ひま話  (2003.11.25)


中国における太陽と鳥の信仰(後編2)

前のページへ  春秋戦国〜漢代 三星堆

殷(商)も末期になると、諸氏族(もしくは宗族)が勢力を蓄え、隙あらばとって代わらんとする気運が高まった。最大の協力者を輩した山東の氏族の中にさえ、殷に強く敵対するものがあったらしい。王朝最後の紂王は、自ら2度にわたる山東征伐を行ったが、この種の遠征は国力をさらに疲弊させてしまうものだ。そんな折、西方の属国だった周が太公望呂尚(姜姓)を盟主とする遊牧民羌(きょう)の協力を得て兵を上げた。西南方に割拠するおよそ八百の氏族が呼びかけに応じて集まった。連合軍は牧野に進み、迎え撃つ殷軍を一日にして破った。殷軍は数に優ったが、4頭立ての戦車(馬車)を駆って押し寄せる連合軍には敵しえなかったのだ。こうして周の時代が到来した。西周として300年、春秋戦国期を含めれば800年の長きに続いた王朝である。

周は姫(キ)姓族の国で、彼らもまた出自は西方の遊牧民だったという。伝説に始祖の后稷は帝コクとその元妃(本妻)姜原の子であり、殷の始祖の異母弟ということになる。王朝の家系、特に現実の初代国王以前の血脈にはたいてい後世の操作・創作が含まれており、鵜呑みに出来ないことが多いものだが、少なくとも母方がチベットの遊牧民、姜族の出だったことにはそれなりの根拠があるらしい。姫族は代々姜族と婚姻を繰り返す関係にあったというし、また姜族の呂尚が周を献身的にサポートした史実も血縁関係あればこそだろう。周が連合国の宗主として立つと、呂尚は西方の故郷を離れて遠く山東に拠点を移した。殷の最大の貢献者であり内患でもあった氏族の地を封じることで、成立間もない周王朝を直接間接に援護したとみられる。ちなみに文王の后の一人は殷から来たとの説があり、殷を倒した武王は彼女の息子である。かく中華の民は混じり合ってゆく。

★中国では王朝が変わると、暦法を始め、あらゆる政治制度が変わる。しかし文化は引き継がれることが多い。周の武王は先聖(王)とされる神農や帝舜らの子孫を探し出してそれぞれ縁りの各地に封じ、また殷の血を引く啓を「宋」(河南省商邱県)に封じたという。彼らの社稷と祖先の霊を祀り、鬼神や霊魂が迷って災いを起こすことのないよう配慮したのである。
祖霊に対する祭祀が、当時いかに重要であったかを覗わせると共に、なぜ政権が変わっても民族文化が生き残るかを示す傍証ともいえる。(備考7

周は連邦諸国の祭祀を取りまとめる宗主国として機能し、周王は天(帝)意を受け、天と交信する唯一者の権利を保持した。各地の領主は、周王の下でそれぞれの土地神と祖霊とを祀り、国家を安堵した。よく整備された階級制度が敷かれ、祭祀は厳密に定められた典礼に則って行われた。儀式には青銅や玉製の祭祀器が使用されたが、それらは周が一手に製造し、各国に貸与したものだった。領主が亡くなると祭祀器はいったん返還され、新たな領主の任命とともに再び貸与された。従って祭祀器には統治者任命証としての性格があり、各国の地位の高低によって細かな区分があったらしい。同様に儀式の手順や様式も祭祀ごとに異なっており、体系は複雑を極めた。領主や貴族の子弟は若年から宮廷に入って、祭祀と舞の手ほどきをうけた。卜占も受け継がれたが、これはまもなく廃れた。
周王朝では、上述のように、祖霊と共に河や山に棲む自然神をも祀った。周の穆王は、黄河のほとりで河の神を祀っている時、神がかりになった巫師に「西へゆけ〜」と言われて旅に出た。あちこち回って狩をしたり、玉を得たり、いろんな民と会って宴を張り、最後には西王母と誼を交わして帰国したという。史実かどうか定かでないが、ともあれ祭祀やその際にもたらされる託宣は、決して徒すべきものでなかった。

