軟玉の話1    −ホータンの羊脂玉のこと


以前、鉱物ギャラリー No.70のヒスイのページに、「マトン・ファット」と称するひすいについて、とりとめのない話があったのを覚えておいででしょうか(現在はテキストをすっかり書きかえています)。以下に転記しますと、


むかし、ある本で、ひすいの品質だか、色合いだかを表す言葉として「マトン・ファット」という用語を拾った。直訳すると「羊の脂肪」である。初め私は、たぶん羊の脂身は半透明で白くて柔らかいのだろう、だからマトンファットというのは、純白の透き通るような高品質のつやつやしたひすいの磨き玉を指すのだろうと判断して、良しとしていた。

その後、別の本で、マトンファットというのは、白地に朱色の筋が入った独特の趣をもった珍しいひすいだということが分かって、びっくりした。質の善し悪しは不明だが、朱色というところがまったく想像外であった。

それから、その種のひすいの実物を見たくなって、機会があると業者の方に「マトンファットのひすいを見せて」とか聞いてまわった。けれども、残念なことに、誰にも通じなかった。東洋ではそんな呼び方をしないのかも知れない。

何年か経って、アメリカのニューヨークに行く機会があった。この町は不思議なところで、どういうわけか、繁華街の真ん中にアンティークショップや東洋趣味の物産店がやたらとあり、例えば、日本風の根付け(それもはっきりいってエッチなやつ)や春画(芸術なのだそうだ)とか、明朝風の彩色皿や壷だとか、ベトナムあたりの真珠母貝の象眼細工だとかのエスニックな工芸品がやたらと眼につく。
ひすい細工の店も多かった。私は、2,3軒飛び込んで、マトンファットという言葉を告げてみた。だが、わかる人がいなかった。

最後に、ある大きな高級(そうな)店でその質問をした。応対に出た女性にはやっぱり通じなかったが、代わりに目利きらしい男性に取り次いでくれた。
「ああ、なるほど。そういうヒスイがある。」と彼は言った。
私は、とうとう見つけた、と喜んだ。だが、それは悲劇の始まりだったのだ。
彼は、いらいらした様子で近づいてきた。

「何がほしいって?君は、意味がわかってて言ってるのか。」
そして私を鋭い目で見つめた。
「ここには最高の品質のものしか置いていない。だいたいニューヨークでそんなクズものを欲しがるお客はいない!」

浮き足だった私は、ほうほうの態で逃げ出したのだけれど、まあ、こうやって、ちょっとずつ勉強しているのである。謝々。


さて、今回は、このマトン・ファットの玉(ぎょく)を巡る、さらにとりとめのないお話です。

1年半ほど前、作家、陳舜臣氏の「シルクロード旅ノート」(中公文庫、1999.3)の中に次の一節を見つけました。

「玉は羊脂にたとえられている。白く、そしてなめらかで艶がある。げんに玉の高級なものには『脂玉』という名がつけられている。」

これを読んで、私は、深山の木の下闇をうつむいて歩いていたら、ふいに峠に出て、眼下にぱっと眺望が開けたといった感じがしました。マトン・ファットとは、本来中国の言葉で、品質のいい軟玉(ネフライト)を指していたのですね。ずっと硬玉(ジェーダイト/ひすい)の品質を表す言葉だとばかり思っていましたが、そうではなかったのです。そしてやっぱり、脂身のように白く透明感のある、軟らかな質感の玉を指していたのでした。長年の疑問が、ようやく解けました!

マトンファットは「羊脂玉」または「羊脂白玉」を直訳した言葉のようです。もともと中国由来の表現だったとなれば、どうして最高級の玉を羊の脂身に喩えたのかわかる気がします。中国は基本的に米作や粟作を主体とした農耕国家ですが、江南地方も含め全土で羊が飼育されており、特に東北部や蒙古自治区、西部地方などでは今も遊牧が盛んです。羊は古来から大切に扱われており、とてもめでたい、実によろしい動物と考えられてきました。羊の大きいものが「美」であり、吉祥という言葉は、しばしば吉羊と略して書かれました。羊に言を二つ重ねた文字が「善」で、羊がしゃべるなんて、実に善いことだというわけです。羊について語る言葉は微に入り細を穿って「詳」。羊によだれをつけると「羨」で、よいものを見ると欲しくなってよだれが垂れる意。羊が武器(戈)をもってきっぱり断を下すのが「義」、活きが良くて美味しい魚は「鮮」、元気な羊は羽があるかのように身軽に「翔」びはねる。角と尻尾のない羊が人の「王」(うそ)。ともあれ、よろしき存在である玉の善き物を、天からの授かり物たるよろしき羊に喩えるのは、この国では実に当を得たことだったといえるでしょう。(ちなみに「玉」は、佩玉を三つ連ねた形だとか。形からすると、王様の腰にくっついてる石という感じもしますが...)

