695.アタカマ石2 Atacamite (チリ産) |
海外産の美標本を蒐集する趣味は、ここ2-30年ばかりの間に市民権を得た。それ以前(というと1ドルが200円以上の価値を持っていた時代だが)にこの娯しみを享受出来るポジションの人はそんなに多くなかった、と思われる。もちろん先覚者は存在して、今となっては夢のような立派なコレクションを築いている方も確かにおられたが、一般人に鉱物標本はまだ遠い存在だった。そもそも手にはいること自体が知られていなかった。市場は小さく、扱われる品目も水晶や黄鉄鉱、蛍石、めのうのジオ、砂漠のバラなど一部のポピュラー品は別として、岩石・鉱石類の組標本、国産の標本が主体だった(水石ブームなどもあったが)。
それで海外産の珍しい美品が日本に入ってきたとき、まずは標本商さん自身がその素晴らしさ、現実(=国産標本)離れした見事さに深く感銘を受けたものと思われる。想像力を無限に刺激する異国の標本は、多くの日本人鉱物愛好家にとって未知の領域<テラ・インコグニタ>の、妖しい芳醇な魅力を放っていた。(といって私はその間の事情について特に詳しいわけではなく、客観的な視座を持っているわけでもないのだが)。
アタカマ石というと、私はある古顔の標本商さんを初めてお訪ねした時のことを思い出す。
当時のことで、アポを入れて伺ったところはご自宅であった。居間に通されると、こたつの上に握り拳大のチリ産アタマカ石がひとつ置かれていた。
「何をご覧に入れましょうか?」と氏が問う。部屋にとくに陳列棚のようなものはない。ご自身で採集された夥しい数の標本は箱に蔵われ、押入れに積み上げられ、あるいは庭先の倉庫に収められていた。なにしろ学生時分から全国の(現役の)鉱山を歩いてこられた方なのだ。
見たい鉱物を告げると、だいたい目星をつけて箱を出してこられるか、「あるけど、どこに蔵ったか分からない」などと仰られるのだった。
ともかく思いつく鉱物名を述べて、古色さえ帯びてみえる箱(金属製の菓子箱やらダンボール箱やら)のふたを慎重に開き、標本をひとつ、またひとつと見せていただいた。氏は傍らでこたつに入り、ぽつぽつと採集話を聞かせて下さる。それぞれの標本に思い出がつまっているのだ。
あるいは私をフリーにして、テーブルの上のアタカマ石を掌(たなごごろ)にのせて玩んでおられた。「綺麗だ」、「素晴らしい」としきりに繰り返し、目を細めてため息をつかれる。
やがて暮色が迫ると、長い石談に慣れた様子のご母堂がお寿司を差し入れて下さった。箸もつけず、やはり次々と標本箱を開けてゆく私と、やはりアタカマ石に没入している店主。 想えば、この世のものでない、どこか別世界の心象風景のようであった。そのひととき、私は石好きとはつまりそういうものだと知らされた。愛すべし。愛すべし。