786.海泡石/ミーアシャム Sepiolite/Meerschaum (トルコ産)

 

 

meerschaum

セピオライト -トルコ、エスキシェヒル、セペッチ産

meerschaum

ミアーシャム(ミーアシャム/メアシャム/メシャム) の彫り物

 

ミーアシャム(Meerschaum) と呼ばれる石は、煙草パイプ(内に火皿のある部分)を作るにうってつけの材料として、20世紀初頃には誰知らぬ者とてなかったようである(愛煙家の間ではメシャムと呼ぶのが通例)。品のある象牙色。多孔質で熱を伝えにくく、煙草葉の湿気を抜くので火持ちがよい。堅牢で軽い。それでいて(水に漬けておくと軟らかくなって)刻んだり彫ったりの加工が容易なのだ。
ヨーロッパでは18世紀半ば頃から使われるようになり、従来のクレー・パイプよりも吸い味がよいと評判になった。オーストリアのアンドラーシ伯という人物がトルコに遠征したとき手に入れた白色粘土様の石を、持ち帰ってお抱えの靴職人にパイプに作らせてみたのがその始まりというお話が伝わっている。1723年のことだ。

この石はたいへん軽いので海水に(水にも)浮き、黒海ではときに白い泡のように漂っているのが見つかる。そのため、「海の泡」と呼ばれた、ということになっている。ミーアシャムはドイツ語で「海の泡」を意味する語とされ、ラテン語にスプーマ・マリス(spuma maris)、ペルシャ語にケフ・イ・ダリヤ(kef-i-darya)、和名に海泡石と呼ぶのも同義である。もっとも何時、何処で、その名が始まったかは分からない。
19世紀初のフランスでは、この石を使ったパイプを、ストラスブールにあったパイプ商クンマー(Kummer)の名をとって、キュム・メルと呼んだというお話がある。この名が後にエキュム・ド・メール(海の泡)に転じ、ドイツでもメア・シャウム(海の泡)の名で定着した、のだと。真偽は定かでない。
白く多孔質の様子はサンゴ(コーラル)を連想させるので、トルコ語でサンゴを指すメルチャン(mercan)から、ミアセンないしドイツ語のミーアシャム/メシャムが派生したという見方もある。
その他、ペルシャ語の呼び名にケフェキル(ケファ・ギル/ケファ産の粘土、またはケフ・イ・ギル/粘土の泡が語源という)、トルコ語の名にルール・タシュ(Lulè tache)あるいはミアセン(Myrsen/Myrshen)がある。
一方、鉱物学の分野では 1847年にグロッカーがセピオライト Sepiolite と名づけたのが長く使われてきた。その性状が甲イカ (Sepia)の軟骨に似ているとしたのだ。(ヴェルナーはミーアシャムと呼んでいた -1788年)

このようにミーアシャムは海に関連付けて考えられてきたが、しかし実際にパイプ用の上質の石が出たのは専らトルコのエスキシェヒル(古都の意)の平原地帯だった。堆積性の軟弱な土壌中に不規則な形状のノジュールとして埋まっていたのである。サイズはたいていリンゴ大で、人頭大になるものは珍しい。地元の住民は深さ 3〜数十mの縦穴を掘り、柔らかなノジュールを掘り出してお金持ちになった。ピポ・タシュ(パイプ石)と呼んだそうだ。
原石は上の画像のように艶消しで土状の感触があるが、爪で擦ると表面がつるつるになって光沢を生じる。掘り出した原石は専用のナイフで皮を剥き、表面に付着した土を取り除いて丸石にする。それから乾燥させて、ワックスで磨き、品質とサイズによって等級をつける。彫物を作るには小さすぎるものや不純なものは砕いて水で練ってペースト状にし、ある種の有機物を加えることで夾雑物を除く。それから型押しして固めて利用する。「練りメシャム」という。

ミーアシャムの成分は水和珪酸マグネシウムで、蛇紋石に類似の物質であるが、より風化が進んだものと考えられている。つねに蛇紋岩を伴って産することが知られ、エスキシェヒルでは沖積層の下に蛇紋岩化した超塩基性岩の岩盤が沈んでいる。
顕微鏡的にはもつれた繊維状の集合物に粘土が絡まっており、繊維部分は(鎖状の結晶構造を持つ)パリゴルスキー石(山皮)ないしセピオライトで、複雑にもつれた繊維の間に微細な非晶質粘土が挟まっている。また空隙を多く含み、そのため海水に浮くほど比重が軽いのだ。珪酸マグネシウムは耐熱性が高く、かつ空隙には断熱性がある。パイプに適する所以である。原石は多孔質なので舌に吸い付くが、パイプの表面はワックス加工してあるので付かない。上質の塊状石で作ったパイプと練りメシャムのパイプとを見かけで区別することは難しいらしい。