補記:上の転記したテキスト中で、マトンファットが白地に朱色の筋が入ったものという記述に関しては、椿園著「西域見聞録」(1777年成書)のヤルカンドの項に、「色は各色違い、雪のような白、翡翠のような青、蝋のような黄、丹の赤、墨の黒はみな上等品である。一種に羊脂の如き朱斑、一種にホウレン草の如き碧も。」という描写があります。18C当時の現地(新疆)では朱斑のある玉が羊脂に擬えられたようで、現在の中国では「羊脂朱斑」と呼んでいます。一方、羊脂に擬えうる白い玉を「羊脂白」と呼びます。どちらも羊脂玉なわけ。
ちなみに 18C後半の清朝は軟玉文化の最盛期を迎えていました。乾隆帝の時代に清は領土を拡大し、乾隆24年(1759年)に西域を征服して直轄地としました。この地は新疆と呼ばれ、翌年から玉の貢納が始まって大量の玉素材が毎年都へ送られるようになったのです。(本文中に後述。) 

椿園の姓は尼瑪査(ニマザ)、椿園は字で、またの名を椿園七十一、長白椿園氏などといいます。満州正藍旗の人で、乾隆19年の進士。乾隆29年に新疆へ赴任して十余年を過ごしました。クチャの軍署在任時に「西域見聞録」を執筆しました。当時の西域の状況や物産の知れる貴重な書籍です。「翡翠(かわせみ)のような青」と形容される玉が採れたことが分かりますが、一方、北京の宮廷記録に初めて「翡翠」と呼ぶ玉器(瓶)が記録されたのは 1771年でした。これが軟玉(ネフライト)だったのか硬玉(ジェーダイト)だったのかは時期的に微妙なところです。 cf. ひすいの話4  (2022.9.7)

宋代のものと伝わる 羊脂玉。 半透明の脂身のような質感を持つ。

そしてもうひとつの謎解きは、マトン・ファットが高級な玉であるにもかかわらず、どうしてニューヨークの店員が、すごい剣幕で詰問したのか、ということですが、おそらく、硬玉ではなく、軟玉を指しているという点に理由があったのでしょう。つまり、「ここは高級なジェード(硬玉)を扱う店だ、安物のジェード(軟玉)なんか眼中にない」ということだったと思われます。現代では、希少かつ鮮やかな色彩の硬玉は、産出が多くて一般に発色の鈍い軟玉よりも貴重視され、値段も格段に高くなる傾向があるからです。私自身、「ひすいの話1」では、硬玉の方が値打ちがある、なんて書いております(反省)。
ただそれは、現在の供給量と西洋風の美的感覚を基準にすればそうなる、というだけのことで、石そのものの素晴らしさは、また別の次元のお話といわねばなりません。
実際、中国人にとって、硬玉は19世紀に至るまで単に美しいだけの「石」、一方軟玉は美しさに加えて徳を備えた霊的な「玉」でした。中国の正統派である漢民族には、硬玉の硬く冷たい光よりも、軟玉の暖かく豊かな風合いが、鮮やかな翠色のひすいよりも、潤いのあるやわらかい白玉(または淡い緑玉)の方が、好みにあったものと思われます。また同じ軟玉でも、マトン・ファットのような白玉はとりわけ美しく、妖しく、その上産地が中国奥地のホータン(和田)に限られたため、希少性があったともいえるでしょう。硬玉が、正式に玉の仲間に加えられたのは19世紀の終わりで、満州民族が築いた清朝の末期、翡翠を愛好した西大后に臣民こぞって右に倣えして以来です。硬玉は、唐代にはすでに知られていましたが、長い間、「古くは碧と呼ばれたが、真の玉にあらず」という評価が続いたのです。今でも、「古玉(軟玉)は新玉(硬玉)に勝る」といわれるくらいです。


ここでジェード、ひすい、または軟玉における羊脂白玉の位置を整理しておきますと、もともと中国で愛好されてきた玉は、程度の差はあっても、有色の、特に緑色がかった石でした。玉材として使われた石は鉱物学的性質(化学成分や硬度など)にかかわらず、いずれも灰緑〜深緑〜鮮緑色で(ほかにクリーム色、黒色)、磨くと艶を持つという共通点がありました。このことが異なる鉱物種の石を、すべてひすい、ジェード、または玉としてひとまとめに混同してきた原因といえるでしょう。しかし、ある時期に(私はBC3世紀くらいとみていますが 追記2も参照方)、ホータン産の白玉が知られるようになると、そのぬめやかで潤いのある質感から、一躍玉の中の玉として賛美されるようになり、以後現代にいたるまで、最高の玉材として珍重されたのだと思われます。一方、緑色がかった玉(青玉、青白玉と呼ばれる)の方もすたれることなく愛好されてきましたし、清朝に至って鮮緑色の翡翠(硬玉)ブームが興りましたので、現代の私たちからみると、玉には大きく分けて白玉と緑玉があり、白玉の多くは軟玉に属し、緑玉は時代の新しいものは硬玉、古いものは軟玉に属するという区分を、大雑把ながらつけていいかと思います。その中で、白玉のもっとも優れたものが羊脂玉/羊脂白玉だったのでしょう。(その色は輝くような純白というより、むしろ潤いのあるややクリーム色がかった白、あるいは淡い蜜色です。そして透明感が高いです。)
※中国の新疆和田地方製品品質監督局が2014年7月に(15年ぶりで)発表した「和田玉標準サンプル」の画像を見ると、羊脂白玉は純白・雪白のものです。わずかに青み・暗みがあるものは「白玉」、はっきり暗みのあるものは青白玉とされています。黄色みを帯びたものは黄玉となっています。このサンプルに従えば、羊脂白玉は真っ白な玉ということになります。
ちなみに wiki のjade の項には乳白色の玉がマトン・ファットと、nephrite の項には白色半透明ないしごく淡い黄色のものがマトン・ファット・ジェードと書かれています。

