コーンワルの鉱山妖精 −ひま話 (2001.8.4)より


 

先月、私家版鉱物記に「スズの話」を載せたとき、末尾にマレーシアのスズと精霊についての信仰を書き加えました(これです)。スズに生命があるとか、鉱石を支配する精霊がいて、機嫌を損ねると鉱脈が涸れてしまうという考えについて触れたのですが、お読みになった方はどう思われたでしょうか。実は、こうした信仰は、鉱石の歴史とともに古く、世界の至るところで、そのバリエーションを見ることが出来ます。そもそも鉱石とは、地底にあって生まれ育つものであり、比喩的にいうならば、大地母の子宮に懐胎され、月満ちて地上に現れるべく運命められた子供たちなのです。

鉱石は地中にある間、岩に抱かれて成熟への過程を辿っています。水晶はやがてダイヤモンドに育つのであり、あらゆる金属は、いつか金となるべき未熟な存在と考えられました。私たちが掘り出した銀も鉛もスズも、適切な環境で充分な時間が与えられるならば、金に進化するはずの種子でありました。たとえば中国では銅を地中に埋めておくと、金に変わると信じられていましたし、ある種の秘法によって練られた丹薬を加えれば、金属はあたかも鯉が龍になるように、凡人が仙人になるように、成熟して金になるとされました。ヨーロッパやインド、イスラムの錬金術も同じ見地に立ち、もし時間を支配することが出来、炎によって浄化し純化させる(成熟させる)ならば、未熟な金属が金に変わらないわけがあろうか、なぜなら金こそ唯一完成された物質であり、究極の存在形態であるから、という強い信念を持っていました。
また、鉱石から金属を精錬する作業は、自然が地中においてゆっくりと行う営みを、地上において、素早く(時間を短縮して)効率的に代行するバイオテクノロジーだったということが出来ます。溶鉱炉や坩堝(るつぼ)は、大地に代わる子宮であり、第二の母として金属を育てる者こそ錬金術師だったからです。錬金術は、太古以来蓄積された冶金的知識に裏打ちされた思想というより、自然界の生命力に対する信仰だったと見るのが適切でしょう。彼らが求めたのは、「変態」でも「反応」でもなく、「成熟」であり「結婚」であり「より高い存在形態への移行」でした。従って、その方法は、物質間の化学反応ではなく、人間の精神の深化プロセスや、生物の発育の知識に根ざしていました。錬金を実現する霊薬(エリクサ)は、まさに「生命の水」(アクア・ヴィエタ)でありました。しかし、この話は今はこれくらいにして、鉱石と鉱脈に戻りましょう。

ヨーロッパやアフリカ、中国、オーストラリアなど世界中の多くの地域で、「ある程度掘り進められた鉱山は、再び埋め戻す必要がある」と考えられていました。実際、まだその先に鉱脈があるのに埋め戻された古い時代の坑道が、至るところで見られます。近代の鉱夫が鉱山を掘っていて、昔の人が使っていた道具や貨幣などを見出すこともしばしばです。なぜ、そんなことをしたかといえば、充分に休ませれば、鉱脈が再び豊かになると信じられたからです(追記2)。農作物の種を取っておいて、翌春畑に埋めれば、次の秋には再び収穫できるように、鉱石も地中で発育し、適当な周期をおいて収穫されるのです(麦のように一年で、というのはちょっと難しいですが)。
また、そうした鉱石の成長を見守り、あるいは人間が鉱石を掘り出すことに怒ったり、赦したりする精霊的存在があるとも考えられました。ただし、彼らはひたすら畏れられる存在ではなく、本来コントロールできない自然をコントロールして、よりよい収穫を得るために人間が作り出した、願望投影的存在だったと言うべきかもしれません。精霊たちは、当然自然界の掟を体現していましたが、話をしたり宥めたり喜ばせたりすれば、人間への厚意を図ってもらえたからです。

