936.水晶 Quartz (日本産)

 

 

 

Quartz

水晶 ちょっと金色っぽいニュアンスがある −長野県川上村小川山産

Quartz

水晶/褐鉄鉱を伴う −長野県川上村小川山産

 

山梨(甲州)の名物を連想ゲーム的に挙げれば、富士山、ぶどう、水晶がそのイメージであろうか。昭和53年頃の山梨放送(ラジオ)のリスナー感謝カードはこの3つが緑の森と青い水流を添景にバンバンバンと描かれている。⇒カード
当時の甲府は宝石の町として知られ、水晶や各種宝石の細工品が表看板となり、クオーツ時計などに使う水晶発振子の生産が隠れた一大産業であった。ただ宝飾素材の水晶はほぼ輸入品(ブラジル産)で賄われたのが実情で、地元産水晶の商業採掘は明治末までに盛りを過ぎていた(昭和にも水晶や珪石が採掘されていたのは事実だが)。cf.No.935

遡ると、山梨はまた黒川や湯之奥金山の産金を用いた甲州金が戦国期以来の名物で、山国ながら交通の要衝にあたって流通経済が発達し、養蚕が盛んで経済的な豊かさがあった。人々の気風には金銭の利に敏い側面と享楽的な側面とが併存した。江戸後期から明治には甲州博徒が名を馳せた。県民性を語るとき、しばしば任侠、義侠、多血質、抜け目なさ、粘り強さ、アクの強さ、見栄、意地、金銭への執着といったキーワードが出てくる。

中世期以来、武田氏が支配した土地柄で、戦国期に織田勢によって本家が滅び、信玄の菩提寺・塩山の恵林寺では快川和尚が火に巻かれてなお「涼しいものじゃ」と宣べたが、その後も人心に長く武田旗下の意識が残った。江戸期のはじめは武田の遺臣を多く抱えた柳沢家が治め、やがて幕府直轄地となって勤番役が江戸表から甲府に赴任した。

そうしたイメージの投影は文芸作品にも明らかで、例えば久生十蘭の名作「顎十郎捕物帳」は、幕末、主人公の仙波阿古十郎が八幡の不知森で初めて読者の前に姿を現すのだが、その経緯を言うと、「生得、いっこう纏まりのつかぬ風来坊」の甥をもてあました叔父の庄兵衛が、甲府勤番の株を買ってやって定職につけたものの、「なにしろ、甲府というところは山ばかり。勤番衆といえば名だけはいかめしいが、徳川もそろそろ末世で、いずれも江戸を喰いつめた旗本の次男三男。端唄や河東節は玄人跣足だが、刀の裏表も知らぬようなやくざ侍ばかり。…その連中、気障で薄っぺらで鼻持ちがならない。」という職場で、半年も勤まらなかった。甲府金を宰領して江戸へ送る途中で嫌気がさし、金をつけた馬を笹子峠に放り出したまま上総に遊びに行き、木更津や富岡の顔役の家でごろごろしていたが、急に江戸が恋しくなって富岡を離れ、いま八幡の不知森を通りがかった、という次第である。
まあそれは架空のお話であるが、以上を背景に一攫千金を狙ったバクチャーな水晶掘り業の横溢や宝石業の発展を眺めると、やはり土地柄や県民性が向いていたということがあるのかもしれない。

山梨の水晶は古くは縄文時代に利用され、戦国期の天正年間に金峰山での産出が記録されているが、商業的に盛んに採掘されたのは江戸中期以降とみられる。(cf.No.928〜No.935)
甲斐国志(1814)は水晶ないし石英の産地として、金峰水晶瀑布、水晶嶺、石水寺山、金子峠(甲府)、また竹森村玉宮や牛奥通明神(塩山)、天目山や河浦村雷平(東山梨郡)、石森村水晶渓(山梨市)、苗敷村(韮崎市)、浅川村水晶山(北巨摩郡)などを挙げている。幕府御用の林地・御留山の水晶鉱脈を冥加金を払って試掘した記録も多く残っている。
そして明治に入ると、すでに知られた産地はもとより、水晶が出たためしのない山まで、山梨県下に水晶を探さなかった土地はないというほどに水晶鉱山の開発ブームが起こったのだった。
結果、金峰山の水晶峠、倉澤山、向山、増富村の押出し山、塩山の竹森山などが繁栄し、乙女山(倉澤山の谷向い)、八幡山(須玉)、川端下(川上村)、市之瀬山や刑部平(塩山)、泉水渓や船越(丹波山)、鳳凰山麓獅子ノ木(武川)、駒ケ岳(白州)などのヤマも知られた。当たったヤマはボロ儲けであった(投資家に十分な配当があったかどうかは別にして)。

