「16世紀ヨーロッパの北方世界認識」の続き
◆中世期、プランタジネット朝(1154-1399)の下でヨーロッパ大陸に跨る領土を持っていたイギリス(イングランド)は、百年戦争(1337-1453)と薔薇戦争(1455-1485)とを経て、15世紀末には絶対王政を敷く島国国家として位地を見出しつつあった。16世紀前半のロンドンは大陸(オランダやスペイン)への毛織物輸出の恩恵を受けた好景気に沸き、やがて新しい交易市場の開拓や領土獲得の夢が語られるようになる。カタイ(中国・インド)への到達を目指す北方航路の探求はその一つの表れで、いずれはスペイン、ポルトガルを出し抜いて、世界の富を我が手に握らんものと意気盛んであった。
1496年に始まるカボット父子の北大西洋航海は、歴史に残る最初の糸口といえる。彼らは北米大陸と沖合いのタラ漁場を世に知らしめた(ジョン・カボットやロバート・ソーン(父)、ヒュー・エリオットらは早くからスペイン領アメリカとの貿易に携わり、1494年頃すでに北米海域を航海していたというが定かでない)。
1508年に行われた息子セバスチャンの航海はハドソン湾から北米東海岸(プリマ・ビスタ/ノルンヴェガ)を南下して戻った。後の植民事業に繋がる先駆的事績であったが、彼と支援者のブリストル商人たちとの望みは、いつにかかってグリーンランド南西の氷の浮かぶ海峡、当時ポルトガルのコルテ=レアル兄弟に因んで
Fretum Trium Fratrum
(三兄弟の海峡)と呼ばれた北方海域を越えてカタイに到ることにあった。
航海の後、セバスチャンはイギリスを離れて長くスペイン王室に仕えるが、年老いて再び帰り、以後、終身総督として北東航路開発に尽力する。ロシアとの直接交易の実現は彼の存在が与って力あった。
この時期、ブリストル商人の一族でロンドンやセビリアで活動したロバート・ソーン(子)(1492-1532)は、インドへの航路として北方海域を経由することの利点を述べ、南方の豊かな物産をイングランドが直接手にとる好機を説く手紙を大使宛てに送っている(1527年 インド諸地方発見論:補記1)。手紙は半世紀を経てディー博士(1527-1608)の手に渡り、やがてソーンが想像もしなかった実を結ぶ。
また 1555年にはリチャード・イーデンによって、スペイン人らの航海を紹介した「新世界の数十年」が翻訳された。イギリス初の世界旅行記集である。この書によってイギリスの人びとは新世界(アメリカ)を現実の存在として認識するようになった。
そして四半世紀後の1570-80年代には北米への植民とカタイへの北西航路発見が国家事業として、また見込みのある具体的な計画として世上に取沙汰される。
◆60年代、ハンフリー・ギルバート(1539?-1583)が自身の航海経験を踏まえて北西航路の優位性を説くと、一攫千金を夢見る海の男たちの中に、ノルンベガ北方の海域を行く最短航路の発見を志す野心家が現れた。マーティン・フロビッシャー(1535/39-1594)はそんな一人であった。彼はロンドン政財界の大立者ジョン・ロックやトマス・ウィンダムらが企てた冒険的なギニア航海に参加して九死に一生を得た後、若い身そらを海賊稼業に投じて勇名を馳せた。やがて宮廷に出入りしてエリザベス女王の御用を勤めるようになったが北西航路への想いは已まず、ジョンの弟でモスクワ会社の重役だったマイケル・ロックや航海知識に優れたディー博士らと交わった。そしてマイケルの支持の下に強い反対を押し切り、当時勅許を保持して北方貿易を独占していたモスクワ会社から航海免許を取り付けた。
