■中国人にとって「真の玉」といえば軟玉を指す。玉の愛好は現代に至るまでほぼ7〜8千年に亘って続いてきた。中国以外の地域でも軟玉を貴重視する慣習が見られないではないが、彼らほど執拗に、重層的に、時代を超えて、あるいは時代を経るほど熱烈に、愛好した民族はない。玉への嗜好は中国人特有のものだといってもいいくらいである。
ここ1世紀ほどの間に西洋圏でも「ジェード」ブームが何度か興り、アメリカ、ヨーロッパはもちろん、日本をも含めて、「東洋の神秘」を象徴するジェードへの関心が著しく高まった。しかし、それらは美術工芸品・財産としての価値や希少性を評価したものであって、また軟玉よりむしろ翡翠(硬玉)を指向している。軟玉への執着、「温かつ潤」にして生命力を媒介する玉への信仰は、依然、ひとり中国の心の中にのみ、大切にしまいこまれているようにみえる。
★長い時代を経てきた軟玉の信仰にはいくつかの重層的な要素がからまりあう。私なりに整理してみると、
1)美しい石であること。その美しさにはもちろん色あいも含まれるが、それ以上に大切なのは質感である。透明度、磨いたときの艶やかさなどの見た目に加え、手にとったときの温かさ、潤いの感じ、柔らかな触感に重点が置かれている。
2)単に美しいことがよいのではなく、軟玉に付与された霊的な性質がより大切である。
春秋時代以降、玉の物理的な美点は「徳」という言葉で総合的に表現されるが、重要なのはむしろ根源的な生命力を宿すもの、あるいは媒介するものとして玉が尊崇されたことだろう。
3)霊的な性質には時代を経るごとにいくつかの信仰が重なっている。殷(商)以降の天命思想、周代の礼法やこれを手本にした儒家の思想、戦国期から漢代にかけて方術士が語った長生の哲学(以前からあった土俗信仰をまとめたものと思われる)。さらにその後も歴史上の人物や国家によるエピソード(いわゆる故事)がどんどん加わっていって、玉の伝説に厚みを持たせている。これらをすべてあわせ呑んだところに玉信仰の懐の深さがある。
4)玉愛好の最初期には、玉そのものに霊力(効能)があったというより、玉器に盛られたモノ、使用者(祭祀者)、使用法(儀式)の方に霊力(効能)があると信じられていただろう。あらゆる呪術は本来正しい物質を用い、力ある術者が正しい術式に従って行うことによって初めて効果が期待される。が、後には儀式が形骸化してディテイルが欠落し、もともとの意味が理解されなくなってゆくものである。もとは器に盛ったモノにあったはずの霊力が、(なにも贄を祀らない)容器の側に転移される。
古代祭祀に用いられた器物は玉や青銅で作られたが、そのことが後代、(希少価値の高い)玉や青銅に霊的な器物の役割を転移させたとも考えられる。器物自体が呪物として尊崇の対象と化すのである(武器などでも同じことが起こる−本来使用者の力量によって威力を発揮するはずのものが、勝手に攻撃したり、使用者を操ったりするようになる)。
いったん呪物として玉が捉えられたときには、制作された祭祀器・礼器のデザインが重要視される。現代のアクセサリー類でもそうだが、玉という素材に、象徴的なデザイン(動植物の形など)が施されることに意味がある。そのデザインによって発動する力の方向が定まると考えられるからだ。器物はデザインの持つ力を具現化する媒体として機能する。現代でも通用する象徴には、へきじゃ、ごう魚、龍、蝉、豚、キリギリス、蝶、蝙蝠、桃、仏手柑などがある(⇒軟玉の話2)。
5)歴代の王朝が玉を神聖視したことが、民間を含めた玉信仰を堅持させた。
中国は古代から禅譲、易姓革命(という言葉はなかったが)による王朝の継承にこだわりがあった。天命によって新しい、しかし正統に継承された王朝が生まれるという考えで、それを証するものとして、鼎(かなえ、小型の釜のような青銅器)の継承、玉器の継承があった。また、皇帝(君子)は天意を民に伝える者(祭祀者)であるという視点から、天と地を媒介するとされる玉器を尊重した。
6)特に宋代以降に顕著になるが、古物崇拝・先例主義・懐古趣味を通じて、商業的思惑が官民の信仰を一層あおった。言い換えると、玉の信仰は(少なくとも漢代に遡る昔から)商業的に大いに利用され、またそのことによって玉にまつわる伝説がつねに補強され続けてきた。
美観、霊性(生命力)、宗教・思想の重層、仮託された象徴性、政治の道具としての利用、商業的宣伝といった要素を挙げてみたが、これらは互いに浸透しあい、時に矛盾しあいながら、全体として渾然とした玉信仰の土台を形成している。ほかに玉材の変遷や加工法の発展(美術的価値の増大)なども信仰の重層化に影響しているだろう。
さまざまな側面をあわせ持つ玉信仰であるが、このページでは特殊な玉の利用法−飲用を軸に玉信仰のトピックを拾ってみたい。
■世界の多くの地域で、初期の文明は同じような過程を辿って発達したと考えられている。おそらくはまだ言葉も文字もなかった有史以前に、火や道具の利用が始まった。最初は木や骨や石など、手に入る物質がそのまま使われる。やがて(すぐに)使い勝手がいいように素材を加工し、道具を作るようになった。旧石器時代、(中)、新石器時代を経てシンプルな打製石器は摩製石器に変わり、次いで(オーバーラップしながら)金属器を使う時代が来る。銅や青銅、鉄そしてやがて鋼が使われるようになる。
石や土(焼き物)で作られていた道具が別のより優れた素材で提供されるようになると、古いものは簡単に廃れ、忘れられてゆくのが通例である。しかし、ときには元の用途が失われた後でも上質の道具は神器や権威の象徴として扱われ、あるいは護符として後代に伝わってゆくことがある。石や土を使った方が優る道具はこの限りでない。
こうした成り行きは不思議と民族や時代を問わず世界各地でみられる現象のようだ。もちろん、ことはつねに一方向に進むわけでなく、また文化を継承し、変化を加えながらも伝えてゆくのが単一の民族であるとは限らない。むしろそうでないことの方が圧倒的に多い。特定の要素を欠落した文明も多い(例えば青銅を使わないなど)。それでも大局的にみると、文明は着実に段階を経て発達し、文化は洗練されてゆくものである。
★中国華南ではBC5000年頃、浙江省河姆渡に稲作文化圏があった。その遺跡から玉玦や石斧が見つかっている。揚子江下流の太湖周辺から沿岸一帯には、降って馬家浜文化(BC5-4000頃)、ッ沢文化(BC3900-3200頃)、良渚文化(BC3300?-2200?)など多くの文化圏が存在し、それぞれに玉器が使用された。新石器時代である。(※
2020年時点でもっとも古い玉器はBC6200-5400年頃の興隆窪文化圏から発見されたもの。cf.