話が少々ややこしくなりますが、以前には、中国の古い玉器はすべてホータン産の軟玉であると信じられていました。しかし、今では科学的な分析や専門家の鑑定によって、実際にはさまざまな種類の玉材が用いられていたことがわかっています(※追記2。特に古い時代には手近な産地の石が好んで用いられましたし、時代が下って庶民が玉を手にするようになってからは、入手容易で廉価な石が普及品として使われる傾向がありました。過去ひとまとめに玉として扱われていたものには、岫岩(しゅうがん)玉、蛇紋石、陽起石、透閃石、緑閃石、軟玉、硬玉、ホータン玉、碧玉、滑石などが含まれていたとされます。岫岩玉は蛇紋石の一種(透閃石の場合も)、陽起石は透閃石の一種、軟玉は透閃石または緑閃石の質が緻密なもの、ホータン玉は軟玉の一種ですから、この分類は、鉱物種的にかなり重複しているのですが、基本的な化学成分や構造が同じであっても、産地によって質感や色合いなどは随分違ってくることがありますから、ここでは一応この分類に従っておきます。(さらに揚州玉、藍田玉、高嶺玉、独山玉、大理石、夷玉、医無閭玉、雍州玉、脂光玉などと産地や外観の違いによって名称がつけられていますが、それぞれ用いられた時代と鉱物種が非常に錯綜していて手に負えませんので、列記するにとどめます。)これらの中で真の玉とされたのが軟玉、さらに後代に至って硬玉でした。羊脂玉は、さしずめ真の玉の中の王といったところでしょうか。

(不完全なものですが、玉の種類についてのメモを作ったので、興味のある方はご参照ください。 )


中国での玉器の歴史は、新石器時代、BC6000年前後というはるかな昔に遡ることが出来ます(追記1)。この頃にはすでに実用石器を離れて(つまり用途不明、意味不明ということですが)、祭祀品または身装具または権力の象徴としての玉器が現れています。玉とは単なる石材ではなく、磨くことによって表現される艶やかな美しさを求めて生まれた加工品でした。
広大な中国では、いくつもの地域(主に黄河中下流域と揚子江流域)で独自の文化を持った氏族社会が形成され、それぞれ特有の玉器が作られました。玉の素材には、地域(またはその付近)ごとに容易に入手可能だった石が使われました。
これら複数の文化圏は、やがて特定の征服民族の下で、ある程度のまとまりを持ち始め、BC2700年頃には強力な世襲制王朝が成立していたと思われます。この時期からBC1000年くらいまでの間に、3皇5帝の治世を経て夏王朝(BC2100?〜1600?)、ついで商(殷)王朝(BC1600?〜1028?)が興りました。夏(か)以前の王朝は、遺跡など考古学的な証拠が何もないために存在が疑われ、神話・伝説の時代とされていますが、商王朝後期(BC1300年以降)の遺跡、殷墟は黄河中流域で見出されて実在を証明しています。遺跡からは沢山の玉器が出土しているそうです。この時期の玉器は、装身具である一方、天や祖先を祭る礼器として、身分を象徴するものとして、あるいはシャーマニズム的な動物神のシンボルとして用いられました。王朝の支配民族自身は、どうやら新石器時代からの古い玉文化の担い手ではなかったようですが、支配している間に被征服民たちの文化に色濃く染まっていったのです。(こうした形での文化継承は、中国の十八番です。)
続く周王朝から春秋戦国期にかけて(BC1027〜771/〜221)は歴史時代の始まりで、現代にまで繋がる中国の伝統がしっかりした形を取りはじめた時期です。玉を身につける佩玉文化の頂上期が現出し、六瑞、六器など、礼器、身分章としての玉器の様式が厳密に定められています。春秋戦国期は、周王朝が力を失い、それまで周に従っていた多くの国がてんでに力を誇示して争い、数百年にわたって世の中が混乱しました。戦乱が続き、民は疲弊していましたが、玉文化という点では、一部の地域で、いきなり高度な加工技術の発達が見られます(地域差が非常に大きい)。

BC221年、秦の始皇帝が、戦乱に終止符を打ち、全土を統一しました。始皇帝は北方の脅威であった匈奴との戦いに初めて勝利し、彼らの侵入を防ぐため、領国の北縁に沿って長大な石壁をめぐらせた(繋げた)ことで有名です。秦王朝は、始皇帝の死後あっという間に崩壊してしまいますが、その志を継いだのが、劉邦を祖とする漢(前漢)で、領土は平らかに治まり、国民は豊かな収穫を楽しみました。

