ロシア帝国の成立とウラル鉱工業の始まり

 

17世紀末から18世紀にかけてのロシアでは、のちに初代皇帝となるピョートル一世(1672-1725)の号令下にウラルやシベリア地方の鉱山開発が進んだ。ウラル山脈の東側には豊かな金属鉱脈が眠っており、デミドフの一族によって数多くの鉱山が開かれた。鉱山の近くに精錬所や鋳造所が建設され、それまで多くのロシア人にとって渺遠漠漠たる化外の地とみなされていたウラル地方はヨーロッパ最大の重工業地域に生まれ変わる。それはまたヨーロッパからみて一地方国にすぎなかったロシアが押しも押されもしない大国に躍り出る原動力となるものでもあった。


ロシア帝国の成立

ピョートル一世は17世紀初に成立したロマノフ朝(1612-1917)の皇統を継いで、1682年にツァーリとなった。弱冠10歳。暫く名目のみの共同統治者の時期が続いたが、その後実権を掌握してからも政治は母に委ね、自身は軍事演習や仲間との馬鹿騒ぎに熱中していたという。しかし1694年に母がなくなったのを機に国政に采配を揮い始め、2年後に共同統治者の兄が死去すると名実ともにロシアの絶対者となった。
その端境期の1695年、冬季にも使える良港を渇望するロシアは、黒海への道を拓くべくアゾフ遠征を試みた。しかし海上封鎖が出来なかったためオスマン帝国に敗北を喫した。一砲兵士官として現場にいたピョートルは海軍創設の必要を痛感し、わずか半年ほどの間にロシア初の艦隊を整える。そして、1696年、再度の遠征によってアゾフ海を手中にしたのだった。とはいえ、その先の黒海に進むことはかなわなかった。

1697年春から98年夏にかけて、ピョートルは 250名(300名とも)からなる使節団をヨーロッパに派遣して最新の軍事・科学技術の吸収に努めた。もともとロシアはヨーロッパとの関係が深く、ドイツ式の操兵や工業技術を取り入れていたが、その頃にはいささか時代遅れの観があったのだ。使節はドイツ、オランダなど諸国を巡ってロンドンまで足を伸ばし、大量の武器や工作機械、製図器具などを買い付けた。また大勢の専門技術者をスカウトして帰国、ロシア国内での技術者育成につとめた。
この使節には彼自身も身分を隠して参加していた。公にはロシアを離れていない体裁をとりつつ、ヨーロッパ諸国首脳と接触して、オスマン帝国に対する軍事同盟の結成を試みたのである。試みは実を結ばなかったが、モスクワへの帰路、ポーランド国王だったアウグスト2世と会談を持ったことにより、彼の眼は一転バルト海へ向かった。

当時バルト海沿岸を含む北方地域はスウェーデンが押さえていた。17世紀のスウェーデンはサーラの銀やファールンの銅、中部森林地帯の鉄など豊かな鉱産を背景に強大国と呼ぶに相応しい威勢を誇ったが(補記3、cf.ひま話 ファールンの大銅山、ピョートルはポーランド王、デンマーク・ノルウェー王らと反スウェーデン同盟を結び、1700年、後に大北方戦争と呼ばれる20余年に亘る戦いに国運を投じた。
若き兵隊王カール12世の率いるスウェーデン軍は手強く、同盟国側はあっという間にそれぞれ苦杯を仰ぐ。9月にスウェーデン領イングリア(ロマノフ朝が始まった頃はロシア領だった)へ兵を進めて港湾都市ナルヴァを包囲していたロシア軍は、11月末カール12世の急襲によって壊滅的な打撃を受け、使節団が買い付けたイギリス製の銃砲(大砲145門)をすべて失った。
だがこれを期にピョートルは兵器の国産化を推し進めて再軍備を急ぐ。そして 1704年には再びネルヴァに侵攻、この難攻の要塞を落としている。徴兵制が敷かれ、ロシアの兵力は1705年には20万人に達した。
とはいえ戦況は総じてスウェーデン優位のうちに運んだ。同盟国は次々と脱落してゆき、ついにモスクワへ進軍するスウェーデンとロシアとの一騎打ちの局面を迎える。ピョートルは焦土作戦で対抗した。内陸へ向かうスウェーデン軍は兵站の確保に苦しみ次第に兵数を減らしていった。そして1709年7月、ロシア軍はウクライナの城塞都市ポルダヴァにこれを迎え、散々に打ち破ったのだった。カール12世はオスマン帝国領へ逃れたものの、この戦いによって大勢は決した。