軟玉の話1 追記1 、追記2)
ことに良渚文化では太湖の西方、小梅嶺に産する軟玉を使って、さまざまな器物が大量に作られた。最初の玉器文化が花開いたスポットといえる。高い完成度をもった玉器が突然姿を現すが、それまでには手に入る限りの種類の石が試みられ、加工上の工夫を重ねた段階があったはずである。この過程がどのように進んでいったかはよく分からないが、先行する文化圏からの試行錯誤を経て、軟玉あるいは類似の素材が選択的に抽出され、利用されるようになっていたのだろう。おそらく強靭で加工しやすい性質の石として、また入手可能な石として好まれたものと考える。生活器だけでなく、祭祀用具にも特徴的な玉器があり、良渚文化を代表するものとみなされている。漢代に言う「璧」(へき)と「j」(そう)である。「璧」は中空の円盤形、「j」は中空の四角柱形で、いずれも中空の孔は円筒形に抜けている。(補記5)
また同じ時期、華北でも大汶口文化(BC4300?-2400?)において玉器が作られていた。山東省産の玉を使ったとみられる。この文化圏は良渚文化との交流があったことが知られ、共通したデザインのものもあるが、特徴的な玉器として石斧があげられる。
遼寧省紅山文化(BC4700-2900頃)の玉器も同時代のもので、地元の岫岩玉(蛇紋岩系)を使って龍、虎、亀、鳥、魚などの形に作られた。良渚とは異質だが、この種の動物形玉は殷周代にも作られている。後世の玉文化には先行するさまざまな系統の石器文化が混交して影響を与えていると思われる。
良渚や大汶口文化の頃(5000年前)に、軟玉が好まれ重用されていたとすれば、その力点は素材・道具としての素性のよさにあっただろう。一方、装身具や動物形の玉などは、性能(強靭さ)よりも加工性や質感の方が重視されただろう。文字記録がないので推測で言うほかないが、後代の文人がレトリックを駆使して賞賛した類の質感の観念は明確には意識されていなかったのだろうが、その萌芽はあったに違いない。良渚では「璧」と「j」のみが、祭祀器(礼器)として扱われたと考えられており、両者をセットにして神霊との交流を図ったといわれている。もちろん証明出来るようなことではないが、いずれにせよ、玉に具わる霊性の観念は、主たる用途が日用器だった段階ではまだ成立していなかったと考える。
こうした玉器文化は、龍山文化に受け継がれ、さらに二里頭文化(BC1900-1500頃:夏王朝に対応する)に送られ、殷、周を経て春秋〜漢代に再び大きな花を開かせる。但し、まったく異なる資質の−観念的な−文化として。(良渚から漢代にかけての文化継承の系譜は、ひま話「中国における太陽と鳥の信仰」を参照)
「璧」と「j」のうち、夏・殷に伝わったのは「璧」のみだったという。その頃別に「圭」と呼ばれる、長板状の玉器が現れ、「璧」と「j」が果たした役割が「璧」と「圭」とに与えられた。圭は祭祀器というより、後の用例を見ると王侯の身分の高さを表現するためのものと見られる。中国古代社会がまだ身分貧富の差の少ない共同体で、神々との交霊によって政(まつりごと)を営んでいた時期から、夏代に至って権力者が誕生し、神々の力と王侯の実際的な力とが拮抗するように社会が変化した表れとも解釈されている。(ただし周代以降になると再び「j」が見られる。廃れてしまったというより、夏・殷の文化圏では重視されなかっただけだろう。「璧」は戦国期に至るまで主役的に伝わってゆく)
★殷は青銅器文化の国として知られ、青銅製の祭祀器(鼎)が有名である。政治は祭祀と密接に結びついており、何事も卜占によって決められたらしい。卜占にあたっては、ちょうどギリシャ文明の人々が牛を炙ってその薫煙を神に捧げ祈ったように、火を焚いて煙を天に上げ、酒と肉とを供えて神や祖霊を祀った。このために青銅製の器や玉製の圭(酒柄杓の柄にする)が使用され、また玉璧や圭・璋(大汶口文化の石斧の柄から転化したもの)を依り代にしたとみられている。石器時代から金属器時代への変わり目である。この時期の玉材は実用としてというより、儀礼用の素材として重用されたとみられる。酒柄に玉材を使う必然性はないので、玉を使うことに何らかの積極的な意思が働いていただろう。古い石斧が石斧としてでなく祭祀器として再利用されるのも同じ発想である。父祖伝来の玉器には祖先の霊なり、天からの力なり、祭祀器に相応しい力が通じていると考えられたのではないか。
(夏代以前の中国では肉を焼いたり炙ったりして食べたが、青銅器が現れると、直かに焼く選択肢が廃れ、煮炊きして食するようになった。その後、中国では永らく焼肉がなかったという。だから「煙を天に上げた」といっても、肉の脂が焦げる香ばしい臭いが神々の心をゆるがしたわけではないようである)
★周代にはその傾向がよりはっきりする。周は殷を滅ぼして成立した王朝だが、殷の文化をも引き継いだ(文化レベルの後退があったとも言われるが)。周王は天(帝)の意を受け、天と交信する唯一の権利者としてふるまった。周王に帰属する各領主はそれぞれの土地神と祖霊とを祀った。祭政は未だ一致しており、一方で細分化された階級制度が整い、祭祀は厳密に定められた典礼に従って行われた。儀式のために青銅や玉製の祭祀器(礼器)が使用された。良渚文化の「j」は周代には「主」と呼ばれ、天を祀り地に拝す社稷の儀式に際し、携帯式祭壇の役割を果たしたと考えられている(林巳奈夫氏の説)。後代の学者は、jは天と地を媒介するものだったとみている。また玉jとともに、日月を象徴する玉璧が尊崇され祀られた。これらは正統な権威の証でもあった。
