ひま話 (2004.2.28) 


結晶する不思議

No.287(ストルンツ石)の補足を兼ねて。でも、あまり科学的でないかもしれないお話。

溶液から結晶が析出して成長するプロセスには、いろいろと不思議なところがあります。そのひとつは過飽和という現象でしょう。溶液(溶媒)の中に溶け込んだ物質を溶質と言いますが、鉱物を形成する成分の多くは溶質として溶け込むことの出来る割合いに制限があるのが普通です。それでなんらかの原因で溶液中に存在する量が限度を超えると、結晶として析出してくることになります。
例えば100gの塩化カルシウム(融雪剤や乾燥剤などに使われる水によく溶ける物質です)を、100gの熱湯に溶かしたとします。いまお湯の温度が25℃に下がったとすると、この温度での溶解度は74g程度なので、その差の26g分が溶液から排除されて析出します。

但しこの制限量は、ほかの溶質が共存するときには変動することがあります。今25℃の水100gに対し塩化カルシウムが60g溶けていたとします。あと14gほど溶け込めるはずです。
ところが、この溶液に炭酸ガスを吹き込むと溶液が白く濁ります。炭酸カルシウム(方解石)が形成され沈殿するからです。あるいは硫酸イオンを加えると硫酸カルシウム(石膏)が沈殿するかも知れません。この2つの鉱物は塩化カルシウムほどには水に溶け込まないからです。
このことは、カルシウムは塩素と一緒の時は水の中に沢山溶け込むことが出来るけれども、炭酸イオンや硫酸イオンが一緒だと、溶け込み制限が厳しくなって析出してしまうことを示しています。これがNo.287に書いたことのひとつです。水溶液の中では塩素とカルシウムはそれぞれイオンとなって自由に動きまわっていますが、カルシウムイオンは親和力の強い炭酸イオン(または炭酸水素イオン)に接触すると、そこで放浪の旅をやめて固まってしまうわけです。

逆のケースもあるでしょう。亜鉛は単独ではごく少量しか水に溶けませんが、塩素があると錯体を作って、条件によっては単体イオンの何億倍もの量が溶液中に含まれることがあります。熱水起源の閃亜鉛鉱の鉱床は、こうした錯イオンとなって溶け込んだ亜鉛が硫黄と反応して沈殿したものと考えられています。というのは、もし亜鉛が単体イオンとしてごく微量溶けているだけだったら、鉱床が形成されるには途方もない量の熱水が必要になり、それはちょっとありそうにないことだからです。

あら?早速話が横道に逸れました。このように自然界では、溶質の溶解度は環境次第で、大幅に変化することがあります。とはいえ多くの塩類には与えられた条件下で溶解できる限度が決まっており、それを超えて溶媒に溶け込むことは出来ないというのが基本ルールです。

ところが溶液中に制限以上の溶質が溶け込んだ状態が生じることがあります。それが過飽和です。蒸発によって溶液が濃縮されたり、温度の低下に伴って溶解度が下がった時に、こういうことが起こりえます。過飽和は平衡が破れた不安定な状態なので、なにかのきっかけ−結晶の核となるような埃が入ったり、衝撃を受けたり−があると速やかに結晶が析出し始めます。しかしきっかけがなければ、いつまで経っても析出しないということもあるのです。実際、過飽和度が低いときには、溶液が見かけ上安定しているように見える場合が多く、溶質の結晶化が始まるには、適切な仄めかし、「君はこういう形に結晶するといいんだよ」という示唆が必要になってきます。

このとき核となる物質は、析出すべき鉱物と同じ結晶構造を持っている必要があります。例えばわずかに過飽和な硫酸銅溶液に硫酸銅のタネ結晶を入れると、過飽和が解消されるまで、タネのまわりに結晶が成長し続けます。しかし結晶構造の違うダイヤモンドを入れても硫酸銅は析出しません。もっとも過飽和度がどんどんあがって溶液が過度に不安定になると、どんなタネの上にも溶質が析出するようになります。非晶質のガラス棒を突っ込んだだけでプロセスが始まるかもしれません。ただ、その時作られる結晶は、本来そうなれたような美しい形にはならないでしょうが…。

また、ある鉱物が複数の構造をとって結晶可能な場合−例えば硫酸ニッケルのように6水和塩と7水和塩が存在するとき−、どちらか一方の核が存在すれば、その水和塩が析出します。両方の核が存在すれば…、その環境での安定度や溶解度の違いによって、双方が析出することもあれば、一方が選択的に成長することもあるでしょう。上述の塩化カルシウム溶液から石膏が沈殿する例で、もし溶液の温度が50℃以上だと、石膏でなく硬石膏の沈殿が期待されます。これがNo.287に書いたもうひとつのことです。以上を補記とします。

