ひま話  ドイツの鉱山に棲む山鬼    (2013.6.1)


ドイツの医家ゲオルギウス・アグリコラ(ゲオルク・バウエル)(1494-1555)が書いた「デ・レ・メタリカ」は、16世紀前半の中欧における鉱山技術(鉱脈探しから採掘、選鉱、精錬、出荷に至るまで)や鉱山のしきたり・運営方法、ギリシャ時代まで含んだ鉱山史などを記した百科的な見聞録だった。当時、ドイツやハンガリーには、ヨアヒムスタール、シェムニッツ、フライベルクゴスラー(ランメルスベルク)といった大きな鉱山町があって繁栄を謳歌していた。
アグリコラは以前に鉱山学に関する書「ベルマヌス、あるいは金属についての対話(デ・レ・メタリカ・ダイアログ)」(1530)を上梓しており、本書はその出来栄えに感激したエラスムスが、より包括的な書の執筆を熱心に勧めたのが契機といわれている。
「デ・レ・メタリカ」は 1550年頃に完成していたが、300葉近い図の木版を起こすのに予想以上の年月がかかったらしく、出版は彼の死後 1556年まで遅れた(ラテン語版)。翌1557年に最初のドイツ語版が出て、次いでイタリア語版も作られた。そしてほぼ2世紀間にわたり、鉱山技術に関するもっとも信頼に足る必読書として扱われた。ちなみにその以前には、採鉱冶金に関する文献といえばプリニウスの「博物誌」が筆頭株で、この古代ローマの著作はイタリアン・ルネッサンスを通じてイスラム世界からヨーロッパに入り、1469年頃から活字印刷されたことによって広く読まれた。
「デ・レ・メタリカ」の英語版にはアメリカ人の鉱山技師ハーバート・フーバー(後に合衆国大統領)夫妻の翻訳があり、1912年にロンドンで自費出版された。包括的な英語訳は多分これが最初(にして最後?)のものだろう。詳細な注解が添えられ、高い評価を受けている。

日本では三枝博音(さいぐさひろと)(1892-1963)がドイツ語版(1928年刊: フーバーの英語版注釈に多くを負った)で下訳し、ラテン語初版本を使って校訂した訳稿があり、氏の死後に遺稿が編纂され、 文部省の研究補助金を受けて 1968年に出版された。編者の序に、「今日の文明国のなかで、本書の翻訳をもたないのは日本だけであった」と紹介されている。どの国を指して、また何を基準に文明国というのかよく分からないが、ともかくこれで日本もドイツやイタリアやイギリスやアメリカに肩を並べたという自負の発露、あるいは研究成果物としての体裁を整えたものだろう。以後ほかに訳本も出ないため稀覯書のひとつと目されており、古書価格にはかなりプレミアがついている(コレクターなら気にしない程度かもしれないが)。
フーバーの英語版は新刊を買っても数千円で済むし、今では全文がインターネット上で無料で読めることを考えると、日本はやはりまだ文明国に並んだとは言いきれない気がする。

「デ・レ・メタリカ」は全12巻で構成されている。僕は随分前に、当然ながら三枝訳で読んだのだが、一番印象的だったのは(採掘道具や設備に関する)第6巻の末節の、鉱夫たちの事故や病気、その予防法に関する記述だった。湧き水、肺病、黒煙病、カドミア、辰砂の死毒、悪気による呼吸困難、火掘法による毒気(濛気)の発生、転落事故、坑内の崩落、ソフリガ虫といった数ある危険を縷々述べたテキストは、さすが医家の手になるものでリアリティにあふれている。しかし僕がもっとも気になって、いつまでも覚えていたのは、「山鬼」という言葉だった。該当箇所を引くと、

「わが国の鉱山のあるものには、もっともごく少数ではあるが、もう一つのおそろしい害毒がある。つまり見るもおそろしい山鬼である。山鬼については『地下の生物について』の中で説明しておいた。この山鬼は祈祷と断食によって追い払われ調伏される。」
「(鉱山が放棄される)第五の原因はおそろしい身の毛もよだつ山鬼である。これを調伏することができないとなれば、だれにしても近づかないわけである。」