周代の事情を直接伝える記録は未だ乏しいが、儒家の経書「周礼」(戦国期頃に成立?)にその有様が伝説的に描かれている。祭祀器(礼器)は「六瑞」といって六種あり、これをもって天地四方を祀った。蒼璧は天、黄jは地、青圭は東、赤璋は南、白琥は西、玄璜は北に対応する。いろんな色と形の玉を分けて使ったのである(多分いずれも軟玉)。また権威や階級制度を象徴する装身具として佩飾玉があり、この慣習は殷から伝わったという。白玉は君子の象徴だった。さらに王命を下すときに家臣に持たせた「符節器」、埋葬用の「喪葬玉」などがあった。
★周代(〜春秋期)に期待された君子像はわりと明瞭である。農業社会として発展し大きな国力を持つようになった周では、毎年安定して作物が収穫されること、天変地異や戦乱がなく穏やかに日々が過ぎてゆくことが希望された。そうした社会を安定的に運営してゆく原動力として君子の存在意義が想定されたのである。君子は天(地)と交信し、社会の願望を伝える巫者の司であり、豊穣の気を地上にもたらすべき存在であり、天候を従わせ、河や地を治め、人心を平らに宥めるべき調停者だった。君子に期待された国家経営は、天地万物の諸霊を感動させ、その力を動かして初めて実現可能なものだった。
天地四方を祭る行為は、穏やかな天候に恵まれて作物がたわわに実ることを、人間が健康に生きられることを、そして神々や祖先の霊が自分たちを暖かく見守ってれることを祈るものだった。そういう視点でみるとき、君子が白玉を帯び、玉製の祭祀器を用いたことは、ひとつには玉にその職務遂行の援けとなる力、天と地を結びつけ、豊穣の気(生命力)を媒介する力があると信じられたことの反映だったとみてよいのではないか。
天地の霊と交信する能力は本来君子自身によるものだとしても、王朝が代を重ね、古くから伝わる玉器が儀式に欠かせない中心的な事物(祭祀物)になってゆく過程で、もともとは道具として依り代に使われた祭祀玉器や佩玉という石=不変の物質の側にもその力が宿っていると考えらるようになったのだろう。本末転倒ではあるが、目的と手段の混同、原因と結果の逆転は、実は呪術の基本原理であって、珍しいことではない。古い玉器は祖先が使ったものであり、その祖先は今は霊となって天に昇り地に降り、神々に列しているのである。そして地上との絆を依然愛用の玉器に留めているのである。
またもうひとつ考えられることは、天地の霊が通過する媒体となり、来訪したときに滞在する社ともなる玉器には神々の力が宿り、霊が去った後もその力を発散し続けると信じられたということである。
いったん優れた霊力を持った存在が接触した器には、後々までその聖性の余韻が残っていると感じることは我々日本人にもなじみの観念であろう。それは祝福された物質であり、儀式の際に繰り返し活性化される聖遺物・御神体でもあるのだ。こうした玉が帯びる(もとは祖先や神々の)霊力は繁栄力・生命力といっても差し支えない。
また深読みに過ぎるかしれないが、君子にとってもある種のトランス状態に入って本源の力に接することは、自己の解放と元気回復のための大切なメンタルケアであったろうし、そのトリガーとして玉に信頼を寄せていたのだろう(心理学的な言い回しをすると原初状態への回帰、無意識の信頼ということになるか。宗教的恍惚状態ともいう)。
「周礼」に興味深い一文がある。王斉則玉府供玉食。玉府は玉器の管理を司る役所のことで、「王の斎戒はすなわち玉府を供に玉を食すなり」、あるいは、「玉府の供す玉を食すなり」というのだ。後代の学者はこれに注釈して、「玉は積極的なエネルギーの純粋なものなので、玉の粉を王に食させる」としている。王は玉の帯びる生命力を身内に取り込んで、祭祀にあたったのだろう。その粉はかつて祭祀に用いられた、神々の息吹が十分に通った古い玉器を砕いて整えられたものだったろう。私は玉食の起こりは、玉そのものの化学成分による薬効を期待したのでなく、神霊が通ったものを食することによって、神々の豊穣の力を受け、同化しようとしたものだと考えたい。玉自体に積極的エネルギーが想定されたのは、もう少し時代を降ってから、祭祀の社会的意義が失われてからのことだと思う。(補記1参照)
★周の権威と求心力は時代につれて次第に弱まり、春秋時代に入る。青銅器文明が鉄器文明に変わろうとする境目にあたり、社会の構造が大きく変化した時期だった。人々は周が始まった頃を聖代と仮定し、古い行動様式に社会を安定させる手本を求めた。儒教思想が芽生えた時代である。しかし現実には新たな規範が浸透していたことも否定出来ない。河南省周辺や特に楚国は殷の文化をよく留めて、巫師の勢力もいまだ盛んだったが、中国全体はすでに新しい社会構造の下に動き始めていた。祭祀はもはや国家の運営に不可欠なものではなくなっていた。
祭祀器の象徴として長い歴史を誇ったjは次第に使用されなくなり、漢代までに廃れてしまう。一方、璧は春秋戦国期を経て受け継がれていく。璧は天、jは地を祀るためのものとすれば、天を祀ることのみが残ったわけである。和氏の璧の故事はよく知られている(和氏の璧)。鴻門の会で劉邦は項羽に白璧一双を奉って寿をなしたという。だが、群雄割拠する王たちの国家経営は祭祀よりもむしろ軍事と経済と外交とに関する現実的な対応に重点が置かれていた。国家が優れた伝世の玉器を持つことは、もともとは国を繁栄させる力を手に入れることであったが、後には高いステータスを獲得する象徴的行為に過ぎなくなった。和氏の璧を巡る政治的な駆け引きは、玉璧が尊崇に値する精神的価値を具えたものとみなされる一方、現実の財産(城市)と引き換えに手に入れるようなものではなくなっていたこと、時代の気分が現世的価値を宗教的価値の上に置いていたことを示している。後に前漢初代皇帝となる劉邦の奉献は項羽のご機嫌をとるための単なる儀礼的行為だった。
