937.水晶 Quartz (日本産)

 

 

 

Quartz

水晶 奥側の結晶は「竹を切ったような」感じ
−山梨県山梨市牧丘町 乙女鉱山産

 

山梨県の金峰山周辺や塩山竹森のあたりは古くから水晶の産地として知られ、江戸期以降、特に明治年間に盛んに採掘されて、水晶王国山梨の名を天下に高からしめた。
乙女鉱山はその名の響きの美しさのためか、早乙女(さおとめ)さながらの清純な水晶を多産したためか、趣味家の間でことに知名度が高い。「乙女の水晶」などという言い方がされる。ここでは平板状の結晶が連なった、いわゆる日本式双晶(傾軸双晶)が出て、俗に平板(ひらばん)の夫婦(めおと)水晶と呼ばれた。おとめのめおと、とはこれ如何に? 聖母マリア、摩耶夫人(まやぶにん)の如し。

江戸時代、金峰山への参拝道の一つに東口ルート(牧丘杣口筋)があった。塩山あたりから北上して、里宮にあたる杣口金桜神社を通って入山する道で、(後の)乙女鉱山は里宮と頂の本宮とのちょうど中間あたりに位置する。ここから荒川の流れる谷沿いに山頂付近の御室まで進むと、宿坊を兼ねた神社の番所があった。東口筋は御室への物品運搬道ともなっていた。頻繁な往来の間に水晶の露頭が発見されて、山深い土地でありながら採集の手が入ったようだ。
荒川の東〜南側の沢を倉澤といい、往時に倉が建っていたのかどうか定かでないが、少なくとも文政4年(1821) にはここで採集され、幕府の所有物として貯留されていた水晶を払い下げた記録が残っている(※南東に倉澤山)
鉄道の塩山駅からなら鉱山まで約25キロの距離。その間に標高1,400mの鳥居峠や、1,617mの千貫峠などの難所を挟むが、駄馬の通行が可能だった。明治に入って水晶採掘熱が高まった時も早期に開発の手が入ったらしい。多くの坑夫が入山して粗末な小屋に寝泊まりしながら水晶を掘ったと伝わる。

荒川の北西側の沢を地元の人は「おとめ」と呼んだ。江戸期は幕府の林地として御留山(おとめやま:許可なく入山禁止)だったと思しいが、明治初の行政区画では中巨摩郡宮本村字黒平字乙女と表記されている。倉澤は東山梨郡西保村字北奥仙丈字倉澤に属した。川の南西側は西山梨郡千代田村に分かれ、これら境界付近の鉱区を広くまとめて、後に乙女鉱山(鳳(おおとり)鉱山)として稼働される。
こんな山奥の土地の区画を人々がどれほど尊重したか怪しいものの、村が違えば利権も分かれるので、水晶ヤマも明治中頃までは荒川の東と西とで入山する坑夫が分かれていたのかもしれない。
いずれにせよ、明治20-30年代におとめ/乙女/乙女阪/乙女坂と呼ばれた北西のヤマは、東南の倉澤と分けて扱われていた。水量の低い時は荒川を歩いて渉ることが出来た。乙女へは黒平方面から通じる道があった。
ちなみに東大の神保博士は明治32年の暮れ、上黒平からおよそ 3里弱の道を徒歩で辿って乙女坂を訪れたが、34年には東口から倉澤まで馬に乗って着いている。(※補記1)

日本産の夫婦水晶は早くも明治7年(1874年)にドイツの学界誌に紹介されているが(cf. 明治時代の有名鉱物_水晶)、12年(1979年)にはタングステン鉱(重石鉱)として金峰山産のライン鉱が報告された。どちらも後に倉澤/乙女に多産することが明らかになり、明治20-30年代が国内での収穫期・研究期となった。cf. No.196 ライン鉱、 明治時代の…ライン鉱
当時の日本の鉱業法は重石を資源鉱石に含まなかったが、海外(特にドイツ)の需要は明らかで、工具鋼を作る軍需物資でさえあった。cf. No.814 加水重石華、 No.815 灰重石
乙女坂の水晶坑から出る黒色の不明鉱を重石鉱と知った雨宮利作らは、明治32年頃、鳳鉱山として採掘に着手した。明治35年には手塚正次らが日本重石鉱業会社を設立し、倉澤・乙女の鉱区を糾合して乙女鉱山とした。
重石鉱は水晶と比べ物にならない莫大な利潤を生み、鉱山は大いに気炎を上げた。折から山梨産の水晶はそれまでの乱掘が祟って産量が激減し、法整備によって新規水晶坑の開発が難しくなっていた(cf. No.935)。甲府の宝石業者は水晶確保に血眼であったが、重石採掘に沸く乙女鉱山は水晶など眼中になく、副産物として出る水晶をヤマまで買付けに来る仲買業者に言い値で持ち帰らせたという。しかし、当時発見されていた重石の主鉱脈は4,5年のうちに掘り尽くされてしまい、ほどなく会社も解散した。