一体、この山鬼というのは何なのだろうか。どこの鉱山に出没したのか、どんな害を与えたのか。もっと詳しいことを知りたいと思ったが、その頃はインターネットで検索すれば何でも調べられるといった環境は存在しなかったので、結局、何もわからずじまいだった。
ただ、山鬼という言葉の響きに、ヤンソンのムーミンシリーズに出てくる飛行鬼や、トールキンの「ホビットの冒険」、「指輪物語」に出てくるゴブリン小人のような形姿と性質とを、あるいは異種族に対する人間側の恐怖の感情を垣間見ていた。
「ホビットの冒険」では、ゴブリンは山の磐根に棲む邪悪で冷酷な小人として描かれている。「何でも憎み、きちんとした正しい者、立派に栄えている者をみるとむかむかする」、歯車や機械や火薬が好きで、恐ろしい発明をいくつもしてきた戦さ好きの種族である。
厚い岩盤が頭上を圧する鉱山の闇の奥底で、厚い下唇からキバが上に向かってせり出した鬼が、あるいは寺島竜一の挿絵に描かれた腕を振り上げ天を睨んで呪詛を吐くかの鬼が、ギラギラと恐ろしい目を光らせて迫り、ツメを立てて襲ってくる様が脳裡に浮かんでいた。cf. ドワーフ小人と鉱山師
ところが今では、上述のようにフーバー版の「デ・レ・メタリカ」の英訳も、そして「地下の生物について」(1549?)の英訳も、ネット上で簡単に閲覧することが出来るのである。21世紀に入って噴出した−日本に対しても開かれた−この世界的な情報の洪水には唖然とするほかないが、ともあれ、これら英語圏の文献から山鬼についての記述を拾ってみよう。

まずフーバー版の「デ・レ・メタリカ」を繙くと、上に引用した箇所は、
「" In some of our mines, however, though in very few, there are other pernicious pests. These are demons of ferocious aspect, about which I have spoken in my book De Animantibus Subterraneis. Demons of this kind are expelled and put to flight by prayer and fasting." わが国の鉱山には、もっともめったにいはしないが、致命的な害をなすほかの生き物がいる。凶悪な容貌を持った悪魔、『地下の生物について』に述べた生き物である。この種の悪魔は祈祷と断食によって祓い、駆逐することができる。
「"The fifth cause are the fierce and murderous demons, for if they cannot be expelled, no one escapes from them." 第五には、獰猛で血に飢えた悪魔のためだ。彼らを調伏出来ないときは、だれ一人逃れることが叶わない。

となっていて、山鬼には demon の語があてられている(補記3)。フーバーは脚注に、demons or gnomes としているので、この悪魔の原語はノームに相当すると思われる。いわく、

「鉱山にデーモン(ノーム)が棲むという考えはかなり広く信じられたことで、アグリコラもまったく疑っていない。超自然的な事柄に対してはつねにきわめて懐疑的であった彼にしてごく異例のことである。とはいえ、彼はデーモンのすべてがすべて邪悪ではなく、なかにはすこぶる好感のもてる種族もあると考えていたようだ。気立てのよいノームは、「地下の生物について」の最終節に、該当する記述がある。
『一方、気のよい種族がいて、この人間もどきをドイツ人やギリシャ人はコバロス (cobalos) と呼ぶ。彼らは上機嫌でおどけて見え、忙しいふりをするが、実際は何もしない。2フィート(70cm)ほどの矮小な背丈のため小さな鉱夫と呼ばれる。立派な身なりで、鉱夫のように帯状の上衣をまとい、腰には革の前掛けを巻いている。彼らが鉱夫といさかいを起こすことはあまりないが、鉱坑やトンネルの中をうろうろして、ほんとうにちっとも働かない。しかし労働者が誰でもそうであるように忙しいふりをする。鉱石を掘るとか、掘り出した鉱石をバケツに入れるとかいったそぶりを。(補記1)
彼らは職人たちにつぶてを投げることがある。しかし職人たちが先に悪戯を仕掛けたり、悪態をついたりしない限り、まず怪我をさせることはない。(このように)ゴブリンとまったく似ていないというわけではないが、その日の仕事に出かけるとき、家に帰るとき、また荷駄を連れているときには、まるで人間のように見える者もある。彼らはたいてい人に親切にふるまうので、ドイツでは ギュテリ guteli (Gutelos) と呼んでいる。人間の女性の姿をした者は トリュリ trulli (Trullis) と呼ばれる。実際(他国では)人に召し仕える者があって、特にスジョン Sujons (Swedes) と呼ばれる。
(しかし普通は鉱山に棲んでおり)、すでに金属が発見されている作業場や発見の希みのある場所では鉱山ノームは大車輪で動きまわる。すると鉱夫たちはやる気を殺がれるどころか刺激を受け、(その理由を察して)労働意欲が猛然と湧いてくるのである。』 (まるでバンカラ応援団 -sps)