★周代の出来事として語られる玉の、ある意味で興味本位の伝説の多くは春秋期以降に成立したと考えられる。
例えばBC11世紀に殷が周の武王に滅ぼされ周王朝が誕生したときのこと、太公望が周の天下がくることを記した玉の石版を見つけた話がある(歴史的事実とは思えないが)。
太公望(呂尚)というと部類の本好きで、一日中働かずに本ばかり読んでいたので、とうとう奥方に愛想をつかされ、離縁されたことで知られる。しかし文王に見出されて出世した後、元の奥さんがやっぱり復縁したいと訪れた。呂尚は盆の水をひっくり返してみせ、「この水が元に戻ったら、そうしようかね」と答えたという。「覆水盆に返らず」の故事。
呂尚には読書のほかに釣りの趣味もあった。彼は天の声を聞くために、しばしば貧しい衣服に身をやつして、渭水に釣りに出掛けた。そうしてぼーっと釣り糸を垂れていると、心がほんわかしてきて、神の託宣が聞こえたらしい。ある日、いつものように釣り糸を垂れていると、鯉がかかった。釣り上げると、その腹から玉板が出た。「次の王朝は周と呼ばれ、中国の黄金時代となる。その建国のために働くのがお前の天命である」と記してあった。呂尚は予言の成就に力を尽くし、周公旦らと共に武王を助けて殷の紂王を討ち、周王朝建国の功臣となった。周王朝は玉板の守護を受けて、以後数百年に亘って繁栄した…。
「書かれたことは成就する」という文字(の霊力)に対する絶大な信頼がみられるが、同時にその素材に玉が使われたことに注目したい。(後には、冥界に人間の名前と寿命を刻んだ玉柵が立っているという信仰が生まれた)
ちなみに、殷の紂王は牧野の戦いで周の武王に敗れたのち、火中に身を投げて自害したが、天智という玉を身につけていたため、死体は焼けずに残ったという。玉衣をまとっていたともいう。
★周代〜前漢代にかけて、玉が伝説化したことの背景には、玉が希少化していたことが大きく影響しているだろう。20世紀前に地元の玉を採集して日用品を作っていた時代はすでに遠く、この頃には玉は交易品として西方からもたらされる宝石的価値の品物と考えられていたようである。それは月氏(禺氏:西域の交易民)の玉と呼ばれ、いつでも簡単に手に入るものではなかった。
成立年代のはっきりしない「竹書紀年」のひとつに、穆王の十七年、周の穆王が西方の崑崙丘まで旅をして、西王母に会った記述がある。また「穆天子伝」には、河神を祭っているときに神託を受けて西へ向かった穆王が西王母から多数の玉板を贈られ、崑崙(こんろん)の瑶池のほとりで宴会を持って歌を送りあった次第が綴られている。軟玉が貴重品であったこと、崑崙という仙境に産すること、不老不死の仙薬を持つ西王母伝説に結びつけられていたことが分かる。
(cf. 羿(ゲイ・ガイ)という人物は無死の薬を西王母に請い、姮蛾はこれをさらって飲み、月に奔った。)
玉・崑崙・不老の組み合わせは春秋時代(BC6-4C)には人々の広く言い伝えるところとなっていた節がある(cf.
軟玉の話1 補記1 「新序」、「晋書」列伝のエピソード)。
不老不死の力は生命力(繁栄させる力)と源を同じくするものだろうし、もともとは神々の「徳」である霊力として信じられていたものだろう。
★春秋時代に活躍した孔子(BC551-479)も玉について語っている。「先生。綺麗な石はほかにも沢山あるのに、どうして人々は玉を尊ぶのでしょうか。やはり数が少なくて珍しいからでしょうか」と弟子の子貢に問われ、「玉には徳があるから尊ばれるので、ただ珍しいからではない。かつて君子は徳を玉の性質になぞらえたものだ」と答えた故事。孔子は玉の美点を次のように説明する。
「温順で艶のあるのは仁(博愛)、緻密で硬いのは智、清廉で汚れのないのは義、たたくとその声が優れて清らかで長く終わりがきちんとしているのは楽、傷も光もかくさずに現すのは忠、色つやを変えないのは信、虹のような気を吐くのは天、精神を山川に見るのは地」(禮記)
また「それを遠くから眺めると火光のごとく、近くでみると瑟(ひつ)のようだ。前者は理においてまさり、後者は色艶においてまさっている」と賞賛している。
当時、玉には5つ乃至9つの徳があるとされていた。ほとんど言葉の遊び(レトリック)だが、玉が貴重視されていたことには違いない。
後代の辞書「説文解字」(AD100)は玉について、「石の美なるもの。五徳あり。潤沢にして温なるは仁なり、鰓理にして外よりもって中を知るべきは義なり、その声の舒揚にして遠くに聞こゆるは智なり、撓まずして折れるは勇なり、鋭廉にして技せざるは潔なり」とし、孔子の伝統を継いでいる。
★孔子の言説にはひとつの特徴がある。問答に想定されている玉はおそらく原石でなく、加工された玉器だろう。なのにその玉器の宗教的価値や伝統、周代には佩飾玉によって身分を表したといった事情はまったく顧慮されていないかのようである。言い換えれば玉そのものに徳があると説明している。彼にとって玉の信仰は祭祀や歴史と結びついてはいなかったこと、素材としての玉に価値を見出していたことを示している。
