932.水晶 Quartz (日本産)

 

 

 

水晶

水晶 Quartz

水晶 −山梨県甲州市塩山竹森産

 

山梨県(旧甲斐国)塩山竹森の地質は中生代に堆積した小仏(こぼとけ)層群の泥質岩(頁岩)が分布し、徳和花崗岩の貫入による熱影響を受けてホルンフェルス化した岩体となっている。その中を熱水性の石英岩脈が走り、空隙に自形結晶の水晶が育つ。いわゆるアルプス式脈である(※苦土電気石を含む気成的鉱床。 補記1)
古代(縄文期)から水晶の産出が知られたことは確かだが(※乙木田遺跡)、近世に至るまでの利用史は必ずしも定かでない。山腹に露出した巨石を祀ったという玉宮があり、江戸中期から後期には水晶販売業が成り立った時期があったらしい。cf. No.929, No.930, No.931 

上竹森の中村大一氏の語りに拠れば、文化・文政(1804-1830)期頃、盛んに原石が同地の水晶問屋に持ち込まれたが、問屋ではクズ石の処分に困るほどで、仕方なく庭先に埋めていたそうだ。売り物の原石は当時玉造りの本場だった京都・大坂、あるいは江戸表へ送られたと思しい。
この頃、金峰山南麓の御岳・黒平村でも幕府の御用林地から試掘した水晶が入札で払い下げられ、あるいは御用を請けた採掘が行われており、御岳では文化・文政期、甲府では天保(1830-1844)期に地場の玉磨き業・玉販売業が始まっている。ちなみに今の昇仙峡を通る御岳新道は 1833年から開削工事が始まって、1843年までに開通した。あたりの村々は薪炭製造を生業とし、それまで険しい古道を回って甲府に製品を下していたのが、新道が出来て往来が随分と楽になった。あるいは工事の際にも質のよい水晶の露頭が見つかっていたかもしれない。

江戸末期の安政6年(1859年)、前年に結ばれた日米修好条約に基づいて横浜村に貿易港が開かれると、甲州は生糸貿易で俄かに潤った。初期の幸運児として知られる若尾兄弟は、水晶原石でも巨利を上げたと伝えられている。同年の暮れ、彼らは横浜の商館で生糸の商談中に、偶然、水晶のクズ石を外国商人が高値で買ってゆくことを聞きつけた。そこで急遽、八王子往還から小仏・笹子の峠を越えて甲府に戻り、市中の玉細工業者から加工後の端材として捨てられたクズ石を集めた。御岳にも足を延ばして小尾・黒平産の捨て石をタダ同然に持ち帰った。そして横浜に送って一攫千金を得たという。このエピソードは樋口一葉も随筆「森のした草」に取り上げている。
これを何度か繰り返すと、件の外国商人は「クズ石はもういいから、これからは質の良いものを持ってくるように」と言ったそうだが、以来、水晶のトッコ(独鈷・突鉱・自形結晶)や玉細工が定例的に商館に持ち込まれるようになった。甲府のある玉細工屋は横浜に出店を開いて繁盛した。こうして幕末期には甲斐産水晶の需要が国内外に広がっていたが、明治に入ると政府が鉱山開発を奨励して資金援助を与えたことから、水晶鉱山の開発熱が一気に高まった。金峰山周辺(御岳黒平、向山、押出山、水晶峠など)や竹森山を始め、各地で試掘が行われた。

竹森は明治 6-8年頃(1875年)から試掘が始まって、当たった鉱区もあればいくら掘っても出てこない鉱区もあったが、12年から明治45年にかけて長い繁栄期を持った。地主と借料契約した坑夫たちは鉱区内の希望の場所に坑口を開け、てんでに脈を追って採掘した。目当ては地表付近を通る鉱脈だったので、坑道はたいてい35〜55mまでの浅いものだった。平均して20人ほどが働いたが、農閑期には土地の農民も森に入って水晶を掘った。往時は上・下竹森のどの家の庭にも水晶原石が転がっていたという。
採った原石は洗ったものを俵/麻袋に詰めて、そのまま仲買の業者に持ち込んだ。古関円次郎という大坂の問屋商は伝説の玉屋弥助を金峰山に案内したと言われるが、この人(あるいは同名の後継者)は横浜の商館に竹森産の原石を卸して若尾兄弟以上に巨利を得たという。実際、明治中頃までは主に大阪商人が買い取って関西方面に送ったようだ。神戸港から輸出されるものも多かったとみられる。

明治中頃になると、御岳に始まった玉加工業は甲府に拠点が移り、以後甲府は水晶王国山梨の宝石の町として知られることになるが、この頃から竹森産の水晶も甲府に流れることが増えたらしい。まことしやかな含蟲珠(虫入り水晶)の噂が広まった時期に重なる。
竹森の最盛期は明治20-30年にかけてで、30年代半ばには乱掘がたたって産量を落した。明治36年、甲斐物産商会の石原宗平が採掘権を集合して一手販売を始めたが、産量の回復には繋がらなかった。
大正初期になると昔日の賑わいはほぼ失われて、当時山を所有した森川氏、雨宮氏は一日5銭の入山料で山面に転がる(質の劣る)水晶を自由に拾わせた。それでも大人一人一日50銭から 2円の稼ぎになったそうだ。山中のあちこちを刳った坑道は関東大震災のときに全て崩落し、ために山頂が平らになった。
昭和半ばまで折々採掘が続いたそうだが、大正以降、甲府の玉加工業者はブラジル産の高品質の水晶を安定的に輸入するようになり、国産水晶はすでに主役の座から降りていた。

竹森山は少し前まで、関東で気軽に水晶を拾える場所として有名で、90年代には水晶銀座と呼ばれた。休日は採集者で賑わったのである。草下フィールドガイド(1982)でも「水晶の山、山梨県金峰山周辺」の章の筆頭に取り上げられている。「…やがて斜面一面に転石がころげている場所にぶつかる。このあたりになると、ひとかかえもあるような岩塊に、針の山のように水晶がついているのがいくらでも見られる。」などと描写されているが、なにしろ東京から日帰り圏、車なら横づけに近い場所だから、鉱物採集に小さなブームが訪れると、そんな情景はほどなく夢となった。
下竹森は私有地ながら甘茶に寛大で、道案内の看板を出して採集者を招いてくれたが、ひと昔前に立入禁止となった。
「堀秀道の水晶の本」(2010)によると、数年前に久しぶりに訪れると、土木機械で昔の坑道を掘り返して(水晶を採って)埋め戻したらしい様子があって驚いたという。甘茶の仕業にしても営利目的の半玄人だろう。現場を写真に撮って同好会誌に載せ、一冊を地主さんに送ったところ、ほどなく立入禁止になったのだという。著者はこれを残念がっておられるが、本の中で提唱されている「ミネラル・パーク」構想には繋げられなかっただろうか。

補記1:草下フィールドガイドによると、トパーズも採れたらしい。

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