こうしたことを信じるのはひとりドイツの鉱夫ばかりでなく、鉱夫なればいったいに彼らを認めている。今日(20世紀初)でも、コーンウォールでは「ノッカー」の存在を信じるものがまったく絶えたわけではない。海にしろ森にしろ、鉱山のようにかくも迷信に力を与える場所はほかにない。底なしの闇。そこでは鉱夫の灯すランプの明かりはあらゆるものの形をゆがませるばかりである。掘り削られた岩石が転がり落ちてゆく不気味な音が絶え間なく響いている。前触れもなくやってくる危険と死。素晴らしい富が突然消滅し、また発見される。こうした無数の事柄が結びあって心を揺さぶり、無知の感覚に沈める。そして宗教的な教えのように人を超常的な出来事に導くのだ。」

フーバーは、鉱山の闇と危険、非日常性と非連続性が迷信の温床となり、異種族の小人への信仰が根を張ったと考えるのである。ちなみにノッカーについてはひま話「コーンワルの鉱山妖精」を、コバロス(地霊コボルト)についてはギャラリー No.90 を参照方。

地霊小人と訳されるノームの存在はかなり古くからの信仰と思われ、語源はギリシャ語の「根」にあるというが定かでない。
アグリコラの同時代人パラケルスス(1493-1541)は、ノームを山(土)の精霊で、地中に属する小人と考えていた。背丈が低く、恥ずかしがり屋であり、炎のようなある種の希薄なたたずまいがあって、固い岩の上を幽霊のように歩き、煙が立ち昇るように現れる、ノームには魂がないので人を恋い、人とつきあい神を信じることで魂を得ようとしているのだ、と語った。
後世になると、ノームは森や山や水源に潜むドワーフ小人、ゴブリン小人、庭小人などと同一視されるようになる。
妖精譚に登場するノームはたいてい大地や山の中に隠された宝物を守っており、必要があれば姿を変えることが出来た。男のノームは二目とみられない容貌で、方や女のノーム(ノーマイデン)はふるいつきたい美女だというが、これはいずれも変身術によるものかもしれず、化粧を落とした顔は知らぬが仏である。

では、アグリコラの『地下の生物について』 De Animantibus Subterraneis の該当箇所を引こう。

「最後に、地下に棲む自然界の生物の一員として、神学者を満足させるため、デーモン(ダエモン・サブテラネウス・トルンクラトゥス)を挙げておきたい。デーモンが棲む鉱山がある。この生き物は二つに区分することができる。ひとつは攻撃的で恐ろしい相貌をしている。たいてい鉱夫に対して敵愾心を持ち、非友好的である。
アンナベルクの鉱山に棲むのはその仲間で、『薔薇の靄(ローズ・ハロ)』と呼ばれる息を吐きかけて12人を超える職人の命を奪った。口を開けて炎のような息を吐き出すのだ。馬に似た高く長い首と頭部を持ち、凶暴な目をした彼らの姿が目撃されたと伝えられている。
またシュネーベルクのデーモンもこの種のもので、黒い頭巾をかぶっている。ある職人を地面から引っ張り上げて、鍾乳洞のような巨大な空洞の高みに吊るした。ゲオルク鉱山のその場所には豊かな銀の鉱脈があり、バラバラになった彼の体が置かれていた。
プセルロス(circa 1018-1078)はデーモンを6種に分類したが、皮膚の分厚いこの種族は最悪だと言っている。フィロソファー(賢者、知恵の探究者、錬金術師)の中には、愚かしくも非常識なことに、この種の有害で性質の曲がったデーモンを召喚する者がある。
それからもうひとつは弱いデーモンがあり、ドイツ人やギリシャ人はホブゴブリン(イタズラ小鬼)と呼ぶ。彼らが人間に似ているからだ。(以下、フーバーが引用したのと同じ内容が続く)」

どうやら、ドイツの鉱山に潜んだ「身の毛のよだつ山鬼」は前者の最凶タイプで、イタズラ小鬼よりよほど残忍な性質だったらしい。闇の中で蠢き(うごめき)、宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)をふりまく太古の邪神に比する者であろうか。バルログ…