そしてBC2世紀後半、第7代皇帝武帝(武は死後のおくり名で、本名は劉徹、史記の編年では第6代)の時代がやってきます。代々営々と財産と権力を蓄積してきた中国は、この時期になって未曾有の飛躍期に入りました。始皇帝の死後、またも中原を荒らしていた匈奴を打ち破って、 オルドスの地(黄河屈曲部の北西域で遊牧の好適地)を回復、ついで河西回廊を開き、はるか西域のオアシス国家群をも勢力圏におさめる広大な帝国が出現します。西域の統一により、いわゆるシルクロード交易が正式に始まりました。そして中継都市となるオアシス国家、 于闐(うてん。以下ホータン)から、地元で採れる玉材が都長安に入ってくるようになるのです。

西域の開発、そしてホータン玉の発見史は、とても興味深いお話ですが、長くなるのでページを改めてご紹介させていただきます。(補記1 −張騫、ホータン玉を見つける

この時代の玉器の特徴としては、 葬礼用器としての発達が挙げられます。全身を玉板で覆う埋葬は、漢代に広まった風習で、大量の玉が西域から輸入されるようになって初めて、これほどの贅沢が可能になったということを見逃すわけにいきません。この時代は神仙や呪術的なものに対する関心が異常に高まり、不老不死へのあこがれと玉とが結びついて独特の風習が行われるようになっています。その一方で、殷周時代以来の玉のデザインや使用法は徐々に廃れてゆきました。鬼神を語らない儒教と、土俗的でシャーマニックな方術とが渾然となって、擬似科学的な玉信仰が姿をあらわしました。


ホータンは、タクラマカン砂漠の南縁に位置し、チベット高原に端を発する白玉河(ユルン・カシュ・ダリヤ)と黒玉河(カラ・カシュ・ダリヤ/烏玉河)の二つの河に挟まれたオアシス都市です(緑玉河を含めると3河)。大唐西域記によれば、もともと毘沙門天(北方を守護する神々?インド、アーリア系の人々か?)の住む土地だったそうです。その後、BC3世紀頃にインドからの流罪人たちと東方から来た王子たちがオアシスの東西に住みつき、地を争って、先住民たちとの間でひとつの国を作りました。BC242年のことです。インドからの移民はアショカ王の太子の家臣たちで、太子を守れなかった罪によって、ヒマラヤを越えたはるか北方の辺土へ追放されたもの。ホータン国の王家は、東方の王子の一族で、尉達(ヴィジャヤ)氏。同じようにヒマラヤを越えて北に上ってきたチベット人だったと思われます(ホータン人は他の西域国人と異なり、中国人に近い容貌をしていたらしい)。ただし、ホータン語はイラン系のペルシャ語に近いといいますから、実際にはいろいろな民族が入り混じっていたと思われます。出自の一端が示すように、古来インドとの結びつきが強い土地でした。

彼らは以前は匈奴に貢納していましたが、武帝の時代に匈奴が駆逐されると漢に臣従し、特産の玉を入貢するようになりました。入貢といっても中味は貿易です。中国の王朝は歴代、自由交易を認めず、すべての交易品を王朝への貢物として受け入れました。中国からは入貢品の価値に数倍する対価を下賜するのが通例でした。周辺諸国にとって、入貢はかなり割のいい商売となったので、喜んで入貢を続けました。儲かるなら、頭を下げるくらいなんともなかったのです。逆に中国側は、あまりしばしば入貢されてはたまらないので、何年に一度に限るなどと断りを入れなければなりませんでした。

ホータン国にとって、玉は東方の中国が欲しがる貴重な交易物資でした。玉と交換に西方諸国が渇仰する絹を入手することが出来たので、玉と絹の通商が重要な産業となりました。後に、中国の和蕃公主政策に乗じて王族の姫君をお嫁さんにもらったホータンの王は、姫君を口説いて中国の最高機密だった蚕と桑を持ち出させますが、そのエピソードは、シルクロードのロマンとして光彩を放っています。姫君は蚕を冠の裏に隠して玉門関を越え、嫁ぎ先の国民から神様のように歓迎されました。この時からホータンは、中国からの絹を輸入するばかりでなく、自らも絹の絨毯などを織るようになったのです。ところで、ホータンの古代遺跡(ダンダンヴィリク)からは、玉の加工品が一切発見されていないそうです。多分、重要な収入源だった玉を、すべて商売に回したのでしょうね。中国民族でない彼らには玉文化の伝統が育たなかったという側面もあるでしょう。彼らには、ただの石ころがどうしてこんなに高く売れるのか、不思議でならなかったかもしれません。(※西域のオアシス都市としてホータンが重要な中継貿易地点だったとすると、西方・インド・中国など各地から隊商が運んでくる宝玉類の美に彼らがまったく関心を持たなかったとも考えにくいのですが。)

ホータンは、AD1004年まで千年以上も続き、漢から唐に至る、どの王朝にも入貢したので、その間ずっと玉の供給が途絶えることはありませんでした。ホータン国が滅ぶと、玉はウイグルや大夏を通じて入ってきました。これも入貢の形をとったようです(宋の頃は西夏が河西回廊を支配しました)。その後、中国は元、明、清と巨大帝国化しますが、その中で明はあまり西域との交流に積極的でなく、一時はシルクロードもさびれ、玉の入手が困難になります。しかし清代には、再び大量の玉が中原に入ってきました。清が西域を直轄地として治めたからで、玉は駐在官の手で直接都へ送られました。各地の特産物を中央に届けることは、各地に赴任した官吏の大切な責務だったのです。毎年2度の定期貢納が定められ、一回に約2トンくらい、その他随時必要に応じて玉が供出されました。多いときには一度に約30余トンを運んだ記録があります。武帝の時代からおよそ2000年を経てこの数字ですから、いかに大量の玉がホータンに出たかがわかります。また、こうした公式のルートの他に、さまざまな方法による密輸、密採取が横行した結果、流通した玉はさらに膨大な量に上ったことでしょう。


