ひま話 世界遺産とファールンの大銅山  (2013.6.15)


先月、たまたま一日中富士山を見て過ごす機会があった。じっくり眺めるのはたぶん7、8年ぶりのことで、やっぱりいいよなあと思った。こんな風景を毎日目の当たりにしている地元の人は恵まれている、と思ったりもした。だいたい僕は低いながらも山−丘というべきかもしれないが、地名には山がついていた−が見える土地で育ったので、視線を上げたときに山があると、あるいは山の近くにいると思うと、なんとなく体のどこかが安心して緩むのである。
富士山はちょうど今、世界遺産への登録が本決まりになりそうで、ひとしきりマスコミに取り上げられている。私的なシーンでも、海外からのメールに脈絡もなく富士山の絵が添付されて届いたりする。こちらもお返しに北斎の赤富士を送ったりして…。

今更ながら興味が湧いたので、世界遺産の数をぐぐってみたら、これはまた随分と沢山あるものだ。 2012年度の世界遺産委員会が終了した時点で登録件数は 962件にのぼる。 1978年の登録開始以来、年30件弱のペースで増えてきた計算になる。
文化遺産745件、自然遺産188件、複合遺産29件。その約半数はヨーロッパに偏在しており、イタリア(47)、スペイン(42)、フランス(38)、ドイツ(37)など、40件前後の登録は当たり前といった観がある。さすが伝統の西ヨーロッパ諸国というべきか。
日本には文化遺産が 12件、自然遺産が 4件ある。条約を締結した 189ケ国の中でも多い方である(件数順位をつければ 14位)。
登録リストを眺めていると、鉱山や鉱工業に関連した遺産(鉱山町など)がぼちぼち見受けられる。炭鉱町や岩塩坑、製錬・製塩施設も対象に含めて、気づいたものを拾ってみたのが次の表だ。

世界遺産 町の成り立ちなど
石見銀山遺跡とその文化的景観 日本 16世紀以降栄えた銀山町 
アルケスナンの王立製塩所 フランス 18世紀に採掘の始まった岩塩鉱山のある町
ラス・メドゥラス スペイン 帝政ローマ時代に遡る金鉱山から発展した町
ブレナヴォンの産業景観 イギリス 18世紀後半に製鉄と炭鉱で発展した町
コーンウォールと西デボンの鉱山景観 イギリス ローマ時代に遡る、スズ、砒素、銅などを掘った古い鉱山群のある地方
cf. 錫の話(コーンウォールのスズ)
エンゲルスベルク(エンゲルスバーリ)の製鉄所 スウェーデン スウェーデンは高品位鉄鉱石の名だたる産地で、製鉄業が発展した。その町のひとつ。
ファールンの大銅山の採鉱地域 スウェーデン スウェーデン中部の一大銅山町。
ローロス(レーロース)の鉱山都市と周辺環境 ノルウェー 1644年以来、300年以上、銅鉱を採掘した鉱山町
ランメルスベルグ旧鉱山と古都ゴスラー ドイツ 銀、銅、鉛などを掘ったハルツ山地の大鉱山町。1000年の歴史を持つ。
フェルクリンゲン製鉄所 ドイツ 一大製鉄都市。隣接するロトリンゲンの鉄鉱石を使ってトーマス法の製鋼が行われた
エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群 ドイツ エッセン郊外の石炭層から石炭を掘り、コークスを製造した炭鉱の町
ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観 ドイツ ハルシュタット(塩の町の意)は岩塩採掘で発展した町
ヴィエリチカ塩坑 ポーランド ヴィエリチカは 13世紀以来の岩塩採掘の町
クトナ・ホラ 聖バーバラ教会とセドリックの聖母マリア聖堂を含む歴史地区 チェコ 13〜16世紀に栄えた銀山で発展した鉱山町
バンスカー・シュティアヴニッツア(シュチャヴニツァ)の歴史都市 スロバキア 銅や銀の採掘・精錬で発展した12世紀来の古い鉱山町。バンスカーは鉱山の意。18世紀にヨーロッパ初の鉱山学校が創られた。
古都グアナファトと近隣の鉱山群 メキシコ 16世紀、バレンシア銀山の開発とともに発展した町
サカテカスの歴史地区 メキシコ 16世紀に銀鉱脈が発見され、スペイン治下の鉱山町として発展した
ポトシ市街 ボリビア ポトシの銀山(セロ・リコ−宝の山/富の山)、サカテカス、グアナファトは中南米の三大銀山として知られた
オウロ・プレートの歴史都市 ボリビア 17世紀末に金が発見され、以降山間で採れた金の集積地を礎に発展した町
ディアマンティナの歴史地区 ブラジル 1720年代にダイヤモンドの鉱脈が発見されて栄えたダイヤ採掘の町
ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場 チリ アタカマ砂漠で採れるチリ硝石を資本に発展した硝石工場の町。ゴーストタウンとなっていた。cf. No.862 チリ硝石
セウェル(シーウェル/スウェル)の鉱山都市 チリ 20世紀の大銅山町。ここも今は定住者がいない。