マイケルが音頭をとって調えた探検交易船団は25トン以下の小型帆船2隻と10トン級の随伴船1隻で、乗組員は総勢40名に満たなかったが、フロビッシャーはエリザベス女王の見送りを受けて意気揚々と北西に向けて旅立った。1576年6月。あのゼーノの地図をはじめ、いくつかの想像的な地図が航海の導べであった。
◆船団はシェトランド諸島沖で嵐に遭い、随伴船は沈没、もう一隻ともはぐれて、フロビッシャーの乗るガブリエル号ひとり先へ進んだ。7月11日、雪と氷河に覆われた陸地が見えた。海岸は帯状の流氷に閉ざされていた。グリーンランド島の南東部だったが、ゼーノの地図ではグリーンランドはもっと西方に描かれ、この海域はフリースランドの島々が浮かんでいたので、そのどれかだと考えた。凄まじい時化に遭って危うく船を失いそうになりながら南西に流された後、針路を西に数日間進んだ。7月20日、再び氷雪に覆われた陸地に行きあたった。位置を測定するとどの地図にも載っていないので、「エリザベス女王岬(フォアランド)」と名づけた。今日のレゾリューション島である。
その先は北も西も氷に閉ざされていたが、数日後、西への水路が開いたので進入した。それはドーバーよりも広い海峡のようで、船は北側の海岸線に沿って奥へ奥へと進んだ。このとき、氷の張った岸辺から狭い水路を通って何かが押し寄せてきた。アザラシかと見ると、皮を張ったカヤックの群れだった。初めて逢う異人である。顔立ちはタタール人にそっくりだった(黒髪、幅広の顔に平たい鼻)。フロビッシャーは、船は今カタイの辺境部に辿り着いて、南岸のアメリカと北岸のカタイとの間の海峡を進んでいる、このままゆけば太平洋に出るに違いないと判断した。これはカボット以来のイギリス人の旧い地理観に一致した(補記2)。とはいえこの海(フロビッシャー海峡と命名された)はやがて氷原で埋まり、行き止まりになった。
フロビッシャーは小船を出して上陸し、鉱物や植物の標本を集めた。異人たちとは最初友好的な接触を果たしたが、やがて物々交換の不満が出て、するうち小船に乗った5人の船員が戻らない事件が起こった。フロビッシャーは異人の一人をカヤックごと船に攫い上げ、船員と小船の返還を交渉したがうまくいかなかった。氷原が緩んで進路を開く気配はなく、むしろ寒さが日ごとに増してゆく。まだ8月半ばなのに、東から押し寄せる厚い流氷が夜の間に海岸に張りついて水路を狭めた。帰路はほどなく閉ざされるだろう。行く手を太平洋へ抜けるまでに必要な食料も覚束ない。やむなく船首を返してイギリスへ戻ることにした。
10月9日、ロンドンに帰港した。はぐれたもう一隻が前月のうちに帰港してガブリエル号の遭難を告げていたので、一行は暖かく迎えられた。しかし探検の成果は支援した冒険商人たちの期待通りとは言えなかった。カタイへの航路を見つけたとか、タラや鯨が沢山泳ぐ海域を見つけたとかよりも、彼らはもっと即物的な富を、ありていに言えば、金銀財宝や価値の高い交易品を山と積んで戻ってくることを望んでいたのだ。成り行きから連れてきた毛皮を着た異人は「カタイの不思議人」「ピクニアン」と呼ばれて、ロンドン中で大評判になったのだが。(cf.