また天、地の徳は霊的、精神的な価値と言ってよさそうだが、基本的には物理的な性質が賞賛されている。もちろん単なる物理的性質ではあるまい。それではほかの綺麗な石となんら変わらないことになってしまう。この時代の人々は玉の中に人間(という生命体)に擬すべき人格的(生命的)な徳を見出していたとみるべきであり、その根底にあったのはやはり昔から信じられてきた霊的資質、国家に豊穣をもたらす力、身に着ける者の健康や若さを保つ力、寿命を延ばす力、あるいは遺体を傷ませない力などであろう。前述のような伝説が同時代に繰り返し記録されたのはそのためである。
例えば仁の徳である温と潤。軟玉の特質として、磨かれた表面はつやつやとぬめやかに光るばかりでなく、触ってみると微妙なやわらかさや温かさがあり、また内部からにじみ出てくる潤いがあると考えられた。温とは「朝の露、または静かな雨のようにやわらかいこと」、潤とは「幼児の肌のようにやわらかで温かいこと」を指し、いずれも玉のしっとりとしたやわらかな感触を賞賛したものだ。人々は玉のほんのりとした温かみや水気を含んでいるような質感に生命の息吹を連想し、永久不変の玉に宿った不老不死の玄牝、谷神のこだまを聴いたのだろう。
徳という言葉は「もちまえの優れた性質」を意味するが、管子の心術篇上には「万物を化育する、これを徳という」とあり、「淮南子」の天文訓には「冬至になると陰の気が極限に達し、陽の気が萌えてくる。ゆえに冬至を徳という」とあるように、万物を在らしめ発展させてゆく源のエネルギーもまた、徳のうちに想定できる。玉のもつ徳はまさにそうした根源的な力と考えられたのだった(こんな表現法もまたレトリックではあるが)。そして、その力は過去の伝統(祭祀器として担ってきた尊崇の念など)を離れてなお持続する信仰となっていたのである。
★この時代の人々は、玉の持つ目に見えない力によって生命力を強め、邪な霊を退けられると信じていたらしい。
「詩経」(※孔子の頃に周代の詩が編纂されたものらしい)の次の一節、「乃生男子、載寝之牀、載衣之裳、載弄之璋(男子が生まれたら、寝台に寝かせ、袴をはかせ、璋の玉であそばせよう)」は、赤子に玉器を持たせて、生命をさらってゆく悪霊に対するお守りともし、「魂振り」の(元気を振るい立たせる)道具ともし、将来璋(先端が広がった刃を持つ武器(石斧)起源の玉器)を持つような高位の身分に出世する祈願ともしたものと考えられている。同様の風習は現代に続いている。
遺体を傷ませない力について付言すると、遺体とともに玉を埋葬する慣習は周代にはすでに行われていたが、戦国期から漢代にかけて盛んになったようである。特に前漢の武帝以降、玉が安定して入手できるようになってからは副葬される玉も夥しい量にのぼった。亡骸を覆うのに玉板を綴った死衣を着せたり、口の中に玉蝉(回帰の象徴)を含ませたり、豚(財産の象徴)形の玉を握らせた。(補記6)
後代、赤眉の乱(A.D.18〜27)が起こったとき、反乱に加わった兵士が御陵をあばいて財宝を略奪したことがあった。そのとき玉の小板をつづりあわせた玉衣に包まれて埋葬されていた死体はみな生きているごとくだったという。埋葬によって地上から失われる玉があまりに多く、惜しまれたため、玉の副葬は魏の文帝の代に禁じられ、以後廃れてゆく。
★周王が斎戒時に玉を食したことはすでに述べたが、春秋戦国期に玉食の習慣が続いたのかどうか、私は知らない。ただ、玉が神仙の食べ物とされていたことは確かである。(補記1)
戦国期、楚の国に屈原(BC343-278)という人があった。初め楚の懐王に重用されたが、同僚の讒言によって、洞庭湖の南方の地に流される。屈原は鬱々と日を送り、ついに汨羅(べきら)の川に身を投げて生涯を閉じた。「楚辞」の中に彼の「九章、江を渉る」という詩がある。
「崑崙に登りて玉英を食む。天地と寿(よわい)を同じくし、日月と光を同じくすれども、南夷(楚を卑しめてこう呼んだ)の我を知らざるを哀しむ。旦(翌朝)には我、江湘(揚子江と湘江)をわたらん。」
崑崙の山(丘)に高貴な神仙が棲み、霞や玉を食べて不老長生を楽しんでいる、といった伝承があって、才能ある我が身を仙人の超越的な境地になぞらえたものだろう。屈原自身がほんとうに玉英を飲んだかどうか怪しいが(崑崙に登ったわけもない)、神仙が石を食べることは世間の常識だったのである。玉英とは純粋な玉(玉のエッセンス)を意味する。霊力を持つ玉に対する多分に観念的な発想だろう。祭祀器として祖霊の息吹を受けた玉器とは、もはや何の関係もない。
西王母信仰が盛んになると女神が持つ不老不死の仙薬の成分として玉が想定され、後に羽化登仙のための薬とも考えらるようになる。仙女の何仙姑(かせんこ)は中国の主婦たちの守護神だが、玉と真珠の粉を飲んで不老不死の生命を得たとされる。
■BC3世紀、秦による全国統一(BC221)によって長い戦国の時代が終わった。ほどなく前漢(BC206-AD8)が成立し、中国は漢民族という自意識の下、ひとつにまとまった文化圏を形成してゆく。
長い戦乱の後に平和な時代が訪れてみると、古い習俗の多くは当時の人びとにとって理解不能なものとなっていたらしい。
古い書物は解説書なしに読み解けず、儀式や典礼の意味は昔語りに照らして遥かに想像するほかなかった。
しかし一方で、漢代は戦乱の間地に潜っていたさまざまな民間伝承が(例えば秦代の焚書坑儒をかいくぐって)、再び世に現れた時代でもあった。その一部は神仙思想として新たな装いとともに復活した。鳥や龍や奇怪な姿をした太古の神々、人に似た姿に変容した西王母。そして方術士たちはかつて祭政を司った巫術師(シャーマン)の後継と言うべき存在だった。
玉信仰は漢代に大きな曲がり角を迎える。それは一方で古い玉文化が戦乱のうちに形骸化し変質したこと、また一方で玉の大量入手が可能になったことによる。
