北西航路と北西鉱石の続き。
◆グリーンランド島へのヨーロッパ人の進出は、遅くとも10世紀末にノース人(バイキング)によって行われたことが確実で、それから4世紀ほどの間、島の南西部に植民地が繁栄した。しかしノルウェーからの交易船が途切れると、その存在は半ば忘れられ、やがて植民地自体も放棄された。放棄の経緯は今もって謎だが、原因の一つとして中世の温暖期に行われた植民の後、1300年頃から急激に下がり始めた気温が挙げられている。グリーンランド南部の平均気温は1350年頃を底に再び上昇に転じたとみられるものの、欧州から北方海域への航海は難しくなったままであった。そして自給自足体制になかった島の経済は行き詰まってしまったのではないかという。
島の北方から現在のイニュイ(カラーリット)の祖先となる人々が南下してノース人の生活圏内に現れたことも、何らかの影響を与えた可能性があると言われている。あるいは歴史に残っていない欧州側からの介入も指摘されている。
ノルウェーに残るグリーンランドの記録は1408年で途切れる。しかし、デンマーク=ノルウェーのエリク7世は
1415年にイギリスのヘンリー5世に対して、デンマークが領有する島々に向けてイギリスが許可なく船団を送っている、と抗議しており、
1432年の二国間条約でイギリス側は私的交易を禁ずる改善策を示している。これは直接にはアイスランドへのイギリス商人の勝手な来訪を抑止したものと解釈されるが、彼らはアイスランド人の水先案内を雇ってさらにその先、グリーンランドへも船を進めたと考えられている。そして植民地の破壊につながる海賊行為があったかもしれない。
1448年にニコラス5世法王がアイスランドのスカルホルトの司教に送った手紙は、司教不在のまま30年(実際はもっと長く)を過ごしたグリーンランドの教区に牧師を派遣する指示を与えている。かの地は異教徒の侵略を受け、教会はこぼたれ、住民は監禁の憂き目にあっているのだから、と。ここで異教徒とはイニュイばかりでなく、暗にイギリスの海賊を指していたらしい。
18世紀にハンス・エゲデが採集したイニュイの伝承によると、ある時、3隻の船にあふれるほど乗った異人たちが、グリーンランドの南西岸に上陸して、ノース人の集落を襲った。ノース人は戦い、1隻を捕獲した。2隻は逃げ去った。ところが暫くすると、規模を増して大きな船団が押し寄せてきた。大勢のノース人が虐殺された。あるものは捕虜として連れ去られ、住居は破壊された。難を逃れたノース人の多くは小船を作って島を去り、残ったのはごく少数だった。異人は数年後にまた来襲した。ノース人はイニュイ人の集落に逃げたが、その集落もまた襲われたので、両者は共に島から出た。彼らが戻って来た時、ノース人の農場はすっかり廃墟と化していた。それからノース人はイニュイと一緒に暮らし始めた、という。しかし、もちろん、何か証拠は?といえば、つまりは立証不能な謎というほかないのである。
1484年にベルゲンで起こったある騒動の記録は、ドイツ人の一団が別の国の船乗りたちに殺された経緯を語る。彼らはグリーンランドで手にいれた貴重品の数々を自慢して相手を怒らせ、争ったのだ。その頃グリーンランドにまだノース人が残っていたのか、あるいはイニュイとの交易で手にいれたものか、委細は不明である。
ともあれ大方の見方は、西植民地は1400年頃までに失われ、東植民地はその後も数十年間存続したが、1450年代か少し後に放棄された、というあたりに落ち着く。
◆1490年代のコロンブスによる中米(インディアス)発見やカボットによるノルンベガ(プリマ・ビスタ)発見の報は、ヨーロッパ諸国の宮廷を速やかに駆け巡った。刺激を受けたデンマークのクリスチャン2世(在位1513-1523)は、それまで放置されていたグリーンランドのノース人植民地を足がかりに北西航路を探索する計画を立てたという。1520年に海軍総督のゼーン・ノービイを司令官に遠征隊が送られることになったが、王と総督との間が険悪になって実現しなかった。またフレゼリク2世(在位1559-1588)は治世中にグリーンランドへ何度か(1568-1581)遠征隊を送り出したが、いずれも目的地に達しなかった。今後は年に2度の定期官船を送ると約した手紙を植民地宛てに認め、最初の遠征隊に託していたのだが…。
デンマークの王は歴代、音信を失って久しいグリーンランド植民地再発見の望みを持ち続けたが、結局、植民地のことなどそ知らぬふりの、イギリス人航海者に先を越された。そしてその時にはもうノース人の姿はそこになかったのである。
◆コルテレアルの発見した「アジアの先っぽ」(1500年)や、フロビッシャーが領有宣言した「ウェスト・イングランド」(1578年)は、今日のグリーンランド島南岸であったと考えられるが、彼らは(世間も)この地をグリーンランドと認識したわけではない。とはいえフロビッシャーと行を共にした仲間の中には、それが島(フリースランド)でなく、(ゼーノの地図では)北西方にあるグリーンランドと地続き、あるいはグリーンランドそのものではないかと考える者もいた。
そして、実際にこの陸地の西岸域を北緯66度まで北上して「グリーンランド」を踏んだのは、フロビッシャーの後を継いで北西航路の探検に出たジョン・デイヴィスの遠征隊だった(当時の地図はグリーンランドの南端が北緯65-66度あたりに描かれていた。 メルカトルの地図(1569年)及びオルテリウスの地図(1570年)参照。実際のグリーンランド南端は北緯60度にある。ちなみにゼーノの地図ではデンマーク半島やノルウェー南端、アイスランドなどがいずれも5度高い緯度に描かれていた)。