前漢以来、ホータン玉は事実上、玉文化の発展を一手に担ってきました。前漢、後漢を通じて、玉器の用途はさまざまに拡大し、加工法も発達しました。この時代の彫刻は繊細で、遊糸白描と賞賛される細い線刻が特徴となっています。この後、中国は三国・晋・十六国・南北朝時代に入って戦乱が続き、一時玉器の生産は質・量ともに低下しますが、隋、唐時代に政治が安定すると、再び進歩を遂げました。羊の脂のような温かみと潤いを持ったホータン白玉の持ち味を十分に活かした美しい玉器が盛んに作られたのはこの頃です。この時代の玉器の特徴は、祭祀器としてよりも美術工芸品の素材として、絵画や彫刻と歩調を合わせるように発展していることです。宋の時代は、芸術性がさらに増し、一方、古代(主に周代)の青銅器や玉器を模した工芸品が珍重されるようになりました。古代玉器の模造品、また玉を焼いたり地中に埋めたり、煙でいぶしたりして人工的に古味をつけた倣古(ほうこ)玉が盛んに作られました。元・明・清代には、皇室内廷に玉加工の専門工房が設置され、名工を集めて製作に従事させたので、作品は一段と美術的価値を高め、また加工量も飛躍的に増大しました。ただし、玉質については、やはり唐代以前に優れたものが多かったようです。なお、清代には、ホータンの玉ばかりでなく、ミャンマーの翡翠も大量に輸入されるようになり、玉文化は一層の隆盛を見ました。きわめて優れた技術で加工された工芸品が作られました。

玉器について忘れてならないことは、それらが単なる工芸品ではなく、霊的な価値、あるいは不老不死の信仰を担った存在として中国人の情熱と執着を掻き立てたものだったことです。時代が下るにつれ、神秘的な面は次第に薄れ、造形や加工の美しさが前面に立つことも事実ですが、玉信仰は彼らにとってほとんど本能であり、常に玉を身に帯び、大切にし、家宝として先祖代々相伝えてゆきました。清明の玉気は能く神に通ず、という言葉があります。ホータン玉が、ただ美しいだけの石ではなく、神との交流を媒介する性質をもっていたことを端的に表現しているといえるでしょう。


崑崙山脈を源とする玉は、毎年春先から初夏にかけて、氷河の融水とともに麓に流れ出します。ホータンでは、この季節、河の流れが激しく冷たく、玉の採集どころではないので、流れが穏やかになる秋からがシーズンとなりました。ホータン国では、まず国王があらかたの玉を採取し、その後で、一般の人々が残りを拾ったそうです。品質のいいものは、当然先に国が採集して貿易に回したと思われます。河底から採れる玉は角がとれて磨かれ、綺麗な丸みをおびて、脂を塗ったようにすべすべになっていました。乳白色の羊脂玉が特に珍重されたのはすでに述べた通りです。
ところで、ホータンの北で合流した白玉河と黒玉河は、ホータン河となって砂漠を渡り、タリム河に入って東流するのですが、白黒2河が合流するあたりではすでに勢いを潜め、平坦な砂漠を流れるゆるやかな河になっています。それどころか増水期以外の季節には流れが途中で消えて、ところどころにわずかな水溜りだけが残るような状態になります。河床はたいへん広く、平均すると幅1〜3キロもあり、水はその中を勝手に流れますが、流れのないときには、干上がった土砂に水の流れた跡がうっすら見えるだけだといいます。従って崑崙の玉は、ホータンまではごろごろ転がってきても、砂漠には達せず、また達したとしても、河床が広大な上に河筋が見つけにくいため、玉の採集はきわめて困難になると思われます。ホータン国が玉採集で潤ったのは、崑崙山脈の麓にあって、河の流れがちょうど緩やかになってゆく前の、いわば玉の溜まり場に位置し、また年中水が流れて河筋がはっきりしていたからなのでしょう。

採集の様子については、清朝の軍人、蕭雄(しょうゆう)という人が、19世紀末に、新疆に滞在したとき、こんな歌を作っています。冒頭に紹介した陳氏の「シルクロード旅ノート」からの孫引きです。

玉は羊脂に擬して温かつ腴
崑岡の気脈 本来殊なり
六城の人は擁す 双河の畔
水に入るは 径寸珠を求むるに非ず

径寸珠とは何か。陳氏は、敦煌で献上された径寸珠の故事を引いて来歴不明の(軟玉以外の)値打ちのない玉としていますが、そのまま読めば、小っちゃい玉でしょう。で、やや解説つきで、あっさり読むと、

玉は羊の脂に似て(白くてほちゃほちゃして)暖かくてふっくらしている
崑崙の丘にあるという玉の源は 並大抵の豊かさではない
(そこから玉は河を流れてやって来る)
6つの望楼をもつこの大きな町は 二つ並んだ河の間にあり
人々は水に入って玉を探すが ちっぽけな玉には目もくれないよ