多分、ほかにもあるだろう。この中で行ったことがあるのはランメルスベルグぐらい。
以下、ファールンの大銅山について書きたい。


★ファールンの鉱山の歴史

ファールン(Falun:ファルン、発音はファーレンに近い)はスウェーデン中部、ダーラナ地方の都市である。スウェーデン王国が世界に誇った大銅山の町として知られてきた。千年近い歴史を刻んだ鉱山は 1992年に閉山されたが、鉱山と旧市街、周辺の森林地帯(製錬用の燃料や森林資源に供された)を含む一帯が「ファールンの大銅山地域」として 2001年に世界遺産に登録された。

市の中心を流れるファールアン川が市域を2分している。川の西側は鉱山地区で、「大銅山」のすり鉢状の巨大な坑跡が現在も口を開けている。かつては鉱坑の底から立ち上る硫黄や炉から吐き出される排ガスが空を覆い地を這い、数世紀にわたって鉱山地区の景観を支配していた。空気は舌にふれると酸っぱく刺すような感じがした。有毒性のガスと土壌汚染のため植生は育たず、鳥一羽飛ばない不毛な土地が広がっていた。
一方、煤煙が届かない川の東側には美しい村落地域が広がっていた。空気は新鮮で、みずみずしい樅や樺の木立がそびえ、その先にきらめく湖があり、さらに遠くシェーテルの青い山並みが望まれた。
鉱山の最盛期は 17世紀で、旧市街には 17世紀後半から19世紀にかけて建てられた製錬工場や管理事務所、採掘坑や巻き上げ機などの鉱山施設が保存されている。観光の目玉のひとつとなっている大聖堂も 17世紀に建設されたものだ。

「大銅山」(Stora Kopparberget:ストラ・コッパーベリエット)がいつ頃開かれたのか、確かなことはわからない。考古学的調査による年代測定では、紀元1000年前後に採鉱が始まっていたようである。早くて 850年頃、遅くとも 1080年頃には鉱山作業の証跡があるという。おそらく 9〜10世紀に鉱脈が発見されたのだろう。
伝説によると、フィン人のコーレという山羊飼いがいた。ファールンの周りの森で山羊たちに草を食ませていた。ある日、雄ヤギの1匹が森の中へさまよってゆき、群に戻ってきたときその角が赤銅色に染まっていた。そこでコーレが地面を掘ってみると鉱脈が見つかった、という。
ラーゲルレーブ作「ニルスのふしぎな旅」(1906)にも紹介されているお話だが、赤銅色というのが果たして自然銅の色だったのか、ほかの鉱物質の色だったのか、いささか気になるところである。というのは、後述するが、ファールンの鉱山ではヘマタイト(赤鉄鉱)を細かく砕いてバインダーと混ぜたレンガ色の顔料「ファールー・レッド」が特産品のひとつとなっていたからだ。私としてはこの話はファールー・レッドからの着想と思われ、単なる付会か、あるいは16世紀以降の実際の鉄鉱脈発見譚がより古い時代に投影されたものではないかと思う。

10-11世紀頃の鉱山作業は比較的小規模なもので、近在の農夫たちが地表に露出した銅鉱や沼鉄鉱を採集して製錬し、生活道具を作る程度であったと考えられている。やがて銅の鉱脈を追って坑道が掘られ、採掘事業が本格化していった。
13世紀末、マグヌス3世治下の頃にはある種の運営組織が存在しており、1288年にヴァステロスの司教が、領地を対価として鉱山所有権の8分の1を取得した記録が残っているという。鉱山経営はスウェーデンの貴族たちやリューベックから来た外国商人たちによって行われた。ドイツ商人は銅をヨーロッパ中に運んで売り捌く一方、ハルツで(ランメルスベルク鉱山などで)行われていた採掘・排水技術の移植に寄与したとみられる。