ヤコブ・クノーエンの書物は、北極点の磁石山を囲む4つの陸地のうちヨーロッパにもっとも近い島に背丈4フィートのピグミー(小人)が住むと述べてあったといい、メルカトルの地図にもその情報が記載されていた。 北方世界認識 補記3 なお、磁北(磁石が示す北)と北極点(地軸上の極北)とは一致しない。当時は北米のメルヴィル島あたりに磁北があった。つまりそこが「磁石山」であった。あたりの海域は冬季はもとより夏季も多くが氷に閉ざされた迷路になっている。)
採集品もたいした話題にならなかった。ところがフロビッシャーが最後まで手放さなかった黒い石のカケラが道を拓いた。ある冒険商人の夫人がどういう理由かカケラの一つを手に入れ、ある日偶然火の中に落とした。石は長い間燃え続けて、気がついた夫人が取り出して酢の中へ投げ込むと、一瞬黄金色に輝いた(あるいは単に黒い石の中に金色に光る粒が露出した)。専門家にカケラを調べさせると、そのうちの一人(錬金術師という)が、多量の純金を含んでいると言った。マイケルらはこの見解(ほかの専門家たちは否定的だったのだが)に飛びついた。なにしろ北方航路が通過する極地方の陸地に金や銀の鉱石がいくらでも転がっているということは、イギリス人の夢の中で、ほとんど既成事実のように考えられていたので、それが証明されたということになったのである。カタイ会社が設立されて勅許が下り、大勢の出資者が集まった。女王の肝煎りで200トン級(240t)の軍船エイド号が下げ渡され、探検資金も与えられた。
こうして翌1577年、フロビッシャーは前年帰還した2隻とエイド号、あわせて
150人の乗員を率いて2度目の航海に出た。航海で発見した海域と無主地を支配する権限を与えられて。
(無主地/無住地とは無人または無人に準ずる(非キリスト教徒の住む)土地で、実効支配の及ぶ限り領有を宣言して差し支えないと、当時のヨーロッパ諸国=キリスト教諸国は考えていた。)
◆今度の航海の第一の目的は金鉱石の採集とされた。それがうまく行かない場合は、北西航路を先へ進む。再び氷に包まれた「フリースランド」を過ぎて(数度の失敗の後、いったん上陸に成功したが、濃霧のため撤退)、前年より少し早く海峡に達した。しかし氷海の状態は悪く、進路を見つけるのは困難だった。フロビッシャーは海峡の南岸を進み、一帯の陸地をイギリス領として宣言した。それから数週間の間に200トンの鉱石を採集した。異人たちと再び接触して彼らの物産品を望遠鏡やベルや玩具の類と交換した。しかし関係はうまくいかず、前年戻らなかった船員たちも見つけられなかった。8月下旬、氷が張って船が閉じ込められる前にイギリスへ引き返した。持ち帰った交換品の中に鉄製の道具があって人びとの興味を掻き立てた。というのも、それは文明社会との接触を示すものであり、昔日のノース人たちとの交易か略奪で得たもの、あるいは記録に留められていないヨーロッパ人捕鯨業者かタラ漁師たちとの交流で得たものと考えられたからである。
「北西鉱石」の分析結果は思わしくなかった。製錬業者たちはほとんど無価値だと言った。カタイ会社の出資者たちは、そんなはずがない、と言った。女王もそうだった。新たに領土となった土地(メタ・インコグニータと命名された)の富への信用は揺るがず、富を守るための恒久的な植民地を建設する気運の昂まりと共に3回目の航海が計画された。仮に今回採集した鉱石の品位が低いとしても、豊かな鉱脈が見つかれば莫大な利益が見込まれる、というある専門家の見解は魅力的であった。
翌1778年はエイド号を旗艦とする15隻の大船団が整えられ、大勢の植民候補者や建設資材を乗せて旅立った。新領土に彼らを降ろして越冬させ、帰路は金鉱石を満載して戻ってこようというのである。かつての北東航路探索と同様、現実の富を前に、商人たちはもはや北西航路どころでなかった。
◆この航海の途次、船団はフロビッシャーがフリースランドと信じる島に上陸し、ウェスト・イングランドと命名して領有を宣言した。ポルトガルのコルテ=レアル兄弟以来の宣言(実効支配)ということになる。そこで一行は、犬を連れテントを携えた住民を見た。メタ・インコグニータに住む異人そっくりである。士官たちの中に、もしかしてここは島でなく実はグリーンランド本土であり、メタ・インコグニータとは深い湾を形成して陸続きになっているのかもしれないと推測する者も出てきた。もしこの海が北方に向けて開かれているのだとしたら、こんなにも多くの氷山に出遭うはずはないのだから、と。
