1987年だったと伝えられている。エイトール・バルボーサという人がブラジルのパライバ州キャンピナ・グランデの小さなペグマタイトで、非常に鮮やかな青色のトルマリン(エルバイト)を発見した。このトルマリンの結晶は小さく、またごく少量しか採集されなかったが、トルコ石のようなさわやかなブルーから濃い青紫、明るい赤、エメラルド色などの入ったバイカラーの石で、その類のない美しさで、宝石市場にセンセーションを起こした。カット石は、カラットあたり1000ドルから、時に5000ドルもの、前例のない高値で取り引きされた。
この石は一般にパライバと呼ばれ、すぐに絶産となり、非常に希少価値の高い宝石となった。
1989年、パライバ州サルガディーニョの北西、サン・ホセ・ダ・バターリャ村に程近いバターリャ鉱山で、一連のペグマタイト脈からパライバが再発見された。後に「大ガマ」と呼ばれた大きな晶洞では、数キログラム分の石が採掘された。ほとんどが小さな柱状の結晶で、ときに条線が発達し、融蝕の進んだものもあった。端面は複雑な菱面形をしていた。もっとも大きな結晶は長さ30センチもあったというが、そのままでは採集不能なため、小さなかけらに砕かれてしまった。パライバはさまざまな種類の水晶(透明、白、煙、黄、紫水晶など)や各色の雲母、リチア雲母を伴って産出した。こうしたペグマタイトにはつきものの長石は、ほとんどが粘土(カオリナイト)に置換されていたという。
もっとも魅力的なパライバは、きわめて彩度の高いトルコブルーの透明な結晶で、サファイヤのような青、タンザナイトのような青、ネオンブルー、ベニト石のような青、青緑、海緑、黄緑、エメラルド色、紫色などのものがあった。二色性が強く、光源の下で結晶を回転させると、トルコブルーからサファイアブルーに色変わりして見えた。
類まれなトルコブルーの発色は、成分中に約2.4%含まれる銅イオンに起因すると考えられている。これは銅イオンがトルマリンの色に影響している唯一の事例で、普通青いトルマリンはマンガンイオンによって発色するのが一般的だという。マンガンによる青は、熱処理を受けると褪色する傾向があるが、銅による発色は熱処理後もその鮮やかさが保たれる。そのためパライバ(キュプリアン・エルバイト−銅リチア電気石)は、非常に鮮やかな色彩を保って地中から産出した。
バターリャ鉱山では、本格的にパライバが採掘された。縦穴の深さは、地中およそ60メートル、脈に沿って手掘りされた横坑道は、延長数キロにおよび、鉱山の中はラビリンスそのものであった。あまりにも貴重な宝石のため、昔ながらの方法で慎重に採掘されたのだが、ほどなく脈が尽きた。鉱山は翌年休止された。一説にはこの時採集されたパライバは、品質の良いもの劣ったものあわせて87キログラムあったといわれているが、いずれにしても宝石としてはきわめて少量で、以降再び産出を絶ったため、価格はウナギ上りに高騰し、いまや幻の宝石となっている。
1995年頃、隣接するリオグランデ・ド・ノルテ州で、同様の青いキュプリアン・エルバイトが発見されたが、パライバ産に匹敵する品質の石は少ない。この産地はバターリャ鉱山から50キロほど離れた場所にあるが、同じパナアルト・ダ・ボルボレナ山脈に属しているから、根っこでは繋がっているのだろう。この二カ所以外のトルマリン鉱山では、今のところ、キュプリアンエルバイトは発見されていない。
最近鉱物ショーで、希産カット石の店を中心に「パライバ」の小さなルースが沢山、かつ頻繁に売られているのを見るようになった。第二の産地から新たな産出が続いているとのことだが、品質的にはもう一つであるように思う。あのネオンブルーの目を射るような青い石をもう一度見たいものだ。
