はじめに
「鉄と鋼の話1」は、韮山の反射炉を見学した時の感想から書き起こし、幕末(19世紀半ば)の日本各地で、オランダの技術将校が書いた一冊の本をバイブルに鋳鉄砲の製造が試みられたことを述べました。一方、同じ頃ヨーロッパでは溶鋼の生産が始まり、強力な鋼製砲が作られたことにも触れました。
このページでは、舞台をヨーロッパに移し、史上初めて溶鋼の大量生産を実現したベッセマー法と鉱石にまつわるお話をいたしましょう。一応、鉄と鋼の話1を読んで下さったことを前提に、重複する説明は省かせて戴きますが、便宜のため、次のページにも19世紀当時の製鉄について、簡単な概要を記しておきます。19世紀中頃のヨーロッパ製鉄
ベッセマー法は1850年代に、時代の風雲児イギリス人のベッセマーが発明した画期的な精錬法でした。その方法はただ大量の空気を溶けた銑鉄の中に吹き込むだけ。必要な熱源は銑鉄に含まれる炭素や珪素の燃焼によって得られます(つまり燃料不要)。この時生じる熱量は驚異的で、反射炉では決して溶かすことの出来なかった錬鉄でさえ湯に沸かしてしまいます。湯状であるから、不純物が綺麗に分離され、出来た鉄(錬鉄)は均質です。また吹き込む空気の量を調整することにより、錬鉄ばかりでなく、従来少量しか得られなかった質のよい鋼をも大量に生産することが出来ました。1回の操業につき、所要時間は約30分。パドル法の何十倍も効率的でした。彼の発明によって、ヨーロッパでは2000年に亘って続いてきた「鉄の時代」が終り、「鋼の時代」が始まりました。アメリカはベッセマー鋼と手を携えて未曾有の大産業国家に成長してゆきます。
とはいえベッセマー法は、旧来のパドル法にすぐさまとって代わったわけではありません。圧倒的な利点を持ちながらも、使用可能な銑鉄(鉄鉱石)に大きな制約があったためです。その制約とは何だったのか。どんな鉱石ならよかったのか? それは新しい精錬法の成否を問う根本的な問題でした。ベッセマー法に適した鉄鉱石が世界規模で探索され、新しい製鉄史と物流が開かれてゆきます。19世紀後半は、いわばベッセマー法と鉱石との蜜月時代でした。
ベッセマー法の登場と挫折
1856年8月13日。ベッセマー法(転炉法)は、彗星のごとく世に現れました。イギリスのチェルトナムで開催された大英科学振興協会の機械金属部会がその舞台です。部会の口開けを飾ったのが、「火なしでの鍛鉄と鋼の製造」と題するベッセマーの飛入り講演。火なしで鉄を作る? そんなこと、出来るものか! 参加者の誰しもがそう思って聞き始め、聞き終えるや熱烈な歓呼で迎えたこの講演こそ、来る20世紀の製鉄をリードしてゆく精錬法の到来を告げる鐘の音だったのです。ヘンリー・ベッセマーは、いわゆる町の発明家。製鉄業界では無名の人物でした。しかし、彼の発表は、有識者たちの意表を衝くと同時に、これは本物だと思わせるだけの内容を備えていました。原稿はやや長いですが、迫力のある理知的な言葉で綴られています。よろしければ目を通して下さい。
鉄に縁のなかった彼が、いかにして新しい精錬法に至ったかは、次のページ「ベッセマー法の黎明」に記しておきます。これも興味のある方はどうぞ−きっかけはやはり大砲でした。(読まなくても以下の内容に差し支えないです)
2年間にわたる地道な研究の後、空気を吹き込むだけで溶銑を精錬するという離れ業を発表し、一躍脚光を浴びたベッセマーは、1ヶ月とたたないうちに複数の製鉄メーカーと特許契約を結ぶこととなります。洋々たる前途が開かれ、彼は幸福感に包まれました。ところが各工場で実際に操業が始まったとき、喜びは一転して戸惑いと失意に変わりました。契約したメーカーがことごとく、精錬に失敗したのです。