となります。
町とは無論ホータン(和田県城)のことを、人々が入る水は、白玉河または黒玉河を指しています。今でも鶏の卵大のものならいくらでも採れるそうですが、当時はみんな、もっと大きな玉を拾っていたのでしょう。井上靖氏の短編「崑崙の玉」には五代時代の採集の様子が描写されています。(現代の採集の様子は末尾の付記1参照)

土地の人々は、夜、月の光で玉を探したといわれています。陳氏がシルクロードを旅して実際にそんな話を聞いているのですが、唐代の記録にも、月光の下で河の光る部分を探せば、必ず玉を得たという記述があります。ホータン玉が、夜光玉とも呼ばれたのは、その様子を言ったのでしょう。ちなみに中国人がホータン玉とともに愛好した江漢の真珠も、海が月の光に輝く場所に潜って探したといい、真珠のことを明月珠と別称しています。中国人は、神秘的な石には、みんな月の影響を感じていたのでしょうか。石の輝きはどこかルナチックなのかもしれません。

明代になると、採取法は半ば伝説化して、次のように神秘な色合いを帯びています。
「秋の明月の夜、増水のおさまった川辺に立って流れを見ると、水中に月の光の倍も明るく輝く部分がある。女性が素裸になってそこに潜って捜せば、女性の発する陰の気に吸い寄せられるように、山から流されてきた玉塊を採ることが出来る。」
天工開物という本には、「金銀は太陽の精を受けて深い地中に生まれ、玉は月の華を受け、深山の急流を映して生まれる。その場所へは、玉神以外は立ち入ることができない。」とあります。
この言葉によると、金銀は太陽の精、すなわち陽の気に育まれ、玉は月の発する陰の気を受けて出来たものという感じがします。しかし、実は玉もまた陽の気を帯びたものとされており、それゆえ、陰である女性に引き寄せられるのです。ちょっとエッチな鉱物といえましょう。

春秋時代、ガイという男の背中に羽が生えてきて空を飛べるようになったお話があります。そのまま昇天して天帝の宮にゆき、不老不死の薬をもらって帰りました。ところが自分が飲む前に、妻の姮娥(コウガ)が見つけて勝手に飲んでしまい、仙女となって月に行ってしまいました。どうしてそうなるのか不明ですが、以来、姮娥はヒキガエルに化身して、ウサギと一緒に月で仙薬を搗いているそうです(付記3)。月は、このように不老不死の象徴的な存在でもあり、月の精華が地中に降りて玉となったという説は、つくり話としてもそれなりの論理性があるといえるでしょう。玉もまた不老不死の仙薬として知られていたからです。


以上、ホータン玉について、思いつくままに綴ってきましたが、如何だったでしょうか。ホータンの羊脂白玉が、いかに珍重され、求められ、あるいは長い歴史の中で神格化されていったか、いくらかなりと感じとっていただたなら幸いです。

なお、実際の玉採掘は、資本を投下し、人海戦術によって川床を数メートル掘り下げる方法が、少なくとも20世紀の初めには主流となっていたようです。1900年〜1901年にホータンを訪れた探検家オーレル・スタインがその様子を記録しているので、別ページに引用しておきます。(補記3 ホータンの玉採集の記録

また、武帝以前のホータン玉についても、別ページに小文を用意しています。
えっ?ホータン玉は、武帝の時代になって発見されたんでしょう?と思われた方、その通りです。しかし、それ以前にも無かったわけではないかもしれないという…まあ、お時間があったら読んでみてください。
■ 補記2 −武帝以前のホータン玉

(2000.8.13 SPS)
(2003.6.15 revised)

cf. 軟玉の話4(古代中国各文化圏の玉器の特徴など)、
  中国における太陽と鳥の信仰(古代中国の文化圏の推移・良渚文化等の玉器の特徴など)

(付記1)ホータン玉は、現在では、崑崙山中に鉱脈を追って、直接採掘を行っているという。1980年代の報告では、年50トン程度が採集されているそうだ。81年の春、NHKのシルクロード取材に同行した長澤和俊氏は、たまたま白玉河で玉を拾う人に行きあった。彼らはロバを連れて二人で河原を歩き、めぼしい石を見つけると、拾い上げてロバの背の袋に入れて、また歩き出すことを繰り返していた。「玉の採集には長年の経験と鋭い目が必要で、目のいい人は表面に走る玉の脈からすばらしい原石を発見するそうだ」と氏は記している。