武帝の頃に西域との国交が始まって、伝説のホータン玉が中原にもたらされた経緯を軟玉の話1に詳しく述べた。社会はますます豊かになり、かつて国の宝とも考えられた玉は定期的に入手可能な品物となった。これを購う資力を持つ階層も現れた。玉は古代には主に宗教的儀式や権威の象徴として用いられてきたが、漢代には芸術として独立した分野が開かれた。つまりこの時代以降、あきらかに美術工芸品として製作され、使用される玉器が作られてゆくのである。
といって玉に対する信仰がすっかり失われたわけではなかった(実際、現代に続いている)。
この時代を彩る宗教のひとつは疑いもなく、春秋戦国期に始まった方術思想のリバイバルである。長生を願う秦、漢の皇帝たちは方術士の進言を受け入れ、熱心に仙薬の探求を行ったり、封禅の儀式を執った。この分野において玉はもちろん仙薬のひとつとしてアピールされた。
西域を拓いた武帝も方術にハマった一人だったが、方士から玉屑と露水を一緒に飲む長生法を聞き、柏梁台を築いて玉を食した。以来、安定して入手可能になった玉の一部は、長きにわたって食用に供されることになる。
漢代は芸術として玉器が作られる一方、仙薬として玉が求められ、また前述のように貴顕の埋葬のために霊力をもった玉が大量に消費されるという時代だった。
★不老長生の探求は、あるいは錬金術と同じく実現不可能なことを追い求める行為であったかもしれない。しかし、その探索を通じて医薬品への知識が飛躍的に向上し、体系化されたことも事実である。さまざまな民間伝承や実践を通じた薬効がまとめられ、後漢に入る頃、本草(薬方)という概念が成立した。AD2-3C頃には初の本草書である神農本草経が編まれた。
その内容は現代の知識に照らしてかなり精確なものがある一方、仙薬を念頭においた観念的な効能が混在している。長期間服用してもよい本草が上品に分類されたが、そのほとんどが長生の効を謳っていた。
我々の関心である軟玉は、「玉泉」などの名で記載された石薬に比定される。「五臓の百病を治し、筋肉を柔らかくして骨を強くする。魂魄を安らえ、肌肉を保つ。長服すると暑さ寒さに耐え、飢えず渇かず、不老の神仙となる。
味甘、平。人が死に臨んで5斤を服すると、死後3年、容色が変わらない。一名、玉桃。山谷に生ず」とされている。純粋な軟玉は玉泉、玉英、玉王などと称された。
また名医別録には玉屑、玉泉があり、「無毒、血脈を利し、婦人帯下十ニ病を療し、気病を除き、耳目を明らかにする。渇きを止める。久しく服すれば身を軽くし年を長す、藍田の山谷に生じ、採るに時無し」などとある。この頃には玉はすっかり薬として扱われていたわけである。
★方術が唱える長生の思想や神仙への憧れの気分は、漢代、魏晋南北朝時代(AD184-589)、隋唐期(AD581-907)を通じて昂まっていった。また、日本にも伝わった。AD1-2C頃の後漢(AD25-220)のそうした空気を当時製作された銅鏡の銘文にみることが出来る。
佐賀県唐津市に桜馬場遺跡という弥生時代後期の甕棺墓地がある。「魏志倭人伝」にいう「末盧(まつろ)国」の王墓に比定されているが、副葬品の中に王莽から後漢代に属する方格規矩鏡が2点含まれていた。それぞれに銘文があり、一方の四神鏡には「尚方、鏡を作ること真に大いに好し。上に仙人ありて、老いを知らず。渇しては玉泉を飲み、飢えては棗を食らう。天下に浮遊して、四海に敖す。名山を徘徊して芝草(薬草)を採る。寿は金石の如く、これ国を保つ」とあり、もう一方の渦文鏡には「大山に上りて神人を見る。玉英を食い、澧泉(れいせん)を飲む。文龍に賀し浮雲に乗ず。長之に宜を享く」とある。
当時の鏡に好んで用いられた定型句で、長寿と国家の安寧を願う願文(呪文)と解されているが、仙道や老荘思想の影響が色濃い文言であり、屈原の詩と同様の壮大な気宇が詠まれている。
「玉泉」は、この文だけなら美しい泉の水と解釈したいところだが、神農経中の玉泉を知れば、渇きを止める効能を持った玉なのだと分かる。玉英は屈原が使ったと同じ名称である。同じことを数百年を隔てて語りうるところが中国であろう。(補記2)
そして、この時代には玉は神仙や君子が食するばかりでなく、長生を願い神仙を目指す人間(方士)たちが服用するものとなっていた。その霊力(生命力)を身内に蓄え、体質改善を図るために。
★ここで玉が長生薬として使われるようになるまでの経緯を簡単に振り返ってみよう。
1)最初は石器として実用に使われた。
2)やがて実用に供されなくなったが、父祖伝来の品として家宝・国宝的に扱われた。
3)祭祀など国家的な重要行事に用いられた。
4)祭祀器として期待された効能(神との交霊・依り代)や神の霊力が祭祀器に宿ると考えられ、玉器自体が神聖視された。生命を活性化する力があると信じられた。(玉器を砕いて食用)
5)玉という素材自体が神聖視されるようになった(希少化したため)。古くから信じられた効能も玉自体の属性と考えらるようになった。
6)神仙思想や道教の発展に伴い、玉は神や神仙の食べ物であり、古えの皇帝を始め君子たちが食したものであり、神仙になるための不老不死の薬であると考えられた。(原石を砕いて飲用)
7)道教の影響の下に本草学(薬学)が確立し、玉は長生薬として位置づけられる。(処方薬の一成分として原石を砕いて調合、久しく服用)
そして魏晋南北朝期以降、玉の服用は社会全体を巻き込んだ流行となってゆく。
