935.水晶 Quartz (ブラジル産)

 

 

 

Quartz 水晶

水晶(群晶) −ブラジル産

 

 

無色透明の水晶(ロック・クリスタル)は古くから人類が利用してきた石材で、打撃や開削器としての扱いが初めと思われるが、その煌めきに魅せられての宝石的な扱い、あるいは魔術的な霊力を帯びた物質としての神聖視も、同じくらい古いのかもしれない。
ブラウンズ/スペンサーの「鉱物界」(1912)によると、ヨーロッパではギリシャのミケーネ文明の時代にすでに水晶の彫刻品が宝飾として扱われていた。ローマ時代の医家は水晶球で光を集めて傷口を焼灼した。ローマ帝国期からルネッサンス期にかけて、水晶を刻んだ器物、花瓶やシャンデリアなどの美術品・日用品が作られていた (cf.No.22 煙水晶)。これらはガラス製造技術の向上に伴ってガラス製(モールド)に置き替ってゆく(※一般にガラスの主成分は珪砂(石英粒))。中産階級の勃興以来、天然の良質水晶は増大する需要を賄うには希少で、造形にも手間がかかるため高額な少量生産品に留まったことがひとつの理由だが、逆にプレミアムな価値を求める人々に向けて水晶細工は現代でも一定の訴求力を保っている。
アルプス山脈の高所は歴史的な水晶産地で、スイスでは夏季にこれを採集して生計を立てる人々が数世紀に渡って存在した。谷の人(スターラー)と呼ばれる。しかし主産地はすでに新大陸に移って久しい。

上掲書によると、19世紀後半〜20世紀初は概ねブラジル産がヨーロッパの需要を賄った。質のよいものは光学用レンズ、精密秤用の分銅、印章、文鎮、水晶球などに作られていた。高度なカット技術を駆使して宝飾品にもなった。もっともダイヤモンドに比べればその輝きは鈍く、遊色も乏しいので、平板で地味な印象を与えることは否めなかった(※鉛を含むクリスタルガラスの煌めきは水晶以上に美しい)。ルチルや緑閃石などを内包する水晶は、これらが景色として見えるように切り出し、丈の低いラウンドカットを施して装飾品とした。
純度の高い水晶は理器材に用いる石英ガラスの原料として重要だった。石英ガラスは紫外線や赤外線を透し、プリズムとしても優秀である。ただ当時の製法では原料の純度が製品の品質を大きく左右したので、珪砂より水晶を用いた方が成績がよかったのだ。

この時代の日本は外圧によって長く続いた鎖国が破られ、維新を経て政体が入れ替わって、国際社会に伍すべく殖産興業に励んでいた。水晶の海外需要は幕末からすでに知られており(cf.No.932 水晶、明治政府は水晶採掘を産業奨励策の一つに掲げた。国内の利用は数珠や玉細工、メガネ程度に限られていたが、海外では工業製品の原料としてもすでに大きな市場があったのだ。
例えばドイツは日本の鉱産資源に早くから目をつけて、幕末期に山梨の水晶産地を視察しており、明治初期には重石鉱(タングステン鉱)の存在を察知していた(cf.No.813 マラヤ石追記
一方、日本側も海外への物産紹介に精力的で、 1873年(明治6年)のウィーン万博に山梨県産の水晶玉を出品している。これは御岳神社の宝物の一つだった径5寸(15cm)強の銘玉で、御岳の名工が4年の歳月をかけて製作したものだった。後に天覧に付されて賞賛の言葉を賜り、明治12年に献上された。返礼に備前長船康光の銘刀1振りと金3,500円が下賜された。原石は維新前後に黒平の向山鉱山から出た草入り水晶で、この玉ともう一つ6寸の玉とが作られ、後者は横浜のフランス人に20,000円という破格の大金で譲渡された。

山梨に水晶細工が始まったのは1820-30年代のことで(cf.No.933 水晶)、甲府や江戸表で名が知られたとはいえ、明治初に細工品を扱った店は御岳と甲府にそれぞれ数軒程度だったという。手っ取り早く利益を上げるなら原石を右から左に流すにしくはなく、実際、大量の原石が売買され輸出された。一方で加工商品に仕立て上げれば利益が何層倍にも膨れることも明らかで、山梨にはその将来性を看取した人々がいた。
明治6年に着任した県令の藤村紫朗は甲府に勧業製糸場や試験場を作り、試験場の一部を水晶加工場にして1年間の講習を行わせた。上述の銘玉を磨いた塩入寿三らが講師となり、多数の加工技術者を輩出した。その一人、長田一郎太は選ばれて玉加工の本場、清国に派遣され、さらに高度な技術を学んだ。帰国後、「清国伝習水晶細工所」を開いて徒弟の育成に務めた。明治10-11年頃である。長田はもとは御岳で水晶細工を学び、慶応末年に市川大門町で開業し、職工を抱えて輸出向けの細工品(室内装飾品、玉類、頸飾り等)を多く作っていた人物。後に甲府に移ったが、清国仕込みの彫琢技術は絶品で、明治前半期の最高の玉細工師とされた。

