466.アクアマリン Aquamarine (パキスタン産) |
「エメラルドがもっとも美しいのはカットしたときよりも、結晶として母岩にくっついているときだ」というテーゼは、「楽しい鉱物図鑑」(草思社)で初めて鉱物の美に開眼したすべての愛好家にとって神託に等しい。
その言葉は、霊感をインスパイヤされたアマチュアのみならず、標本商さんでも、その後誕生した数多の「石」博物館でも、同じように鳴り響いている。
ところで、このテーゼを是とするなら次の問にはどう答えるべきであろうか。
「鉱物がもっとも美しいのは、愛好家のキャビネット中にあるときか、それとも大自然の中にありのままあるときか。」
実際、なにを美しいと思うかは、その人の感性によるだろう。
カットしたエメラルドが美しいと思う人は宝石コレクターの資質を、結晶の方が、それも母岩付きならなおのことと思う人は鉱物蒐集家の資質を、また自然の中にあるときが最高だと思う人はフィールドウォッチャーの資質を持っているだろう。ときには一人の人がそのいずれの道をも踏み分けることだってあるかもしれない。結局冒頭の一文は、熱烈な鉱物愛好家の所信表明演説みたいなもんである。
ただ、次のことは指摘していいかと思う。
愛好家のキャビネットの中にある標本は、自然の中にあるときとは違った質の魅力を発散している。自然とは切り離されているがゆえに、見る人の想像を自由に羽ばたかせる扉となっている、と。
そして鉱物標本は、カットされた宝石と違って、自然界にあったときの様子に想いを馳せられるだけの形をいまだ留めていることが、美しさの感覚に繋がっているのであろうと。
少なくとも文学的な鉱物幻想は、鉱物や鉱山が一般には隔てられた世界であり、非日常的な存在であるからこそ成立するのではないか。今目の前に見る事物が、背後に隠されているだろう神話体系の片鱗として映り、魅力的に感じられるのではないか。愛好家のロマンは、見えないもの、いまだ知らざるものへの憧れと同じ目線に立っている。
もっともそれは、宝石コレクターに対しても言えることなのであろうけれど。