鉱山での労働は、もともと冒涜的な性質を持たざるをえませんでした。なぜなら、採掘作業は、鉱石の産婆役を努める神聖な事業であると同時に、いまだ時至らぬ(金にならない)未熟な鉱石を掘り出す早産でもあったからです。ここに神々の御技に並ぶべき、人間の技術に対する自負と、自然への畏れ(罪悪感)という二重性が認識されます。鉱山における古いさまざまな儀礼は、恵み多き自然への感謝であると同時に、大地を(母性を)けがすタブーに伴う危険を回避するために行われました。もののけ姫の世界ですね。
採掘作業には、落盤や窒息、有害な酸、熱、水没、亀裂、暗闇といった現実的な危険がつきものです。また、鉱脈はある日豊かな姿を見せたかと思うと、次の日には消息を絶つといった、アテにならぬものでもあります。精霊たちは、そうした不確実性をコントロールするために、自然と人間の間を取り持ち、より人間に有利な状況を引き出すために存在しているかのようです。

プロメテウスに火を授けられ、冶金の技を手にして以来、人間は自然と神々に代わってそのプロセスを全うする作業に取り掛かったのですが、それは一方で現代に続く科学技術に、もう一方では精神力によって自然界に働きかける(オカルティックな)魔法操作に受け継がれています。鉱山の精霊信仰、鉱石の生命信仰は、そうした人間の宿業が意識に上ると同時に芽生えた生命観・自然観の遠い木霊だと言えるでしょう。そんなわけで、鉱山には、精霊が棲み、鉱夫たちにさまざまなメッセージをもたらしますし、鉱石は地中で増えたり減ったり移動したりするのです(そして、長い時間を経て、金になります)。


以下、このページでは、ヨーロッパの鉱山に棲む小妖精たちについて書きましょう。これらの妖精は、おそらく古い時代には、尊崇の念を捧げられた精霊だったと思われますが、時代とともに古い信仰が薄れ、どこかコミカルな、悪戯好きの小人に貶められたようです。それでも、鉱夫たちに鉱脈のある場所を教えたり、鉱石を隠したり、正直な鉱夫を助けたり、不正な者には報復を加えたりするくらいのことは出来ました。

ギャラリーNo.89に、悪魔のニックが鉱夫を惑わせるために潜ませておいた精錬できない「銅」鉱石について、No.90には、悪霊コボルトに食われた「銀」鉱石について書きました。ニックもコボルトも、いずれも鉱山や洞窟に住む小人族(ゴブリン)の一種です。ニックは、オールド・ニック−ニック爺−と愛称されるゴブリンで、その名は死者の霊を守護する水の妖精、ニクシーに由来します。いたずら者としてやや滑稽な性質を与えられていますが、古くは死霊鎮護の精霊でもあったのでしょう。妖精たちがもともと、住みついた家や城跡、廃墟、古い木の洞などの守護者と考えられていたように。

コボルトは子供の姿で現れ、その名もギリシャ語の「子供」に因むといいます(別説もありますが)。金髪で赤い絹のコートを着ていましたが、ドイツでは緑の服を着るようになりました。体長は50センチ足らず(あるいは1mくらい)。本来は家についた妖精で、住みたい家があると、木切れを入れたり、牛乳の容器にオガクズを入れたりして、人間の反応を伺います。もし、人間がゴミを片付けてしまうようだと、脈なし、として去ってゆきますが、そのままにしておくと居着きます。真夜中、人の見ていない間に馬を洗ったり、粉をひいたり家事をやってくれるので、お礼に皿いっぱいのミルクや食事をあげなくてはなりません。予知能力を持っていて、未来の災難を警告してくれることもあります。報酬を忘れると、あざができるほどつねられます。何度も続くと家を出ていってしまいます。鉱山に出没するコボルトは、鉱夫に鉱脈のありかを知らせてくれます。落石などのちょっとした事故を起こすこともありました。よい金属を盗んで、悪い金属(コバルト鉱石)を置いていくのは、彼らの仕業とされましたが、おそらく彼らにミルクをあげなかった報いでしょう。妖精は、礼儀正しくつきあえば役に立ってくれますが、蔑ろにしたり、ぞんざいに扱うと、きちんとし返しをするのです。

コボルトがどうして家や鉱山に居つくのかよくわかりませんが、何かの罰で手伝いをしていることがあるともいいます。それで、贈り物をすると、罰から解放されたと思って、姿を消してしまいます。追い出したいときは、勝手な名前をつけてやると、「自分にはちゃんとした名前がある!」と怒って出ていってしまいますし、キリスト教の洗礼を授けようとすると、慌てて逃げ出していくそうです。これは、多分、彼らがキリスト教が伝わる以前の古い信仰の護持者だったからでしょう。新参の武装移民に平野を追われて山に隠れ住んだ原住民族を思わせるところもありますね。

