621.トルコ石 Turquoise (USA産)

 

 

Turquoise トルコ石

Turquoise トルコ石

トルコ石(スタビライズド) とその蛍光
-USA、ネバダ州カーリン、ブルースター鉱山ナンバー8産

Turquoise トルコ石

トルコ石の原石(左半分は研磨面) −USA、ネバダ州ナンバー8産

 

南西部のトルコ石がアメリカ人(白人)の間で評価されるようになったのは、この地域がアメリカの領土となって少し経った頃、19世紀後半のことで、その人気は20世紀前半にかけて次第に高まっていった。そして1950年代には需要が(アメリカ産の)供給を上回るまでに伸びた。つまり掘れば掘っただけ売れた。
その頃−19世紀後半〜20世紀前半 - というのは、アメリカのストーンハンターやラピダリストにはひとつの夢の時代であった。金やウラン、タングステン鉱石などの職業的な資源探鉱家がそうしたように、愛好家たちは野に山に砂漠に出て、めあての宝石・貴石の鉱脈を探し回った。うまく発見できれば鉱区を申請し、法の保護の下で掘り出して収穫を独占することが出来た。
フロンティア開拓を推進するための優遇措置として 1872年に制定されたハードロック・マイニング法(cf.ブラックヒルズの金鉱)は、そんな夢を実現させる恰好の土壌であった。これは事実上国家になんの対価を支払わなくても国有地に埋蔵される鉱産資源の採掘を可能とし、環境保護上の制約を受けず、かつ閉山後の環境復元に関しても一切義務を負う必要がないという、ミネラル・ハンターや鉱山会社にとって天の恵みに等しい法律だった。
かくて軟玉やラピスラズリやトルコ石、そのほかさまざまな種類の宝石鉱物・ラピダリー原石が国有地から陸続と掘り出され、自由に私財化されていった。
大規模な設備投資が必要な金属鉱石の採掘はまた別の話だが、トルコ石のような宝石なら、個人(家族)規模の採集家が品質のよい小さな鉱脈を掘り当て、これ一本で家を建てることも夢ではなかった。アメリカ人が開発したトルコ石鉱山は小規模なものを含めると無数といってよく(実際には数百くらいか)、さまざまな発見譚や儲け話が語り草として伝わっている。(この法律は現在も有効だが、新たに開発される鉱山は環境法によって原状回復義務が課せられる。そのためトルコ石採掘のような小規模事業を新たに始めることは難しくなっている)

ネバダ州ユーレカ郡カーリンの北方50キロに、今日ナンバー8と愛称されるトルコ石を産した地域があった。比較的長期間にわたって断続的に良質の石を出したことで知られており、ネバダ州最大のトルコ石の塊が出たのもこの地域であった。アメリカのトルコ石愛好家(これがまた大勢いるらしい)にとってその名はビンテージブランドであり、良質のスパイダーウェブを持ったナチュラルストーンは幻のランダーに次ぐ高値で取引されることもあるという。

土地の地質は石英モンゾーニ岩、頁岩、薄い黒色チャートの脈などで構成され、これらが複雑に褶曲し断層によって分断され、また激しい風化を受けて変質していた。トルコ石は貫入岩中(銅成分はふつう貫入するマグマから供給される)の石英脈に沿って、また堆積岩の断層面に沿って生成していた。

カーリンで初めてトルコ石が発見されたのは1925年のことだったが、鉱区を申請しなかった発見者の名前は忘れられた。1929年にアール・バフィントンとローレンス・スプリンガーという人物が正式に鉱区を申請して採掘を始めた。この年は800kgの良質の石が得られた。翌年、バフィントンの株式をテッド・ジョンソンが買い取り、1933年までの4年間に約2300kgの石を採った。多くはコマーシャル・レベルの石だった。
その後、産出する石の品質が思わしくなかったこともあって鉱山は人手を転々としたが、最後に鉱区を手に入れたエドガー五兄弟は採掘エリアを拡大して、品質はまずまずながら相当な量の石を採集した。しかし 1950年までに手掘りできる範囲の鉱脈はほとんど掘り尽くされてしまった。