その後、権利者を入れ替えながら、倉澤・乙女の旧坑道から枝道が掘られ、鉱脈が探索された。そして鳳鉱山として昭和初期まで重石鉱が採集され、今日知られる乙女鉱床の主な鉱脈筋(十数坑)がほぼ明らかになった。昭和10年には再び乙女鉱山となり、重石のほか輝水鉛鉱、硫化(銅)鉱、珪石も採掘した。戦時中は資源開発鉱床の一つに位置付けられて同様の鉱石を掘り、「探査並びに掘削、採鉱などを担当する特殊技術者、多くの地元女性選鉱婦、時々参加する学生集団がかかわった」、「鉱山事務所は杣口と山元にあり、山元は役員とも10人、専門作業員は約50人で、事務所と契約を結んだ」という(「乙女鉱床の開発史」角田謙朗ら)
機械や食糧などの運搬は主に東口ルートが利用され、戦中に道路拡幅工事がなされた。一方、甲府方面から金峰山への古い参詣道(南口)も利用され、乙女から西に降る林道を経て黒平から甲府に鉱石を下すことが出来た。黒平の集落にも鉱山関係者が住んだという。

戦後しばらくは整理業務のみが行われたが、ガラス(窯業)製品の国内需要が伸びてきたことから、採掘対象を専ら珪石(塊状石英)として、昭和28年(1953年)から再稼働が始まった。そうして昭和56年(1981) の閉山まで珪石を掘り続けた。
当初は倉澤側を掘ったが、大量の鉱石運搬には御岳林道を通って甲府に下すのが便利なため、架線を引いて鉱石を乙女側(西側)に渡した。30年代に入ると林道が乙女の鉱区内まで通じた。
鉱石の性格上、出鉱量は膨大で、昭和32年に年産1,000トンだったものが 40年に7,000トン、46年には40,000トンを記録した。
その後、産量を落として50年代は 6,000トンほどに下がった。54-55年の台風で坑道が水没したこともあって経営がひっ迫し、新しい鉱脈の探査が進んでいたが手をつけないまま、翌56年(1981年)の閉山を迎えた。最後に開かれた乙女第4坑は新生坑と呼ばれ、54年から閉山まで採掘された。

草下「フィールドガイド」(1982)は、奥千丈の乙女鉱山を取り上げて、「塩山市(※現、甲州市)から北西30キロ以上の山奥にある石英の採掘所で、…珪石と称してガラスやレンズの材料に出荷しているのだ。…昔から有名な水晶の大産地で…ときどき休山していることがある」と記しているが、残念ながら本の出版時にはもう閉山していたのだ。
「ここの石英脈は、閃緑岩を切る非常に大きなもので、人間が入り込めるような大晶洞があり、長さ 7,80センチ、直径20センチという巨大な水晶がごろごろ出たこともある。」と讃したが後の祭り。
辿り着くのに一苦労の産地であるが、趣味家レベルでは 21世紀に入っても水晶を採掘することが出来た。しかし現在は山梨県が鉱山跡への立ち入りを禁止しているそうだ。御留山になったわけである。

乙女鉱山は古来白色透明な純良質の水晶を多産したことで知られるが、ほかに電気石入り、黄銅鉱入り、また日本式を含め各種の双晶水晶を産した。明治中頃に倉澤に出た水晶は乙女産とやや違いがあったようだ。
神保博士に張り合った篠本二郎博士は、甲府のあるお店で八幡産や乙女産などの水晶を購い、それを別のお店に見せて産地を問うたところ、ぴたりと当てたのに大いに感心した。それから各産地をよく研究した後、甲府に戻って数軒の水晶店主を招き、産地の鑑別目標の教示を乞うて報文にまとめた。
「乙女阪と倉沢産は共に柱面抹条ごく細かにして二者ほとんど区別しがたいが、乙女阪産はみな赤褐色の水酸化鉄の表皮を有し、倉沢産は多少これに黒色マンガン化合物の表皮を交える」と。ただし、まだ鉄重石(ライン鉱)の産出が気づかれなかった頃の話である。一般に産地の鉄重石はマンガン重石成分を 5〜2%程度含む。
また倉澤産の夫婦水晶は露頭に近いところだけに晶洞が集まっていて、掘り進むほどに産出が乏しくなる傾向があり、どこでも十数間も掘ると水晶が出なくなる、と述べている。(※補記2)