追記:2000年2月時点の情報では、鉱山はパライバ州に複数あり、ボシェロン・ジーニョ(読み方不明。Bocheiron Zinho)・ペグマタイトが主力となっているらしい。この地のパライバ・トルマリンは、ウオーターメロンタイプが多く、成分分析は、青色部に酸化銅1.4%、ピンク分に酸化マンガン0.2%、緑色部に酸化鉄1.2%を示しているという。
2001年の段階では、リオグランデ・ド・ノルテ州パレーリャス郡で、主要な鉱山が8つ、稼動しているらしい。しかし、良質のものは、やはり、かつてバターリャで採れたものから小出しにされているとのことだ。また2000年末にはナイジェリアでパライバ同様銅イオン発色の青色トルマリンが発見されている。
追記2:パライバの最初のトルマリンは鉱脈が尽きたと言われており、私はそれを信じていたが、本当は採掘権を巡る法律問題に決着がつかず、ほとんど採掘が行われていなかったのが真実らしい。しかし1998年、訴訟に決着がつき、バルボーサらが鉱区の80%を入手して大規模な機械化採掘に入ったとのことだ。詳細は、「空想の宝石・結晶博物館」(リンクあり)をご覧下さりたい。
今後、再びあの大きな青石が見られるかもしれないと思うと、とてもとてもうれしい。 (2002.2.17)
追記3:発見譚と最近の鉱山情報について。
・エイトー・ディマス・バルボッサ氏が最初に青色のトルマリンを発見したのは
1982年だった。風化したペグマタイトが広く露出し、様々な金属鉱石が採掘されてきた地域である。そこはかつてマンガンタンタル石を掘った廃坑で、トルマリンは緑味を帯び品質もさほど良くなかったが、1988年になってネオンブルーの宝石質の結晶が10kg
ほど見つかった。ブラジル国内で販売を試みたが、誰も天然石と信じなかった。GIAで鑑別を受け、翌年のツーソンショーに持ち込んだことで、センセーショナルなデビューを果たした。
90年にかけてさらに20kg 弱の原石が採集され、91年に生産ピークを迎えたが、鉱山所有権を巡って係争が起こり、数年間休止していた。これが有名なバターリャ村の鉱山。
裁判の結果、鉱区は3区分され、最初に発見された鉱脈をバルボッサ氏が得た。氏や子息の手で小規模ながら今も採掘が続けられているという。
ほかの2つの鉱区も断続的に採掘が行われている。一つの鉱区は2014年に縦坑の深さが120mに達し、2015年には多量の原石が採れたという。もう一つの鉱区は重機を使った採掘が行われ、最盛期には大人数が働いていたが、その後は採掘した鉱石を細々と選別している程度らしい。
・2006年、バターリャから北東30km
ほどの土地で新しい鉱山が開かれた。グロリアス鉱山といい、良質のカオリンを掘る傍ら小粒のパライバを採っている。
・パライバ州の北のリオグランデ・ド・ノルテ州には2つのパライバ鉱山があった。いずれもパレリアスの町の近く。ムルング鉱山は町の北東5kmの山麓にあり、1991年に発見された。最盛期には100名以上が働いていた。時折大粒のものが出るが、多くは1ct
未満の小粒原石。美しいネオン・ブルーで、加熱処理を要しない。タイのバンコクでカットされる。現役。
キントス鉱山は町の南10km の山腹にある。1995年に発見。バターリャのように風化が進んでおらず岩盤が固いため、機械化採掘でパライバを掘った。縦坑の深さは120m
、横坑は延長 5km
に達した。赤色のレピドライトを伴うのが特徴だった。すでに閉山(2005年頃)。
・2001年、アフリカ産とされるパライバが市場に出回り始めた。やがてナイジェリアのイローリン州オフィキ産と知られる。やや淡色で彩度が低く、アクアマリンかトパーズのような色だった。またイバダン州エドウコウ鉱山にも少量のパライバが産した。こちらは色が鮮やかでブラジル産と区別し難いものだった。
・2005年からモザンビーク産が出回るようになった。当初は濃い青色のものが出ていたが、その後含銅量の少ない淡色のものが大量に流通した。北東部のAlto