★この時代の神々がどんな姿をしていたか、あまりはっきりと言うことは出来ない。ただ言えるのは、彼らは漢代以降に現れる美々しい人間の形をとった存在でなく、さまざまな動物の局部が入り混じった奇怪な容貌と容姿、さらに原形を辿ることが不可能なほどに様式化された文様をまとった存在だったということである。例えば、後に鳳凰として知られる冠毛と長い分かれた尾羽をもつ金翅鳥も、当時は亀の背中、蛇の尾を持つキメラめいた鳥として描かれていた。先に紹介したトウテツにしても、各氏族の最高神でありながら、鳥のような羊のような怪獣のような、ヘンテコな姿をしていた(トウテツ紋の青銅器は西周代にも盛んだった)。人の姿を帯びる場合は裸形が原則で、容貌は醜怪もしくは魁偉であった。太陽と鳥の伝統はそうした混交文化のなかにまぎれ込んだように見える。しかし鳥そのものの姿をした神(またはその象徴)もちゃんと伝わっている。

★左図は西周代(BC1126/1060?-771)の玉jである。良渚文化の代表的な器物だったjは、少なくともこの頃まで、2000年に亙って受け継がれていたらしい(夏王朝には伝わらなかったというが)。側面には流紋を多用した鳥の姿が描かれている。周代には「主」と呼ばれ、天を祀り地に拝す(社稷の)儀式に際し、携帯式祭壇の役割を果たしたと考えられる。

玉jとともに重要な祭祀器とされた器物に、璧があった。璧は中心に孔の開いた玉製の円盤で、太陽または月を象徴するものだった。古くは無紋だったが、周代には右図に示すような鳥紋(太陽の象徴)が描かれた。この種の「長勾嘴鳥紋」(ちょうこうしちょうもん)は、西周玉器の代表的な文様で、璧(鳥紋系璧)だけでなく、璜形玉器(半分に割った璧の形)や節形玉器(細長い板状)などにも見られる。

殷代の鳥(上の小龍付きふくろうを参照)と周代の鳥のデザインにはやや違いがある。後者の多くは、鉤状を呈し、尾の先が魚のように分かれ、翼は単純な曲線で表現されているのが特徴だ。
なお、時代が降るとjは次第に使用されなくなってゆき、漢代までにすっかり廃れてしまう。一方、璧は春秋戦国期を経てその信仰が受け継がれた。璧が重用されたことは、「和氏の璧」の故事にも明らかだ。(右図は戦国期の璧で、流紋の気が描かれている)

★当時の巫師の例として、BC9世紀頃の作とみられる青銅製の像(左図)をあげる。
虎を想わせる獣の皮を頭から被り、両手に鳥を抱いた巫が、正体不明の神獣に乗っている。これは古くからある「巫と怪獣」のモチーフに通じるものだ(図のキャプションに人間形の神と記されているが、むしろ巫だと思われる)。像の下部には差込孔があり、何か竿状のものの先につけて用いたらしい。
先に紹介した殷代の像と比べると、かなりおどろおどろしいが、元来とはこういう存在だったに違いない。(備考8

エリアーデは、シャーマニズムの本質は「忘我(入神)状態で神や祖霊と直接交信することにより、天地が創造された原初の楽園的状況を再現して豊穣の力を取り戻し、生死の境界を越え再び帰還する体験を経て、生命力を回復することにある」と言っている。そうした宗教的恍惚境を達成するために、彼らは動物的な本能に立ち戻る必要があったのだろう。

古代の政治は祭祀と軍事と言う。以上見てきたように、周代(の初め)まで祭祀は依然政治の要であった。しかしこの後、祭祀社会は数世紀を経ずに過去のものとなってゆく。少なくともその影響力は副次的なものに後退する。理由は別に考察するとして(文字のこととか)、その動きは周の衰退と歩調を合わせていた。BC8世紀に入ると、かつての連邦諸国はそれぞれに経済力を蓄え、実力によって勢力拡大を企てはじめた。周(西周)自身は、BC771年、外圧を支えきれずに都を捨てて東方に落ちた。以後東周として命脈を保つがかつての勢威はなく、春秋戦国と呼ばれる混乱期が幕を開けた。
周王朝の成立とともにいったん中央集権化した祭祀は、社会の変動に伴って分断され、地方化し、形式化していった。巫は政治の舞台からはずれ、合理的かつ物理的な勢力が政治を動かし始めた。
春秋時代に入っても河南省周辺や特に楚国は殷の文化を色濃く残し、巫師の勢力もいまだ盛んであったという。しかし中国全体を眺めると、それはすでに特異な文化となっていた。