ともあれ、プリマス港を出て1ケ月後にフロビッシャー海峡の口に近づいた。流氷が多く、上陸を果たせないまま悪天候に遭って、建設資材を積んだ船が難破した。船団は散り散りになって南方に流された。後になってある船は、この間、フリースランドの南東に大きな島を見たと報告した。果実が生り、木が生い茂っているようだった、と。島はバス島と名づけられ、ゼーノの地図にあったフリースランドやイカリアに加え、また一つ新たな誤りを地図製作者たちに提供することとなった。というのは、その後誰もこの「沈んだ」陸地を踏んだ者がないのである。
一方、フロビッシャーのエイド号と友人ベスト船長(前回はエイド号に副長として乗っていた航海史家)のアン・フランセズ号は、ある海峡の入り口に難を逃れた。フロビッシャー海峡の延長とみて進入したが、やがてそうでないことが明らかになった。間違った海峡なので、ミステイクン海峡と命名した。風や干満の様子から見てはるか西へ伸びているに違いなく、このまま北西航路の探索を続けたい誘惑に駆られたが、任務を優先して引き返した。
船団は強風で氷が開いたフロビッシャー海峡に再集結した。南岸の湾に投錨し、入植地の建設と鉱石採集を始めた。ナイフや釣り針などの鉄製品を欲しがって異人たちが近づいてきたが、フロビッシャーはもう毛皮との交換を歓迎しなかった。それよりも彼らを水先案内にして探検を続けたかったが、やはり友好的な関係を築けなかった。100人がかりの鉱石採集が遅れて夏も終わろうとする頃、フロビッシャーはエマ号に志願者を乗せて海峡を西へ進んだ。が、今度も厚い氷原に行く手をさえぎられた。資材不足から入植地建設は進まず、入植候補者たちは極寒の気候に接して不満の声を上げた。結局、越冬を断念し、船団は800トンの鉱石を積んでイギリスに戻った。
◆ほどなく、計1000トンの北西鉱石は金鉱でないことが決定的になった。それは「愚者の金(雲母)」を含むだけであって、道路の舗装材にしかならなかった(補記3)。カタイ会社は破綻した。冒険商人マイケル・ロックは破産して、一時は入獄の憂き目をみた。フロビッシャーも出資者への穴埋めに全財産を投げ出したが、その後、1585年にイギリスとスペインが戦争状態に入ると、ドレークの副官として私掠船に乗り組み、西インド諸島への掠奪遠征で莫大な財産を築いた(ちなみにドレークに出資した女王への配当は4,700%だったとか。これは当時の国庫歳入よりも多かった)。1588年のアルマダの海戦では司令官の一人として戦い、戦功によって爵位を授かった。
なお、探検航海の動機として、行く先の陸地に豊かに眠る金銀鉱石のイメージは、大航海時代の始まりから何時に変わらず冒険家や商人たちを惹きつけてきた強力な神話であった。イギリスにおいても然り、フロビッシャーの航海によって熱が冷めるものではなく、この後も幾度となく繰り返される夢であり続ける。
北西航路を説いたハンフリー・ギルバートは、北米をカタイへの橋頭保とするべく、勅許を得て
1578年にノルンベガ(ニューファンドランド島)入植を目指した。この時は不首尾に終わったが、1583年、2度目の航海に赴き、その夏、バスクはじめヨーロッパ各地からきた捕鯨船団が見守る中、同島の領有を宣言した。この時、同行したドイツ人技師が銀と鉄の鉱石を見つけたというので銀山を求めて船を進めたが、1ケ月後、嵐の海に消息を絶った。
この頃から本格化した北米入植の動きは、ロアノーク島の失踪事件など当初は失敗の連続で、1607年にようやく初の永続的植民地(ヴァージニア植民地)がジェームズタウンに建設された。これも産金を当て込んでの入植だったが、あいにく金は発見されなかった。ちなみにこの移民団に与えられた指令書にも「大きな河を北西に遡って太平洋へ出ること」という項目があった。
1611年、エペナウという北米先住民は誘拐されてロンドンで見世物にされたが、故郷のマーサズ・ビニヤード島に金が出ると持ちかけ、彼をガイドにした探検隊が組織された。島に着くとエペナウは逃げた。ジェームズタウンの入植を請け負ったジョン・スミスは、この話を元に、マーサズ・ビニヤード島に金が出るならニューイングランドの他の地域にも金があるはずだと説いて、1614年の航海資金を手に入れた。人は金の話に弱いものである。