鉱山に棲む精霊をさらにあげれば、ロシアで山親爺と呼ばれ、山の主とされているゴールヌイ。彼は、 鉱夫たちを落石事故から救ってくれることがあります。アルゼンチンのフライやサルタの山岳地方にはコケナという精霊がいて、野生動物を守り、また金や銀の採れる鉱山を支配しています。彼は、生活のために狩りをする貧しい人々を守ってくれますが、商売のためにビクーニャやグアナコ(ラクダ科の動物)を狩る金持ちには罰を与えるといわれています。精霊たちは、彼らなりの基準に照らして公正で、正義感も持っているのです。
イギリスのある鉱山には、カッティ・ソームズという妖精がいました。働く少年たちに好意的でしたが、監督役に対しては敵対的で、トロッコを引いたり連絡する皮紐を切って使えなくしてしまいます。休みなく働かされていた少年たちは、修理を待つ間、しばし休息することができました。

鉱山妖精の存在は、吉凶さまざまに受け取られましたが、その機嫌を損ねることがなければ、概ね繁栄をもたらしてくれるものでした。ウエールズ地方(イギリス)の鉱山に棲むゴブリンの一種で、コブラナイという妖精小人は、身の丈50センチ。人間の鉱夫のような身なりをし、奇怪な外見に拘らず、気立てが良く、コツコツという音を立てて、品質の一番いい鉱脈に案内してくれます。彼を見たり、その声を聞くだけでも縁起がよく、コブラナイが棲む鉱山は栄えるとされました。もちろん、醜い姿を笑ったり、ばかにすると石を投げられます(怪我をさせるほどではないそうで、どこまでも気がいいのでしょう)。
イングランド北部の石炭鉱山に現れたブルーキャップと呼ばれる妖精は、どこか幻想的です。彼は青い帽子をかぶり、運搬夫として働いていました。その仕事は、人間の坑夫には考えられないほど素早いものでしたが、まったく姿を見せず、ただものすごい速さで走るトロッコの上に青い光が輝いていたそうです。ブルーキャップはもちろん報酬を要求しましたが、人間の鉱夫と同じ額の賃金を受け取り、よく働いたからと多く渡しても、軽蔑しながらその分はおいていったとか(2週間ごとに坑道に賃金をおいておくと、いつの間にか持っていきます)。逆に賃金が足りないと、怒ってなにも受け取らずに鉱山を去ってゆくと言われました。しかしブルーキャップのいる鉱山は栄えるので、いつもちゃんと賃金をもらっていたことでしょう。


いよいよ本題、コーンワル地方のスズ鉱山にいた妖精ノッカー(ノックルとも言います)についてです。

コーンワルの歴史は鉱物記で簡単に触れましたが、ノッカー(叩き屋)は、鉱山が始まった時から知られていたようです。フェニキア人が錫や銀、銅、鉛などを求めて鉱山をどんどん深く掘っていた頃、地底の坑道で、どこからともなくコンコンという不思議な音が聞こえてくるようになりました。
フェニキア人たちは、妖精が岩肌を叩いて、危険や鉱脈を教えようとしているのだと考えました。やがて、その音から彼らが何を知らせようとしているのか判断する専門家も現れました。この妖精は、親切な鉱夫には、岩を叩いて豊かな鉱脈の場所を教えてくれますが、意地悪な相手は、古い坑道へ誘い出して迷わせたりするので、機嫌を損なわないことが大切でした。

ノッカーの素性については、キリストの十字架を作った罰として最後の審判の日まで地底で働くよう定められたユダヤ人の亡霊だという説もあります。11〜12世紀頃には、実際にユダヤ人がコーンワルの鉱山で働いていた史実があるそうで、かつて鉱山に残っていた古い精錬所は、地元で「ユダヤ人の家」と呼ばれていたそうです。
しかし、多くの鉱夫にとって、ノッカーは亡霊というより、やはり妖精的な存在で、鉱山内で彼らに会うのは縁起がいいと考えられていました。ノッカーは、普段自分たちの目的のために鉱脈を掘っています。掘った鉱石を何に使うのかは不明ですが、ともかく発破をかけたり、ピッケルで砕いたり、シャベルで掘り出したり、スズの鉱石をふるい分けたりして、昼も夜も(もっとも鉱山の中では関係ありませんが)ミツバチのように働き、時折、人間たちにもおすそ分けをしてくれるのでした。彼らの存在は、鉱山に豊かな鉱脈があることの証でもありました。彼らがいる限り、鉱脈が涸れる心配はなく、コツコツ叩く音が聞こえる場所では、必ずいい鉱石が採れるのでした。それだけに鉱夫たちはノッカーの邪魔をしないようにいつも気をつけていました。ときには、彼らが働いている姿を見ることがありましたが、そんな時は、ノッカーたちに知られないようにそっと引き返したものです。幸運を喜びながら。