ミーアシャム・パイプの製作がどこで始まったのか、これもはっきりしたことは分からないが、おそらくヨーロッパにとって東洋への窓口だったハンガリーあたりではないかと言われている。人気が出るとマジャール人の職人を呼び寄せて西欧圏内で作られるようになった。20世紀前半の最大の生産地はベニスにあった。またドイツのアイゼナハに近いルーラもパイプ産業で栄えた町として有名だった。ここでは地の利を生かして、トルコ産のミーアシャムとバルト海産の琥珀を組み合わせた細工を世界各地に送り出した(吸い口の部分を琥珀で作った)。トルコ語のルール・タシュ(ルールの石)は、あるいはこの町に関係するのかもしれない。

ちなみにミーアシャムのパイプは、煙草のタール(ニコチン)を吸って、使い込むほどに渋い飴色〜コハク色を呈するようになると言われた(実は変色するのはワックスの滲み込んだ部分だけらしいが)。かつて長い航海をする船乗りは、真っさらのパイプを手に海に出た。数年後に帰国すると、すっかりいい色になったパイプを業者に売った。業者は吸い口を差し替え、求めに応じて愛煙家たちに提供した、という。
1970年代になってトルコ政府はミーアシャム原石の輸出を禁じた。自国内に工芸業を育てようとしたのである。そして今日、ミーアシャムのパイプはトルコ土産となっている。一方、西洋圏では造りのよい商品が乏しくなったため、(原石が入手出来なくなったので絶産と言われ)、アンティークに類するものとみなされるようになった。その傾向は現在も続いているようだが、そもそもパイプ喫煙を習慣とする人々が激減したので、西洋圏での需要はそう多くもないのだろう。

かつて日本では喫煙をダンディな大人の高尚な趣味とみなす風潮があった。喫煙がサマになる大人は格好いい、と言われたし、優雅な社交の一環でもあった(ちなみに19世紀のヨーロッパでは紳士はご婦人の前での喫煙を遠慮した)。中高生は背伸びしてモクを吸った。そういう価値観の世界では煙草の道具に凝るのもまたダンディなのであって、ミーアシャムのパイプは随分いい値段で取引きされたらしい。
作家の沢木耕太郎は、のちに「深夜特急」に結実する旅に出た時、ある友人から「イスタンブールで海泡石のパイプを買ってきてほしい」という口実で、対価に数倍する餞別をもらった、と書いている。しかし輸入品が現地価格に数倍する値段で売られるのは日本では常識だったから、この友人は多分、日本の市場価格に相応するお金を預けたのだろうと思われる。沢木がイスタンブールでパイプを買い、旅の間に吸い慣らし、帰国後ほどよく琥珀色になったものを友人に贈ったかどうかは、なにしろ本を読んだのが随分昔なので覚えていない。

下の画像は数年前にトルコに旅行した方からお土産にいただいた細工もの。トルコに行けば手に入れるのはわりと容易なようである。(私のトルコ産鉱物に関するコメントは、いつもここに落ち着くみたいだ)

 

補記:トールキンの「ホビットの冒険」は、ある朝ビルボがとほうもなく長いパイプで刻みタバコの一服を楽しんでいるところから始まり、冒険のはてに懐かしの我が家に帰り着いた後、魔法使いにタバコ入れを手渡すシーンで結びとなる。指輪物語では、はるばる東へ向かった旅の仲間たちが行く先々で喫煙を楽しむシーンが描かれる。廃墟と化したイセンガルドで再会した彼らはタバコの一服に疲れを癒し、メリーはローハンの王に「口から煙を吐き出す」技の講釈を始めたりする。評論社瀬田訳文庫本の背表紙は、黒い(ブライアーの?)パイプを手にした著者トールキンの横顔写真が使われている。
トーベ・ヤンソンも愛煙家で、ムーミンパパはいつもパイプを手放さない。

補記2:ちなみにセピア色のセピアは、イカの墨ぶくろの中の黒褐色の液から採った顔料のこと。暗褐色。

補記3:以下はメアシャム製装飾パイプの参考画像

1873年のウィーン万博に出品するため製作されたパイプのボウル部分。
蓋の最上部を飾るのはオーストリア帝国の王冠を模した銀細工。
 JTI オーストリア蔵。
パイプ喫煙は 19世紀にはごく一般的な喫煙方法で、さまざまなパイプが
製作された。万博当時はメアシャム製パイプの最盛期で、
オーストリアは生産の中心地だったという。

同じくウィーン万博に出品するため製作されたパイプ。
ダ・ヴィンチの聖母子像にインスピレーションを受けたデザインとみられる。
塩とたばこ博物館蔵。

足を組んでタバコを吸う女性像のシガー(葉巻)ホルダー。
女性の右足が煙管となっている。JTIオーストリア蔵。
葉巻はナポレオンのスペイン侵攻(1808-1814)を機に欧州各地に広まったという。

 

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