彼のアドバイスで築かれた転炉は、たしかに銑鉄を脱炭することが出来ました。ところが、出来た鉄は脆く、鍛造にかけると簡単に割れてしまい、気泡だらけでとても使い物にならないことが分かったのです。もちろん(講演でも述べているように)ベッセマー法にはまだ未成熟な部分がありました。しかし、少なくとも実験で作った鉄はきわめて粘り強い性質を示し、ハンマーにかけようが、ひねり曲げようがびくともしなかったのです。まるで狐につままれたよう、まさに晴天の霹靂でした。各メーカーでは操業条件をさまざまに変えてテストを繰り返しましたが解決の糸口はなく、巨大な転炉からは虚しくクズ鉄が吐き出され続けました。その結果、ついにすべてのメーカーが莫大な投資をあきらめ、ベッセマー法から完全に手を引いてしまうこととなったのです。
世間は一転してベッセマー法の批判にまわり、パドル法の業者たちは、こぞって嘲笑を浴びせました。ベッセマーは再び自分の工場にこもり、チェルトナム以前の孤独な作業に戻りました。世間の信用を回復する方法はたったひとつ、このプロセスを完成させるしかないと意を決したのです。しかし、成果の上がらないまま日が過ぎてゆきます。ただひとつ言えたことは、彼が実験に使ったのはブレナヴォン製鉄所の木炭銑であり、この銑鉄を使う限り、精錬された鉄は粘り強く、パドル鉄よりも優れた性質を示すこと、しかし契約を結んだ各メーカーの銑鉄では、どうやっても満足な結果が得られないということだけでした。
スウェーデンで突破口が開かれる
この問題を解決するには、銑鉄に含まれるさまざまな不純物と精錬のプロセスとに照明をあて、鉄中の成分変化を科学的かつ体系的に研究する必要がありました。しかしイギリスにはその技術的基盤がなく、一介の私人ベッセマーにとっては手に余る課題でした。
それをやり遂げたのは、前世紀以来、学術を重んじる伝統が育まれていたスウェーデンでした。スウェーデンの製鉄家ゲランソン(イョランソン)は、チェルトナム講演後、真っ先にベッセマー法の導入に取り組んだ一人でしたが、やはり満足な鉄を作り出すことが出来ず困難に直面していました。彼はスウェーデン製鉄協会(イエルン・コントレット)に援助を要請し、協会から技術者たちが派遣されました。彼らは操業条件や反応プロセス、精錬された鋼の成分などを詳細に調べ上げました。そしてベッセマー法では銑鉄中の燐と硫黄がまったく除去されないことを突き止めたのです。
燐は結晶粒界に析出して冷間脆性の原因となり、硫黄は熱間で硫黄割れを起こします(どちらも帯状に偏析する傾向があります)。この二つは昔から鉄の性質に悪影響を与える最大の要因として製鉄家の間で悪評高く、その除去には、つねに細心の注意が払われてきました。実際、パドル法では精錬の過程で燐と硫黄はスラグ化され、丹念に除去されていました。しかし、従来の(反射)炉より200度以上高い温度で操業するベッセマー法では、別の化学反応が進行し両者をまったく分離出来なかったのです。
そうと分かれば、精錬の段階までに燐と硫黄を排除しておくのが成功への近道でしょう。技術者たちは、硫黄分の多い高炉銑の使用をやめ、木炭銑を採用することにしました。銑鉄に含まれる硫黄は、原料の鉄鉱石に由来するもののほか、高炉の燃料であるコークス(石炭を焙焼して硫黄をある程度飛ばしたもの)からも鉄に移ります。そこで清浄な木炭銑を使ってこの問題を回避したのです。一方燐分の少ない鉄鉱石が探し求められ、ダネモラ(ダンネムーラ)地方に豊富に埋蔵されているダネモラ鉱石(ラップランド鉱石)が選び出されました。そして、この鉱石から木炭製錬した銑鉄でベッセマー法を試みたところ、非常に粘り強い、最高の錬鉄(または鋼)が出来上がったのです。燐と硫黄は当然ながらほとんど含まれず、しかも気泡も見当たりませんでした。これについては後でまた触れますが、ダネモラ鉱石は燐が少ないだけでなく、マンガンを多量に含む特徴があり、ベッセマー法のもうひとつの弱点、鉄の過酸化に対しても決定的に有利だったのです。彼らはまさに最強のカードを手に入れたのでした。