ノッカーは、危険に陥った鉱夫を助けてくれることもありました。
レイモンド・カーノーという鉱夫は、ある時、坑道の中で道に迷ってしまったところを、不思議な音楽に誘われて、無事地上に戻ってくることができたそうです。彼は、こう語っています。
「妖精なんて信じてなかったんだけど、あれは確かに妖精の音楽だった。仲間とはぐれて、曲がりくねった暗い坑道を一人きりで30分ぐらい歩いてたんだ。すると、どこか遠くの方から、聞いたこともない、素敵な音楽が聞こえてきた。いや、地下の水滴の落ちる音なんかじゃない。いまでもそのメロディーは耳に残ってるし、曲を歌うことだって出来るんだからね。ノッカーたちが、道に迷ったぼくを慰めるために聞かせてくれたんだと思う。音楽を聞いているうちに勇気が出てきて、それから間もなく地上への道が見つかったんだよ。」

ノッカーの厚意を得て、成功した鉱夫のお話もあります。
ボズプレニス付近の坑道のはずれに、コツコツ叩く音が頻繁に聞こえる場所がありました。鉱夫たちは、ここには素晴らしい鉱脈があるので、ノッカーたちがいつも忙しく働いているのだと思っていました。けれども、秘密を覗かれることを彼らがとても嫌うのを知っていたので、誰もその場所へは近づかないようにしていました。
しかし、トレンヴィスという貧乏な親子があって、なんとかスズを掘り出したいと思い、夏至の前の日の夜、音がする場所の近くに行って、地上で見張っていることにしたのです。はたして「小っちゃい連中」が光る鉱物を持って、地上に出てくる姿が見えました。トレンヴィス老人は妖精とのつきあい方を心得ていたので、とても丁寧に話しかけ、「もしよかったらわたしと息子とで、あなたがたの代わりに鉱物を砕いてあげましょうか」と切り出しました。「私たちは鉱石を掘り出して洗ってあげましょう。そして、掘り出したものの10分の1は、どんなことがあっても、あなた方のために取っておきましょう」と言ったのです。妖精たちは、怠けたい気持ちになったのか、親子が可哀相になったのか、ともかくその話に乗ってきて、鉱脈の場所を教えてくれることになりました。こうして、トレンヴィスは、大当たりを取り、すぐにお金持ちになりました。もちろん、鉱石の10分の1は、いつもちゃんと取り分けて、地下のノッカーたちに届けました。

ところが、老人が生きている間、この約束が破られることはなかったのですが、彼が死ぬと、後を継いだ息子は、ノッカーたちへの分け前を惜しみ、届ける分量を減らしてしまったのです。ノッカーたちは、すぐに騙されていることに気づき、地底に潜ってしまいました。コツコツ叩く音は聞こえなくなり、鉱脈も涸れ果てました。息子は、新しい鉱脈を探しましたが、どこにも見つけることが出来ませんでした。息子は酒に浸るようになり、最後は乞食になって死んでしまいました。

この話の教訓は、小人といえど、取引契約は公正に守らなければならない、といういかにもイギリスらしいフェアプレー意識にあると思いますが、もうひとつ、鉱脈に対する古い信仰、つまり、冒頭に触れたように、鉱脈は生き物であり、取り尽くしてはいけない、取り尽くすと鉱山が死んでしまう、しかし、いくらか残して埋め戻しておくと(この場合、10分の1)、鉱脈が再生していつまでも尽きないとする原理が含まれているように思います。また、妖精を怒らせると、鉱脈が移動してしまうというのも、マラヤのスズ信仰に似ていますね。、