カール12世はオスマン帝国との挟撃作戦によるロシア攻略を企図したが実現せず、数年のうちにドイツとバルト地方の領土をすべて失った。バルトを押さえたロシアは 1714年にフィンランドを支配下におく。カール12世はスウェーデンに帰国してなおも果敢に戦い続けたが、 1718年の暮れ、銃弾に倒れた。長きに亘った戦争は 1721年9月、ロシアとスウェーデンの間で締結されたニスタット条約によって終結した。
この戦争でスウェーデンは17世紀に獲得した領土をほとんど失い、国力を大きくそがれた。一方のロシアは北・東ヨーロッパにおける最強国となった。ピョートルは皇帝の称号を受けて、ここにロシア帝国(1721-1917)が成立した。1925年にピョートルが死去すると帝国は政治的に不安定な時期を迎えるが、近代化政策はやがて帝位につくエカチェリーナ2世(1762-1796在位)に引き継がれた。


ウラルの鉱工業

18世紀初のロシアの台頭は、ピョートル1世の強いリーダーシップと軍事力の迅速な整備によるものだった。これを物質的に支えたのは国内製鉄産業と兵器製造業の充実であり、さらにそのためのウラル鉱産資源の開発であった。
ちょうど明治維新の後、日本政府が富国強兵・殖産興業を掲げて、近代的な製鉄業の育成と鉱山開発に注力したのと相同の政策だったといえる。(cf. 日本における鉱山(地下)世界のイメージ(1))

ウラル山脈を越えてシベリアへ向かうロシア人の動きは、14世紀頃からまずは毛皮を求める民間の商人たちによって始まったが、それが国家プロジェクトとなったのは16世紀半ばのことである(cf.ひま話 ラクスマンと光太夫2)。ウラル山脈西側のカザン・ハン国がロシアに併合され、その後ストロガノフ家(補記1)が送ったコサックの英雄イェルマーク(タタール語で「仲間みんなのため」の意)は東側のシビル・ハン国を抜くシベリアへの交通路を開く。同世紀末にはこの国もまた滅ぼされてロシアの地となった。
浸食の進んだウラル山脈はごろごろした石の転がる山地が帯のように長く続き、至るところに鉱脈が露出していた。銅や鉄、スズ、鉛などが採れて、ロマノフ朝初代ツアーリのミハイル・ロマノフ(1596-1645)や息子のアレクセイ(1629-1976)(2代ツアーリ)が勢力を蓄える財源となった。とはいえ国の需要をまかなうほどの産量はまだなく、モスクワ公国ではこれらの金属を輸入に頼っていた(銅や鉄はスウェーデン、スズはイギリスやデンマークから等。ただし貿易輸送のほとんどをオランダ業者が握っていた)。
銅についていえば、1630年代にウラル西側のソリカムスクに鉱脈が見つかり、1658年にはエニセイ地方でも鉱床が見つかった。1653年にはカザンに製銅所が作られたが、鉱脈は60年代に尽きた。70年代には銅鉱はノブゴロドの近辺やオネガ湖近く、また白海のマゼンスカヤ湾あたりで採掘された。当時のウラルの製銅施設は旧式で、生産性は低かったといわれている。製鉄所もあったが、製鉄業(とくに兵器製造)の中心はモスクワに近いトゥーラにあった。

ウラル山脈以東(シベリア)の鉱産資源開発が本格化するのは、ピョートル1世(アレクセイの6男)が使節団と共にヨーロッパから帰国した前後のことである。以前から彼はロシア領土内の資源調査を命じており、豊富な森林資源と河川があって製錬に必要な燃料と大量の水を現地調達出来るウラル東部地方を計画に含めていた。そして 1696年にはいくつかの鉄鉱脈が候補に上がり、翌年からネヴァ川流域のネヴャンスキーに製鉄所の建設が始まったのだった。ピョートルは建設監督兼施設管理者としてトゥーラの優秀な兵器製造業者を送り込んだ。ニキータ・デミドフ(1656-1727)という。そもそも兵器を国産化するための計画だったからである。