かくて北欧の歴史的な製鉄国スウェーデンは世界で初めてベッセマー法の工業化に成功し、その原理が正しかったことを証明してみせました。
※参考:「東郷ハガネ」に使用されたダネモラ(ダンネモラ)鉱石。→付記2
イギリスでも成功
スウェーデンの成功は広く報じられ、世界中でベッセマー法再評価の気運が芽生えました。
再び実験の日々を送ること2年。苦闘を続けるベッセマーに、ダネモラ銑から精錬された鉄が届けられました。実に優れた鋼であり、袋小路に嵌っていた彼を大いに勇気づけました。これによって彼は、それまで気づかずに縛られていた固定観念を脱し、自分の手法を客観的に見つめ直す余裕を得ました。「ベッセマー法は革新的な精錬法であり、あらゆる銑鉄を優れた錬鉄に変えるものだ」、あるいは、「どんな銑鉄でも精錬出来ねば完成したプロセスといえない」という思い込み(意気込み)は、「ベッセマー法の第一歩は、この方法に適した鉱石を見出し、安価な鉄を大量に作り出してみせることから始まるのだ」という認識に変わりました。自力でそうした境地に至れなかったのは残念ですが、それはやむを得ないことだったかもしれません。実際のところ、ヨーロッパに産する鉄鉱石の9割以上は含燐鉱石であり、残る1割に満たない低燐鉱石だけがベッセマー法に適していたのです。その意味では、彼がたまたま、燐も硫黄もほとんど含まないプレナヴォンの木炭銑を実験に使って、世紀の大発見を成し遂げたことこそ、願ってもない「幸運」だったというべきでしょう。
さて、ベッセマーは現実的な選択肢として二つの方向に活路を見出しました。ひとつは、「ダネモラ銑を輸入し、優れた道具鋼を自国で精錬する」という方向。彼は鋼の大都市シェフィールドに工場を建設し、当地のルツボ鋳鋼業者に真っ向勝負を挑みました。安価で品質の良いベッセマー鋼は、ほどなく市場を席巻するに至りました。付け加えますと、イギリスのベッセマー鋼は高炉銑を原料に用いましたが、その背景には脱硫技術の進歩が寄与しています。塩基度の概念が形成され、原料に含まれる硫黄の量が管理出来るようになったことがひとつ。またコークス高炉では宿命的に混入する硫黄を、高温高塩基操業により、スラグ化して除去出来ることが分かってきたことなどです。
備考:スウェーデンで使用された銑鉄の成分例を挙げますと −炭素4.8%、 珪素0.6%、 マンガン2.9%、 燐0.02%、 硫黄0.01%。
一方、イギリスでの一例は、炭素3〜4% 珪素2.3〜3.0% マンガン 0.1〜1.0% 燐0.03〜0.1% 硫黄 0.05〜0.15%。ベッセマーが使った銑鉄は、スウェーデン産に比べれば、やはり硫黄が多く、マンガンが少ないことが分かります。
過酸化の問題とマンガン銑
燐と硫黄の問題は、低燐鉱石の活用と木炭銑、あるいは高炉の改良によって回避することが出来ました。もうひとつの問題は、先ほど触れた鉄の過酸化です。ベッセマー法は、空気を吹き込むことで精錬を進める(吹精)ため、どうしても溶鉄中に過剰な酸素が吸収されてしまいます。過酸化の鉄は熱するとガスを放出し、脆性を示します。