14世紀中頃には銅産から上がる利益は国王の食指をそそるに十分なレベルに達していた。マグヌス4世は 1347年にファールンを訪れ、鉱山組織ストラ・エンソと、鉱山の保護と上納金に関する取り決めを交わした。ちょうどコーンウォールのスズ憲章(Stannary Charter :1201年)と同様の憲章が定められたのである。以降ファールンの銅産は数世紀にわたって国庫の重要な財源となった。
ストラ・エンソは出資者たちが高額な製錬炉や機械類、建築物を共同所有し、貢献度に応じて利益を配分する形態の組織で、「自由鉱夫」が個人事業主として参画することもできた。個人資本を結合させて単一資本として経営する手法であり、今日のジョイントストックカンパニーの先駆けといわれている。(ストラ・エンソ社は現代に続いており、もっとも古い会社組織とみなされている)

銅鉱石の採掘はいわゆる火掘法で行われた。その日の採掘作業が終わると、切羽の前で火を盛大に燃やし、夜通し岩を熱して、翌朝火を取り除く。そして岩を急冷し、もろくなったり、ヒビが入った箇所にハンマーでクサビを打ち込み、鉱石をかきとる。この方法によって鉱脈を1ケ月あたり約1m 掘り進めることが出来た。
坑内の熱も煙も水蒸気も、また焼かれた鉱石から発生する有毒ガスもたいへんなもので、劣悪な環境下での切羽作業は熟練を要した。当然ながらもっとも腕のよい鉱夫たちがあたり、もっとも高い賃金によって報われた。
鉱石は、「デレメタリカ」の挿絵に見るような二輪手押し車に載せられ、ひとつのチームがおよそ20mの距離を運んで次のチームに引き継ぐリレー式により、坑外まで長距離を運搬された。この作業はたいてい新米の鉱夫が引き受けた。
すり鉢状の鉱山の底から地上に引き揚げられた鉱石は、無蓋炉でか焼して硫黄分を飛ばした。もうもうと立ち上る青緑色のガスの奥で、炉中の炎が赤や黄、緑色の舌をくねらせた。煤にまみれた半裸身の男たちが赤熱した大きな火の塊をひっくり返した。あたりに火の粉が飛び散った。それから鉱石は製錬にかけられる。か焼と製錬のプロセスは何度も繰り返されて粗銅が取り出される。これがファルンでの最終製品であった。粗銅の精錬は別の場所で、別の業者たちの手で行われた。
作業の段取りは17世紀には完成の域に達し、19世紀末までほとんど変わらなかった。

こうしてファルンの大銅山は17世紀にピークを迎え、ヨーロッパの銅需要の3分の2をまかなった。当時、これに匹敵する産銅国は日本のみで、スウェーデンはヨーロッパの鉱業界にひときわ高く君臨した(ちなみに当時のスウェーデンはサーラに大銀山も有していた)。ヨーロッパ中の宮殿や城、貴族の館邸の屋根を葺いた銅板はたいていファールンの銅を使っていた。
大銅山からの税収はスウェーデンの国力(政治力)を高め、王国の最盛期を演出した。「王国の運命は大銅山と共にある」とまで言われた。ファールンはストックホルムに次ぐ大都市となり、住宅地域には広壮な邸宅(マナー・ハウス)が建築され、鉱山の富を顕示した。
大銅山はいまや至るところに露天坑が開き、無数の縦坑が掘られていた。地下では水平坑道が縦横に交差していた。採掘作業はほぼ毎日続けられた。鉱山に槌音がやむのは年に2日、クリスマスと夏至の宵祭り(聖ヨハネの日)のときだけだった。1650年に産銅量は3000トンを超えた。

産量はほぼ10年の間維持され、それから下降線をたどった。1665年には 2000トンを割った。鉱夫たちは産量を上げようと一層奮励努力して山を掘り進めたが、いささか無計画で性急に過ぎ、安全を軽視したきらいがあった。
鉱山作業はもともと危険なものであったが、落盤事故が日常的になりつつあった。鉱山全体の坑道地図を作ろうとする動きもあったが、いかんせん、鉱区全域を束ねる組織が存在しなかった。また鉱柱の必要数や岩盤の強度を適切に評価する仕組みもなかった。
1687年の初夏には岩がガラガラ崩れ転がる不気味な唸りが地底から定期的に響いてきた。山は明らかに危険な状況を迎えていた。
そして 6月25日午後4時、銅山は咆哮をあげ、大崩壊が起こった。主要な3つの露天坑を隔てていた岩壁が崩れ去り、その地下で網目のように広がっていた坑道も大部分が崩落した。咆哮がおさまった後には直径400メートル、深さ100mを越す巨大な大穴がひとつ開いていた。
奇跡的に死傷者は出なかった。ちょうど聖ヨハネの日で、鉱夫たちは地上のお祭り騒ぎに興じ、誰も鉱山に降りていなかったのである。
ファールンの黄金時代は終わった。このときに出来た「大きな傷跡」は今日まで残っている。