ピョートルとニキータとの出会いは 90年代半ば、ピョートルがトゥーラの鋳造工場を視察して回ったときに、卓抜したニキータの鋳造技術に目をつけたのが始まりだった。ピョートルはイギリス製の銃をニキータに渡して同じものを作らせ、その出来栄えに大いに満足した。そして以後大量の注文を回すようになったという。ニキータはヨーロッパの冶金学に通じ、ピョートルの庇護の下、 1696年までにトゥーラに水力稼働の鋳鉄製錬工場を建設した。
その翌年にはウラルの製鉄拠点整備に駆り出されたわけだが、彼の工場で作った兵器は全数買い上げられる約束で、また完成した製鉄所は2年ほど官営で操業された後、彼に下げ渡された(1702年)。こうしてニキータは製鉄から武器製造までの工程を一貫する工場群をウラルに持つこととなり(この時デミドフの名も与えられた)、ピョートルの大北方戦争を支える一翼を担ったのだった。

戦争が始まるとすぐにマスケット銃2万丁の注文が舞い込んだし、年間3000プードの鉄を貢納する以外には税を免除されたため、デミドフは大いに財を蓄えることができた。ピョートルの庇護した業者はもちろん彼に限らなかったが、なにしろデミドフの兵器(主に銃砲や砲弾)は競合他社と比べて納期が半分、価格も半値なのだった。輸入砲弾は1プード(16.4kg)あたり 80コペイカしていたが、デミドフは13コペイカで提供したという。
戦争に勝った年(1721年)、ニキータは功績を認められて貴族に列せられた。渡り鍛冶を父に持つ彼は鍛冶屋として出発し、時代の波に乗って製鉄家となり、高い地位と財を得たのである。子孫はロシアに冠たる事業家として門閥をなす。

デミドフ家は、実際、ウラル・シベリア地方開発の立役者といってよかった。ニキータはネヴャンスキーを皮切りに 1705年にはクングルスキーにも工場を持った。1716年から1725年にかけて、ニジニタギルなどウラルの4拠点に製鉄都市を開いた。コークスを燃料とする高炉が建設されたが、これは世界で2番目のものだったという。
18世紀初のロシアは鉄の輸入国だった。ところが 1716年には早くも国内需要を満たして純輸出国となっていた。1725年の時点でウラルには 76 の製錬所が稼働し、その生産量の6割がデミドフ家の掌握下にあった(補記2)。1730年代にはロシアの鉄産は英国を抜き、18世紀の間世界一の座を維持した。18世紀末の銑鉄生産高は80万ブードという(この頃にはロシア製鉄の技術的な立ち遅れが明らかになっていたし、生産の中心はウクライナに移っていたが)。品質はスウェーデン鉄に及ばなかったものの、ヨーロッパ各国に受け入れられた。英国の産業革命はロシアの鉄があってはじめて為し得たと言われている。鉄製品の3割がロシア鉄によって賄われていたのである(あとは英国産)。ついでにいうと、アメリカの自由の女神の内部構造材はフランスが輸入したロシア鉄だったそうだ(※1984-86年の修復工事でステンレス鋼に交換された)

デミドフ家は鉱山の開発にも直接携わり、18世紀半ばにはウラル山脈からアルタイ山脈に至る広い地域で鉄や銅の鉱山と製錬施設を経営するようになっていた。ニキータの息子アキーフィ(1678-1745)が拓いたアルタイ山脈の拠点バルナウルからは 1747年に銀が出て、ほどなく金も発見された。19世紀初に至るまで、ロシアの銀の9割はアルタイ地方(やザバイカル地方)で掘られ、バルナウルにはロシア最大の銀の製錬工場があった。ちなみにここはラクスマンが 1764年に司祭として赴任し、豊かな自然に魅かれて熱心に博物標本を収集した地であり、今日ではロシア唯一のダイヤモンド研磨産業拠点となっているそうだ。

銅産も18世紀半ばに軌道に乗って、1760年代には国内の需要を満たすようになった。同世紀末には輸出も行われた。ウラルの鉄や銅は網のようにめぐる川や運河を伝ってバルト海まで運ばれ、ヨーロッパへ輸出された。輸出量は英国に次いだ。とはいえその頃の英国はコーンウォールなどで盛んに銅が掘られ、年産8000トンを記録していた。他の欧州諸国の産量を合わせた倍以上の量で、ぶっちぎりだった。

このように18世紀はロシアに重工業が興り、大いに国力を高めた時代だったが、その端緒はピョートル大帝の富国強兵策にあり、ウラル鉱産資源の開発と鉱工業の発展は紛れもなく軍事的要請に拠るものであった。

