931.水晶 Quartz (日本産) |
当初は特権階級を経営の後ろ盾に定着した仏教教団だが、やがて律令下に与えられた公領の他に寄進を受けた私領荘園を拡大してゆき、政治権力からある程度の独立性を得た。平安末期から戦国期にかけて一般信徒を取り込んだことにより、一部の教団は僧兵を持つほどの現世勢力となった。
しかし戦乱の世が明ける頃には寺社領は瓦解し、検地を経て中央政権に管理されてゆく。豊臣期の刀狩り令は寺社の武装を不能にした。一方、徳川期に入ってほどなくキリシタン禁令が出ると、寺社は一般庶民の宗教的身元保証者としての役割を担った。実質的にほぼすべての家・人々が地域の寺社の檀家に収まった。寺請制度が本格化したのは元禄期(1688-1704年)とみられるが、この頃から各家に仏壇が設えられ、誰もがマイ数珠を持つようになったという。数珠を含め仏具の販売がビジネスとして確立したのもこの頃で、素材としての貴石需要はかつてなく昂まったと考えられる。
これはまた寛文(1661-1673)から元禄にかけての、町人文化が台頭した時期に重なっている。その後、町人が果たす経済的機能は享保(1716-1736)から文化・文政(1804-1830)期の間に次第に増大し、これを背景に町人文化は武家文化と拮抗するほどになった。
水精珠や玉類をただただ「わー、きれー!」と愛でる気風は、おそらくその利用の初めからあったと思われるが、経済的に豊かな時代が来ると、宗教とは直接関係のないお洒落遣いレベルでも装身具材として消費されるようになった。享保の頃は真珠・鼈甲・珊瑚が三大宝飾材と目されたが、水精玉もまた盛んに用いられたのである。
先駆けはすでに豊臣期にあった。文禄(1592-96)頃に評判をとった歌舞伎の祖、出雲阿国は水晶の数珠(や十字架)を頸にかけて踊ったと伝わる。
水精は唐代の昔から中国への重要な輸出品であり、各地に産したようである。大和本草(1709) 巻三/金玉土石の「水晶」の項は、「日本に多し。梵(インド)に玻璃(パーリ)と言う。大小皆六角なり。昔まれなり。水晶の念珠、貴人高僧ならで用いるあたわず。今は火打石にもこれを用いる。山州(京都南部)にては愛宕稲荷泉涌寺の山に多し。近江にもあり。東西諸州みな之あり。日向に最多と言う。」と述べる。昔はともかく江戸期には玉の加工が容易になって、いくらでも作ることが出来たらしい。
続けて眼鏡を話題にして、西洋製の眼鏡はガラスを使うが割れやすい、日本で作ったものは水晶製で割れにくいので一番よい、と述べる。眼鏡玉に使える大きさの、透明無傷な高品質のものが採れたのだろうし、また加工技術もあったわけである。
ちなみに眼鏡は13世紀後半のイタリアで発明されたといい、質のよいベネチアン・ガラスで作られた(補記1)。15世紀には東方に伝わって、中国(明)ではアイタイと呼ばれた。日本に入ったのは
16世紀半ばに宣教師が大名に贈ったものが最初という。
俳諧作法書の「毛吹草」(1645年)は諸国名産を載せて、京都の特産品に「玉細工」、「目金」(メガネ)、「数珠」を挙げている。「京雀跡追」(1678年)にも同様の案内があるから、玉磨き産業が当時の京で盛んだったことが分かる。
雲根志 後編(1779) 巻一/光彩類「水晶」の項で石亭は、自分自身が実際に諸国を回って水晶を採集した土地を挙げている。すなわち、「山城国伏見、稲荷神社の後山、河内国、城州甘南備山、美濃国苗木、同赤坂山、信濃国駒ヶ岳・妙義山、甲斐国金峰山、陸奥国南部、出羽国米沢、越前国敦賀、安芸国広島、対馬国与良、下野国足尾山、そして地元近江国のあちこちの山々」。また玉や宝石類として商人が扱う水晶の産地は、土佐、佐渡、石見、豊後等だという。この地方で質のよい大ぶりのものが出たのだろう。
甲斐産では、金峰山の麓の御岳神社の金精大明神の境内に黄色のものが出ると特筆している。
こうして江戸期には少しも珍しくなくなった、しかし「きれー!」な水晶玉だが、宗教的な神秘性が失われたわけではない。
王政復古を標榜する明治政府は神仏習合を禁じて、1868年に分離令を発したが、これを機に全国に廃仏毀釈運動が起こった。その結果、水晶玉が飛ぶように売れた。依り代としていた仏像をなくした神社が競って購い、新しいご神体として祀ったのだった。
補記1:塩野「海の都の物語」によると、レンズの開発は 13世紀にムラノでなされたと伝わるが、眼鏡の製造が許可されたのは 14世紀のはじめという。眼鏡をかけた人物の肖像画でもっとも古いものは、ベネチア近くの僧院が保管する枢機卿の絵で 1352年に描かれた。眼鏡の使用が一般化するのは 16世紀のことである。