930.水晶 Quartz (日本産) |
現甲州市の塩山竹森は、江戸後期に竹森村と呼ばれた土地で、明治に入って周辺の村と合わさり、(東山梨郡)玉宮村に含まれた。より古くは玉井郷の玉森と称したと甲斐国志(1814)に出ている。玉井は和名抄(931-938)に記された平安期以前の古い郷名だが、名残の遺称がはっきりせず、その場所は@塩山北部、A塩山南部から山梨市東南部、B東八代郡石和町から一宮町あたり、と比定地に諸説ある。現在は最後の説が有力とされて、甲斐国志説は旗色が悪い。
塩山付近の古名としては和名抄に(甲斐国山梨郡)於曽があり、塩山下於曽に郷があったようだ。三枝氏の分流、於曽氏の管理地だった。12世紀になると一帯は牧ノ荘に含まれ、甲斐源氏の一族が勢力を持つ。この頃、甲斐守護職に就いた武田氏は戦国期にかけて興隆し、大名となって天下をうかがった。甲州市には雨宮姓を持つ人が多く住むが、もとは長野県千曲市雨宮から出た清和源氏の流れで、甲斐に移って武田氏に仕えたという。
一般に玉のつく地名は歴史上のある時期に玉石を産したか、玉造りに携わったことが推測出来るが、竹森(玉森)・玉宮の場合は、水晶(水精)を産し、また水精を祀った社があったことに関係がありそうだ(※補記1)。山中に乙木田遺跡という縄文期の玉作り住居跡があるが(No.929)、さすがに古すぎて地名の語源とは考えにくい。仮に玉作りが由来としても、ずっと後の時代の出来事だったはずだ。
甲斐国志は、竹森村玉宮社地に水精を多産すること、黄紫赤白黒の各色があること、玉宮の神殿に周囲5尺ほど高さ7尺余の水精をご神体として祀ることを記している。もっとも秘封されて当時見た人はなかったのだが(視ると神罰で目がつぶれるとされた)。玉宮は玉諸神社と号し、甲斐名勝志(1783)は玉室明神と呼んでいる。たまもろはたまむろ、玉を祀る室(むろ)であったらしい(※諸は二つ、あるいは多数を意味するので、複数の玉室があったことを示してもいる。実際、甲府市にも玉諸神社がある)。祭神に天羽明玉命(玉屋命、櫛明玉命、豊玉命と同神)を勧請する。この神は元来、出雲の玉造郷で八坂瓊勾玉(※補記2)を作ったとされる玉祖だから、水精の産出と祭祀社の造営を受けて(あるいは玉造り業の繁栄を祈願して)、伝説の遠祖にあやかったものと思われる。
玉宮がいつ頃から竹森にあったかははっきりしない。江戸後期に整ったと思しい社史は、玉諸が醍醐帝期の延喜式神名帳(926)に載る式内社だと指摘するが、その以前は別の名で祀られていたことを仄めかして創建年不詳としている。一方、甲斐源氏の祖新羅三郎(源義光(1045-1127))の造営に掛かったとも記す。代々の宮司を網蔵氏が務め、昭和40年頃に
21代目を数えた。一代30年で計算すると初代は 14世紀まで遡ることになる。
ちなみに竹森山は古くからの私有地で、中腹にある玉諸神社の奥宮は社地だが、昭和戦後期には南面の下竹森を雨宮氏、北面の上竹森を森川氏が所有していた。
甲斐国志が編纂された文化・文政(1804-1830)頃から水晶の採集が行われたと伝わるが、少なくともこれ以降は原石の供給が主で、加工はほとんど行われなかった。
文化・文政といえば、伝説の京都商人・玉屋弥助が甲府の金桜神社の神官に水晶玉の磨き方を伝授した時期でもある。彼は京近辺(近江や岐阜など)で産するよりも品質のよい水晶を求めて甲斐まで買付けにきた人物である。その頃すでに甲斐産の水晶が評判を得ていたことは疑いない。
塩山竹森は古来水の豊かな地で、あちこちに湧水池があった。社中にかつて「玉の井池」と呼ぶ小さな泉があって、干ばつの時にも枯れず、雨乞いをすれば必ず効験があった、という。その名が往古の玉井郷に結びつけられたらしい。玉諸は雨を呼ぶ祭祀に携わる雨宮でもあったわけで、水の精である水晶を祀った社に相応しい。