山梨県周辺の水晶産地の地図

ヤマによって水晶にクセがあったそうで、原石の蒐集に務めた薬種屋の百瀬康吉や、山梨県師範学校の矢崎好幸らの調査報告をまとめると次のようになる。

竹森鉱山産:当初は透明なものが出たが、やがてほとんどが草入り(蟲入り)になった。茶水晶(煙水晶)、水入りも。内包物は電気石、白雲母、緑泥石など。玉宮社に大型結晶を宝蔵すると伝説されたが、明治には大きなものは出なかったらしい。
乙女鉱山:(乙女坂/乙女阪/鳳) 透明度が高い。白色透明純良質のものがある。結晶面が平滑。剣先(錐面)は竹を切ったように細く尖る。草入りは出ない(電気石入りが出たという記録もある)。さまざまな形態で産し、傾軸式双晶(日本式双晶)が有名になった。重石鉱を伴うことがあった。
倉澤鉱山産:乙女産とほぼ同じ。(明治後半には鳳/乙女鉱山に含まれる)
向山鉱山産:乙女産に似るが、良質の草入りも出る。緑色(透明・半透明)の草入りは竹森産より美しい。これは「本草入り水晶」と呼ばれ、俗に「黒平村の水晶」で通った、と(神保博士の論敵)篠本二郎博士が述べている。枯草入りも(濃緑・褐色の「松葉入り」)。小形だが簇生(群晶/トッコ)を多産し、標本として販売された。大型の石英脈に伴う。奥黒平村から荒川をへだてて東10丁余。ちなみに奥黒平村の北20丁に寒澤鉱山。

川端下鉱山産:擦りガラスの感じがあり、透明度が低く結晶面が粗い。スカルン鉱床中の石英脈に産する。大型の日本式双晶がある。
水晶峠産:乙女と川端下の中間的な性状。結晶性が非常によい。小形のものが多い。緑色の草入りや緑色半透明のものに特徴がある。升石入りも。
黒平鉱山産:ペグマタイト晶洞中に茶や黒の煙水晶、淡青色のアマゾナイト(カリ長石)を伴う。柱面にしばしば湾曲した条線あり。鼠色の水晶が出た。稀に紫水晶も。

増富村産(全般):透明度は少し劣る。剣先が次第に細まってゆく。燐灰石を伴うことが多い。以下、各論。
八幡山鉱山産:(旧)小尾村東北4里(小尾八幡山)。茶の煙入りを産した。甲坑は透明で光沢に優れたものを出した。乙坑に巨大結晶や簇生を多産。柱状に長く伸びる傾向。やや黄色みを帯びる。日本式双晶も。
吉山鉱山産
:美晶が出た。
大穴鉱山産:水晶坑としてもっとも古い。両頭完全結晶を出した。乳白水晶を出した。
五丈五尺鉱山産:(旧)小尾村東北3里。一時きわめて良質のものを多産。光沢に優れた白水晶も多産。
アザミ鉱山産:透明水晶のほか、草入りも。
穴見鉱山産;良質透明のものを多産。
上ザレ鉱山産:セプター水晶(笏状)、二重結晶を多産。松茸・冠水晶は他に黒平、松木尾根(八幡山の南)、甲武信に記録がある。
(※増富村(当時は北巨摩郡。現、北社市須玉町)には他に押出鉱山、与志鉱山、水穴鉱山などがあった。ちなみに同村の増富鉱山は銅藍を銅鉱石として掘った日本に珍しいヤマで、石英晶洞に銅藍の結晶片が散らばる標本は国産マニア御用達だった。)