「乙女鉱山」の名の由来については、堀博士が「楽しい鉱物学」(1990)に紹介したエピソード(水晶のとれる村)が今日広く受け入れられているようである。美しく響くお話だが、いくつか看過されている点がある。No.196で触れたが、今一度整理してみる。
このお話によると、明治時代にはタングステンやモリブデンの金属鉱石を主に採掘していた。谷底の坑口から出た鉱石を崖の上の人道まで担ぎ上げて、その先は黒平から甲府まで馬で運んだ。坑口から人道までの急坂を担ぎ上げるのは若い女性の仕事だった。身なりにかまう余裕もなく重い鉱石を運ぶ乙女の姿を見上げながら、「だれ言うとなく "乙女" 鉱山と言うようになりました」という。博士はこれを「悲惨な過去」と述べて哀調を高めた。

ところでこの鉱山はもとは水晶を掘ったところで、明治中頃までは鉱区申請者や請負いの鉱夫、それから村単位の稼働・経営がなされたと考えられる。乙女(坂)の水晶坑、倉澤の水晶坑などと呼び慣わされた。乙女という音・表記は金属鉱石を掘る以前からあったものである。
水晶鉱に随伴する黒色の物質がタングステン鉱(重石鉱)と判明したのは早くて明治 32年、日本重石鉱業が組織され、坑夫を集めて本格的に重石鉱を掘り始めたのは明治35年である。モリブデン鉱が採掘対象となったのは昭和の頃である。
鉱山の名称は地名が用いられたり、なんらかの縁起をかついだり、さまざまであるが、正式名称は普通は鉱山会社が決める。その際、上記のように稼働が始まった後の女工哀史的な労働状況からつけるのは不自然なことと思われる。むしろ従来の俗称を継いで乙女鉱山としたとみるのが自然だろう。

なお金属鉱山では作業分担によって契約賃金が異なるのは昔は普通のことだった。強健な働き盛りの男性はたいてい危険の多い激しい坑内作業に就いて高収入を求めた。他方、選鉱や荷役などの坑外作業は若輩や年配者、女性が受け持つのが全国的に行われた慣例だった(女性の賃金が男性より低く抑えられるのも社会一般の慣行だった)。若い女性が選鉱でなく荷役仕事に就いたのは、一つにはその仕事をこなすだけの体力があり、一つにはより高い収入を求めたという生活的な側面があったのだ。
明治時代の地方の庶民の生活は貧しく厳しく、あるいは悲惨と言うべきなのかもしれない。とはいえ金峰山周辺の村は明治中頃には水晶採掘が金のなる木として認知されて、農閑期になると村中総出で稼いで有卦に入ったのである。そして乙女鉱山は重石鉱の発見によって大勢の人を集め、さらに活況を呈したのだった。そこで仕事を得て現金収入を得ることは、若い女性にとっても心の張りだったのではないだろうか。

江戸中期に幕府直轄となった山梨県は山がちの土地で、山林の広い範囲が御留山とされたが、乙女坂、乙女峠などと表記した地名がすでに甲斐国誌(1814)にみられる。cf.No.196 補記3 
富士吉田市には乙女池、おひめ坂という地名が残る(そして乙女に因んだ伝説が付会されている)。
「おとめ」の音を乙女(をとめ)に映すのはどうやら人間のサガに兆すもののようである。人も大魔神も乙女の姿にゃ弱いものなのだ。その姿しばし留めむ。


補記1:神保博士の報文にみる乙女坂の鉱山。
「甲府より上黒平の旅店まで凡そ5里、これより乙女坂まではナラ峠と称する易道(難道にあらず)を経て3里以下なるべし、乙女坂に小屋ありて十数名の坑夫の住居に適し、春夏秋冬人絶えず、春夏秋冬通して皆春の如き人々が略式の道具にて小屋の傍らに蜂の巣の如く山に穴を穿つは塵外の趣あり、乙女坂の小屋に対したる山側には対岸なる倉沢の水晶坑夫の小屋立てり、これにも一年中住む者ありという。」(「ライン鉱とは何ぞ」(明治33年/1900年)より)

補記2:篠本博士の報文にみる他の産地の水晶の特徴。
向山産は柱面抹条粗らけれども条線よく並行し晶皮白色のもの多し」、
竹森産は柱面抹条粗くして並行なれども晶皮透明にして美なるもの多し、殊に通俗電気石と称する輝石様の包嚢物も主なる目標なり。」、
八幡産は柱面抹条粗くして並行せず晶皮白色なるあり透明なるあり」、
五丈五尺産は概して八幡産に類すれども抹条一層粗く凹凸もっとも大に柱体錐面の方に向い次第に細りて日本の針の如き状を呈す」 と教えられた。(「甲斐金峰山四辺の水晶坑」(明治29年/1896年)より)

市川新松博士は、甲府の業者が金峰山産の水晶と竹森産の水晶とを光沢や脆さで区別したことを記している。前者の光沢は平明で普通だが、後者は光沢が一層強く、あたかも人が磨いたかのように艶がある、一方琢磨するとき前者に比べて後者は脆いので注意が必要だった、と。

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