この時代はちょうど青銅器文明が鉄器文明に変わろうとする境目であり、中国史上おそらく最大の変化が起こった時期であった。人々はそれまでと同じように過去の歴史に、祖先たちの記憶に行動の規範を求めたが、同時に新たな社会構造に適合する新たな規範を模索し始めてもいた。儒教思想が芽生えたのはこの時代だった。彼らは西周の君子政治を理想に掲げたし、殷周の歴史を語る史書が編まれもした。しかし古き良き時代はあくまで理想であった。儒家は鬼神を語らず、現実の戦乱の中では貴重な記録が散逸し、文化が忘れられていった。(備考9

そしてBC3世紀、秦の始皇帝が中国を統一し、やがて漢帝国が姿を現したとき、古い習俗の多くは当時の人びとにとって理解不能なものとなっていた。古い書物は解説書なしに読み解けず、儀式や典礼の意味は昔語りに照らしてはるかに想像するほかなかった。
しかし一方で、漢代は戦乱の間地に潜っていたさまざまな民間伝承が、再び世に現れた時代でもあった。戦国期に失われたはずの信仰(の一部)は、実は各地の地方文化に隠れてしぶとく生き残っていたのだ。それは神仙思想として、道教として、新たな装いとともに復活した。その中にお馴染みの鳥や龍や奇怪な姿の神々、あるいは仙人の原型たるシャーマンたちの姿がある。

★戦国期から漢代にかけての鳥の図像をいくつか挙げてみる。

右図は戦国期の曽侯乙墓の棺に描かれた画像である。交差する龍らしき縄目の両側を対になった鳥が守る、河姆渡文化以来のパターンが継承されている。
下は前漢の墳墓の壁に刻まれた模様で、双鳥が世界樹(太陽樹?)を護持している図とされる。天神の宿る社の樹木に一対の鳳凰を配すこの種の図像は、やはり例のパターンである。

次の二つは後漢のもので、「鳳凰から宝珠(太陽)を享ける巫あるいは仙人」、「銭樹と鳥と巫あるいは仙人 」と説明されている。
銭樹は漢代になって初めて表れるシンボルだが、ルーツは太陽樹と同根であるという。
この類の図は、崑崙山に棲む西王母や蓬莱島に棲む東王公、神人が降る(宿る)世界樹といった神仙世界をテーマとするものが多いが、そうしたモチーフの起源を辿ると、戦国期以前の古い信仰が見え隠れしていることに気づく。

このように中国の文化は、政権が変わろうと社会構造が変化しようと、何らかの形で後世に伝えられていくものらしい。

★以上で殷から漢代にかけての中原文化を俯瞰したが、最後に殷周代に並行したと思われる三星堆文明に触れて終わりとしたい。この文明はチベット高原東部に位置する四川盆地に興った。三方を急峻な山脈に囲まれ、峡谷を割って東方に流れる長江によってのみ外界に開けた隔絶の土地である。その歴史は大きく3期に分かれ、第1期は土着文化でBC28〜21世紀頃。人々は長江の氾濫を避け、盆地周辺の山岳中麓に散らばって住んだ。第2期にあたるBC21世紀〜15世紀、外来の民族が流入して青銅器文化をもたらした。彼らは龍山〜二里頭の中原文化とも繋がりがあったらしく、長江の治水に成功し、流域の広大な盆地を耕し始めた。天府の始まりである。そして殷代〜西周中期に相当する第3期は、天然の要害に守られて独自の文化が発展した。この文明は遺跡の出土品からみて、太陽と鳥を重要なモチーフとする祭祀社会だった可能性が高い。

左の写真は、第3期王朝の遺品として最も有名な異形の青銅面である。縦に飛び出した目は他に類を見ない独特のものだ。しかし張り出した両耳や眉間から立ち昇る羽根状の飾り(または神の気)は、トウテツやそれ以前の神々の表現形式としてお馴染みといっていい。
右図は「怪獣(虎?)に乗った巫女」の像で、良渚文化の「巫と怪獣」に共通したモチーフを感じさせる。徐朝龍氏は西王母の姿を写したものとしているが、今のところ全くの推測である。ちなみに西王母は後代、不老不死伝説の担い手となる伝説上の女王だが、上古には日月の象徴のひとつ(もうひとりは東王公)であり、巫女が司る太陽信仰を担うものであったらしい。彼女は虎の皮を被り、牙を持ち、頭に勝という飾りを戴き、山中の玄室に棲む怪異神として表現された。