過飽和が生じる原因は、「規則性(秩序)を得ることの困難さ」にあると考えられています。
溶液中では、溶質のイオンや分子の集団はつねにお互いに結合を作ったり離れたりしています。さまざまな規則的または不規則な結合が試行錯誤的に繰り返されます。一時的に規則正しい配列が作られることもあるでしょう。しかしその配列は、さらに多くの分子が加わって肉眼的な結晶に成長する前に解消されてしまいます。この極微の結晶は、瞬間的に存在するだけで、再び溶融または溶解してしまうのです。(追記1)

一方結晶の核が存在するときには、核が鋳型やテンプレートの働きをするので、その上に結晶が成長することが出来ます。それは一種の自己増殖だといえるでしょう。溶液中の分子は、すでに提供されている安定した規則性の上に、どんどん加わってゆくのです。もちろんこの核も、局部的には溶液に溶解するのですが、大きさがあるので消滅に至らず、規則性が維持されるわけです(いったん析出すると、今度はなかなか溶け出さない物質もあります)。
すなわち結晶化は飛躍的な現象なのであり、ゼロからの構築は難しい、けれども増築は比較的容易であると考えられます。
同時に次のこともいえるでしょう。私たちがまだ知らない固体(鉱物)が存在するかもしれない。それは適切なタネがないために、結晶していないだけであろう、と。

ここで、ライアル・ワトソンの著書から2つのエピソードを紹介しましょう。

エピソード1:

「物質が自らを組織する能力を顕著に示す例が結晶である。自然発生的に見える規則的な幾何学的形態をもち、しかも安定したやり方で自己複製をする。
簡単に結晶化する物質もあれば、誘発してもなかなかしにくいものもある。どんな状態のもとでもけっして結晶化しないものもあるようだ。もっともそれは、われわれの想像力が限られているために結晶化を惹き起こす方法を知らないだけの話かもしれないのだが。
一例をあげると、250年前に天然油脂からグリセリンが抽出され、無色で甘味のある油性の液体ができた。そして医薬用潤滑油として、さらには爆発物の製造用に使用された。結晶化を起こす通常の手だてである超冷却、再加熱、その他あらゆることをしてもグリセリンは頑として液状のままで、とうとう固体グリセリンはないのだと思われるようになった。ところが、20世紀初頭、ウィーンの工場からロンドンの得意先に運ばれる途中の一樽のグリセリンにおかしなことが起こった。「まったくの偶然だが、その間に起こった種々の動きのまれにみる組み合わせにより」結晶化が起こったのだ。
ロンドンの得意先は真っ蒼になっただろうが、化学者たちは大喜び。その樽のグリセリンを少しずつ頂戴しては自前の試料作りにかかったが、それらは摂氏18度で同じように固体になった。いち早くこれを試した科学者のなかでもふたりの人物が熱力学に関心を抱いていて、以下のことを発見するに至った。ふたりが最初の結晶を郵便で受け取り、あるひとつのグリセリン試料を使った実験で結晶化に成功すると間もなく、実験室にあった他のすべてのグリセリンが自然発生的に結晶化し始めたのである。なかには密閉容器に入っていたものすらあったという。・・・今日までに世界各地で同じような無作為の変態が起こった結果、グリセリン結晶ももはやありふれたものとなった。

有機化学ではしょっちゅうこういう経験をする。昨日までありえなかったことが今日はこともなげに起こる。ひとつには新技術の導入があるが、さらには新たな精神構造のなせるわざとも言える。物理的な種子があるとグリセリンは結晶化する。だが、この過程が容易に起こるようになった理由の一部に、もうひとつ、新たな姿勢というか、ものの見方が関与しているように思える。一種の精神の種子だ。<生命潮流>

彼が言っているのは、物理的なタネだけでなく、精神的なサポート、「この物質は結晶化するのだ」という認識、あるいは信仰が支持されることで、結晶の出現が容易になるのではないかということです。
同じ土俵に立つ考えとして、彼は別の著書でルパート・シェルドレイクの説を取り上げています。

エピソード2:

塩化ナトリウムのようなありふれた結晶は、何億年も前から形成されており、すぐに特徴的な立方体を作り出す。しかし新しい液体状の物質を適当な固体にしようとするときには、必ずしも簡単にはいかない。たとえば、酒石酸エチレンジアミンは、硬水の中の金属イオンのように望ましくない鉱物を探し出し、閉じ込めてしまう便利な性質をもった化学物質として、30年余り前(注:1985年時点で)に初めて生成された。これをつくった会社は、ついにはそれを固体として採り出す方法を発見し、しばらくのあいだ、大きくて完全な結晶を売って繁盛した。ところが突然、この会社のタンクが、酒石酸エチレンジアミンの1水和物をつくりはじめた。1水和物ではまったく役に立たないのだが、そのうえ、この現象はまもなくほかの工場にまで広がっていったのである。「研究と開発に3年かけ、1年間製造を行ったが、その間、1水和物の結晶の種子は一度も形成されなかった。ところが、そのあとには、いたるところでそれが見られるようになった」