■西晋・東晋期、葛洪(AD283-343)という道教家があった。葛仙翁と呼ばれ、「抱朴子」という仙人になるための教科書を書いた。この本には様々な仙薬が載っているが、玉もそのひとつである。玉から作った仙薬を飲めば、苦しい修行をしなくても、また生まれつき素質のない者でも、誰でも不老不死の仙人になれるという。玉は五玉としてまとめられており、蒼玉・赤玉・黄玉・白玉・玄玉(黒玉)を指すのだが、色の違いによって効能が異なるのかどうかは分からない。ただ、「玉を服する者はその命、玉のごとし。玄真を服する者はその命、極まらず。玄真とはすなわち玉の別名なり」とある。なんのことやら。
★仙薬にはランクがあり、「仙薬の上なるものは丹砂、次は黄金、次は白銀、次いで諸芝(薬草)、次に五玉、次に雲母、次に明珠(真珠)、次に雄黄、次に太乙禹餘粮」などとされている。
私としては玉が5番目におかれているのが嬉しくないが、方術とはそもそも至純物質として作られた黄金に無限の信頼をおく思想で、黄金を作り出すための金丹製造を第一目的とした術である。そしてありふれた物質を黄金に変換する力のある金丹であってこそ、これを服用した人間は神仙と化して空を舞い、不老長生を享受することが出来ると考えたのだ。
たいていの金属を溶かし込んで変容させる性質のある水銀は金丹の主成分となるべきものだが、その原料である丹砂が第一に位し、黄金が第二、黄金に次ぐ貴金属の白銀が第三にくるのは、だから仕方がないことである。そして玉よりは薬草の方が実効があるに違いないので、そう考えるとこのランクづけは、まあ妥当なところというほかない。
ちなみに漢代の皇帝たちは黄金の器で食事を摂ることによって、金の長生効果を得ようとした。金の器や金箔入りの酒は現代ではなんの益もないと考えられているが(無味無栄養)、当時の人々にとってはまるで違った。金粉を沈めた酒はまさに養命の神酒だったのだ。
★玉に戻ろう。この種の教書は訳し方次第でどうとでもとれるところがあるのが難だが、都合よく訳してみると、
「玉を飲むと人は身軽に宙を飛び地上に留まらない。だが道のりは遠く、百二百斤を飲んでようやく力を発揮できる」、
「まず玉を烏米酒と地楡酒に浸けて、どろどろに溶かす。次にネギ汁の濃縮液で練って丸薬にするか、焼いて粉薬にする。これを1年以上飲み続けると、仙人になれる。そうなれば水に濡れず、火に焼けず、刀で切られても傷つかない。どんな毒をのんでもへいちゃらだ」、
「赤松子(仙人:神農の時代の雨師。崑崙山上の西王母の石室にとどまって風に乗って上下したという)は黒い虫の血に玉を漬けて液体状にして、これを飲んだので、煙に乗って昇ったり降りたりすることができた。玉の粉も水とともに飲めば、人は死なないようになる」、
「玉が金に及ばない点は、飲んだ者が時々発熱することにある。玉粉を飲む者は10日に一度、雄黄(リアルガー)と丹沙(辰砂)をそれぞれひとさじ飲み、髪を散髪して冷水で洗って風にあてる。こうして体熱を冷ましていると、だんだん身が軽くなって、煙に乗って空を飛ぶことができるようになる」、
「ただし、二つのことをしっかり守らなければならない。まず薬にする玉は原石を使うこと、それから酒も女も断つことだ。」、
「薫君異は以前、玉を溶かした甘酒を盲人に与えたところ、10日のうちに目が開いた」、
「呉延稚は玉を得たが、その方法が間違っていた。禁じられている物を玉と合わせたので効果が無かったのだ。事を詳しく知らずに実行したことを非常に悔いていた。間違った方法は益が無いばかりでなく、かえって災いを招く」
そして葛洪は、「疑うのは勝手だが、実際にやってみたら必ずこうなるから、信じないわけにいかないよ」と念を押す。玉ははっきり不老不死の生命エキス、エリクサとして、確信をもって実用に供されたのだった。
★「抱朴子」は大きな関心を持って世に迎えられ、仙人になろうと試みる者が後を絶たなかった。後世に与えた影響もきわめて大きい。5Cに神農本草経を中心に名医別録などを参照し、集注を著した陶弘景(AD456-536)も葛洪のシンパであった。とはいえ、実際に登仙に成功した者がどれだけいたかは、どうにも分からない。玉を使って効果を得るには大量の薬を長期間服用しなければならないが、費用も時間もかかる上、遵守しなければならない事項もあって、完遂は至難の業だったろう。口上通り、誰でも仙人になれるというわけにはいかなかったと思われる。葛洪は当代一流の知識人であり、経験を積んだ医薬家であり、けして法螺を吹く類の人物ではないと信じられるが、それでも効果のほどはやはりアヤシかったのではないか。
同じ4世紀頃に李預という人があった。玉を食べれば不老不死になると聞き、玉70枚を臼で搗いて粉にして毎日食べ続けた。ところが1年で病気にかかり、死んでしまった。李預は臨終の枕もとに妻を呼んで、こう諭したという。「玉を食べるには山中に隠遁し、人を避け、俗世の欲望を断たねばならなかった。だが私は酒色を断つことが出来なかった。そのため死んでゆくけれども、これは玉の効果がなかったということではないからね。」
「魏書」列伝によると、彼の遺体は普通ではなかった。猛暑の中、4日間放置されたのだが、腐敗しなかったというのである。人々は玉を服用した効果だと噂しあったという。失敗しても当人はもとより周囲の人々まで玉の薬効を信じるようになったのだ。この調子ではたとえ誰も成功しなかったところで、玉への信頼は小揺るぎもしなかっただろう。
