまた、あるときふいに恍惚の境に入り込み、また戻ってくる体験をする。そのとき、いわば恋愛の炎、認識の炎が生まれる。
それは一度起これば以降ずっと続いている、というものではない。それは去る。あるいは宿り続けていたとしても、やがて分からなくなる。

実際、我々が何かを感じとるには変化が必要である。感覚刺激が一定で変らなければ知覚は鈍り、刺激を意識することが出来なくなる。例えば空気の臭いが感じられるのは香りが変化したときで、常に同じ香りの中にいると分からなくなる。同様に、もしかある瞬間ある事物に神性の輝きを認めたとして、トリガーとなった何かがそこに在り続けたとしても、ほどなく我々はその輝きを見失うだろう。そして神性が去った時初めて、失ったものを知る。
そこで我々は、「すべては過ぎ去る」という逆説的な諦観に至る。方丈記の表現を引けば、「よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし」。しかし世界が移ろう(ように見える)からこそ、我々は炎の再誕を見分けることが出来るのだ。

だから鉱物愛好家は、お気に入りの鉱物標本をいつも同じ場所に出しっぱなしにして毎日眺め続けてはいけない。鉱物に対する感覚を、習慣と日常性の中に落とし込んではならない。我々はむしろ鉱物と共に在る趣味の時間を日常から離れて持ち、それから、かのときかの場所を去って日常に戻って来なければならない。それが倦怠を避け、いつかまた新しい至福の時に出会うための鍵である。
聖体験は持続しないものだ。それでもその体験には意義がある、と我々は思う。それは留まらないけれども、我々の中の何かが触発され、何かが育まれている。そして次の体験は隠されて準備される。
そのあたりの消息は、多分、日本人ばかりでなく、例えばドイツ人なども直観的に把握しているのではないだろうか。18世紀末を通過した文学者、ゲーテやノヴァーリスやホフマンに、私はその感覚が見える気がする。ホフマンの「黄金の壺」は、アンゼルムスの幸せな道行の末を次のように語る。

「ゼルペンティーナよ−おまえを信じたため、おまえを愛したため、ぼくは自然の神秘な内奥を目のあたりに見ることができた! −おまえはぼくに百合の花をもってきてくれた。この百合の花こそ、霊界の王フォスフォルスが思考の火を点ずるより以前に、黄金から、大地の根源のエネルギーから咲き出たものなのだ −この百合の花こそ、万物のきよらかな調和を認識したしるしだ。そして、この認識を得てはじめて、ぼくはいつまでも最上のしあわせに生きることが出来る。−そうだ、このうえないしあわせ者であるぼくは、この最高の境地に到達したのだ−ぼくは、おお、ゼルペンティーナよ、おまえをとこしえに愛さなくてはならない−百合の花の黄金のかがやきはけっして弱まることがない。信仰と愛とおなじように、認識もまた永遠のものなのだから」

語り手(ホフマン)は、かくアンゼルムスが永遠にアトランティスに留まる様を幻視する。しかし彼自身は幻覚から覚め、すぐにも生活の雑事に頭を悩ますことになるのを知っている。まなざしは曇り、もはや百合の花を見ることは二度と叶うまいと消沈する。だが、そのとき、文書管理役リントホルストは、彼の肩をそっとたたいて言うのだ。
「おちついて、おちついて、あなた!そんなに嘆いてはいけません。−あなたもたったいまアトランティスに行っておられたではないですか。それにあなたもあそこに詩人の魂の所有地としてけっこうな農場をちゃんとおもちではないですか。−そもそもアンゼルムスの味わっている至福の生活は、つまるところ詩のなかにある生命と通ずるものなのではないでしょうか。詩のなかでは、この世のあらゆる存在がきよらかな調和をとげ、それが自然の最も奥深い神秘となって現れ出ているのですからな」(神品芳夫訳)

人間である我々は、かのアトランティスへ赴いた後に再び現実世界に帰ってこなければならない。我々はある許された時間、昂揚感に包まれ、それからまた日常に戻る。夢は覚める。それでも戻ってきた我々は以前とはすでに別の存在となっている。鉱物の美に目覚めて、アトランティスに我々自身の土地を持ったのだ。(補記)
その土地こそは我々にとっての「鉱物たちの庭」、「一瞥」を、「認識」の炎を、与えてくれる庭である。そして一方、鉱物たちにとっては、いつまでも自由に自らの存在をそぞろ楽しみ、黄金の光に輝く百合の花と咲き誇る庭である。

画像の標本は、ミャンマー産のベリル。セシウムを含んでピンク色をしたモルガナイト。セシウムの含有率がさらに増すと、別種のラズベリル(ペツォッタ石)となる。同じ産地から双方が報告されている。

(補記) 「あのひとは飛んでいった。もうだれも、丘のことや、麦畑のことや、雲のことを話してくれるものはなくなった。わたしは、そういうものを忘れてしまうだろう。もうだれも話してくれないし、おまけに、子どもたちは、あんなにたくさんいるし、パンくずや、巣につめる毛ばのことも考えなくちゃならないというのに、どうしておぼえていられるだろう。」 
…「でも、わたしには、それほどふしぎなものじゃない。だって、わたし、見たんだもの。はとに話してもらわなくても、わたし、自分で見たんだもの。わたし、自分の力で見ることができるんだわ。」(R.ゴッデン作「ねずみ女房」 石井桃子訳)
かく一瞥を得て彼女は目覚め、現世にあって認識の力を発揮する。

(補記2) 「ヨーハン・ファウスト博士の物語」(1587年 ヨーハン・シュピース著)に始まるファウスト伝説は、ドイツ人の魂の源泉的表出のひとつと思われるが、この物語において、咲き出ずる百合の花は人の生命に等しい。ファウストがその花を切り落とせば、照応する人の首もまた落ちる。

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