590.紫水晶2 Amethyst (タンザニア産)

 

 

Amethyst 紫水晶 アメシスト

アメシスト(砂岩中に産するもの) −タンザニア、カインドゥ産

 

ほぼ二千年の昔、秦漢の時代から唐代に至る中国にあって、漢方薬の古源となる本草知識がまとめ上げられた。膨大な植物種を中心に石や動物を含め、その薬効が分類され記録されてゆく。それは今日にいう医学と、道教に繋がる仙薬知識と、西洋の錬金術に比すべき錬丹技術の不思議な融合物であった。もっとも貴ばれたのは長生・養生のための長期服用薬(体質改善薬)であり、羽化登仙の金丹だった。病気を治すための、いわゆる対症療法的な医薬品は応急品に過ぎず、「下品」に配されていた。人々の眼中にあったのは治療でなく、よりよい人生を生きることであり、それを可能にする薬なのだった。本草知識は実践であると同時に哲学思想でもあった。

初期の本草書は名医の名を冠して編纂されることが多く、最古とされる神農本草経(2-3C)は、自ら百草を舐めてその効を確かめたという伝説の神人に権威を借りている。ちょうど西洋の錬金術書がオシリス(オルフェウス)やヘルメスに捧げられているのと同じように。
本書を核として南朝斉・梁の陶弘景の神農本草経集注が(AD500年頃)成立し、唐代には中国初の勅撰本草書である「新修本草」(唐本草)が編まれた。

記載された本草の中には、今ではけして用いられることのないもの(効果がないとか劇毒であるとか)もあるが、薬効あらたかで後に合成薬開発の緒となった本草もある。今日なお漢方に供される薬種は数多い。
石英の類では神農経の昔から白石英、紫石英が取り上げられており、紫石英は「長く続けて服むと十年子なき婦女が孕む」とある。唐代の「千金翼方」にも「男は七子散をのみ、女は盪胞湯と紫石天門冬丸(紫石英入り)を併用すれば、永年子なきといえども効を得ざるなし」とあって、この効能は今日の薬方書にまで伝わっている。中国人の幸福観の中に子孫の繁栄は最重要項目のひとつであり、その解決は最大関心事だったといって過言でない。

紫石英(今の紫水晶)は、鉱物種としては白石英(今の水晶)と同じ Quartz で、微量の副成分によって発色したものと考えられている。主成分は空気中に普通に存在している埃と同じ二酸化珪素である。細かい砂埃の舞う中にいれば、自然に肺にも胃にも石英が取り込めるはずだから、それに薬効があると言われると首をかしげたくなるのだが、薬には適量というものがあることなので、毎日茶匙一杯分ほどを飲み続けると、埃を吸うのとは違った効能があるのかもしれない。
詳細な薬理作用は判明していないが、白・紫石英いずれも温の性質を持ち、体を温めるものとされている。薬味は甘。紫石英について掌禹錫(11C)は古い文献を引き、「水で煮て飲めば暖にして毒なし、北方産の白石英に比して、その力は倍する」といっている。本邦の本草和名(10C)にも、白石英の性は微温、紫石英は温とある(中国書の引き写しだろうが)。微量成分が効き目を高めているのだろうか。
徐之才(6C)は「茯苓、人参を得れば心中結気を療じ、天雄、菖蒲を得れば霍乱を療ずる」といっている。古来、石英はほかの植物薬と混ぜて服用することが多かった。

後漢の張仲景は医法の祖、医聖と称され、名医の誉れ高い人物だった。彼が書いた「傷寒雑病論」は、後に分割されて「傷寒論」、「金匱要略」となって伝わる。その中に「紫石英方」、別名「寒食石方」の処方がある。傷寒(風邪に発する外感疾病)の治療薬であり、「傷寒が治癒した後の再発を防ぐ」という。
原料は「紫石英、白石英、赤石脂、鍾乳、栝簍根、防風、桔梗、文蛤、鬼臼、太一余糧、乾薑、附子、桂枝」で、この13味を搗いて散薬とし、酒で服用する。酒には薬毒を解く作用があるからだ。寒食と呼ばれるのは、つねに冷食(冷たい食事)を心がけねばならないからで、暖かい食事を取ると薬効が激発して危険なため、つねに体を冷やしておく必要があるのだ。

有名な「寒食五色更生散」は魏晋南北朝期に何晏という貴族(高等遊民)が考案したもので、男子の五労七傷を治療する補養薬である。過労や衰弱のためベッドから起きられず、医者に見放された者でも、服せば完治する。30歳(以下)の者は服してはならないという作用の激しい代物で、原料は「紫石英、白石英、赤石脂、鍾乳、石硫黄、海蛤、防風、栝簍、白朮、人参、桔梗、細辛、乾薑、桂心、附子」の15味であった。ほぼこれと同じ薬に「五石護命散」(太一護命五石寒食散)があり、「久服すれば、即ち気力強壮、延年益寿」という長生薬の性格を持つとされた。

魏晋南北朝期に開発された寒食散には中毒性の強いものが多かったようで、服用すると体が熱くなって常人と異なる生理状態をきたした。寒食はもちろん、服用後はよく風にあたったり、散歩をして体内の熱を逃がす必要があった。しかし適切な将息をとって一連の激しい症状をうまく経過すると、後にかつてない健康状態がもたらされると信じられたので、みなその日を期待して、中毒症状に耐えた。中毒に苦しみ悶死した人も絶えなかったが。白・紫石英はほとんどの寒食散の基礎成分に含まれていた。

唐代に入ると、寒食散に加えて、水銀を主成分とする金丹類が長生薬の決定版として大流行を来たす。唐の玄宗皇帝は自ら仙薬を調製したことで知られるが、「全唐文」巻38に「私は近年来、『薬物』を服用し、あわせて『金竈』をつくり、石英を煮錬してきたけれども、寇戎にあい、役に立つ道具類をすべて失ってしまった。」とある。当時の錬丹術辞書というべき「石薬爾雅」は、当然ながら両石英を載せている。
中晩唐期に入ると寒食散や金丹を服用する習慣は完全に社会現象化した。同時に中毒症例が頻発し、さすがに「運用の誤り」で済ませられるレベルを超えた。癒えない薬毒の後遺症やむしろ寿命を削ってしまうリスクの高さが、来るべき薬効のメリットを上回ることは否定すべくもなく、金丹類の流行は急速に廃れた。しかし白・紫石英の利用はその後も旧のレベルに戻って続いたようだ。

李時珍(16C末)は「紫石英は手の少陰、足の厥陰の血分の薬である。上部に対してはよく心を鎮め、重を持って怯を去る。下部に対してはよく肝を益し、湿を持って枯を去る。心は血を生ずる処であり、肝は血を蔵する処であって、これに対し紫石英は性が暖で補の作用を現すから、心神不安、肝血不足、及び婦人の血海(子宮)、虚寒不妊のものに適する」と書いている。
近代中国では常に鍾乳石と共に用いて肺を温める効があるとし、肺寒痰喘の治療にあてる。今日の薬方書は「紫石英は色紫で血分に入り、その質が重で下に達するものである」とする。手足の隅々まで血をよく廻らせるということか。用途として鎮静、鎮咳、止渇があり、強壮薬として、精神不安定、驚悸不眠、婦人の子宮寒虚にして不妊、老人の喘嗽などの症状に応用する。

ちなみに本邦、本草綱目啓蒙(19C初)は白・紫石英を載せているが、薬効については触れていない。
この頃には日本では石英を飲む習慣は廃れていたのではないかと思う。(そして石英類は一般には「水晶」と呼ばれていたのではないか⇒水晶の話

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