公正な、という点では、こんな話もあります。
むかし、セント・アイヴスの南にあるトゥドナックの町に、バーカーという怠け者の男が住んでいました。ある日バーカーは、いい鉱脈を知っているノッカーを捕まえて彼らの宝を横取りしようと思いつきました。あちこち捜して、とうとうノッカーの棲む井戸を見つけました。それからバーカーは毎日彼らを観察して、ノッカーの日課や休日、言葉などを知ることが出来ました。
さて、そんなある日のこと、仕事から帰ってきた3人のノッカーが、宝の入った道具袋をどこに隠そうかと相談しているのが聞こえました。1人目は「岩の割れ目に」と言いました。2人目は「シダの茂みの下に」と。そして3人目は「おれはバーカーの膝の上に置くとしよう」と言いました。すると途端に、バーカーの膝の上に目には見えない重いものが落ちてきたのです。バーカーは足が不自由になり、死ぬまで治らなかったそうです。
ノッカーたちの秘密を覗いてはいけない、怠けずに働け、という教訓ですが、以来、リューマチで自由の利かない足のことを、コーンワルの鉱夫たちの間では「バーカーの膝みたいに動かない」と言うようになったそうです。

時代とともに、神聖さが薄れたとはいえ、鉱山妖精たちが、太古の掟に従って鉱脈を守り、鉱夫たちに正義を行っているのは、ずっと変わらないようですね。鉱物採集される方は、鉱山で子供にあったら、きっと大切にしてあげなくてはなりません。でないと、なんの収穫も得られないことでしょう。また、産地で見つけた鉱物を採り尽くしてはいけません。いくらかは残しておいて、後に来る人たちのために埋めておきましょう。

追記:古い時代(少なくとも16世紀以前)には、鉱山妖精に対する人間の態度が、それ以後よりずっと畏れに満ち、あるいは恐怖を伴っていたことは疑いないように思われる。例えば、ドイツの鉱山師(医師、教育者など)だったアグリコラは、鉱山の中に棲む身の毛のよだつ山鬼について語っている。彼らを駆逐するには、祈祷と断食によるのだが、いつも効果があったわけではない。山鬼が出没する坑道は、鉱夫たちが恐れて近づかなくなり、どんな豊かな鉱脈であっても、廃坑と化すのが常であった。(2001.8.14) ⇒cf. ドイツの鉱山に棲む山鬼

追記2:少しニュアンスは違うが、古い時代のヨーロッパで、鉄を得るためにもっとも好んで採集されたのは、沼鉄鉱と呼ばれる鉱石だった。大陸の北部、オランダからドイツ、そしてロシアにかけて広い範囲に存在しており、地表近くに薄い(1m以下の)層をなしていて、スキやクワで掘り出すことが出来る。さて、スエーデンやノルウエーの各地では、沼があり、そこに流れ込む河が一つでもあって、一方の側に緩やかに傾斜してれば、そして草や潅木が生い茂る中に、砂州のような草木のない場所が2,3あれば、その沼に沼鉄鉱が存在するとみてほぼ間違いない。そして、こうした場所では、鉱石が急速に再生するのである。スエーデンの大製鉄家スエーデンボルグは、34年経つと同じ場所で沼鉄鉱を採集することができると述べている。(戻る)  (2001.10.5)

追記3:鉱山の埋め戻しに関する別の説明。
「スワジランドの古い鉱山やそれに類似したものがなぜふたたび埋められたか、…現代のスワジの人々もいまだに密かにとり行うのがふつうだが、古い穴を掘って赤鉄鉱を手に入れ、鉄を精錬する。だが、掘れば必ずもっと偉大な地下の精霊である羽毛の生えた蛇の邪魔をすることになる、と信じている。地表に近いところではまだしも安全だが、坑道ではその精霊はおろか、人間の侵入を忌み嫌うあらゆる精霊のバチが当たるおそれがある、というのだ。とういわけで、不必要に精霊の邪魔をしないよう深く掘らないし、新しい鉱山を拓くこともしない。もしそうしなければならない時は、しかるべき犠牲を捧げる。作業中は毎日欠かさず水、食事、タバコを献げ、どんなことがあっても鉱山の中または近くで鉱石を精錬してはならない。それは最大の侮辱を意味するからだ。さらにもっと大切なのは作業が終わったときで、すべての立坑をそこから掘り出した排石で埋め立てなければならない。掘り返した大地の周辺をふたたびきちんと整えることが心得とされる。」(ライアル・ワトソン「生命潮流」p74)


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