付言すると、八幡山の甲坑と乙坑は御岳の三浦某と上手村の深沢某との共同採掘だった。乙坑に稀に見るほどの良質の巨大結晶を産したことから両者が権利を争って長く紛争したため、世に論坑と呼んだ。明治39年に甲府で開かれた見本市に出品された 562kgの原石「みづがき号」や、百瀬が蒐集し山梨大学が保管している長尺(高さ97cm/但し柱面は人為的な研磨面)の巨晶は、この時期に乙坑から出たものという。
五丈五尺鉱山は御岳の長田某の開発で、55尺(約17m)の縦坑を掘り下げ、山腹から掘った横坑と連絡させ、さらに70尺余(約21m)を掘り下げて、良質の水晶を採掘したという。この二つが増富を代表する盛坑だった。

明治期に稼働したこれらの鉱山から採れた原石の量は1シーズン(年産)に多くて数トンレベルで、1トンに届かないヤマが多かったようだ。通期ではヤマ(鉱区)ごとに数トンから数十トンのレベルだった。県内の年産計は平均10〜20トン程度と考えられる。もっとも表向きの数字と実態に大きな乖離があっても少しも不思議でないのがこの世界であるが。
大正に入るとブラジル産水晶が国産に代わるが、昭和戦前にかけて 5ケ年で800トンといった長期契約による調達が行われ、年あたり百数十トンが輸入されていた。明治後半から大正前期にも少なくともその数分の1レベルの市場規模はあったと見るのが妥当だろう。

これらの中で乙女鉱山は昭和56年(1981年)まで珪石鉱山として稼働の続いた例外的なヤマで、「楽しい鉱物学」の著者、堀博士(1934-2019)が高校生の時分には光学ガラス用の石英を掘っていて、副産物の水晶が黒平のある水晶屋を経て市場に流れていた。その頃、黒平集落の人々は林業の傍ら副業に水晶峠で水晶を手掘りしていた。水晶屋の主(藤原育弥氏)は他県から移住した人で、自身は村人が鉱区を持つ水晶峠を避けて南に少し離れた「バッタリ」鉱山で掘ったという。これらをセメント台に埋めた細工物を作り、昇仙峡の土産物屋に卸していたそうだ。
金峰山系では本格的な商業採掘が已んで久しいが、小遣い稼ぎ程度の手掘りは現在でも行われているようだ。上述のヤマのほか、瑞牆山(みずがきやま)や小川山などで採れた水晶も出回っている。
画像は小川山のもの。この産地は比較的大きな水晶があり、柱面の短かい形が特徴という。ザクロ石、ベスブ石、黄鉄鉱なども産するそうだ。紫水晶も記録がある。

 

補記:百瀬氏の水晶コレクションは、愛好家が高く評価する類の審美的な品や学術的な興味を惹く品を軸に蒐集したもので、偉い学者さんの譲渡懇請や収集家の高額買い取りオファーを拒み続けて県外への散逸を防いだという。 1920年に当時の山梨県師範学校に寄贈された。1927年に標本室(水晶庫)が建てられて、志が引き継がれた。後に山梨大学の管理となり、戦後「占領下日本 occupied Japan」期にGHQの目から隠し通したことが美談として語られる。2020年に国の有形文化財に登録された。

補記2:益富博士の「鉱物」(1974)は、「山梨の水晶」からお話が始まる。
「山梨県甲府市は水晶やめのうの置物、装身具など繁華な駅前通りはこれらを売る店が櫛比し、ちょっと他都市ではみられない異色の街である。」
むかしは金峰山方面で水晶を採掘したが、「原石の枯渇で大正7年ごろから良質の原石が豊富に安価ではいる南米ブラジルから輸入し、現在にいたるので、今甲府の街の水晶店にならべてある水晶細工は、ブラジルはじめ海外からの輸入原石をここで加工したものである」と。
一方、昇仙峡の茶店や土産物屋でふんだんに売っている水晶については、「紫水晶やめのうなどはブラジル物であるが、ふつうの水晶は金峰山方面から採掘した地元のものだ」と案内している。すると堀博士が高校生時分に訪れてから四半世紀ほど経った頃でも、昇仙峡に行けばまだ県産水晶の土産物が購えたわけだ。

秋月博士の「山の結晶」(1993)は、「山梨の水晶は博物館などで見られるだけで、甲府市や昇仙峡で売られている置物の水晶やネックレスの水晶の原石は、すべてブラジルなどからの輸入品である。山梨産のラベルをつけて売られていても、その水晶は外国産である…」と歎じている。

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