(付記2) 白玉という言葉は、「はくぎょく」と読むと、石の軟玉を指すが、「しらたま」と読むと、貝が作る真珠の意味になる。真珠の場合、もともと白珠と書いたのだろうが、いつの頃からか同じ字を当てるようになったらしく、区別が難しい。日本ではヒスイ文化が衰退しはじめる奈良時代以降の歌に、しばしば白玉という言葉が出てきて、おっ!と思うが、よく読むと海に潜ったり貝になりたがったりするので、ああ真珠のことだな、と分かる。日本では軟玉の白玉は大して珍重されなかったみたいだが、真珠の方は周囲を海に囲まれた島国でもあり、かなり大切にされたようだ。このへんの事情は、いくらきれいで珍しいものでも、あまり珍しすぎるとかえって評価の対象にならないことを示しているように思う。海に潜れば手に入った真珠と比べると、ホータンの白玉はあまりに遠い砂漠の産物だったのだ。月の砂漠をはるばると、旅のらくだは金のクラに白玉を入れて運ぶと歌にある(なかったっけ?)。
ちなみに中国では、真珠は貝の陰精とされ、夜光珠とも呼ばれた。白玉も夜光玉と呼ばれることがあるのは上述の通り。夜光杯とは、一般にガラスで出来た透明度の高いグラスのこととされるが、白玉製の杯も夜光杯と呼ばれることがあった。では、真珠を埋めた杯はなんと呼ばれたろうか?
こうしてみると白玉と白珠は何か近しい存在にみられていたのかもしれないと思う。

さらに余談にわたるが、「魏志倭人伝」には、卑弥呼の跡を継いだ女王トヨが、「白珠五千孔、青大勾珠(原文では青大句珠)二枚」を魏に貢献したことが書かれている。この青珠は翡翠であるというのが日本での一般的な説だ。 cf. C18 真珠
ここでなぜ玉でなく珠の字を使っているかだが、図録「翡翠展」(国立科学博物館)によれば、中国では珠は海や川で採れるものを、玉は山に産するものを厳密に意味した。翡翠は山に産するものと思いがちだが、当時の人々が加工した翡翠は川に産した。そこで、魏の朝廷が翡翠の玉を見て驚き、どこで採れたか質問したとき、倭人が「海や川でとれます」と答えたため、青珠(翡翠)にも白珠(真珠)と同じ珠の字があてられたのだろうという。
しかし、当時の中国ではホータンの白玉(青玉)が河流玉であることくらい常識だったろうから、川に採れたからといって必ずしも珠という字を使う理由にはならなかっただろうと思う。

参考:夜光杯の話

付記3)姮娥がヒキガエルに化身した件。この象徴的な意味は、「月と水と蛙」に共通して具わる永劫回帰性にある。月は、月齢に従って、満月から次第に痩せ衰え、死に、再生して再び成長する。それは、太古の人類の原型的な宗教意識に、生と死のリズムを司るものとして受け容れられた。月は海を(水を)支配する。水は、その流動性により、生と死の繰り返しを象徴する。水は古きを(穢れを、罪を)清め、新しい生命を誕生させる。水(雨)によって大地は芽吹き豊穣となる。蛙は、月の中にその姿が見えるといわれてきた。彼は冬、土の中に隠れ、春現われる。水の中に生まれ、陸に上がり、また水に返り、また上がる。従って月や水と同じく、永遠の命を象徴する存在であった。…詳しくは、エリアーデ著「豊穣と再生」参照。ちなみに、真珠や貝も水の象徴であり、やはり、死と再生、永遠の運動を表す。
なお、姮娥(じょうが)は、中国神話の源流のひとつである、女媧(じょか)と同根との説もある。女媧は古伝説上の三皇の一。人首蛇身(雷の化身?)。こわれた天を補修して、天を支える柱を立て、芦の灰を積んで洪水を止め

(付記4)このお話を読んで下さった、緒方康重様から貴重な情報を。

今回中国を旅行し、和田で玉の採集を試みましたが、残念ながら水量が多く、採集ができませんでした。9月中旬を過ぎれば渇水期に入るため、もっと取りやすくなるとのことです。
ちなみに、現地の人たちは水の流れを変え、より河原が露出するようにして採集をしていました。
現在の玉の相場は1kgでそれぞれ次の価格だそうです。
羊脂玉  6000元
白玉   3000元
青玉   1000ー100元
山玉   1000−50元
ゴビ玉    50−2元
ただし、これは原石の値段です。小さなものなら時間をかければ十分拾えそうです。
私自身は時間があまりなかったのですが、砂漠で小さなゴビ玉を拾ってきました。

和田の玉が値が上がり始めたのはここ10年ぐらいだそうで(現地では)、台湾の方が来て値段をつけるようになって値が張り始めたそうです。

とのことです。いいですね〜。私も行きたいぞ。
それから、楊貴妃の肌は「羊脂玉のような」と形容されたとか。官能的ですね(どこが?)
情報、どうもありがとうございました。(2002.9.3)

(付記5)松崎哲様がホータンを訪れて書かれた紀行「ホータンの玉を求めて」に玉文化に関する考察と貴重な現地の画像があります。ぜひご訪問ください。
シルクロード見聞録 シルクロード紀行内   (2005.11.16)

次の画像はこのページより拝借いたしました。ご快諾ありがとうございます。

 

(上)墨玉河  (下)白玉河での玉探し

 

