696.ハックマン石 Hackmanite (アフガニスタン産) |
ペヨトル工房「夜想33(鉱物特集)」(1996)に、今はない東京、B地学研究社のTK氏のインタビューが載っている。この年、開業75年の老舗だった。1953年に会社組織になった頃は鉱物を蒐集している人は全然といっていいほどいなかった、と語られている。「もちろん趣味で集めている人もいましたが数えるほどで」、「日本もまだ高度成長期の前ですから、生活の余裕がなくて鉱物を集めるところまではいかないです」と振り返られる。
それから10年以上経った昭和40年代(高度経済成長の後期)、アメリカを旅行した社長が彼の地で鉱物趣味が盛んな様子に接し、(日本での流行を先取りして)、蒐集家向けに鉱物標本のディスプレイ展示を始めた。
TK氏が初めてアメリカのショーに買い付けに行ったのは昭和45年(1970年)だった。しかしまだマーケットは見えていなかった。「そのころは日本人なんてひとりもいなかったのに、最近では個人で買いに行く人までいます」。
インタビュアーが「10年くらい前(80年代半ば)から書店で化石や鉱物を売っているのを見かけることが増えて、…ブームなのかなと思いました」と話を継ぐと、氏は新宿のミネラル・フェアーが今年で9回目(9年目)になると応えている。
そして、蒐集される方も昔はおじさんだけだったのが、若い子がファッション感覚で飾りものとして買っていったり、主婦が「綺麗だ」と買っていく、「こんな道楽のものまで買える時代になったんですね」、「新宿のショーでも女性がものすごく増えました」と仰る。隔世の感を抱かれていることが伝わってくる。
私はB社の馴染みではなかったが、TK氏が「100円、200円の石を買っていく小中学生のお客さんを大事にしないといけない。10年後、20年後に彼らが10万円の石を買ってくれるんです」と店員さんに話していた姿はよく覚えている。息の長い商売を心がけておられたのであろう。
新宿ショーが始まった頃の消息は、堀秀道著「宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか」(2006)に詳しい。この本は水石ブーム、美石ブームの時分にその方面の雑誌に連載された文章や、その後企業広報誌等に書かれた記事を集めて編纂されたもので、1970年代から出版時の書き下しまで、30年余の長いスパンのテキストがまとめられている。巻末におかれた2000年代の記事には「パワーストーン」への言及もある。
繙けば、1983年はアメリカのツーソン・ショーに二十数名の日本人が訪問したとあり、その頃にはさまざまな石関連業者が、ショーを通じて海外産品のまとまった仕入れを始めていただろうことが窺える。
そして 1988年、日本で初めての国際鉱物・化石・銘石フェアが新宿で開かれたこと、外国の業者が来日することに話題性があってTVにも取り上げられ、6日間で入場者総数約1万5千人を集めて大成功を収めたこと、日本の業者は54社が参加してその多くは水石業者であったこと、彼らは既存体制のしがらみを抜けて来た風だったということが述べられている。ちなみに一番よく売れたのは化石だったとある。
あとがきには、最近(2006)行った都内の大型書店に「鉱物コーナー」が出来ていたことに寄せ、「20年程前、ミネラルフェア(1988〜)や同志会(1986〜)を始めたり、『図鑑』を書いた頃(〜1992)は鉱物の本は数冊しかなかった」と懐旧の言が述べられている。
おおまかに言って、日本における海外産鉱物標本市場の形成は早くて70年代(高度成長晩期以降)、大きな飛躍を見せたのは80年代後半のバブル期、ある程度定着したのはバブル崩壊もものかは 90年代半ば頃だったのであろう。そして化石より鉱物が売れ筋となっていく流れにはやはり『図鑑』の力が大きく与かったであろう。
画像はハックマン石(方ソーダ石の亜種)。新鮮な破面がピンク色を示す方ソーダ石がグリーンランドで発見されたのは19世紀の初め頃であった。ピンク色は日光にさらされると急速に失われて無色になった。だが暗闇においておくと、そのうちまた戻ってきた。色の変化は何度でも繰り返された。(cf.No.73、No.674)
とはいえアフガニスタンのラピスラズリ産地にこのタイプの石が見つかり、市場に出回るようになったのは、私の知る限り、この10年ほどのことである。昔のコレクターは夢にも知らなかったであろう。(cf.
No.284)