神話の八坂瓊勾玉が水晶であったか赤玉であったか、あるいはヒスイのような青珠であったか分からないが、水のように透明で明るく煌めく水晶が神代からフェティッシュな物品として扱われたことは確からしい。中国で七宝の一つとされた水精は、仏教伝来後は日本でも同様に扱われて、如意宝珠や数珠に作られた。卑弥呼の頃、倭国は真珠(白玉)や青珠を献上したが、唐代には琥珀・瑪瑙・水精なども献じ、やがて(明代までに)「水精の多いことは倭国が第一」(李時珍)と評されるほどに中国に送ったらしい。水精玉は正倉院にも多数収められている。碁石や双六の駒にもなっていて、典雅な人々が玩物としたようだ。
国内の文献としては、出雲国風土記(733)に「長江山。郡家の東南五十里なり。水精有り。」とあるのが早い。あいにくと甲斐産は不詳。正倉院の白石英(自形結晶)を益富博士は岩手県の玉山鉱山産と推測している。山梨産とは感じが異なるそうだ。
鎌倉時代、中国から禅宗が渡り、武家の間で人気を集めた。
臨済宗の禅僧、夢窓疎石(1275-1351)は宇多源氏の流れで、伊勢の生まれ。1278年に一族とともに甲斐に移住して市川の平塩に住んだ。9歳で仏門に入って道をきわめた。各地に寺を開き、牧丘町浄居寺(1305年創建)の住職をした。1330年には塩山に恵林寺を開く。鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇に招かれて京に上る。室町幕府の成立後、天龍寺等の開山となり、後世に七朝の帝師とうたわれた。夢窓国師は龍に授かったという水晶の如意宝珠を持っていた。後に甥の普明国師、春屋妙葩<しゅんおくみょうは>に譲られ、鹿王院の蔵宝となった。無色透明で、内部の「たな」(曇り/ファントム)は山梨産水晶の特徴を具えるという。一名、水玉といい、干天に際して取り出して祈れば、必ず降雨があると伝説された。雨乞いの神事では宝珠を棒持した僧が行列を作り、鹿王院から大本山の天龍寺へ伸びる道を進んだ。ちなみに鹿王院の水晶仏牙舎利塔は、古く源実朝(1192-1219)が宋より求めたものという。
普明国師(1312-1388)は、今の甲府市東光寺町の生まれ。7歳の時、浄居寺にあった夢窓国師から法華経を学ぶ。25歳の時、南禅寺にあった夢窓国師を慕って上洛した。貞和元年(1345年)、天龍寺落慶の年に漸く入室参禅を許され、認められて天龍寺雲居庵の庵主となった。しばしば甲斐から水晶の原石を取り寄せて、京の玉つくりに数珠を作らせたという。政治問題に際して丹後に引くが、1379年に南禅寺住職として再び入京、足利義満の帰依を受け、初代僧録司となる。鹿王院を開山する。当時、倭寇禁圧を要請するために来日した明や朝鮮の使者の応接役を任され、彼らの帰国の際は土産に水晶珠を持たせたという。
夢想・普明国師らの水晶が竹森産だったかどうか知る由はないが、彼らに縁の寺院が指呼の間にあったことは確かである。上述した玉諸神社の初代宮司は(実在とすれば)おそらくこの頃の人であろう。
1521年に武田信虎が開基した甲府市大泉寺は曹洞宗の寺で、水晶の大念珠を蔵している。武田信玄(1521-1573)の愛用品で、川中島の合戦の際に首にかけて出陣したものと伝えられる。これも由来は分からないが、地場の甲斐産とみるのが妥当だろう。金峰山麓では天正3年(1575年)に水晶が出たとされるが、あるいはもっと早くから知られていたとも考えられる。
玉諸神社に話を戻せば、御神体の水精はむかしむかし一夜にして山の中腹に出現した頭面のある巨大な原石で、その根元は地中に潜って下はどこまで伸びているか分からない、のだった。そのまま囲んで上に祠を作ったのが本殿(奥宮)という。大きさは社記では周り6尺8寸と書かれて、甲斐国志や甲斐名勝志の数字よりも育っている。誰も見てはいけないはずだが、誰かが計り直したのだろう。そして「明治初年の頃、何者かこれを奪略し去りたる」ということで、出現した時と同様に忽然と消え去ったため、成長を確かめることはもはや誰にも出来ない。