そんな時代情勢を背景に、アレクセイ・トルチャニノフ(1704?-1787) の一族は 1760年代からウラル山脈の東側、エカテリンブルクにほど近いグミョーシキに鉱山を経営して、銅鉱石(や鉄鉱石)を採掘し製錬していた。この鉱山にはきわめて質のよい孔雀石が出た。18世紀半ばには孔雀石はまだ単に銅の鉱石と考えられており、博物標本としてはともあれ、装飾材としての価値は一般に認められていなかった。しかし19世紀初までに、このグミョーシキ産の石を用いた細工物の壮麗な美しさによって、孔雀石は宝飾的価値をそなえた石としてゆるぎない声望を獲得するに至るのである。


補記1:ウラル地方は昔から豊かな鉱産資源の存在で知られるが、山脈の西側斜面は石油や天然ガス、鉱物塩類などの非金属資源が多く、対して東側の斜面では金属資源が豊富であった。特に鉄、銅、クロム、バナジウム、金、白金などの鉱石に恵まれていた。そのため西側には化学工業が、西側には冶金工業が興った。
ウラルには1,000種以上の鉱物が産し、12,000以上の鉱脈が発見されてきた、とロシア人は述べている。産業資源となる主要55元素のうち48種までが出るともいう。
また東側斜面(スベルドロフスク、チェリャビンスク地域)には金属鉱石のほか各種の宝石や貴石が出た。フランス出身の宮廷宝飾家カール・ファベルジュ(1846-1920) は、作品に使うほとんどの宝石(エメラルド、ルビー、トパーズ、アレキサンドライト、ジャスパー、孔雀石その他)を調達出来たため、中央ウラルにラピダリー工場を持っていた。
エカテリーナ治世下の18世紀後半には、ロシア国内に産するさまざまな石材(ウラルでは大理石、めのう、ジャスパー、カーネリアン、アメシスト、オパール等々)を用いた装飾細工への取り組みが始まっており、シベリアのラピスラズリや後の孔雀石細工はその流れを汲むものとみなすことが出来る。
18世紀初にはミアス川(エカテリンブルクあたりを東西に流れる)の流域で砂金が見つかって小さなブームがあったし、19世紀前半には外国資本も参加したゴールドラッシュが起こった。これらの鉱物資源によって、ウラル地方は伝統的にロシアの「宝物蔵」とみなされてきた。ちなみにバジョーフの「黄金のダイコ」は、ピョートル大帝の時代にベリョーゾフスキー(エカテリンブルクの北方)で粒金を含む鉱脈が発見された時のエピソードを扱っている。

ウラル開拓に先鞭をつけたストロガノフ家は1515年以来の製塩・塩売商だったが、17世紀にはソリカムスクの岩塩鉱山に大きな投資をして、この地方の開発に寄与した。また18世紀には製鉄所や銅の製錬所を経営してウラル鉱工業発展の一翼を担った。ちなみにストロガノフ家は上述の大北方戦争では多額の資金援助をピョートル大帝に行っており、 1722年に貴族に列せられた。以降子孫は国政上の重要な地位を与えられるようになる。

補記2:この数字は一応参考まで。別の資料は 1701年から1725年の間にウラルに開かれた冶金施設は(重立ったところで)23、内訳は製鉄所13、製銅所10、と述べている。1750年頃のロシアの鉄産は53,000トン、うち7割がウラルで生産された。銅については18世紀を通じてロシア銅のほぼ全量がウラル産だったという。

補記3:スウェーデンが最盛期を迎えた17世紀中頃は、ちょうど鉄や銅の輸出が盛んだった時期である。1660年頃には全輸出額の80%が鉄と銅の売り上げで占められていた。その7、8割は鉄山のあるダンネモラに近いストックホルム港を経由し、オランダ商船によってヨーロッパ各地(ロシアを含む)へ運ばれた。17世紀初にスウェーデンが輸出していた鉄は低品質の銑鉄だったが、その後技術改良が進み、 1640年代には高品質の棒鉄(錬鉄・鋼)が主要製品になり、また銃や弾丸などの加工品も輸出された。銅の輸出も急増した。扱い量は鉄の1割以下だったが、産銅の乏しいヨーロッパで高く売れて金額では鉄に匹敵した。スウェーデンの銅はオランダ商船と結んで独占市場を形成していた。鉄や銅に依ってスウェーデンの輸出額は世紀初の10倍以上に膨らみ、経済は大いに潤ったのである。
ファールンの銅山は年産3,000トンを記録していた。(その後乱採掘がもとで大崩落が起こり、衰退に向かう。1710年には年産1,000トン)


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