新しい物質の方が結晶化しやすいという事実に関しては、結晶の種子が後続の溶液に影響を及ぼし、そこでも結晶ができるきっかけとなる、というのがオーソドックスな説明である。しかし結晶が、遠い距離を隔て、固く密閉した溶液にも影響を及ぼした例もある(注:エピソード1のこと)。シェルドレイクは、物質の結晶化は単にそれが以前にも結晶したことがあるという事実によって促進される、と主張する。結晶が頻繁に起これば起こるほど、その影響力が強くなる。なぜなら、過去の結晶の数が増えていくことは、そうした結晶の形をつくる原因である形態形成場を生み出す一助となるからである。すなわち結晶が独特の形をとるのは、同じ種類の他者と共鳴するからだ。類は類を呼ぶ。たとえ時間的、空間的な距離があろうとも。<スーパーネイチャー2>

シェルドレイクは、過去の「既成事実」の累積が、以後の結晶化を促進する効果を持つとみています。例えば岩塩が結晶しやすいのは、過去に大量の岩塩の結晶が存在し、パターンとして確立しているからだというわけです。これは「100匹目のサル」に繋がる話で、ワトソンの著書を読むと、そういうことがありそうな気になってくるのですが、果たしてどうなのでしょう? 
※Wikipedia で「ライアル・ワトソン」、「グリセリン」の項を見ると、エピソード1のグリセリンの結晶化はワトソンの「捏造」であるように書かれています。つまらない。

もし彼らが正しいなら、私たちが美しい鉱物の結晶を頻繁に夢に見ることは、結晶が実体化し、新しい産地で大量に発見されることに寄与するのかもしれません。そして発見されればされるほど拍車をかけて結晶が増産されるのです。近年の鉱物ブームに乗って半世紀前には考えられなかったような珍種の「標本」が出回っているのは、枯渇するとか言われていた宝石がいくらでも出てくるのは、モロッコや中国あたりから毎年のように新タイプの標本がデビューしてくるのは、インドの魔術といわれるカバンシ石が陸続と供給されるのは、ついでにペンタゴン石まで出てきたのは、もしかしたらそういうことなのでしょうか。
私たちが円陣を組んで「フォスフォフィライト〜」と一心に念じれば、どこからともなく標本がごっそり現れてくるのでしょうか。なんだか楽しいですね。 (→追記)

また、こういう考えが、パワーストーン・ブームの根底にあるスピリチュアルな鉱物観−結晶の進化、種それぞれに固有の精神的意義、人の意識と鉱物との共鳴、要請に応えて出現する鉱物−とどこかで響き合っているようなのも興味深いことだと思います。私たちもまた結晶の集合体であり、鉱物や有機物の溶け込んだ溶液であると、言って言えなくはないのですから。

以前ある擬似SF的な本の中で、地球の生命は星間物質が地表に降り注ぐことによって誕生し、新たな物質の到来によって進化が促進されたとか、新種のインフルエンザ・ウィルスは彗星に乗ってやってくるとかいう説を読んだことがあるのですが、上記の結晶化に結びつけると、こんなこともいえそうです。
かつて地上に存在したことのない未知の構造を持った結晶のタネが、隕石とともに降り注いだ。こうして、いままた新しい鉱物種が地球に結晶し始めたのだ…。ロマンですね。
でも、全然科学的な話でなくなってしまいました。
ま、いいよね?

追記1:過飽和溶液から結晶の最初の核がどうやって生じるのかは、よく分かっていません。ただ核が誕生すると、その瞬間に周囲の微小領域で溶液濃度が急激に低下することが分かっています。そのため、ある程度の大きさを持たない核は再び溶解してしまうのだろうと考えられます。
一方溶液の過飽和度が高いほど、局部的に濃度が減少しても過飽和状態が回復しやすくなるため、核が消滅しにくくなると思われます。従って過飽和度の高さは、安定した核が出現するためのひとつの要因となります。

追記2:アップしたその日に早速ご指摘を戴きましたが、私たちが欲しがると石が出てくるのは、「純粋に経済的な現象」ですとのこと。お金になるから、掘る人・手放す人が現れて市場に出回る仕組み。ごもっともです。 2004.2.28


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