その後、懸命の復旧作業が行われ、いくつかの地下坑道が再び開かれ、事業も再開された。だが銅産は回復しなかった。
1690年、国王の命を受けた冶金学者エリク・オデリウスはヨーロッパの金属市場を調査して報告書を書いた。彼は「スウェーデンの産銅はつねに母のごとき存在であった。ヨーロッパ内外に銅鉱山は数あるが、スウェーデンの無尽蔵の銅に匹敵するものはない」と述べた。しかし事実は、スウェーデンの銅産業はすでに衰退期を迎えていたのだった。
銅産は1710年代には 1000トンまで落ち込み、18世紀を通じて減り続けた。鉱山は経営の多角化に活路を探ることになった。銅だけでなく、鉄やスズが生産された。前述の赤色顔料ファールー・レッドは 16世紀後半に生産が始まり、17世紀には広くヨーロッパ中に知られていたが、この時代には主要生産品のひとつとなった。これは防腐効果のある顔料で、木造建築の塗装に用いると耐久性とレンガのような外観を与えることから、ひとつの流行となった。最盛期を過ぎたとは言え、大銅山はいまだ残光に輝いていた。
19世紀には鉄産とファルー・レッドの比重がさらに高まった。1881年に金鉱が発見されたが、ゴールドラッシュは短期間で終わった。金の産量は5トンほどであった。
鉱山は20世紀に入っても操業を続け、鉱石から銀などの貴金属が抽出されたが、ファールンの経済的な価値はすっかり衰えた。1992年12月8日、製錬炉に最後の鉱石が装入されたのを収めの儀式にして、鉱山は閉山を迎えた。
現在は、保存された地下坑道のツアーや鉱山博物館の展示によって往時の活動を、また旧市街の街並みによって最盛期の威勢をしのぶことが出来る。


★大銅山の様子と不思議な出来事

鉱山なんというものは、国家とか大口資本家とか、数字が、つまりそこから上がる収益だけが関心事となる立場から見れば、濡れ手に粟を掴むような、桁外れの金がなる木に他ならない。ところが、そこで働く者の苦労とか危険とかいうことになると、それも近代以前の鉱山の作業が問題になると、まったく別の様相が目に入ってこざるをえない、であろう。
鉱夫たちは貴重な宝を発見し、それを地上世界にもたらす者である。しかしロマンチックな表現をしたところで、彼らの人となり、あり方について何か本質的なことを理解出来たことにはなるまい。そもそも鉱夫ならぬ我々に理解できることなのかどうかも、私にはよく分からない。我々はたぶん、鉱山の外部にある一般人が抱くような、鉱山への、鉱石への、鉱夫へのイメージを持てるだけなのではないかと思う。
しかし、今私がここに書いておきたいのは、まさに一般人の目に、ファールンの鉱山とそこで働く人たちの姿がどんなふうに映っただろうかということである。

スウェーデンの博物学者にして、植物分類学の泰斗カール・リンネは、1733年の冬、親友のクラース・ソールベリに誘われてファールンを訪れた。クリスマス休暇をクラースの家族とともに過ごしたのである。クラースの父は鉱山監督官で、このときリンネを案内してファールンの大銅山やサーラの銀山を見せてまわった。リンネは鉱夫の過酷な労働を目にして慄然とした。
煤煙と暗闇が四方から鉱夫を囲い込むさま。いたるところで出会う、岩石、砕石、腐食性の酸、滴り落ちる雫、煙やヒューム、埃の凄まじさに圧倒された。弾丸のように梯子を上ってゆく鉱夫たちは、まるで風呂から水があふれるように全身から汗を振り撒いていた。リンネはつぶやく。「ファールンの鉱山はスウェーデンの大いなる驚異のひとつだ。しかし地獄そのものの恐ろしさだ」と。(補記3)

