929.水晶 Quartz (日本産) |
日本列島は後期旧石器時代(約38,000-15,000年前)から人が住んで社会を形成していたと言われるが、彼らは石器を利器としてはもちろん、装身具としても早くから利用していたらしい。17,000年前の三重県の出張遺跡には頭部飾りらしい円盤石器が、同じ頃の北海道・湯の里4遺跡からはコハクやかんらん岩のペンダントトップやビーズ(穴明き珠)が出土している。
縄文時代の甲信地方はヒスイ輝石や黒曜石、コハク、水晶(無色透明の石英)などが広く流通した形跡がある。
山梨県北杜市の天神遺跡(5-6,000年前)では墓の副葬品として土器と共にヒスイ輝石製の石器が出た。大珠と呼ばれて装飾品とされているが、形状は明らかに利器で、中ほどに貫通穴が開いている。縄文中期(5-4,000年前)とされる草笛市三光遺跡や大月市大月遺跡からも大珠が出ているし、晩期(3,000年前)の北杜市金生遺跡は大珠のほか土製耳飾りや大量の黒曜石器が出た。
ヒスイ輝石は新潟・富山に産したものとみられる。黒曜石は長野の和田峠や草麦峠周辺のものが主流だが、伊豆半島や神津島産もある。北杜市甲ツ原(かぶつはら)遺跡から出土した縄文中期のコハクの垂飾品は福島県いわき産と推測される。ヒスイ輝石やコハク製の胸飾りは長野県茅野市の縄文中期の遺跡からも出ている。
水晶も古くから用いられた石材の一つで、山梨では約
2万年前の地層から加工片が出ている。産地として知られる甲府市黒平の遺跡群では旧石器・縄文早期・中期の各期に水晶器が利用されていたらしい。縄文時代にかけて各地で石鏃や錐などの利器とされたが、装飾用途のものがあったかどうか判然しない。確実に装飾品と言えるのは弥生中期以降に作られた玉類からという。とはいえ黒曜石で用が足りた道具の製作をより加工の難しい水晶で試みたことには、単なる利器とする以上に美的価値や霊的・威信財的価値の追求があったのかもしれない。ヒスイ輝石製の大珠もあるいはそうした性質のものだっただろう。
甲府市の八幡神社遺跡(縄文中期)は多量の黒曜石片(2,000点)が出ているが、水晶の破片も少数ながらあった(14点)。
逆に柳沢川に面した馬場平遺跡(縄文前期?)では 500点近い水晶片と30点弱の黒曜石片が出た。ほとんどが剥片で、おそらく廃材の捨て場だったろうという。
やはり水晶産地である甲州市の塩山竹森山には縄文中期(4,500年前頃)の乙木田(おっきだ)遺跡がある。台石・叩き石・水晶の石器・原石・剥片などが見つかっており、加工を行った住居跡とされている。自家消費に留まらず、重郎原遺跡や獅子之前遺跡、釈迦堂遺跡など周辺の集落へも原石を提供したと考えられる。
乙木田遺跡よりやや遅れて、縄文中期の山梨市上コブケ遺跡では、出土した石器の3割が水晶の石鏃や原石・砕片で、合せて
1.4kg
あった。石棒や立石の配石遺構の周辺で見つかったため、水晶の利用は祭祀的な要素(奉納/地鎮?)を帯びていたのではないかと推測される。須玉町の大柴遺跡でも環状の配石遺構に伴って水晶器が出ている。
今日知られるところでは、甲信地方は縄文時代まで水晶器を利用していたが、弥生時代に入ると暫く出土品が見られなくなる。そして中期以降になって再び勾玉などに製作したものが現れる。一般に玉類の加工は北九州や山陰地方が先行し、おそらく大陸から渡来した人々によって素材や加工法がもたらされ、装飾・祭祀・威信財として用いられたようだ。やがて素材が列島産に代わり、次第に東日本にも広まっていった。
古墳時代前期の東日本には長野・山梨・埼玉・栃木に玉作り工房と目される遺跡があり、水晶はたいてい山梨産を用いたらしい。埼玉県前原遺跡に出た水晶は竹森産と同様の電気石を含んだ、いわゆる「ススキ入り」である。
このように考古学的な資料に拠って、古代日本で山梨産の水晶が利用されていたことは確かである。しかし奈良時代以降になるとその有り様はふいに伝説的となって、確実な資料に基づく議論が難しくなるようである。 (No.930 に続く)