449.輝沸石 Heulandite (インド産)

 

 

Heulandite

真珠光沢を見せる輝沸石 鉄分によりほんのりシャケ色
−インド、プーナ産

 

沸石(ゼオライト Zeolite)は非常に空隙の多い原子配列を持ったアルミノ珪酸塩で、家に喩えられるそのオープンフレームの中に、ナトリウム、カルシウム、カリウム、バリウム、ストロンチウムなどのイオンや多量の水分を含んでいる。特に水分については、いわば家の中の家具・家人として、フレームを壊さず出入りする特殊な性質があるため、水和物中の常の水分(結晶水)と区別して、沸石水と呼ばれている。
またフレームのサイズが篩の目の働きをし、分子(イオン)をその大きさによって通過させたり捕獲したりする働きがあるため、ガス〜液体の分別器としてモレキュラー・シーブや機能性吸着剤、土壌改質剤等に利用されている。

本来無色だが、鉄分の混入によって着色することがあり、酸化鉄で赤褐色になったものをよく見かける。上の標本もその類。「赤沸石」という呼び名があるそうだが、他の沸石類(束沸石や菱沸石など)でも同様に赤く染まって産する例が珍しくないので紛らわしい。(ちなみにバラ沸石とか薔薇(しょうび)沸石と呼ばれたイネス石は、実際には沸石族に含まれない)
欧米の図鑑を開くと、結晶の形を しばしば「棺(coffin)形」と形容しているのに出会う。言いえて妙だが、日本人にはない感覚で、第一、オケの形が違う。じゃあ、君ならどう表現する、と問われれば、思いつくのは「宇宙戦艦ヤマトの艦橋の扉の形」くらい、これでは海外に通用するかどうか(その前に日本でも通用しないのでわ?)。

輝沸石は沸石類の中でももっともオープンな結晶構造を持った種のひとつである。フレーム構造がシート状であるため、明瞭なへき開を示す。そのへき開面が束沸石よりさらに強い真珠光沢を放つことが、和名の由来という。

学名 Heulanditeは、19世紀中葉の有名な英人鉱物商であり蒐集家だったジョン・ヘンリー・ヒューランド(1778-1856)を顕彰して 1822年にH.J.ブルックにより命名された。模式標本はヒューランドがスコットランドのグラスゴー付近で採集してきたものという。彼の標本商としての最盛期は1820年代から30年代にかけてで、おりしも泰西では博物学が大衆支持の旗の下に黄金期を迎えていた。ハリーもディックも日夜こぞって、博物学にいそしんだ。
その有様は、「世紀中葉期までには英国中産階級の客間で、水槽(アクアリウム)やシダのケース、蝶の標本棚、海藻の整理帳、貝殻コレクションその他、住民の博物学趣味を示すものを何も持たないなどという客間はひとつもなかったし、同じ頃どこか海岸地方に出てみて、ゴス氏の本やジャム壺一揃いを携行、岩陰に溜まった水たまりに膝までつけてイソギンチャク捜しに夢中の善男善女に出会わないということはあり得なかった。新聞にはすべて博物学専門の紙面があり、読者投稿欄はどれも時として、一体ツバメは渡り鳥であるのか、ヒキガエルは本当に何世紀も石の中に閉じ込められたまま生き続けることができるのかといった問題をめぐって口角泡を飛ばす侃侃諤諤の戦場と化した。博物学は国をあげての強迫観念となり、博物学本の売れ行きは大文豪ディケンズの小説群に迫るものであった。」(国書刊行会 博物学の黄金時代  1995年刊)という具合だった。(もっともこの本には、地質学はともかく、鉱物収集熱のことはまったく出てこない)

当時、熱心なアマチュア研究家や標本商(兼学者)が新種の記載に果たした役割は現代よりずっと大きかったのではないか。鉱山学のような技術分野は知らず、種の記載・分類といった博物誌的分野ではアマ・プロ間の垣根がまだ低く、たいていの学者方は来るもの拒まず、文通を通じての知識や標本のやりとりも盛んだった。
ヒューランドはフェルグソンを始め多くの鉱物学者や大学への標本提供元をつとめ、前述のようにインド産の鉱物に対して欧州の耳目を開くにも貢献した(→No.445)。

補記:1997年に Heulandite は Heulandite-(Ca), Heulandite-(K),Heulandite-(Na),Heulandite-(Sr)に細分され、2002年に Heulandite-(Ba)が追加された。普通に見られるのは、Heulandite-(Ca)。
補記2:ブルックが報告する以前に、ブライトハウプトが1818年に束沸石から別種として識別し、euzeolite(美しい沸石の意)の名を与えていたという。

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