兄弟は土木業者を雇い、鉱区の手つかずだったエリアにブルドーザーを入れて表土を掘り崩させた。そこで銅の鉱脈が見つかった。兄弟は「もしこれ以上トルコ石が見つからないようなら銅を掘ったっていいよな」と考えたという。
ところが深さ 2.4mの溝を約24mの長さまで掘り進めたところで、素晴らしい鉱脈に当たったのだ。それまでネバダ州で見つかった中でも最高のスパイダーウェブをもったトルコ石の脈だった。
採集された石はほとんどがノジュールで、中には非常に巨大なものがあった。例えばズニ族のC.G.ウォラスに1600ドルで売られた石は 4kg以上の重さがあり、品質も申し分なかった。1954年6月23日には史上最大級のトルコ石が掘り出された。サイズは 84cmx 50cm、厚さ18cm、洗って表面を磨いたものを量ると 70kgもあった。美しい網目が入り、色もよく硬度も十分で、良質のコマーシャルグレードの石だった。
このトルコ石はあるお店の看板として長く店頭を飾ったが、 1999年、閉店に伴ってニューメシキコ州の自然史博物館に寄贈された。現在はそこで見ることが出来るらしい。
その後も兄弟は開発を進めたが、スパイダーウェブの石はそう多くは見つからなかった。しかし十分な量のコマーシャルグレードの石が採れ、1961年までに約730kg が掘り出された。

鉱山は1957年に転機を迎えた。金が見つかったのだ。といっても砂金ではなく、きわめて微細な金粒として地質に含まれるものである。この種の金は過去にまったく気づかれていなかったわけではないが、パンニング(椀がけ)では回収不能なほど細かい粒であり、19世紀後半のゴールドラッシュ時代にはほとんど関心を集めなかった。しかしこの時期にはシアン化法によって90%以上の回収率で採集出来るめどが立っていた。問題は資金力である。
エドガー兄弟は1959年頃に鉱区の権利をある大きな金属鉱山会社に売り、トルコ石鉱山としての歴史は1961年に幕を閉じた。露天掘りによる金の採掘が始まったのは1965年だった。20エーカーの土地に10の鉱区が設定され、以後ロイヤル・ブルー、あるいはブルースター鉱山として知られた。カーリン周辺は総合するときわめて豊かな金の埋蔵量を持つことが分かり、微細な金を含んだこの種の鉱床は今日カーリンタイプと呼ばれている。

1980年代から90年代にかけて第8鉱区(ナンバー8)が開発された時、鉱山は再び素晴らしいスパイダーウェブのトルコ石を出した。脈の厚さは30cmあったという。ウェブの色は金茶色から黒色で、トルコ石の色目は淡い青色からごく濃い暗い青色まで、多少緑色がかったものもあった。その品質は宝石クラスのものが多かったらしい。
とはいえ、なにしろ金鉱山であるから、掘り出された鉱石は当然金を抽出するために粉砕され溶解される定めであった。実際、大半の石が掘り出された後、(おそらく青化処理を経て?)廃石場に運ばれ、埋め戻されたという。しかしまた当然ながら破壊をまぬがれたナゲットや脈石が存在し、市場に出て大きなインパクトを与えた。以降、この地域のトルコ石はナンバー8の名で天下にとどろく。確保された石はわずか11kg にすぎなかったといわれるが、私が邪推するにランチボックスに隠れてエスケープし分散した原石の量は、少なくともその数倍はあったのではないか。

今日、ブルースター鉱山のあったあたりは天に向かってぽっかりと開いたひとつの巨大なくぼ地となっているそうだが、ナンバー8はストックの流通がそれなりに続いているようだ。また、この地域の管理者がかつて埋め戻された廃石の中から少量のトルコ石をレスキューしているといううわさもある。
トルコ石の市場では、こうした物語というか歴史そのものがブランドを醸成する伝説として機能し付加価値を与えているのだが、中国産やチベット産の安価な石の実力がアメリカ産に劣るわけではまったくない。

上に掲げた標本は樹脂含浸によって硬化処理された(スタビライズド)石を磨いたものである。処理石であることは買う前からわかっていたが、たまたまUVランプをあてたとき、実に明るい青緑色に蛍光したのには驚いた。含浸した樹脂の蛍光なのだろうが、太陽光下での美しいエメラルド色の幾分かはこの蛍光が寄与しているんだろうな、としみじみ思ったものである。スタビライズドというよりは、インプルーブド(改質)というべきか。

下の画像は半加工の原石。左半分は切断研磨した面だが、右半分はラフの状態で、球果状のトルコ石が原石の中に嵌っている様子がよくわかる。

(補記)上の標本の売り手は原石が採集されたのは1954年で、90年代に(自分が)磨いたときに樹脂含浸を施したと言っている。

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