上述のようにフーバーは、鉱山で働く鉱夫たちがいかに超常的な出来事/存在を真剣に受け止めていたか、ときにはアグリコラのような鉱山の外(鉱山町)で働く学識者までもがそれを信じたかの理由の一端を示したが、このことは我々のような、たまさか鉱山ツアーに参加する程度の部外者でも、その場所にあってはかすかに気配を看取し動揺を隠せなくなる類のことでもある。
古い鉱山の奥には、安定した社会生活が明るい太陽の下で日々営まれる、我々が慣れ親しんだ日常世界とは断絶した異世界が、ひそかに、しかし確かに横たわっているのだと感じられる。そこでは我々はその場所の性質(ゲニウス・ロキ)に合わせて自分自身を調律し直さなければならない。

鉱山は社会的・経済的に計り知れない富を生み出す、いわば宝物の隠し場所であるが、その宝はかつて、労働者たち(また奴隷や受刑者たち)が劣悪な環境の下で激しい肉体労働と絶え間ない精神の緊張を強いられながら掘り出し、地上に運び上げざるを得ないものだった。地底では彼らは日常世界から否応なく切り離された。そこでは世界の在り方や感覚が異なった様相を帯び、時に自己同一性さえ揺るがされる。
マルティーノが「呪術的世界」で提示した観点に従えば、16世紀の鉱山は、歴史的に十分に確立された世界観が支配し、その中では自分は安全に保護されていると確信出来る「ヨーロッパ」世界ではなかった。鉱夫たちにとってはむしろ自己がおびやかされ、解体分離してゆくハードボイルドワンダーランド、呪術的な精神の介在によって−物語の力によって、世界の在り方を現在その場で模索し、自己が含まれる形で再構築し続けなければならない場所だったのだと思われる。そこには何か異次元の存在が、時には邪悪そのものさえもが、説明として必要なのであった。

かくて鉱山は、象徴的に尽きせぬ宝が隠された場所であり、宝物を掘り出すための苦しい戦いが行われる場所であり、また闇の底まで続く広大な無意識界を呑み込んだ精神世界でもあった。そして異なる時空、非日常の世界へ続くアクセスライン−異界への扉、または異界そのものであった。そこで人間は、この世ならぬものとの接触を持つ。宝の在り処を示す者、宝を守る者。探求者を援ける者、邪魔をする者、時に恐ろしい復讐をなす者。探求が生命がけであることを忘れさせない者たち。

それにしても「山鬼」とは、三枝博士はいい訳語を見つけてきたな、と思う。

cf. フライベルク工科大学5(エルツ山地周辺の鉱山町地図)

 

補記1:同様の伝説がグリム兄弟のドイツ伝説集(1816)に語られている(上巻 37)。ここでは小法師、山小人と呼ばれ、背丈が4分の3エレ(40-50cm)しかないので侏儒より低い種族として扱われている。長い鬚をはやした老人の姿で、鉱夫のようにシャツに白い頭巾がつながった服を着ている。尻にあて革をつけている。手にはカンテラと金槌とツルハシを持つ。鉱夫らはこの山小人を見かけると、怖いと思わず却って吉兆と考え、ますます仕事に精を出した。山小人は現に鉱石が出ているか、将来出る見込みのある坑道を特に選んで姿を現すからだ。

余談だが、日本の鉱山ではかつて、仲間の鉱夫たちと一緒に坑内には降るが、ちっとも仕事をしないでぶらぶらしている者がどの山にも(どの組にも)必ずいた。彼らは「スカブラ」と呼ばれた。働かないものがいるともちろん仲間の負担が増えて困るのだが、なかには仲間に憎まれずむしろ好かれるスカブラもあった。彼がいると、なぜか仕事が捗り、時間が早く過ぎるのだったから。(cf.上野英信「地の底の笑い話)

ドイツ伝説集には次の話も載っている(上巻 37)。
ボヘミアのクッテンベルクでは、山小人はしばしば大群をなして坑道を出入りした。坑夫が一人も坑内に入っていないときや大事故の起こる直前には、彼らは坑内作業(削る、掘る、突く、踏み固める)に似た音を盛んにたてた。死が迫っている坑夫には、ノックの音を三回聞かせて知らせた。
時に鍛冶屋が槌を打つ時の調子に似た音をひっきりなしに立てるので、ボヘミアではこの小人を「家の鍛冶屋さん」と呼んだ。イドリアの鉱夫たちは彼らのために毎日食事を入れた鉢を決まったところに置いた。年に一度、男の子が着るサイズの赤い上着を贈った。これを忘れると小人たちは腹をたててヘソを曲げるから。