フロビッシャー海峡は後になって、バフィン島南部に形成された長い入り江であることが分かった。今日フロビッシャー湾と呼ばれている。フロビッシャーが引き返したミステイクン海峡はハドソン湾に続くハドソン海峡だった。彼が連れ帰った異人はイニュイ(イヌイット/カナダ・エスキモー)で、当時のイギリスでは初めて見る民族だったと思われる。
ついでながら、バフィン島最北部のナニシビクには巨大な硫化金属鉱床があり、20世紀最後の四半世紀、「世界で二番目に北極に近い鉱山」として稼動された。この鉱山は北極圏より
700km
北に位置している。亜鉛を目的に副産物として鉛や銀を得た。ここから出た黄鉄鉱の標本は、1980-90年代には鉱物愛好家にお馴染みの銘柄品であった。
(続く ⇒ ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見2)
フロビッシャーの航海に参加したジョージ・ベアによる地図(1578年)
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3回目の航海でフロビッシャーとともにミステイクン海峡に進入したジョージ・ベストの地図(1578年)
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(補記1)ロバート・ソーン(子)は、1527年に書いた2通の手紙の中で、スペインの西周り航路やポルトガルの東周り航路と比べて、北西航路はモルッカ諸島までの距離が2,000リーグも短いこと、北極圏の夏はつねに昼の明るさの中を航海するので危険が少ないことを述べた。また、行く先にある赤道直下や周辺の島々には、クローブ、ナツメグ、メース、シナモンが豊富にあり、ある島は金、ルビー、ダイヤモンド、花崗岩、バラスルビー、紫水晶などの宝石や真珠があふれている、今こそイギリスがこれらの富を手に入れる時だと鼓舞した。
(補記2)カボットの時代には、アジア大陸の北部は、アメリカ大陸の北方を大きく東に張り出しており、ニューファンドランド北側の海峡(ハドソン海峡)以北に見出される土地は、アジア大陸(カタイ)の一部であろうと考えられていた。
一方、ジョン・ディー博士はアラビア学者アブルフェダの説を採って、アジアはそれほど東に延びておらず、北米大陸の北西部とアジアの北東部の間に、陸地を南北に分断する海峡(アニアン海峡)があると考えた。北西航路の探索では、太平洋側からこの海峡を北上した後、東進してヨーロッパへ向かうルートを探す試みもあった。
(補記3) 黒色の北西鉱石は黒雲母片麻岩の層を含んだ角閃岩で、この雲母が鉱石を金色に光ってみせたという。分析されたサンプルにまったく金が含まれていなかったわけではないが、その量はきわめて微量だった。現代の原子吸光分析法によると 5-14 ppb (5-14/1,000 ppm)程度の金と 5-175ppb程度の銀を含む。16世紀当時の鉛灰吹き法での分析結果の中には、これと同等の記録もあれば、3-4桁高い濃度が記録されたものもあり、後者は十分に採算に合うと考えられた。フロビッシャーが鉱石を初めて採集したのはフロビッシャー湾北岸の現コドルナーン島で、ヨーロッパ人が初めてカナダで開いた鉱山ということになる。採集された鉱石の量は計 1,400トンともいわれる。
(補記4)16世紀半ば、モスクワ会社が北東航路の探索に
ヒュー・ウィロビーを送り出した時、未知の土地で探検隊がどのように行動すべきかを事細かに指示する命令書が手交された。緊急時以外の武力行使は堅く禁じられ、慎重で礼儀正しい振る舞い、女性の尊重、原住民の宗教に対する寛容が極めて重要であるとされた。
次のような指示もある。「陸地で石や金や金属などの類を採集する時には、まず小船を近寄せて何を集めるかを原住民にはっきりと示すこと。太鼓などの楽器を演奏して彼らの気を引き、音楽や歌声に耳を傾けさせて気持ちを和ませること。そうして危険から身を守ると共に、探検隊に敵意も厳しさもないことを示せ」
こうして探検隊は、行く先で出会う土地や国や住民について、天然資源の詳細や通商の可能性について、細大もらさず調査し報告を持ち帰らねばならないのであった。1580年のアーサー・ペットらの北東航路探検隊にも同じ指示が与えられており、フロビッシャーも未知の土地でのこうしたマニュアル対応は承知していたと思われる。
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