Ligonha
ペグマタイトに産するもので、鉱山はマブコ村付近にある。安定して供給されているらしい。
2010年にはマブコ村から北東に10km
ほどのマラカ村付近でリディコート種のパライバが出るようになった。こちらも安定した供給があるらしい。
・最初に発見されたバターリャ産以外、さまざまな産地からパライバと呼称する宝石が出ており、宝石業界ではパライバ・トリマリンの定義を巡って再三議論が重ねられた。
今日では、「銅及びマンガンを含むことを主要因として青色(エレクトリック・ブルー、ネオン・ブルー、バイオレット・ブルー)、青緑色、緑色、黄緑色に呈色するトリマリン。中〜軽度から高度な彩度と色調を持つもの。地質学的な起源(産地)は問わない」とされている。「トルマリン」とあるのは、それまでエルバイトとされていたのがリディコータイト種の出現によって改訂され、鉱物種を問わないことにしたもの。
微量元素の含有パターン(フィンガー・プリント)によって産地の特定が高確率で可能であるが、上記の趣旨により日本の宝石業界では原則として原産地の鑑別は行わない申し合わせという。
多くのパライバ・トルマリンは青色を鮮やかにするために、加熱処理が行われているようである。
cf. No.38
パライバ・トルマリン (2020.6.14)
今から数年前、南米チリの砂漠地帯のとある銅鉱山で、珍しい鉱物が発見されました。銅鉱床の上部に出来た二次富鉱帯から、りん銅ウラン鉱そっくりの、美しい緑色をした、りん片状の結晶集合体が掘り出されたのです。人目を引かずにおかない、鮮やかでリッチなこの鉱物は、成分分析の結果、珍しいモリブデン酸塩の新種であることがわかりました。
発見者であるゼニックス夫妻は、その鉱物に自分たちの名前をつけ、鉱物名と産地を記した自筆のラベルを添えて、アメリカの鉱物フェアで売り出しました。フェアの会期中には、鉱物学者による講演も開かれ、いわば鳴り物入りで販売されたのです。
ゼニックス石が発見された地層はわずか数十センチほどの脈で、すでに掘り尽くされ、絶産になったという話でした。
それから3年ほど経った時、ゼニックス石に関する奇妙な論文がミネラロジカル・レコード誌に載せられました。それは、この石の研究に関する最終的な報告だということでした。論文によると、これまでゼニックス氏の手でラベルに記され、世人が等しく信じていた産地は、でたらめだといいます。実際の産地は、そこから90キロもはなれた別の土地だというのです。研究が完成するまで、また標本の市場独占のため、氏と研究者は故意に産地を秘匿していたのでした。
ところで、私が不審に思うのは、こうした産地の秘匿は、この世界では当たり前のこととして受け止められているらしいということです。確かに発見者には、正確な産地を公表する義務も、責任も、必要も、全くないのかもしれません。私のわずかな見聞の中でも、新しい鉱物産地や新鉱物の産地を、他人に知られないように隠したり、故意にぼやかしたりした例があります。たいていの場合、めぼしい物をすべて採り尽くした後で公表するのが一種の慣例というかお約束のような感じもします。
しかし、その標本を、ラベルもひっくるめて「商品」として売るのなら、話は別ではないのか、というのが私の考えです。
せっかくの発見者自筆のラベルが、実際には何の値打ちもない紙屑にすぎなかったとは、惑わされて買った自分が情けなくてなりませぬ。鉱物標本が、正札のない商品であるとしても、やはり嘘のラベルはいかんでしょう。
備考:ゼニックス石は、1993.1.11に発見・採集された。新鉱物として承認直後、94年のツーソン・ショーで販売された。以後の採集はないとされる。その後、97年上旬に、発見者がストックしていた残りのロットが売りに出された。本当の産地が発表されたのは同年の秋である。