山梨の水晶細工の拠点は明治中頃に御岳から甲府に移ったが(cf.No.934 水晶)、県内には当時多くの優れた職工が育っていたのであり、専門店が増えていたのでもある。国内向け製品の需要は過半が印材だったが、(幕末に始まった)その篆刻技術が本格的に完成したのは明治20年代といい、明治23年には若狭からめのう細工師を招来して、原石の挽き割り技術が取り入れられた。
同じ頃、水晶の環の内側に金輪を嵌めた水晶指輪の販売が始まり、メガネのレンズ作りも始まった。江戸以来の錺り職人の技術が水晶と結んで、「お護り玉」などの錺り細工も盛んに作られた。20年代末には身装品の水晶カット(面つけ加工)が行われるようになった。
日清戦争は景気を上向かせ、国内の宝飾品需要が漸く勃興していた。地方回りの行商販売やカタログ通販によって市場は全国に広がった。内職的な手工芸から始まった水晶細工は、明治30年代になると専門的な機械工芸へと進化していた。こうして甲府は「宝石の町」へと歩んでいったのだ。29年の県下の水晶製造業者は20戸、職工は38名と記録されるが、44-45年頃には業者106戸、職工450名を数えた。
ちなみに水晶の群晶(トッコ)を王水で処理して洗浄する手法を薬種屋の百瀬康吉が発明したのは明治28年という。老舗水晶店から、宮様に御覧に入れる前に汚物を除去したいという相談があったのがきっかけだった。以来、百瀬は水晶の魅力につかれ、本業そっちのけで原石の蒐集を始め、やがて仲買いや鉱山開発にも首をつっ込むようになる。

原石の供給を見ると、地元の水晶採掘は明治30年頃までがピークだったと言われる。加工産業が本格化して需要が増す一方で、既存の鉱山はそれまでの乱獲がたたって不振が目立った。30年代には砂防法や森林法が整い、水源地である金峰山での新たな鉱山開発には砂防施設の設置や採掘後の原状回復が課されたたため、今まで以上の資本投下が必要になった。結果として産量が激減した。原石価格は高騰した。
かつて甲府の業者はヤマから連絡があるのを待って買い出しに行ったり、竹森産を仲買いから仕入れていればよかったが、30年代半ばには自ら材料確保に奔走を余儀なくされた。それまで歯牙にもかけなかった低品質の不透明な「ガラ水晶」まで、数量(ガラ/ガサ/嵩)稼ぎに集められる始末で、そんな石でも飛ぶように売れたため転売業者が入り乱れた。鉱山から甲府に持ち込むだけで値段は 4倍になった。

40年代になると県内で気を吐くヤマは重石鉱の採掘に沸く鳳/乙女鉱山のみで(cf.No.196 ライン鉱補記2)、需要をまかなうには他県の水晶に頼らざるを得なくなった。滋賀県田ノ上や岐阜県苗木の煙水晶、宮城県小原の紫水晶、鳥取県藤屋の紫水晶、福島県合戸の紅水晶、秋田県荒川の冠水晶、新潟県相川の水入り水晶などが仕入れられた。海外からは朝鮮産(アメシストなど紫・赤色系)やスリランカ産(各色)が入った。
ブラジル産の水晶は大正初期に入ってきた。プリズム用として米国に輸出されたものの端材を商社経由で仕入れて再利用したのだが、割高だった。ほどなくブラジルとの直取引きルートが開拓され、大正7年8月、約5トンの原石初号ロットが輸入された。品質は素晴らしく、かつ安価だったので、以降、山梨の水晶細工はブラジル産が主流となった。
ちょうど西ドイツの小さな町イダー・オバーシュタインが、ブラジルはじめ海外産の宝石原石を加工して、優れた研磨技術と販売センスを梃子に宝石の町として成り立っているのと相似である。

 

補記:江戸から明治にかけての水晶玉の研磨は完全な手作業で、職工の技量がすべてだった。2寸から5寸までの大玉を作るには数ケ月を要した。明治末頃の製作法を簡略に述べると、まず「かっこみ」と言って、太目の鉄線でつくった針と小槌で原石のキズのある部分を欠いて概形を作った。水晶玉は完全に無色透明、無傷であってこそ価値が認められたのだ(※草入りやタナ(ファントム/山入り)などで景色として美しいものにも価値がある)。次いで、原石に竹のタガをかけ、研磨台の上に吊り下げる。そして、その下に置いた金剛砂を流した研磨鉄板に圧し下げて磨いてゆく。ゲージで高さを計りながら高い部分を削って真球に整形してゆくのだ。丸く磨り上がったら、ベンガラで艶出しをした。
金剛砂の替りに、新しい研磨剤としてカーボランダムが採用されるようになったのは明治44年頃からという。研磨機械は足踏み式が出来、やがてモーター動力式に変わり、研磨加工効率は飛躍的に向上した。

