563.サーピエリ石 Serpierite (ギリシャ産) |
ギリシャのラウリオン(ラウレイオン)鉱山は、アテネを中心とするアッチカ地方最南端の山岳地帯にあり、標高は約
260mという。
いつ開かれたか知れないほど古く、おそらく近くのエウボイア地方に植民したフェニキア人によって開発されたものだろうと言われている。後にギリシャ人の手に落ち、アテネ国家所有の鉱山となった。
鉱山の地質は滑石質の雲母片岩と粘板岩で、それらが結晶質の石灰岩に覆われて、その中を褐鉄鉱、菱鉄鉱などの鉄鉱石、含銀硫化鉛鉱や亜鉛鉱の鉱脈が密接に絡みあって通っていた。古代人は鉱脈から銀を含む鉱石だけを採掘し、鉄鉱石は放置するか谷底へ落としたらしい。鉄を製錬することがあっても別の場所で行なった。燃料の木材がなかったからだという。
ラウリオン銀山は永代借地として貸し出され、鉱区に対する採掘権が与えられた。借地料は一鉱区あたり1タラントで、国家への上納金は産出高の 1/24と定められていた。新しい鉱坑の開発が積極的に支援され、鉱山から上がる莫大な地代収入はアテネの重要な財源となった。この収入は毎年市民の間で等分に分配されるのが慣わしだったが、テミストクレス(BC528〜462頃)は分配に反対して、一人あたり
10ドラクメンの取り分をすべて国庫に納め、国家の目的に使った。すなわち三段櫂のガリー船200隻(100隻とも)からなるアテネ艦隊を整えるのに費やしたのだ。この艦隊によってアテネの制海権の基礎が築かれた。ペルシャ戦争(BC492-449)の勝利は、アテネ艦隊の活躍と戦費の大半を銀山の収入で賄えたことが大きい。
ラウリオンはその後、ペリクレス(BC495-429頃)の時代に最盛期を迎えるが、ペロポネソス戦争(BC431-404)の間に急速に衰微した。
鉱山から入る収入は激減し、アテネ市民社会もこれに伴って貧しくなった。ストラボン(BC63-AD23)の時代には採掘は完全に止まり、アウグストス帝によって閉山された。
しかし残された大量のスラグ(鉱滓)にはなお 5〜12%の鉛、0.005〜0.016%の銀が含まれていたので、19世紀の後半(1874年以降)にスラグの堆積を使って精練が行なわれ、また含銀鉛鉱の鉱脈が再開発された。当時はまだ古代の縦坑、水平坑が夥しく残存しており、その数
2,000に上ったという。スラグは長い間に風化されて、さまざまな二次鉱物を生じていた。
サーピエリ石は銅と亜鉛とカルシウムの水酸硫酸3水和塩で、美しい空色をしている。1881年にフランスの鉱物学者デ・クロワゾーがラウリオンで発見し、鉱山を再開発したイタリアの鉱山企業家ジョバンニ・バティスタ・サーピエリ(1832-1897)に因んで命名した。サピア石ともいう。劈開が一方向に発達して真珠光沢を持つ。外観のよく似た水亜鉛銅鉱は希塩酸に発泡して溶けるが、サーピエリ石は発泡せずに溶ける。
補記:ラウリオン鉱山の銀の収益で軍船を整えた次第は、「プルタルコス英雄伝」のテミストクレスの件に出てくる。
補記2:日本では河津鉱山などに産する。最初の国産報告は岐阜県賀茂郡白川町の黒川鉱山産という。