デンマークの詩人アンデルセンはスウェーデンを何度か訪れたことがあり、1849年の旅の見聞を「スウェーデン紀行」という作品にまとめている。このとき立ち寄ったファールンの町は、彼の目には濃い煙霧の中に閉ざされたイギリスの工業都市のように見えた。ただその煙霧が緑色にくすんでいるところが違った。
道の両側には、溶岩が燃え尽きて固まった感じの鉱滓が散らばっており、あたりは強烈な硫黄の臭いが充満していた。街路は死の静寂に包まれているように感じられた。家々は鉱山の煙のために独特の色に染まり、黄土に染まった水がその間を縫って小川のように流れていた。かつてスウェーデンにペストが流行したとき、金持ちや権力者たちはこのファールンに避難した、と彼は指摘している。疫病に汚染されるおそれがないのは、スウェーデンで唯一、この町の硫黄が充満した空気だけだったというのだ。(補記9)

採掘坑から濃い硫黄の煙が休むまもなく吐き出されていた。煙にまみれた建物の間には、まるで作りかけのまま放棄された構築物のように、土や石があちこちに積み上げられており、足場や、途中までしかない橋があった。異様な光景だった。巨大な車輪が回転して、長いロープや鉄の鎖を絶え間なく送り出していた。
1687年に起こった大崩落の跡である「大きな傷跡」と呼ばれる割れ目の前に立つと、はるか眼下、割れ目の底の方に、木造小屋や水車がいくつか見えた。鉱山服を着た男たちが、樅の木の端に火をつけた松明を持って黒い穴に入っていった。
目もくらむ深い穴から上ってくる坑夫たちが見えた。彼らは木靴を履き、鎖で吊るした樽の縁に立ったまま、2人1組になって引き上げられてきたのだ。樽の上で飛び跳ねたり、樽をゆすったり、歌ったりしてはしゃいでいた。少しも恐ろしいことはないかのように。その下では炸裂音や爆発音が轟き、あたりが鳴動し、岩が音を立てて崩れ落ちていく。
鉄の階段状のものを2つ向き合わせた昇降装置があった。それは交互に上がり下がりする仕掛けになっており、上に上りたいときは、空中を上昇していく階段を次々に乗り継げばよく、下に向かう階段を辿れば坑道の底に達する。鉱夫たちは至極簡単なことだというが、手すりのない階段を一歩踏み外せば奈落の底に落ちるほかないことがアンデルセンには見える。なにしろもっとも深い坑道は 360m(?)も下にあるのだ。
彼は硫酸塩を回収する「温室」を見学した。沸騰した水の中に差し込んだ長い棒の表面に、黄緑色の棒砂糖のような硫酸塩が析出している。空気は緑青が吹いたスプーンを口にくわえたときの味がした。煤煙の希薄な大空の下に出てくると、生き返った気持ちになった…。

一般人の目にファールンの大銅山は、おそろしい環境の中で激しい労働が行われる場所、いわば死と隣り合わせの職場と映った。危険な作業の報酬として莫大な富が手に入るのではあるが、実際に自分が働く身になるとすれば、とてもやっていけるわけもないと感じられるのであった。一言でいえば、そこは外の社会とは別世界であった。

そんな鉱山の中で、ときに我々の眼に神秘的に見える、死と生にまつわる出来事が起こった。
「金持ちオランダ人」と呼ばれる大きな鉱坑があった。かの大崩落以前に掘られた、豊かな銅鉱脈が埋もれる古い穴で、アンデルセンが訪れた当時は、手をつけられないまま、その上に大きな建物が建てられていた。
この穴の奥で 1719年に若者の遺体が発見されたことがあった。少しも傷んでおらず、まるで今しがた転落したばかりに見えるのに、誰もその顔に見覚えがなかった。そこへ一人の老婆が現れ、遺体に近寄ると大声で泣き出した。その男は、「太っちょマット」と呼ばれたマティアス・イスラエルソン、彼女の花婿だったのである。マットは1670年に失踪したまま、ずっと消息が知れなかった。若々しい遺体の側に泣き伏した老いた許嫁。しわだらけになったその姿が、待つことに過ぎた年月の長さを問わず語っていた。(補記4参照)