補記2:水晶の腐蝕像の研究で知られる市川新松博士(1868-1941)は、甲州の玉屋に伝わる加工法が鎖国時代からのものと考え、彼らが硬度や脆さの特性(異方性)をよく把握し、へき開をうまく利用して、水晶の加工にあたったと記している。
デーナら西洋の学者は正錐面(菱面体面R: Rhombohedron/現在の r面)に平行な、不完全な(貝殻状の断口を示す)へき開のみを認めたが、本邦の玉屋・篆刻師は他の(弱い)へき開面の存在をも経験的に知っており、それらは彼の腐蝕実験(1905-1908年にかけて行われた)の結果に整合していると。
市川の用語(佐藤の「大鉱物学」にあるもの)では、R、∞R (※正負錘面 r, z面)、 不正四面体 mPn/4 (※ x面や 2P2/4の s面等、また第二六方柱∞P2(※水晶を柱軸周りに30度回転した配置の柱面)即ち間軸の方向等にへき開が認められる。
彼の言う不正四面体は、水晶を柱軸に垂直に輪切りにした板を酸で腐蝕した時に切断面(c面)に現れる三角錐状の模様に符合する形状である。第二六方柱は自形結晶を酸で腐蝕した時に現れる偏六角柱状の、もとの自形柱面に対して柱軸回りに 30度傾いた柱面である。市川はそれらの面に平行な方向に弱いへき開が認められる(石英の原子配列の方向を反映している)と解釈した。

彼が各地の玉石加工業者から学んだところでは、甲州の玉屋は印材を取るとき、柱面に金剛砂の鋸引きで条線と垂直な浅い溝を入れてから、溝に軽い衝撃を加えて水晶を割った。ガラス板にダイヤでケガキ線を入れて割る時のように、容易に割れるという(※おそらく柱面に対して進入角30度でノミを当てるのだろう)。一方、柱軸に垂直に切るには完全に引き切るほかなかった。しかし、いったんこの面(c面)を出せば篆刻が自在なので、もっぱら印面として利用した。(※この切断方向は水晶の構造上もっとも原子配列が密になる。一方 c面の原子配列は粗く成長も早いので、天然の水晶に普通この面は見られない。現れる時はたいてい溶蝕面。)
玉屋は細工物を造るとき、まず原石を穿って輪郭を描いたが、守玉、風鎮、文鎮など簡素な形状のものは鉄槌と5〜6寸の鋼鉄の箸を使って、へき開と直角の方向に力を加えて刻んだという。観音、ダルマ、蛙、金魚等の動物の形を作るときは、針金と混合砂で不要部分を削いだ。あたかも糸で寒天やゆで卵を切るようにスラスラ行ったという。

ちなみに秋月博士の「山の結晶」(1993)は、r面(正の菱面体面) >z面(負の菱面体面) >m面(柱面)に平行に、この順でへき開が起こりやすいと述べている。
また F.D.ブロスらは「クオーツのへき開」(1963)に、低温石英のへき開は r面や z面に平行な方向がもっとも明瞭で、次いでクシー面(ξ){1122}、それから明瞭さは落ちるが c面 {0001}, s面 {1121}, x面 {5161}, m面 {1010} 、さらに j面 {3032} , a面 {1120}にもへき開があると報告している。最後の a面が市川のいう第二六方柱∞P2面である。
ブロスらは、石英の貝殻状断口はこれら各へき開面の極微の組み合わせで構成されるのではないかという。
クシー面は日本式双晶の接合面として有名で、あるいはこの面には転位(格子欠陥)が集中しやすいのかもしれない。
cf. No.703(日本式双晶)、 No.947(水晶の面の名称)、 No.938 補記5 (眼鏡の鏡面)

補記3:石英ガラスは水晶や珪砂を熔融して作るが、一般に2,000℃以上の高温が必要で、熱源(酸水素炎)が見出されるまで人工的に製作することが出来なかった。ヨーロッパでは 19世紀前半に初めて製作されたという。19世紀後半から20世紀初にはアーク放電や電気熱源(抵抗加熱)を利用する工夫もされた。現在もこれらの製法が製造の基本となっている。
日本では1920年代から研究が始まり、酸水素炎熔融法を用いた技術が開発されて、1935年から透明石英ガラスの工業化が始まった。

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