749.臭化銀鉱 Bromargyrite (アルゼンチン産)

 

 

Bromargyrite

臭化銀鉱 −アルゼンチン、コルドバ、ラス・パイアス鉱山産

 

臭素を含む鉱石が発見されたのは 1841年頃だったとみられている。フランスのP.ベルチェ(1782-1861:ボーキサイトの発見者。ベルチェ鉱は彼に因む)は、メキシコ、サン・オノフェ鉱山のホーンシルバーを過剰のアンモニア水で処理したとき、緑色の粉末が溶けずに残ったのを観察した。これを契機に、この地域に産するプラタ・ベルデ(緑色の銀)と呼ばれる鉱石が、従来信じられていた塩化銀ではなく、臭素を含んだ銀であることをつきとめた。そしてメキシコにはこの種の鉱石が、しばしば美しい正四面体や八面体の結晶となって多量に産することを知った。
とはいえ、「塩素とヨウ素との間に置くべきであろう新しい単体」(1826年7月、ベルセリウス宛てのデュロンの書簡)として臭素が発見されたとき、すでにデル・リオがメキシコ産のホーンシルバーにヨウ素を検出していた経緯を考えると(cf.No.748)、臭素を含む銀鉱の発見は、実際にはもっと早くにあったのではないかという気がしないでもない。

本鉱や角銀鉱(以下、ホーンシルバーと総称)は、たいてい塊状や皮殻状で産し、しばしば大規模な鉱床を形成する。かつてホーンシルバーを採掘した銀鉱山の例として、ボネウィッツは、ドイツのザクセン地方、チェコのボヘミア地方、ボリビアのポトシ、アリゾナ州トゥームストーン、コロラド州レッドビル、ユタ州フリスコ、ネバダ州ブルフログ地域を挙げている。(が、ザクセンやボヘミア、コーンウォールなど旧世界での産出は相対的に少量であり、大規模な鉱床は新世界、すなわち南北米大陸、あるいはオーストラリア(のブロークン・ヒル)にあった。)

15−16世紀に中南米を征服したスペイン人は、当初、原住民から大量の金を収奪して雀躍りしたが、それにも増して彼等に莫大な富をもたらしたのは鉱山の経営だった。ラプラタ(La Plata: 銀)市のポトシ銀山はその最たるもので、ディエゴ・ワルパ(グアルパ)という原住民が発見したといわれる。群からはぐれたリャマを追って山に入ったワルパは一夜を明かした朝のたき火の跡に光る銀の粒を見つけたといい、しばらく独力で銀を掘っていたが、やがてスペイン人の知るところとなった。そして 1545年4月に鉱区が登録されるや、ペルー植民地全土から宝の山(セロ・リコ)を目指す人々が押し寄せ、集落が形成された。といっても標高4,000m のポトシはただ住むだけでも大変な場所で、鉱山労働は「筆舌に尽くしがたい」過酷なものだった。ポトシでははじめ、自然銀やホーンシルバーが主要鉱石となっていた。(1566年頃には富鉱が乏しくなった)

北米ユタ州のフリスコは 1875年に方鉛鉱を切る銀鉱脈が発見されて生まれた鉱山町だった。この年、ジェームス・リャンとサミュエル・ホークスという二人の人物があたりを探鉱していて、地下約9mの地点に角銀鉱(ホーンシルバー)の脈を認めた。二人は翌年、開発投資のリスクを避けて、25,000ドルで鉱区の権利を売却したが、その後の3年間で、鉱山は $2,540,000ドル相当の生産高を記録した。1879年には、「現役の鉱山のなかで、疑いもなく世界一豊かな銀山」と称揚されたが、最盛期は10年ほどだった。治安が非常に悪かったことでも有名で、毎晩、1,2人の死者はあって当たり前だったという。
ちなみにヴァン・コットのユタ州地名事典(1990) には、(二人が見つけた)「銀鉱は薄く切るとカールして、その形も肌理も色も山羊のツノにそっくりだったことから、銀山にホーン・シルバーの名がついた」とある。俗説かもしれないが紹介しておく。フリスコは今日ゴーストタウンとなっている。