これより100年前、1635年にもほかの坑道である男の死体が発見されたことがあった。まるで眠っているかのようで、生気すら感じられたが、その衣服は古めかしく、持っていた銅貨は200年も昔のものだった。
鉱物質に富んだ鉱山の水と空気に防腐作用があったのだ、と科学的には説明が出来るだろう。だが我々は不思議の念を覚えずにいられないのである。

不思議といえば、かの大崩落が聖ヨハネの祭りの日に起こったことも、奇妙なことである。
洗礼者聖ヨハネの日は、キリスト教以前には夏至を祝う古い宗教行事が催されるときであった。夏至の前夜、これから冬至に向かって衰えてゆく太陽を力づけるために、人々は火をたき、動物の骨をくべて供え、炎の周りで騒ぎ、踊り回った。その宵は精霊たちが飛び交い、不思議な出来事が起こると言い伝えられてきた。
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」(1590年頃)は、結婚問題を抱えたアテネの貴族や職人たちが森の中に迷い込み、森の妖精王や小妖精パックの活躍によって、それぞれの悩みが円満に解決されるお話である。この夜がいつかは明言されていないが、5月祭(メーデー)説と夏至祭説とが主張されている。夏至祭説が支持されるのは、ゲルマン文化圏ではこの時期に精霊が活発に動き回ると考えられていたからだ。
ドイツの各地には河川や湖沼が毎年無垢の子を生贄に求める伝説があるが、ハレの岩塩坑で働く坑夫たちは特に聖ヨハネの祭日を恐れた(Deutsche Sagen 1-62/Grim)。(Halle /ハル、ハレはケルト語で塩の意。cf. ヨアネウム2)
ムソルグスキーの楽曲「禿山の一夜」(1860年頃)も、時は聖ヨハネ祭の前夜である。この夜には地霊チェルノボグが禿山に現れ、手下の魔物や幽霊、精霊たちと大宴会を開いて騒ぎ回り、夜明けとともに消え去ってゆくというロシアの民話をモチーフにしている。
チェルノボグはスラブの伝承に登場する黒い神で、夜と闇、死と破壊、また冥府を象徴し、白い神ベロボーグと対になって世界を創造する。山、特に鉱山にふさわしい存在である。
エリアーデの「妖精たちの夜」(1955)は原題を「スンジエーネの夜」といい、いつかの夏至の夜に奇蹟的な出来事が起こるという予見にまつわる長い物語である。スンジエーネはルーマニア語で妖精の意、森の女神ディアナ(ズーナ)が語源という。この夜には天が開き、異界が侵入してくると信じられていた。
ちなみにロシア・カルパチア地方のフォークロアを考察したボガトゥイリョーフは、「空が口を開ける」という俗信について、空は夜中に口を開けて、そこから強い光が差し込む、それはさながら満天を照らす一筋の道のようで、そのとき人は天の王国と富の世界のいずれかの主になりたいと願うことができる、しかし両方を望むと願いはかなえられない、と述べている。またそもそも空が口を開けるようになったのは1914年で、見ることの出来るものには年々少しずつ開いていくのが見えるという。
ファールンではこの日、大地が口を開けて鉱山をそっくり異界の闇の中へ引き込んだのである。

それ以来、異界に通じた鉱山に精霊が現れるようになった。
17世紀の中頃、ファールンにトルビョルン(トービヨーン)という名の鉱夫があった。彼はファールンを栄えさせた最初期のメンバーの一人で、彼ほど採掘に詳しい者はいなかった。彼には不思議な目が具わっているかのようで、豊かな鉱脈を次々に発見し、切り開いていった。陰気で夢見がちな男だった。妻子を持たず、地上に上がらず、いつも地底に潜って鉱脈を掘り続けていた。当時は採鉱量も豊富だったが、彼は折あるごとに仲間の鉱夫たちに、「珍しい石や鉱物に対するほんとうの愛によって仕事をまっとうしない限り、おそろしい災難が起こるだろう」と警告していた。しかし仲間たちはむしろ彼を秘密の力に通じた胡散臭い男と思って敬遠し、欲望の赴くまま次から次と坑道を無節操に掘っていった。そして1687年の、聖ヨハネの日のおそろしい落盤が起こったのだった。
この日を境にトルビョルンの消息はふっつりと絶えた。ところが、それからしばらく経って鉱山の仕事がまた次第に捗るようになった頃、採鉱夫たちの中に坑内で彼の姿を見たという者がでてきた。トルビョルンは彼らに採鉱の役に立ついろいろな忠告を与え、素晴らしい鉱脈の在り処を教えてくれるのだという。
あるいは地表の大崩れの場所で悲しげに泣いたり、怒りおめきながら歩き回る老人の姿を見たという者もいた。
また鉱山で人手が足りなくなると、いつもどこかから若者がやってくるようになった。彼らはみな、ある老人に鉱山に行くよう勧められてきた、と話した。鉱山には彼らのほんとうの幸せがあると教えられて。

