577.アタカマ石 Atacamite  (チリ産)

 

 

Atacamite アタカマ石

Atacamite アタカマ石

アタカマ石−チリ、アタカマ砂漠産

 

アタカマ石は銅の塩化水酸化物で、古い和名に緑塩銅鉱または塩酸銅などと呼ばれている(和田の「金石学」には漢訳として緑気銅と)。 光沢のある柱面を透かして映る深みのあるボトルグリーンはいつ見てもほれぼれするような美しさを湛えている。 原産地のアタカマ砂漠は世界でもっとも乾燥した土地として知られ、干上がった塩湖は太古ここが海の底であったことを物語ると共に、塩湖地方特有のさまざまな鉱物の母胎となっている。
市場に出回っている同地の標本は、母岩の表面に吹き出物のように、浅緑や濃緑や水色や空色などのさまざまな銅系二次鉱物が混在しているものが多い。共産鉱物としてクリソコラ孔雀石ブロシャン銅鉱擬孔雀石コンネル石青鉛鉱カレドニア鉱りん銅鉱コルネット石、赤銅鉱などがあるという。アタカマ石は濃暗緑色の平柱結晶が平面的な放射花弁状に集合しているか、この画像のようによく整った柱状結晶が散らばっているのが普通かつ特徴的である。手持ちの標本には水亜鉛銅鉱異極鉱らしき結晶がついているものもあり、亜鉛成分も混在するようだ。

アタカマ石は分解すると孔雀石に変わるという。アタカマ石自体、銅の二次鉱物であるが、その点では藍銅鉱が孔雀石に変化するのと同様に、完全に風化してしまう前の中間的な形態なのだろう(補記2)。チュキカマタではアントラー石に変化する例が知られている。古代の青銅器の表面にアタカマ石が生じていたとの報告もあり、また古代の岩絵の具(顔料)の素材のひとつにアタカマ石があったともいわれる。

南米へのヨーロッパ人の進出は16世紀半ばのスペインによる征服に始まった。それは鉱産資源開発の歴史でもあった。1545年に世界最大級の銀鉱山がボリビアのポトシに発見されて以来、銀の輸出は長期にわたって南米貿易の花形であったし、有名なチリ硝石(Nitraine)は1830年頃からヨーロッパへ向けて送り出された。ちょうどボリビア、チリ、ペルーがスペインからの独立を果たした時期である(ただし独立後も支援した海外資本が残るのが通例だった)。独立後の各国は硝石の採れるアタカマ砂漠北部の帰属をめぐって長い戦いを戦い、19世紀の終わり、ついにチリがこの不毛だがお金を生み出す土地を手に入れた(補記1)。それから第一次大戦頃まで、チリ硝石はチリの国庫収入と近代化を支える要となったのだった。
大戦が終わると硝石ブームは去り、多くの鉱山町がゴーストタウン化したが、代わって基幹産業として国を支えたのは銅鉱石の大規模な露天掘りであった。
銅産はスペインの植民地時代からすでに知られていたが、有望な鉱脈が発見されるのは19世紀に入ってからである。1820年代に盛んとなり、1857年にチリは世界一の産銅国となった(後に米国に抜かれる)。アタカマ石が発見されたのは1801年、独立前夜であったが、後年チュキカマタではアタカマ石が主要銅鉱石として採掘されるようになる。地下35mレベルまでの上部酸化帯(富鉱帯)に膨大に存在したからだ。
チュキカマタは古い鉱山で、1443年にインカ人が侵入したときから小規模な採掘が続けられていたらしい。チュキカマタとは「チュコ族の土地」を意味し、チュコ族は銅製の装飾品を帯びていたとスペイン人によって報告されている。1560年頃から1879年までスペインとボリビアによる採掘が行われたが、その後チリの支配に入り、1910年頃に近代的な採掘法が導入されて本格稼動の緒についた。大規模な露天掘りは1915年に始まった。ピットの規模は当今南北4.5km、東西2.7km、深さ850 mに及ぶ(2018年には1,100mに。cf.No.866)。1971年に国有化されたとき一時生産が低迷したが、やがて回復した。チリは今も世界一の産銅国である。

チュキカマタ産の鉱物標本としては、かつて、セールズ石クレンケ石ナトロカルサイトアントラー石、 Lightonite などがよく知られていた。ナトロカルサイトは昨年あたり、久しぶりに美結晶が市場に出た。

補記1:アタカマ砂漠の鉱物資源(チリ硝石)を巡ってチリ側対ボリビア・ペルー側の間で戦われた 1879〜84年の戦争はゲラ・デル・パシフィコ(太平洋戦争)と呼ばれている。この戦いに勝利したチリが最終的に鉱山の権益を得た。

補記2:銅鉱床が海水に没すると、溶け出した銅成分が塩化ナトリウム(岩塩)と出会って、アタカマ石となって沈殿するという。

鉱物たちの庭 ホームへ