社記には「社林下に玉留木あり、神慮玉を惜しみ給う。世常に拾い行く石、その年を限り社中に返る」とあって、境内の玉石を持って帰ってもひとりでに戻ってくる(減らない)ことになっているが、どうやら神慮もまた去ってしまったようだ。あるいは神慮で去ったのだ。
仮に丈 2m、根元の差し渡し 50cmの六角柱・錐と仮定して、比重2.7でざっと見積もると、重さ
250-300kg
はあったはずである。地中に繋がった根元を折って、上の祠を壊さずにそっくり持ち出すのは、なかなかに難しかろう。人の業とすれば、むしろ少しずつ欠いて持ち出すうちにすっかりなくなってしまったと見るのが妥当な気がする。
御神体には別の伝承もある。上竹森の中村大一という人は、先代が明治期に水晶問屋を営み、文化・文政期にも水晶問屋が家業だったという家柄だが、往時は御神体の自然石の露出した頂部に周囲40cmほどの原石を載せて祀っていたと語る。ある時、この原石を持ち出した男があったが、重たすぎたのか神慮が働いたのか、とある滝にさしかかったあたりで動けなくなって怖れをなし、石を滝壺に投げ込んで逃げ帰った。それから滝壺では昼も夜も鐘を叩くような音がしたり、月の夜は滝壺がきらきらと光を放つようになった。怪しんだ人々が近づいてみると、盗まれた原石が沈んでいたので、拾い上げて(奥宮でなく)里宮に還して祀った。この滝を以来、黄金の滝と呼んだという。(見てはいけないと言われても見ていて、ご神体がどんなだか皆知っていたわけだ。)
なお氏は周囲60cm、重さ30kg の原石を 1961年に奥宮に奉納して祀られたそうで、であれば、その後は奥宮と里宮の両方の玉室に水晶原石が鎮座していたということになる。
cf. 水晶の話
補記1:大野晋の岩波古語辞典に「たま(玉・珠)」を引くと、「タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代<よりしろ>となる、まるい石などの物体が原義。@呪術・装飾などに用いる美しい石。宝石。また真珠・竹の管など。…A特に真珠。…B転じて、美しいもの。…C球形をしたもの。…」とある。
一般に玉といえば丸く加工した美石であり、水晶の原石(結晶形のあるもの)を玉とは呼ばない。しかし玉をつくる原石の意で玉石と観念し、玉石を祀る宮として玉宮/玉室/玉諸と美称したのかもしれない。
もっとも玉石(たまいし)という語も、一般には川や海岸などにある丸い石、石垣や造園に使う丸石を指す言葉だから、幾分ひねった解釈である。
私としては、竹森に玉を作った職能の人々があって、玉祖神を祀り磨いた玉を奉納していた、と考えたい。(根拠はないが)
補記2:八坂瓊勾玉は天照神が天の岩戸に籠った暗黒の時、八咫の鏡と共に真榊の枝に掛けて光を呼んだ玉飾りで、八坂瓊五百箇御統玉<ヤサカニノ イオツ ミスマルのタマ>とも言う。長く連ねた多数の赤色の玉の意。瓊(ぬ)は丹(にゅう)に通じて太陽を擬す色だが、水精製であるとすれば、むしろ光を集めて輝く性質を太陽に擬したと考えられる。
ちなみに、ほかの色の玉を(色名を冠して)八坂瓊(丹)と呼ぶこともあったらしい。越後国風土記は散失して伝わっていないが、越後(新潟)に青色の玉が産して「青八坂丹玉」と称したことが釈日本紀(巻6)(1300年頃成立)の「八坂瓊之五百箇御統」の項に引かれた逸文から判る。
曰く、「八坂丹 玉名 謂玉色青 故云青八坂丹玉也」(八坂丹は玉の名である。(越後産の)玉の色が青いことから、青八坂丹玉と言うなり)。
釈日本紀はこの後に、「先師説云 瓊者赤玉也」(先師は瓊は赤玉であると説いて言われた)の文が続く。青八坂丹玉は、レッド・エメラルドの逆を行く語感である。
なお古風土記は一般に 8C前半に書かれたと見られる。その頃はまだ翠色のヒスイ玉が作られていたということか。
cf. 翡翠の名の由来(付記3:青丹よし) 、C18
真珠2(青大句珠)