No.81 フランクフルト・アム・マイン (ドイツ) その2
フランクフルトというと、アルプスの少女ハイジが
アルムの山を離れてゼーゼマンさんの館で暮らし、
白いパンを箪笥の引き出し一杯に貯めて
いたところ、というのが私のイメージ。
帝国自由都市の大都には丘も山もなく
教会の鐘楼に上ったところでアルムのお山は
さすがに遠すぎて見えないですよ。
ちなみにゼーゼマンさんの館は
ゲーテ・ハウス(ゲーテの生家)がモデルとか。
聖バルトロメオ大聖堂
古くは 7世紀に貴族の少女を埋葬して
建てられた礼拝堂だったといい、
数次の増築を経て大聖堂となった。
大戦で廃墟化したが、1970年代に修復が成った。
ゴルゴダの丘の刑場の再演
なぜ中央の十字架が左右より高く大きいのか。
長きにわたって(1562-1792年)ドイツの覇者、
神聖ローマ皇帝の戴冠式が執行された。
三位一体?
我等が救い主の生涯や使徒たちを彫った祭壇。
ウォラギネの書によると、使徒聖バルトロマイは
救い主への信仰によって悪魔を祓う力に長けていた。
しかし世界の果てインドの異教国で殉死する。
遺骸はキリスト教徒に引き取られて埋葬されたが、
崇敬に腹を立てた異教徒たちが暴いて
鉛の棺に詰めて海に沈めた。
棺は神意によってシチリアの
リパリ島に流れ着いた。
9世紀に島に侵攻したサラセン人は聖遺骨を
砕いて撒き散らしたが、夜に光る砕片が
集められてアプリアの都ヴェネトへ運ばれた。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(1215-1250)は
ヴェネトを陥落させた時、町の教会の破壊を
命じたが、町を守る聖人(の霊)たちが裁定を下し、
皇帝はほどなく非業の最期を遂げたという。
もちろんこの聖堂にも遺骨が納められている(らしい)。
救い主の死後、聖使徒たちはその教えを
異教徒の邦々に伝道して回ったが、
神聖ローマ帝国という存在も
精神的にはその行跡を継ぐものだったはずである。
後陣のパイプオルガン。
考えてみれば、仏壇にお釈迦様の生涯を
彫り込むような信心なのでしょう。
武装するキリスト教守護者のイメージ
その鍵で何を開く?
「アロホモーラ!」
教会を出たところにあるカフェテラス
雨が降っても外が好き
私はばちばちにキリスト教的な宗教デザインより
アルカイックな気風のイメージに魅かれます。
大気をクロールして泳ぐ天使がいい雰囲気。
教会の裏でなにか催しをしてた
ホタテガイは聖ヤコブの印
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