cf. ギャラリー No.868ゼニックス石
物事の発明、発見にはシンクロニティ(共時性)の原理が働くことが多い。それまで不可能と信じられていたことを誰かが実現すると、全く関係のない別の誰かも、ほとんど時を同じくして、独自にその方法を発見するといったことが起こる。あるいはどこかで、未確認飛行物体が目撃されると、別の土地でも相次いで、同様の現象が目撃されたりする。これをシンクロニティという。心理学者ユングの発明した言葉である。カバンシ石の発見にも、シンクロニティを想わせる符合があった。
カバンシ石は、カルシウムとバナジウムとシリカの加水化合物で、大変に珍しい鉱物であり、アメリカ、オレゴン州のオワイヒー(オゥアヒー)・ダムとガブルとで、それぞれ1960年、63年に発見された。1ミリ程度の青緑色の板状結晶が放射集合したきわめて美しい鉱物だった。IMA
の新種承認は 67年、記載論文は1973年に出た。
面白いのは、翌74年、オーストラリアの鉱物商に宛てて輸出されたインドの沸石標本の中に、未知の青い結晶鉱物が発見され、分析の結果、新鉱物のカバンシ石であることがわかったことだ。しかも標本の素晴らしさはこちらのほうが断然上であった。
だが、その発見は一度限りのものだった。大量に供給されるインドの沸石標本から、第二のカバンシ石が発見されることはなく、長い間インドにおける産地は、謎のままであった。
インドのカバンシ石が「再発見」されるには、さらに15年の歳月が必要だった。1988年の秋、カバンシ石は再び市場に現れた。発見したのは、ドイツ人鉱物商と、コンサルタントのインド人地質学者だった。産地は、プーナから15キロほど離れた採石場で、7,8年ほど前から採掘が始められ、道路敷設用の砂利が大量に採集されていたが、標本向けの結晶鉱物を産出したためしはなかった。そこは沸石産地ですらなかったのである。
カバンシ石発見のきっかけは、地下30mに穿たれたピットの一つに、突然現われた、角れき化した一筋の青い脈だった。そのような脈は、これまで一度も発見されたことがなく、また他の砕石場でも例を見ないものだった。この特殊な鉱化作用の調査にあたった地質学者は、それがカバンシ石に他ならないことを突き止め、標本採集のため、採石場のオーナーに協力を依頼した。オーナーは、1カ月半の間作業を中断することを約束し、その上10名の作業者を気前よく貸し与えた。探査が始まり、彼らは脈を追って、岩塊を切り裂いた。そして、ついに5mに及ぶ巨大なポケットが開かれ、その中から数千個の、カバンシ石の標本が採集されたのであった。
再発見されたカバンシ石の見事な標本は、インドの驚異と呼ばれ、鉱物界の話題を独占した。そして、たった一つの晶洞(ポケット)から偶然に発見されたという事実から、これきりまた姿を消してしまうかもしれないという危機感とともに、コレクター垂涎の的となった。ところがそれ以来、カバンシ石は、堰を切ったように陸続と標本市場に流れ続けて、はや10年が経過した。カバンシ石の標本は無尽蔵であるかに見える。
シンクロニティには、二つの側面がある。ひとつは、冒頭に書いたように、複数の突破口が時を同じくして開かれるということ。もう一つは、それ以前にまったく存在しなかったものが、いったん存在するようになると、大勢の人が簡単に手に入れられるようになるということだ。今のカバンシ石がそれであろう。
だが、これから先どうなるのか、本当のところはわからない。あふれるごとく、市場に流れ続けるかもしれないし、採り尽くされて、あっというまに姿を消してしまうかもしれない。そんな危うさもまた鉱物の魅力の一端である。