追記1:現時点で中国最古の玉器(磨製石器)は中国内モンゴル自治区の赤峰市敖漢旗(ごうかんき)の興隆窪(こうりゅうわ)遺跡などから出土した約60点で、BC6200-5400年頃の興隆窪文化圏に属するもので。ほかに陶器・石器・骨器なども出ています。採集・漁労・狩猟等で生活したとみられます。
玉器の素材は透閃石でわりと質がよく、実用器と装飾器とがあります。石製の人面像も出ています。中空の身の厚いリングの一か所を開いたクリップ状の「玉玦」(ぎょくけつ)は装飾具とみられ、また細長く靴ベラのように中央が窪み、背面の膨らんだ「玉ヒ」(ぎょくそう)と呼ばれるものがあります。一方の端に小さな貫通孔を設けてあります。ほかに玉管、小型の斧類(刃つき)があります。後の紅山文化の玉器に先駆けるものとみられます。
玉玦は、浙江省余姚市近くの河姆渡遺跡からも同形のものが出ています。BC5000-4500年頃の文化圏です。

日本では縄文前期(BC4000-3000年頃)に滑石や蝋石製の玉玦が富山県に出土しており、縄文中期以降はネフライトやジェーダイトでも作られています。現時点で日本でもっとも古い玉玦はBC5000年頃の神奈川県上浜田遺跡のものです。
上市や朝日町の遺跡では玉玦のほかに「玉ヒ」や、河姆渡遺跡の玉璜(ぎょくこう)という弧状の玉器と同形のもの、またC型(半円弧)のものも出てい
ます
日本の玉器はおそらく興隆窪文化や河姆渡文化などの中国圏の影響を受けて(あるいは伝来して)始まったものでしょう。
なお玉玦や玉璜は古代中国の玉器文化の華である良渚文化圏(BC3500-2200年)にも受け継がれました。

日本のいわゆる「大珠」(たいしゅ)と呼ばれる玉器は、細長い楕円状で中央付近に細孔の開いた形状をしていますが、玉ヒの類から展開したものであるかもしれません。戻る
(2020.12.6)

追記2:新石器時代の中国は各地に先住民文化がありました。今日のところもっとも古い玉器文化として認められているのは、追記1に記した遼河流域の興隆窪文化圏ですが、この文化圏を含めて東北地方(黒竜江、吉林、遼寧)や内モンゴル自治区東南部で玉器が利用されています。その慣習は紅山文化(BC4700-2900年)や龍山文化(BC3000-2000年)に受け継がれました。玉材は透閃石が主ですがホータン玉ではなく、近隣に産するものを利用したと考えられています。紅山文化の玉材は東北岫岩細玉溝の「河磨玉」とされます。いわゆる岫岩玉です。中原から見れば東夷の住む地の玉で、後に「夷玉」とも呼ばれました。古典にc玗h(しゅんうき)」と呼ばれる美玉です。

もう一つの古い玉文化圏は長江下流(太湖周辺)にあり、浙江省の河姆渡文化圏(BC5000-4500年)にすでに素朴な玉器がみられます。馬家浜文化・(すうたく)文化に継がれ、時代ともに技術が向上して良渚文化圏(BC3500-2200年)において新石器時代玉文化の最高潮に達しました。大量の玉器が専門工の手で、回転研磨機など専用加工具を使って制作されたとみられます。玉材はやはり地域に産する透閃石を主に用いたようですが、今のところ発見されている産地は溧陽県小梅嶺(しょうばいれい)村と句容(こうよう)市茅山(ぼうざん)の2ケ所です。古越族の生活地域に特産のため「越玉」と、あるいは古典に「瑤琨(ようこん)」と呼ばれる美玉です。

いわゆる中原とは黄河中下流域の平原地帯で中華文化の伝統的な中心のことですが、黄河の中上流域にも少し遅れて玉器文化が出現します。仰韶文化(BC5000-3000年)の先行文化には今のところ玉器は知られていません。仰韶文化では玉器は器具類の主流でないものの、青玉・白玉・緑玉・墨玉・閃白玉・鴛鴦などさまざまな玉材が使われています。姜寨遺跡に出た青玉や白玉はホータン玉に似るといいます。この地域では玉材の多くは他の地域との交流によって得られたものと考えられています。
そして甘粛省の斉家文化(BC2400-1900年)はホータン玉(質の玉)で制作した玉器が多くあり、新疆から中原への玉の交易ルートが開けていたのではないかといわれます。続く殷周時代(BC17C-1046-771年)の殷墟婦好墓では出土した750点の玉器の大半がホータン玉と鑑定されました。
こうした証跡から、中国考古学界では BC2C頃に始まる、いわゆるシルクロード(絹の交易路)に遥かに先駆けて、西域と中原を結ぶ玉の交易路があった(ヨーロッパまで続いていたかどうかは不明としても)との説があります。
なお中国の四川省からミャンマー北部を通ってインドへと結ぶ西南交易ルートがやはり西域シルクロードより以前から存在したとみられますが、その始まりは不明です。
この地域の玉は古典に
球琳(きゅうりん)」あるいは「琅玕(ろうかん)」と呼ばれ、崑崙山に産するとされました。

ともあれ、春秋戦国期(BC770-221年)にはホータン玉(質の玉)は玉制作の主流となっており、さまざまな色のホータン玉が用いられました。そして前漢代には白玉に人気が集まり、半透明の白玉の優美性がはっきりと認められるようになったと考えられます。それはもちろん大漢帝国が開いた西域シルクロードの交易でホータン玉が定常的にもたらされ、乳白色の羊脂白玉が大量に利用可能になったことが大きいのですが、道教の神仙術が白玉を最上の仙薬とした影響も与っていそうです。 (戻る) (2020.12.13)


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