と、もっともらしく書いたが、老人の姿をした精霊トルビョルンの伝説が、実際にファールンにあったかどうか、分からない。
私はこのトピックを、E.T.A.ホフマンの小説「ファールンの鉱山」(Die Bergwerke zu Falun, 1819年)から引いてきただけだから。
時は18世紀の中頃、物語の主人公、船乗りのエーリス・フレアボーム(Elis Froebom)は港町イェーテボリ(ヨーテボリ:補記11)で年老いた鉱夫と出逢う。お前は鉱夫になって壮麗な地底世界に身を捧げよ、と告げられる。エーリスは夜ごと不思議な夢を見てファールンを訪ね、親方の美しい娘ウッラ (Ulla) を見初めてそのまま鉱夫となり、やがて腕を上げ、ウッラとの婚礼の日を迎える。しかしその日−聖ヨハネの祝日に、婚礼の贈り物にする桜んぼの赤にきらめくガーネット補記6を採るため鉱山に降り、そのまま消息を絶つのである…。
ともあれ私はここで、鉱山の外で生きた一人の一般人(物語作家)が、若者の魂の導き手として年老いた鉱夫姿の男(老賢人)を登場させ、鉱山の仕事を(鉱物や鉱石への)真実の愛に結びつけて考え、鉱脈の探索を聖なる徴の解読として捉えたこと、ついでにいうと、地底を支配する偉大な存在として女性の姿をした厳しい相貌の精霊(女王/太母)をイメージしたことを指摘しておきたい。

多分、続く。…かなぁ。

補記1:ファールンの坑内は火掘法のためにきわめて暑く、鉱夫たちは大量の飲料を消費した。たいていの鉱夫は酔っ払っているのが常態だった…というお話もある。
補記2:今日の世界の年間産銅量は1600万トンに及ぶ。当時とは技術も違えば需要量もまったく違っている。(値段もだが)
         ファールンが最盛期を迎えた頃(17C 半ば)、日本では足尾銅山が年1500トン前後の銅産を記録していた。17C末には産量を落としたが、代わって稼働が始まったばかりの別子銅山で、1698年にやはり年1500トンの銅産が記録された。
補記3:余談だが、その後、リンネはファールンの町が気に入り、婚約者も見つけている(後に妻となった)。
補記4:マッツ・イスラエルソンのエピソードは、実話としては、老婆は遺体の身元(名前)が確認された後で、「自分はマティアスの許嫁だった」と名乗り出たという。
補記5:現代の日本で、ヨーロッパの古い(蒸気機関を使った設備を導入した)鉱山のイメージをもっとも生き生きと見せてくれるのは、やはり映画「天空の城ラピュタ」であろうか。

補記6:桜んぼの赤にきらめくガーネット。原文は"kirschrot funkelnde Almandin" (アルマンディン 鉄ばん柘榴石)。ヨーロッパで古くから用いられたガーネットはパイロープとこのアルマンディンだった。中世の宝石「カーバンクル」は主にこの石だったといい、いわゆるボヘミアン・ガーネットはパイロープである。アルマンディンはガーネットの中では一番ふつうに採れる石だが、宝石質のものはそう多くなく、ヨーロッパでは19世紀に流行した。真紅のパイロープに比してやや赤紫味(深いクリムゾン、またはスミレ色)を帯びたものが上質とされ、当時はパイロープより高価だった。ホフマンはこの石がファールンの地底の坑内の緑泥石と雲母の中に封じ込められていると書いた。産状をちゃんと理解していたのだ。
♪どんなに時が、過ぎても、あの日の恋を、忘れない(「桜んぼの実る頃」加藤登紀子訳詞)。