追記:オワイヒーでカバンシ石と共に発見されたペンタゴン石は、長らくインドには産しないと考えられていたが、2001-2002年頃より市場に出るようになった。cf.ギャラリーNo.448、 No.873 2014年現在、インドのカバンシ石、ペンタゴン石は共に健在である。
ある博物館で二人のキュレーターが、戯れに、世界でもっとも珍しい希産宝石は何かという議論を始めた。そしてそれはエレミヤ石であるという結論に落ち着いたという。
この鉱物種の標本は極めて珍しい。宝石級の美しいものとなれば、さらに数少ない。むしろ知る人が少ないといった方がいいだろうか。こんなエピソードがある。初めてアメリカに持ち込まれたエレミヤ石は、ある有名な鉱物標本商が、鉱物ショーで売りに出したものだった。標本商は、その鉱物を緑柱石の一種として、わずか数ドルの値段をつけていた。当時アメリカではこの石はまだ知られていなかった。
そのショーにたまたま来あわせたのが、P博士だった。彼はそのショーで唯一人、わずか数ドルの標本の正体を見極めることが可能な人物であった。少し前にヨーロッパから帰ってきたばかりで、フランスのある博物館で、偶然エレミヤ石の標本を見ていたのだ。博士は、思わず我が目を疑った。それはどう見てもエレミヤ石の結晶に違いなかった。興奮にかられて、彼は、博物館のキュレーターをしていた友人にその話を持ち込んだ。キュレーターは、火がついたように飛んできた。そして、「買った!500ドルだ!」と値札も見ずに叫んだのと、標本を我が手につかんだのは、どちらが先だったろうか。こうして最初のエレミヤ石は、その博物館の持ち物となり、今でもそこにあるという。
備考:エレミヤ石の最初の標本は、シベリアのネルチンスク南方で発見され、1883年に命名された。淡い藁黄色のベリルに似た結晶だった。非常な希産種で、1973年にナミビアで涼しげな淡青色の結晶が見つかった時は、一大ニュースとなった。
cf. No.203
94年度のラピダリージャーナル2月号にP博士の回想記と、そのとき採集された標本の写真が載っている。それからほぼ30年後の2001年、久々にエレミヤ石(Jeremejevite)の標本が出た。当初熱狂的に受け入れられたが、あまりに大量に流れたためすぐに飽和し、しまいは投売りする標本商もあった。それでも、やはり珍しい鉱物である。
アメリカのMから聞いた話です。
そのご婦人は鉱物が好きでした。彼女には昔、ひとつの宝物がありました。それは、まだ小さい頃、母親の友達の家に遊びにいったときに、記念にもらった緑柱石のかけらでした。きれいな緑色をした六角柱で、いわゆるエメラルドです。彼女は、それを大切に引き出しにしまっておきましたが、いつか学校生活に夢中になって忘れてしまったそうです。そして大人になって、結婚しました。故郷を遠く離れ、子供が生まれました。その頃から彼女の鉱物に対する興味は再び戻ってきて、地元の鉱物フェアなどに顔を出すようになったのです。あるとき、彼女は、フェアのひとつで、母岩付きの緑柱石の標本を見つけました。真ん中あたりで折れたエメラルドの結晶が母岩に横たわったもので、見栄えがしなかったのですが、不思議に気持ちが引き寄せられるのでした。彼女はそれを買いました。
家に帰って、標本を窓の側において眺めているとき、ふと閃いたことがありました。もう何年も忘れていた、子供の頃にもらった宝物を思い出したのです。しまいこんでいたエメラルドのかけらを取り出し、誘われるように、ついさっき手に入れた標本に重ねました。すると、そのかけらは、折れたエメラルドの破面にぴったりとあわさり、母岩のくぼみにパズルのようにはまったのです。昔から持っていた小さなかけらは、この標本の片割れで、十数年の年月と、遥かな距離を隔てて再び一つになったのでした。
今、その標本は、彼女の家の飾り棚に大切に飾られています。お茶の時間に訪問すれば、きっとあなたにも見せてくれるでしょう。
SPS.(1999.5.24)