そこで精錬後に酸素を除去しなければなりませんが、その切り札がマンガンの添加でした。マンガンは酸素を取り込み、スラグ(滓)として溶融鉄表面に浮上させる効果があります。前述のダネモラ鉱石は比較的多量のマンガンを含むため、特にその必要がなかったのですが、イギリスの銑鉄では、吹精後のマンガン添加が不可欠でした。ベッセマーは、ドイツ産のスピーゲルアイゼンによって、この問題を解決しました。
シュタイエルマルク、ケルンテン(いずれもオーストリア)やジーゲルランド(ドイツ)にはマンガン含有量の高い菱鉄鉱があり、昔ながらの木炭高炉で含マンガン銑鉄が製造されていました。破面が鏡のように白色に輝くので「スピーゲル(鏡)」と呼ばれ、これを素材として優秀な鋼が製造できたので製鋼用銑とも呼ばれました。ことにジーゲルランド・ミューゼン鉱山の菱鉄鉱から作った銑鉄は、8〜9%のマンガンと4〜5%の炭素を含んでおり、脱酸剤としても有用だったのです(時代に取り残されていたドイツの木炭銑は一躍引っ張りだことなり、息を吹き返しました)。こうしてイギリスでもベッセマー法のプロセスが完成しました。精錬の様子を、碩学、中澤護人氏の熱気に溢れた文章でご紹介しましょう。
…転炉を傾けて熔けた銑鉄を装入する。転炉を立てながら吹精開始。空気は転炉の底の羽口から熔銑のなかに。転炉の上の口からは弱い赤褐色の焔が噴出する。燃える鉄のたくさんの輝いた火の粉が飛ぶ。この時期には主として銑鉄のなかの不純物のケイ素が酸化して浮上して滓となるのである。やがて炉内に轟音がとどろきはじめ、激しい沸騰が起こる。炭素が酸素と結合しはじめたのだ。一酸化炭素の強い明るい焔が出て、それが爆発で中断され、時に熔鋼が、主として熔滓が炉の首から投げ上げられる。この沸騰激動と爆発こそは転炉法独特の偉観である。これは熔銑のなかの炭素が4%から2%に、さらに1%に、小数点以下に酸化され、一酸化炭素となって出て行って銑鉄が鋼に変わってゆく過程で不可避的に生ずる現象である。ベッセマーもはじめ不完全な炉でやってはじめてこの現象を目に前にし、炉の中の金属がすっかりとび出してしまったとき、ただもう呆然としたものであった。
彼がこれこそ自己の方法にとって、避けてとおることのできない現象であると悟り、怖るることなくこれを乗り切り、その沸騰の彼方にあるものに達しようと決意したとき、そのとき、ベッセマー法は生まれることができたのだった。もはや、この沸騰は日常茶飯のこととなった。
そして、その激動のあとの静けさ。残り少なくなった炭素の酸化が進行する。空気の吹き込みをとめる。スピーゲルアイゼンの投入。そのなかのマンガンは鋼を脱酸し、炭素は復炭といって希望する炭素量まで鋼の炭素を戻す。その間、わずか20分か30分。出鋼口をあけると、白熱の熔鋼が流れ出して取鍋へ。そして鋳型へ。… <「鋼の時代」より>
このプロセスは、マンガン添加の不要なスウェーデン式に対して、イギリス式と呼ばれました。
なお、スピーゲルアイゼン中のマンガンは、いかに多量とはいえ高々8%程度にすぎません。酸素を十分に除去するためには大量に添加する必要があり、精錬した鉄の炭素当量は必然的に上がってしまいます。必要な当量の鉄(鋼)を得るには、復炭を見込んでより長い時間精錬しなければならず、それだけ余分なコストがかかりました。また、炭素量のきわめて低い極軟鉄を作るのが困難でした。
この点は後に改良され、スピーゲルアイゼンに代わって、マンガン含有量の高いフランクリナイト銑が、さらに後にはフェロマンガン(マンガン70〜80%のマンガン鉄)が使用されるようになりました。その製造のため、世界中でマンガン鉱石が探し求められ、コーカサスやブラジル、インドで大鉱床が開発されました。