マーチン・ホールデンは宝石鉱物事典(1991)に次のように書いている。
「(アメリカ)西部の不毛な砂漠地方の全域にわたって、いくつもの朽ち崩れたゴーストタウンが散らばっている。それらはみな同じ奇妙な名前を持っている。クロライド。鉱夫たちのハートをかくも虜(とりこ)にしたクロライド(塩化物の意)とは、含銀硫化鉱床の表層に豊かに、しかし偏在して見出される、角銀鉱という銀の二次鉱物である。『クロライド』は、多くの鉱床の縁辺部で薄くとも豊かな鉱石層を形成した。これは浅成富化作用(supergene enrichment)と呼ばれるプロセスで生じたもので、岩石中の金属が熱水流体によって溶出され、局所的に濃集されたものである。探鉱者たちは、この種の上部富鉱帯を探して歩き、鉱床が発見されると翌朝にはもう俄か町が出現しているのである。そして鉱脈が尽きれば町はたたまれて、鉱夫らは別の俄か鉱山町を目指して渡ってゆくのだった。」(補記1)
続けて、ネバダ州のコムストック・ロードでは角銀鉱が主要鉱石のひとつであったこと(注:脆銀鉱や輝銀鉱が主体で角銀鉱はむしろ少量だったが)、同州トレジャー・ヒルでも大量に掘り出されたこと、アイダホ州オワイヒーのシルバー・シティには見事な自形結晶標本が出たことを述べている。
このようにホーンシルバーは地表付近に薄層をなして大量に産するのだが、採掘がはじまると真っ先に(ほんの2,3年のうちに)採り尽くされるのが常であった。その後は地下深部に(硫化)銀鉱脈があればその採掘が続けられることもあったが、中小の採掘者の多くは表層採集が可能な次の土地を求めて去り、鉱区は打ち捨てられ、町はゴーストタウンと化すのが西部のならいであった。

No.748にハロゲン化銀の光に対する反応(変色)について記した。これは基本的に光(主に紫外線)による銀の還元作用に伴うものである。変化は可逆的だが、塩化銀鉱(角銀鉱)では比較的すみやかに暗色(紫色から黒色に)を帯び、いったん変色すると戻りにくい。そのため新鮮な標本は黒色紙に包んで遮光保存することが推奨されている。
ヨウ化銀鉱の変色は進行しにくいが、長期間の暴露によって褐色を帯びる。逆に暗所に保存しておくと元に戻りやすいといわれる。
臭化銀鉱は中間的な性質を持ち、ヨウ化銀鉱より感光による変色(黄灰色)が早く、元に戻る作用は遅い。だが、塩化銀鉱よりは変色しにくく、また戻りやすい。いずれにしろこれらのハロゲン銀鉱は暗所に保管しておくのがベターだろう。
ちなみに塩化銀の黒変は、 1777年頃シェーレが青色や紫色のスペクトル光の曝射で生じることを観察していたが、1801年にはスペクトルの紫外領域でより強い作用が起こることをリッターが発見した。こうして(目に見えない)紫外線の存在が確認されたのである(cf.拙著「蛍光鉱物&光る宝石」p.52)

 

補記1:一般にハロゲン化銀鉱は硫化鉱床の上部富鉱帯に二次的に生じるとされるが、可溶性の錯塩の分解・沈殿作用によって初生的に生じることもあるとみられ、またつねに石英と共存することから、可溶性錯塩と石英中の液体との反応、あるいはハロゲン化合物(固体)中の塩素との化合によって生じるとの説もある。

補記2:南米大陸を流れるラプラタ川は、かつてブエノスアイレスからコルドバ、トゥクマン、サルタ、フフイ、トゥピサ、ポトシを結ぶ交易(密貿易)ルートとして重宝された。ヨーロッパやブラジルから大量の商品・物資がポトシに送られ、その対価として膨大な銀が(スペイン王室の意に反して不法に)流出した。ラプラタ川(銀の川)と呼ばれる所以である。

補記3:フィルム写真(銀塩写真)は、ハロゲン化銀の感光特性を利用したもので、主に臭化銀を塗ったフィルムが用いられた。一瞬光にあてたくらいでは、見て分かるほどに反応(変色)が進むわけはないが、曝射光量に応じた(微少)数の粒子の変化が生じる。これを適当な薬剤で現像処理すると、変化量(平たく言うと還元された銀粒子の数)が1千万倍から1億倍に増幅されて、見て分かるほどの変化となる。すなわち曝射光量に応じた濃淡の階調を示す顕像が現れる。そこで反応の進行を止めて、未変化のハロゲン化銀を溶かし落とすと、写真(原版)の出来上がりである。

補記4:角銀鉱の存在を確認するには、感光性を利用した方法が古くから知られている。鉱脈の脈壁や脈自体の試料を二分して一方は遮蔽して保存、一方は日光に暴露させて数日おいておく。その後、両者を比較すると、角銀鉱が少しでもついていれば、その部分に黒色の斑点が認められる。ただしすでに風化を受けた土地(アメリカ西部砂漠地帯のような)では不可。
もう一つの方法は、試料を粉末にして水洗し、乾燥させた沈殿物をアンモニア水で処理する。角銀鉱があれば溶ける。その溶液に塩酸を加えて中和させると再び塩化銀が白色の沈殿となって現れる。これを日光に暴露すると黒化するので、実際に角銀鉱が含まれていたことが分かる。この方法は迂遠なようでも確実で欧米で広く行われた。明治時代以降、日本にも入ってきて黒鉱鉱床などの土鉱にも採用された。なお、臭化銀鉱やヨウ化銀鉱はアンモニアに溶けないので(難溶〜不溶:cf.No.748)、この方法は有効でない。

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