古来、西欧(キリスト教世界)では暗い赤色の宝石をカーバンクルと呼んで、人の血や情熱と結びつく象徴的物質となしていた(cf. No.713)。聖アウグスティヌスの引いた「コリントの信徒への手紙」(11-2)に、「キリストは花婿として花婿の部屋から現れた。 …。彼はざくろ石(カーバンクル carbunculum)をも彼の血の宝石として引き渡し、こうして妻(被造物である人間のこと)との永遠の契りを結んだ。」とあり、この宝石が永遠の契約としての婚姻の贈り物にふさわしいとされていたことが分かる。
カーバンクルはまた炎であり、「賢者の石」と等価な物質でもあった。「ざくろ石(カーバンクル carbunculus)は中世以来『賢者の石』の同義語の一つとみなされている。 『心がざくろ石のように輝く』という表現の寓意的意味は明快である。頭が(白く)光り輝くように、心は恋に燃え輝くということである。」(ユング「結合の神秘2」p.211)
エーリスはキリスト教の伝統にふさわしく地底に降りてアルマンディンを探し、しかし異界の女王に永遠に捉えられたわけ。

「石(ラピス/賢者の石)は、ほのかに光るカーバンクルの光の如し」(クンラート)。カーバンクルには一角獣の角の根の部分にあるとの伝説があり、治癒と救済をもたらすものだった。(エシェンバッハ「パルシファル」)   (戻る

補記7:ブルマンの「ライラの冒険」では、別の世界に別れて生きなくてはならないライラとウィルが、年に一度1時間、洗礼者ヨハネの日にオックスフォードの植物園のベンチにきて、それぞれの世界で並んで座ろうと約束する。
バジョーフの「石の花」に、聖ヨハネの日に咲くというパーポラ草(シダの類)への言及がある。これは魔法の花でどんな宝ものでも見つけることができるが、人間には毒であるという。

補記8:トービョルンの名は、18世紀の偉大な鉱物学者、スウェーデン人のトービョルン・オーロフ・ベリマン(1735-1784)を連想させる。彼はウプサラ大学で数学・物理・気象・鉱物学を学び、1767年に同大学の化学と鉱物学の教授になった。鉱物の分析法を組織化し、鉱物を科学的に分類することを考え出した。ファールン鉱山の大崩壊の時にはもちろん生まれていないが、ホフマンの念頭にベリマンの名があったことは十分に考えられる。

補記9:かつて西洋では発疹チフスやペスト、熱病の類は悪い空気によって起こるものと考えられていた。マラリアの語源はイタリア語の mala+ aria 悪い空気で、これに対抗するに人々はよい空気、よい香りのする空気をもってした。14世紀にペストが流行した時、人々は悪臭を退けるために薬草の花束を持ち歩いた。医師は鳥の嘴のような形のマスクの先に香草を詰めて患者に対した。ロンドン市長は黒死病の時代からスミレの花束を贈られる伝統があり、裁判官もまた芳香を放つ花束を持つ習慣があった。それは監獄の中で発生した発疹チフス(監獄熱)の感染を防ぐためだった。

補記10:ヨハネ祭は民族的な形態を強く残していたと、阿部勤也はいう。「この日(6月24日)はドイツのほとんどの町や村で火が燃され、老若男女が皆集まり、唱いかつ踊る。この祭りは元来夏至の祭であって、キリスト教以前の原始的な宗教形態が残存したものともみられ、14,15世紀においても異教的習慣が至るところで観察された。蓬や熊葛の花環をつくり、手には飛燕草をもって、それらの花の間から火を覗けば、一年中眼の病気にかからないといわれた。そして花を火のなかに投げ込み、『私の不運もみな燃えさせ給え』と祈る。」、「夏至の火には人間の希望と願いがこめられていた。特に異性間の愛情、結婚、新家庭の建設などがこの火に祈願された。」「この日は一人の男が一人前になる成人の日でもあり、中世都市のツンフト制度のもとにおいても新しい徒弟の受け容れ、職人の独立、親方への昇格などがこの日に行われた。市民権が与えられるのもこの日であった。」(ハーメルンの笛吹き男 P.123-124)

補記11:イェーテボリはスウェーデン南西部の海港。バルト海交易においては古くからストックホルムが海港として栄えたが、17世紀後半頃から18世紀にかけて西方への便のよさによってイェーテボリが重要な拠点となった。スウェーデンは17C前半まで銅が主要貿易品だったが、その後、鉄に軸足が移った。高品質の鉄として知られ、主にイギリスへ輸出された。

参考文献:アンデルセン「スウェーデン紀行」(東京書籍 1986 鈴木徹郎訳)
      ホフマン「ファルンの鉱山」(国書刊行会 1997 「鉱物」 種村季弘訳) 、原文(ドイツ語)はネット上で閲覧可。


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