ベッセマー法は、アメリカではヨーロッパ以上に大々的に採用されました。急成長の途についたこの巨大な大陸では、五大湖西岸のメサビを始めとして、低燐鉱石がほとんど無尽蔵に眠っており、水運によってペンシルバニアの優秀な石炭と結びつき、一大製鉄王国の礎となったのです。物流の中間地点となるピッツバーグなどに巨大な高炉が相次いで建設され、大陸の開拓と歩調を合わせて飛躍的な発展を遂げます。この国はベッセマー法にとって、まさに理想的な土地だったといえるでしょう。
使用された銑鉄は、チャプレン湖、ハドソン川、サリスバーグの磁鉄鉱や赤鉄鉱を木炭で精錬したもの、スペリオル湖の鉱石を木炭やオハイオのマホーニング谷の瀝青炭で精錬したもの、ペンシルバニアとニュージャージーの無煙炭銑などが代表的なものでした。
脱酸剤としてはフランクリナイト銑と呼ばれる含マンガン鉄が使用されました。これは北米ニュージャージー州のフランクリンに産するフランクリン鉄鉱(亜鉛とマンガンを含んだ特種な鉄鉱石)から亜鉛を気化させて得た銑鉄で、11%のマンガンを含んでいます。高価なスピーゲルアイゼンに代って、好んで用いられ、一時はヨーロッパへも輸出されました(後にフェロマンガンにその役目を譲ります)。
トーマス法による燐の除去
世界各地でベッセマー法が採用され、鋼の時代が幕を開けました。しかし精錬の主流は依然パドル法にありました。ベッセマー鋼用の銑鉄は、燐をまったく含まないか、ほとんど含まないもの(0.1%以下が目安)でなければなりませんが、前述の通り、ヨーロッパに産出する鉄鉱石の9割は燐を含み、ベッセマー法に適さなかったからです。イギリス・カンバーランドのヘマタイトに続いて、スペイン・ビルバオの鉄鉱石、アルジェリアのモクタ鉱石、イタリアのエルバ鉱石などの低燐鉱石が見出され、大いに開発されたとはいえ、パドル法のシェアはまだまだ圧倒的でした。
ベッセマー法の栄光は、膨大な埋蔵量を誇る含燐鉱石を味方とする日まで訪れず、それにはさらに20年の雌伏、そしていま一人の天才イギリス人の登場を待たねばなりません。
ギルクリスト・トーマスは礼儀正しい理知的な青年でした。彼は医者を志望していましたが、生活の必要からきっぱり断念し、17歳で裁判所の書記になりました。しかし向学の念やみ難く、夜は好きな化学の勉強を続けました。やがてパーベック学院の夜間聴講生になった時、化学の講義で、「ベッセマー転炉で脱燐した人は幸運を掴むだろう」という言葉を聞きました。これが転機となって、以来、脱燐法の問題に打ち込むこととなります。彼は鉱山学校に入って、必要な製鉄知識を身につけました。昼は書記として働き、夜は自宅で実験にふける生活。そして1879年、20年来製鉄家たちが懸命に取り組んで果たせなかった転炉脱燐法の開発に成功したのでした。
脱燐の秘訣は、塩基性のスラグ(鉱滓)を作って精錬することにあります。燐を除去する唯一の方法として、石灰と(五酸化)燐を反応させてスラグ化すること自体は早くから提案されていましたが、従来の耐火煉瓦はどれも酸性であり、石灰を投入すると炉壁が侵食されてしまうため、このような操業が不可能だったのです。最大の難関はベッセマー法の高温(1600度前後)に耐えうる塩基性煉瓦が開発できるか否かにあり、トーマスが苦心したのもその点でした。彼はマグネシウムを含む鉱物、ドロマイトを使った耐火煉瓦を製作し、この煉瓦で内張りした転炉の中で脱燐する効率的なプロセスを組み立てました。そして従兄弟の勤めるプレナヴォン製鉄所で試験を繰り返した後、深い静かな確信と共にトーマス法を公けにしたのでした。このときに使われたクリーブランド鉱石は、イギリスの他の産地の鉄鉱石よりも燐が多く、プレナヴォンでは質のいい鋼が作れないために頭を痛めていたところでした。