左図は青銅製の太陽樹である。高さ4m近い異常な大きさから、王朝の祭祀に重要な役割を果たしたとみられる。複数(9羽)のイヌワシが世界樹(太陽が昇るという扶桑または若木)に止まっており、徐氏によれば、十日神話にある太陽を運ぶ鳥だという。木に止まっていない1羽が、今天を巡っているという趣向だ。この鳥はイヌワシでなくカラスだも言われているが、いずれにしても、太陽と鳥の信仰に関係したものと考えてよい(イヌワシは龍山文化の霊鳥。一方、漢代には太陽を運ぶ鳥はカラスで決まっていた)。

これらの祭祀器は龍山文化から伝わったものと思われるが、中原から見れば僻遠の一地方文化圏である四川省にまで、鳥霊・太陽信仰が広まっていた事実は重要である。(徐氏はむしろ太陽樹の起源は四川省にあったとしているが)。
なお、三星堆文化は、BC8〜9世紀頃、外敵に殲滅され、祭祀器はことごとく破壊され焼かれた後に埋められた。以後その文化を表立って継ぐ者はなかったとされる。しかし、漢代に突如盛り上がった西王母の信仰熱に、「もうじき西王母が縦目の神と共にやってくる。太平の世が始まる」という流言があった。三星堆の目の出た異形神が縦目の神であったとすれば、この失われた文明もやはり民衆レベルで政変を生き延びていた可能性がある。中国は奥が深い。

備考7:鳳族と龍族、龍を祀る巫師
軟玉の話2
に書いたように、大まかに言えば中華民族は北部(山東省あたり)の鳳族と、中西部の龍族が黄河中流域で出会って原型を形作ったといわれている。龍族の祖である黄帝は西方の遊牧民・羌の出自で、平たくいえば羊飼いの裔である。羊や山羊の姿をした神獣やトーテムである龍が崇拝された。舜帝の血を引く鳳族はトーテムたる鳥を祀った。このように(少なくとも)周代以降の文化は、黄河下流域の龍山〜大汶口文化や揚子江下流域の良渚文化に起源をもつ鳥(と太陽)信仰、西方遊牧民の龍信仰、羊信仰が混交したものだったと考えて、ほぼ間違いない。
このページでは鳥を強調しているが、古代中国の人々は、実際にはさまざまな獣や空想上の神々を祀っていたものと思われる。例えば、夏王朝の時代には、拳竜氏、御竜氏など、竜を祀る氏族があった。中国の竜というと蛇身の龍を連想するが、古い図像には、しばしば大きなトカゲの姿で表現された竜があり、彼らはある種の爬虫類を祀るか飼い慣らすかした巫師の一族だったらしい。また周代に盛んとなった易占の「易」は、「説文解字」によれば「蜥易」(とかげ)の意である。易の創始者、伏義は竜身で竜師と号した。やはり爬虫類をトーテムとする巫師の一族だったのだろう。また周王朝も龍を王家の紋章に使った。(戻る

備考8:中国では男性のシャーマンを覡、女性のシャーマンを巫といい、巫覡と総称する。しかし、このページでは巫、巫祝または巫師という表現で男女のシャーマン双方を表わす。

 原型的な巫のイメージには、西アジアの太母神のそれが重なっているかもしれない。例えば次の記述。 「トルコ、チャタル・フユクからの出土品として、焼成粘土でできた高さ15センチほどの奇怪な像がある。その姿は昔の小錦関を思わせ、両側にヒョウを従えているが、ヒョウを象った肘掛けの付いた椅子に、どっかりと腰をおろしているようにも見える。 …これがアナトリア最古の地母神、豊穣の女神とされている。 …この地母神、豊穣の女神は、やがてヒッタイトのクババ、フリュギアのキベレ、ギリシャのアルテミス、と変転してゆくうち、次第にスマートになり、美しさを手に入れ、その太母的な本性を他の神に引き渡してゆく、最後にはローマ神話のダイアナへと洗練されてゆくのだ。」(梨木香歩著「ぐるりのこと」より /一部省略変更あり。)
ちなみに四川省あたり(古代の蜀の国)には、虎をトーテムとする民族が住んでいた、と中野美代子氏が指摘している。 (戻る

備考9:中国では歴史上、王朝の交替期に人口が激減するのが常識だそうだ。その都度旧体制勢力は厳しい粛清を受けて弱体化する。古い文化は政権と関係のない被支配者層(や奴隷)が担い手となって伝えたり、新しい支配者に受け入れられて引き継がれたりするが、それにしても再び日の目を見ず失われる文化も数多いことだろう。(戻る


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