★長生薬の服用は玉ばかりでなく、あらゆる本草にまたがって実行された。魏晋南北朝期には白・紫石英など5種の石薬を処方した寒食散が大いに流行り、ために服装や社会の風習まで服用に適したスタイルに変化したという。中毒者が続出した。唐代になると水銀を調合した金丹薬が何種類も処方され、皇帝から市井の人々までが服用した。薬禍を招いた。とうとう目が覚めて、晩唐期以後、金丹服用の習慣は急速に廃れていったが、玉の服用も同時に止んだのかどうかよく分からない。
後代、明の李時珍は古い本草書を集成して「本草綱目」を著したが、そこには次の記述がある。
「玉を米粒ぐらいの粉にしたものは肺と心臓と発声器官を強くし生命を長引かせるが、とくに金と銀の粉をそれにまぜると、一段と効果が高まる。またこの石と米と露とを同量に混合したものを銅の鍋で煮て、その液を入念に漉したものは「玉の神液」で、筋肉をつよく柔軟にし、骨をかため、心を和らげ、肉づきを豊かにし、血を純化する。この神液を長年にわたって服用すると、熱と寒さを感じなくなり、飢えにも渇きにも苦しまなくなる。」
神農本草以来の効能がほとんどそのまま記載されていることに驚くが、これが中国人であり、玉信仰の懐の深さなのであろう。
ただ北宋以降は、それまでほどに玉の服用が行われなかったと考えられるふしはある。
再び玉器が大量に製作されているからである。仙薬の服用がブームとなったAD2C頃から晩唐にかけての数百年間は、歴史的に玉器の退潮期だったと考えられている。製作された玉器の数がその前後の時代に比べてかなり少ないのである。一般にその理由は、西方からの玉の供給が不安定になったためだろうとされている。しかしあるいは、みながせっせと玉を食べたために、玉器にまわす原石が確保できなかったということなのかもしれない。中国に輸入された原石は、この期間、すぐに砕かれ薬にされてしまった可能性が高い。商人にとってその方が儲かったことは確実であるから。
この点について、私は葛洪に感謝しなければならないことがある。彼が「薬には原石を使え」と書いてくれたことだ。そうでなければ、今日中国の至宝とみなされている古い玉器の数々は、この時代に悉く飲み尽くされてしまっただろうから。
(完) 2010.2.28
補記1:「山海経」の「西山経」に「丹水焉より出で、西流して稷沢に注ぐ。是れ玉膏有り。黄帝是を食ひ、是れ饗す。黄帝乃ち-山の玉栄を取りて之を鍾山の陽に投ず(以て玉種と為す:郭璞注)。天地の鬼神是を食ひ、是れ饗す。君子之を服せば、以て不祥を禦ぐ」とあり、黄帝が玉を食したこと、天地の鬼神も食したこと。君子が食すると禍いを防ぐ働きがあることが記されている。(戻る)
補記2:玉を食べると喉が渇かなくなる効能については、「玉山に在れば草木潤い、淵に珠生じれば崖枯れず」という信仰があったことが関係しているかもしれない。唐代の貴妃は玉を含んで唾液を飲み込み、喉の渇きをおさえたと史書にある。今でもハイキングなどで喉の渇きを抑えるには、小石を口に含んでいればいいという。実効があるのだ。(戻る)
補記3:玉の霊力は接触することによって持ち主に移る。身装品として玉を肌身につける理由である。玉製品は身につけているうちに色が変わったり肌になじんでくる、と言われる(現代でも)。
昔、採れたて磨きたての玉は、しばらく身につけて落ち着かせてから皇帝に献上された(磐功という)。今でも玉職人によっては売りに出す前にしばらく身につけて、石をなじませるノウハウがあるという。
中国人はやや変色した玉を好み、新玉よりも古い玉を珍重した。また古い玉には強い霊力が宿ると信じた。明や清代に昔の墓の中から発見された玉(古玉)は「漢玉」と呼ばれた。長い間地中にあった(しかも腐敗した有機物に触れた)玉は一般に色が濁り茶色がかり風化しているものだが、改めてしばらく身に付けていると次第に透明度が増して色つやが良くなることがあったそうで、非常に珍重されたものらしい。そういうことも、玉に生命力があるとされた要因のひとつだっただろう。
補記4:坂田靖子さんの短編に「いずれ朽ちてゆく動物や植物を素材にして不老不死の薬が出来るものか、石から作るのはあたりまえだろう」といった台詞がある。言いえて妙である。仙薬はやはり玉や辰砂等、鉱物が主成分でなければならない。
補記5:現在知られている中国最古の玉璧は、黒龍江省松花江流域の新開流文化(BC5000-4000年頃)のものらしい。一方、東アジア全域を含めてみると、璧形玉器の最古の例はシベリアの旧石器時代(約2万年前)のもので、バイカル湖のほとりにあるブレチ遺跡とマリタ遺跡出土の軟玉や蛇紋石製の璧形飾だという。
漢代以降、jの形状は「天円地方」という中国の宇宙観(天は円(まど)かに伸び上がり、地は方形に広がっている)のシンボルだと考えられた。また別説には、もっと抽象的な概念、「宇宙に漂う「陽気」は円形の、「陰気」は四角形の軌跡を描いてめぐるという概念」を表すものともいう。 (戻る)
補記6:「このように遺体を玉によって隙間なく包み、頭頂部にあたる部分に一枚の玉壁を綴り合わせる方式は、死者が玉に含まれる「精気」を吸収すれば、 その霊魂が頭頂部にある「天門蓋」から玉璧の中心部にあいた孔を通って宇宙の永遠不動の存在である「太一(北極星)」の世界まで到達できる、という発想に よっている。このように、戦国時代から漢代にかけての社会では人々は玉璧の孔こそが天界へ通ずる道だと信じ、玉壁を珍重したのである」 (ケ淑蘋(とうしゅくひん):テーマ講演「伝串間市出土穀璧が啓示するもの」より) (戻る)
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