彼の発明は鉄鉱石産地の地図を完全に塗り替えました。いままでパドル法でも相手にされなかった無尽蔵の高燐鉱石が、重要な鉱産資源として見直されることとなったからです。トーマス法の最大の特徴は「後吹き」にあります。精錬が終わった後もしばらく空気の吹き込みを続け、その間に燐をスラグ化して除去するのです(この後復炭する)。このとき、溶鉄を高温に保つ燃料の役割は燐が果たします。従来のベッセマー法とは反対に、トーマス法では燐が多い銑鉄の方が有利でした。トーマスは、燐を「汝の敵、我が友」と呼びました。
「1880年、イギリスで採掘された1800万トンの鉄鉱石のうち、300万トン、すなわち6分の1が燐を含有しない。言葉をかえれば6分の5は脱燐できない製鋼法では使用できない。しかし、この比をそのまま正しいとすることはできない。
ヘマタイト鉱石(低燐鉱石)の高い価格が、この種の鉱石の鉱床の完全採掘への原動力となっているときに、含燐鉱石の採掘は低い価格のために、2,3の大鉱床は別として、わずかしか利用されていないからである。低燐鉱石はイギリスでは、カンバーランド、ランカシャー、フォレスト・オブ・ディーン、その他2,3の採掘高のわずかな地方、たとえば、ウェアデールなどだけである。
これに反して、スコットランド、ヨークシャー(年650万トン以上の採掘が行われるクリーブランド地方の大鉱床を含めて)、南北ウエールズ、さらにまた、シュロップシャー、ウィルシャー、オクスフォードシャー、ノーサンプトンシャー、リンカーンシャーを通ずる大きな帯状の地域にある鉄鉱石はすべて含燐鉱石である。注目すべき調査によると、含燐鉱石は低燐鉱石の10倍はあるとの結論がでている。
眼を大陸へ転じよう。スペインとスウェーデンを除いては、大きな鉱床はすべて含燐鉱石である。ルクセンブルグ、アルザス・ロートリンゲン(ロレーヌ)、ベルギーの大含燐鉱床(ミネット鉱のこと)は、それだけでも、北ヨーロッパの他の鉱床を合わせたものより重要である。アメリカではベッセマー鉱石の鉱床が非常に大きな規模のものであるが、しかし、それよりも、ペンシルベニア、アラバマ、テネシー、ヴァージニアの含燐鉱石地帯の方が大規模である。」 <トーマスの覚え書き、「ヨーロッパ鋼の世紀」より>
これらの巨大な含燐鉱石が、トーマス法の友として、ベッセマー転炉で鋼に変わる日が来たのです。
トーマス法にはもうひとつの利点がありました。それは塩基性のスラグが形成されるため、(高炉のそれと同様)硫黄をも除去することが出来たことです。ただし脱硫を完全に行うには、珪酸の含有量はむしろ少ないほうが有利であり、この点ではトーマスが実験に使ったクリーブランド鉱石は必ずしも最適なものではありませんでした。トーマス法に適した優秀な鉱石はむしろ大陸側に存在しました。そうした事情から、トーマス法はイギリスよりもヨーロッパで発展してゆくことになります。ドイツとフランスの国境地帯であるロレーヌ地方には、昔からミネット鉱石と呼ばれる高燐鉱石が知られていましたが、まともな鉄が製錬出来なかったため、手つかずのまま埋もれていました(ミネットという言葉は、「小さいもの」の謂で意味で、「つまらない」とか「役に立たない」という意味にも通じます)。
しかしこの鉱石は、つまらないどころか、あたかもトーマス法のために神が用意したかのような贈り物だったのです。ミネット鉱は燐が多く、珪酸は少なく、しかもカルシウムを含んでいました。自溶性鉱石と呼ばれ、成分中の石灰で自らを浄化し燐を除去するという、鴨がネギ背負った鉱石でした。ミネット鉱は、ルール地方の石炭と結びつき、ドイツを一大製鉄国家に押し上げる原動力となりました。また、精錬で生じる燐を含んだスラグは、粉砕すると農業用肥料として転用することが出来ました。