補記2:アグリコラの「地下の生物について」で述べられるデーモン(山鬼)は、ドイツ伝説集ではヘマーリング親方という名の鉱山の精として記録されている。「山法師」とも呼ばれ、坑底に現れるときはたいてい黒の僧衣をまとった大男の格好をしていた。グラウビュンデン・アルプスの鉱山によく現れ、金曜日には掘り出した鉱石をある桶から別の桶に飽きもせず移しかえた。ある鉱夫がその無駄な作業にケチをつけると、鉱夫をつかんで顔を後ろ向きにねじってしまった(鉱夫は死にはしなかった)。
アンナベルクのローゼンクランツ(数珠)坑道に現れた時は、仕事をしていた12人の鉱夫に息を吹きかけて殺した。ここはそれまで多量の銀が見つかっていたが、以来誰も近づかなくなった。この時の精は首の長い馬の姿で、額には恐ろしい光を放つ目があった。
シュネーベルクの聖ゲオルク鉱山では黒衣の僧形で現れた。見習い鉱夫を掴んで地面から持ち上げ、昔多量の銀を産した上の坑道に乱暴に降ろした。鉱夫は手足を負傷した。
ハルツ山地の鉱山では、ある坑夫長を懲らしめた。坑口の上に隠れてまたがり、坑夫長が上がってきたときに彼の頭を両膝で挟んで押しつぶしたのだ。
ハルツにはまた別の伝説がある。いつも組んで仕事をしていた2人の坑夫が、あるとき切羽に降りてきたときにカンテラの油が足りなくて交代時間までもちそうにないことに気づいた。しかし油を取りに地上に戻れば親方にどやされると思って途方にくれた。そのとき、水平坑道の奥に小さな光が灯り、だんだん近づいてきた。僧帽僧衣の恐ろしげな大男だった。彼は自分のカンテラから二人のカンテラに油を注ぎ、それからツルハシをとって二人が1週間かかっても掘れないほどの鉱石を1時間で掘った。男は「俺に会ったことは誰にも言うな」と言うと、切羽の左側の壁をたたいた。すると壁が左右に開いて、一瞬、金銀の鉱脈が煌々と光る長い坑道が見えた。二人は眩しくて目をそむけた。もう一度目をやったときには、壁はもう元通りになっていた。目をそむけずにツルハシを裂け目に投げ込んでいれば坑道の口は開いたままで、二人は富と名声を手に入れたはずだったのだが。
ところで大男が油を注いだカンテラは少しも油が減らず、いつまでも灯っていた。だが、ある土曜日、飲み屋で気分のよくなった二人はついこのことを仲間に話してしまった。次の月曜の朝坑内に入ると、カンテラの油はすっかりなくなっていた。
ハルツの山法師は、鉱夫たちの味方であったらしい。

補記3:英語のデーモン(demon)はダイモーン(daemon)を語源とする語で、古代ギリシャ・ヘレニズム哲学において、人間と神々との中間にあって両者の交流を仲介する目に見えない超自然的な(非人格的な)存在であった。もともとダイモーンは善でも悪でもないが、ある人には幸運と庇護を与え、魂を正しい道からそらさないように警告を(声を)与えた。後になると善性のものと悪性のものとに分けられ、一方では守護神(守護天使)、一方では鬼(鬼神)、悪霊であった。ユダヤ・キリスト教においてはデーモンが異教の神格や精霊を指す語となり、悪魔を指すことにもなった。
神に対して下位にあるもの(あるいは低格の神)や死んだ英雄の霊と考えられ、また目につかないところで神々の雑用をこなす便利な存在−下級精霊−とみなされることもあり、そのニュアンスは人間に対する小人の位置に相似であるともいえる。
余談だが、フィリップ・ブルマン著「ライラの冒険」三部作では、ダイモンとして描かれている。人間のたましいが形として現れたもの、あるいはその人を導く分身的な存在で、その人にとってもっとも愛しいもの、片時も別れていることの耐え難いパートナー、動物の形をとった友人あるいはその人自身である。

補記4:「ドイツでは、『悪魔』は強力である。鉱山や深い森が悪魔に好都合である。しかし、よく見ると、悪魔はヨーロッパ北部の神話の名残り、こだまと交り合い、また支配されている。ゴートの諸種族では、たとえば、優しいホルダに対立して、猛々しいウンホルダが創造される。『悪魔』は女である。この悪魔はもろもろの精霊、地中の精などからなる巨大な行列を従えている。この悪魔は勤勉で、よく働き、建築家で、石工で、冶金学者で、錬金学者、その他だ。」(ミシュレ「魔女」 篠田浩一郎訳 岩波下P305)

cf.  鉱脈を占う杖のこと


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