かくて含燐鉱石をも処理出来るようになったベッセマー法(及び、近代溶鋼法のもうひとつの柱である平炉法)の前に、パドル法は完全に時代遅れとなり、その役目を終えました。こうして本格的な鋼の時代が到来したのです。
ベッセマー法は、20世紀に入ると、オーストリアで開発されたLD法(リンツ・ドナウィッツ法)によってさらに大きな発展を遂げます。この方法は、空気でなく酸素を吹き込んで精錬するもので、精錬に寄与しないばかりか、むしろ邪魔モノだった窒素(空気の80%を占める)を除外することにより、熱効率を高め、反応速度を上げる効果がありました。日本は、戦後、このプロセスによる転炉を全面的に採用し、安価な鋼を大量生産することによって世界の製鉄をリードしてゆきます。しかしこれについて述べるのは、いつかまた、別の機会に譲りましょう。
ベッセマー法は、鉱石を選びました。しかし、その生産性は驚異的で、適当な鉱石(銑鉄)が手に入る限り、圧倒的に優秀かつ安価な鉄鋼を製造することが出来ました。ベッセマー法(またはトーマス法)の威力を最大に発揮する鉱石が世界中で探査され、採鉱され、新たな製鉄拠点が作られてゆきました。20世紀に入って、ブラジルやベネズエラで大規模な鉱床が発見され、開発されてゆくのも、すべてはベッセマー法に適した鉄鉱石を求めてのことです。
鉱物標本は同じ種類の鉱物であっても、産地によってさまざまに結晶の形や色、成分、共産鉱物などに違いがあります。鉄鉱石の場合も当然同じことがいえますが、特に不純物の組成は製鉄においてきわめて重要な問題です。また採鉱コスト、製造コスト、生産効率、製品の質といったさまざまなファクターが、原料である鉄鉱石と不可分に結びついています。19世紀の後半、ベッセマー法は、かつてそういう基準で計られることのなかった鉱石によって陽の目を見、質が悪いため見向きもされなかった鉱石と手を組んでパドル鉄を過去のものとし、ついに新しい鋼の時代を開きました。ベッセマー法と鉱石との結びつきが、その栄光と別ち難く結びついていたことを繰り返し述べて、このページを結びたいと思います。
SPS (2002.3.27)
付記:文中では、鉄鉱石から銑鉄を作る過程を「製錬」、銑鉄から錬鉄や鋼を作る過程を「精錬」という言葉で区分しています。
付記2:明治維新後の日本では、従来の和鋼から安価で品質の安定した洋鋼へとシフトが進んだ。
当初は西洋からの輸入に頼っていたが、やがて洋鋼の国産化が始まる。そうした時流の中、河合洋鋼商店は、明治の終わり、和鋼のように粘り強い洋鋼の規格を作ろうとした。
東郷平八郎の名を商標に迎えた「東郷ハガネ」の卸元だった同社は、英国のアンドリュー社に和鋼のサンプルを送って、同等の粘りのある素材を求めた。だが、返ってきたのは、「このような鋼は昔は作れたが、今はもう出来ない」という返事だった。同社は改めて各国の製鋼メーカーからサンプルを集めて評価し、スウェーデンのダンネモラ鉱山で採れた鉱石から製造した地金が、もっとも和鋼に近い性質を持っていることを知った。そこでアンドリュー社にこの地金を用いた「河合規格」鋼の製造を依頼し、ようやく希望の製品を得た。「東郷ハガネ」で作った刃物はよく切れると評判をとった。(戻る)
参考文献: 「鋼の時代」 岩波新書 1964 中澤護人著
「鉄のメルヘン」 アグネ 1975 中澤護人著
「栄光の茨の道」 アグネ 1989 中澤護人著
「ヨーロッパ鋼の世紀」 東洋経済新報社 1987 中澤護人著
「鉄の歴史 第5巻第1分冊」 たたら書房 ベック著 中澤護人訳
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