1570-80年代のイギリスは北西航路探索の機が熟し、ハンフリー・ギルバートのような地方の富裕階級出身の論客・航海家もいれば、深い知識で航海術を指南するディー博士のような(天文)数学者も控えていた。スポンサーとなって遠征資金を出し合うマイケル・ロックのような冒険商人たちがあり、国政を担う政治家の中にも賛同者が得られた。
フロビッシャーの航海で顧問的な働きをしたディー博士は、その航海が当初の志を放り出して金鉱探しの茶番に終わった後も、北方航路の現実性に疑いを挟むことはなかった。(補記1)
世間では北西航路への熱意はいったん冷めてしまったが、折からペルシャにトルコ人が侵入して東方貿易に翳りが生じたため、再び北東航路への期待が高まった。四半世紀ぶりの探検計画が浮上すると、ディー博士は、北東航路の最北部はノルウェーのノース岬であって、その後の航路はつねにこれより低緯度にあることを保証して(言い換えれば、プトレマイオスが北緯80度においたタビン岬を否定して)、出資者たちを安心させた。こうして
1580年、アーサー・ペットとチャールズ・ジャックマンが指揮する2隻の船が送り出された。しかし氷に閉ざされたカラ海を越えることは出来なかった。他に打つ手もなく2隻は引き返したが、ペットの乗るジョージ号は乗組員みな瀕死の状態でようやっとの帰還、ジャックマンのウィリアム号はノルウェー海岸沖で遭難して果てるという惨憺たる結果に終わった。イギリス人は北東航路への関心を失った。(補記2)
しかし北西航路にはまだ望みがあった。ディー博士、ハンフリー・ギルバートの弟エイドリアン・ギルバート、ギルバートと異父兄弟のウォルター・ローリーや、国王秘書長官のフランシス・ウォルシンガム、商人のサンダーソン(ギルバートの姪の婿)、ビールズ、ハドソンらは、何度も会合を重ねてその可能性を話し合った。遠征隊が組織され、隊長にはハンフリーやエイドリアンらと同郷で幼少の頃から知り合いだったジョン・デイヴィス(1550?-1605)に白羽の矢が立った。腕のよい(また人格の優れた)船長として評判を得ていたのである。この航海には、あるいはハンフリーも乗り出すはずだったかもしれない。だが彼は1583年の北米航海で、ニューファンドランド島の領有を宣言した後に消息を絶つ。
イギリス最大の知識庫と言われたディー博士の居宅で、デイヴィスらは航海案を練った。参考にしたのはメルカトルやオルテリウスら、当時の欧州が誇った著名な地理学者たちの地図であった。コルテ=レアルやカボットの航海以来、夏になると漁師たちが押し寄せるタラの国、ラブラドルといったノルンベガ北方の情報も参考となった。ノース人のサーガは当時のイギリスではもとより知られていなかった。「リンのニコラス」の航海はイギリス人になじみの伝説だったが、航路の参考にはならなかったようである。
フロビッシャーの航海ももちろん検討された。1982年にハクルートがまとめた「アメリカ発見に関する諸航海」には、古いヴェラツァーノの地図を下敷きにマイケル・ロックが(フロビッシャーの航海も踏まえて)まとめた地図が載っている。これらを検討して探検隊が目指したルートは、厚い氷原が行く手を阻んだフロビッシャー海峡よりも、さらに北にあるはずの広い海を進むことにあったようだ。
これはメルカトルやオルテリウスの地図ではグリーンランドの西側を北緯72度まで北上してゆく、ロックの地図では少なくとも北緯67度、メタ・インコグニータの北を回って行く、北極圏を通過する航路である(風向きと氷海とに逆らえず、結局、より低緯度にルートを探すことになるのだが)。遠征資金はサンダーソンが音頭を取って調達したが、ハクルートの報告は彼ら商人を動かすに(北西航路の可能性を信じさせるに)大きな力があったと言われている。
1583年、遠征隊の準備が整う前にディー博士は別の(オカルト方面の)用事に迫られて旧大陸に旅立った。モートレイクの魔術師と呼ばれ、天使召喚術に耽る博士に近隣の住民はよい感情を抱いていなかったので、不在になるや居宅に押し寄せ、博士がせっかく修道院破壊の混乱から救い出した貴重な書籍や蒐集品を略奪し燃やした。北西航路の仲間たちは動揺したが、しかし、動き出した歯車は止まらなかった。2年後、遠征隊はその準備が整った。
マイケル・ロックがハクルートのために描いた地図(1582年)(部分)
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◆最初の航海。
1585年はイギリスにとって記念すべき年だったと言われる。この年、ウォルター・ローリーはイギリス人として初めて北米大陸の土を踏み、エリザベス処女王に捧げてバージニアと名づけた。インドに初めてイギリス人が到達したのも同じ年という。
そしてデイヴィスの率いる2隻の船がダートマスを出航したのは6月7日のことだった。50トンのサンシャイン号と35トンのムーンシャイン号。デイヴィスの乗るサンシャイン号には船員のほか、4人の楽師、船大工、商人、銃手、ボーイら23名が乗った。楽師はデイヴィスの発案で、士気を維持し、未知の土地で出会う人々との親睦を図るためだった。(cf.
北西鉱石 補記4)
船は風の具合で南西に運ばれた後、東に吹き戻され、14日にはまだシリー諸島(コーンウォール半島の尖端近く)にあった。そのまま長い風待ちをして、28日にようやく東風に乗って北西海域に向かった。7月6日には鯨の泳ぐのが見えた。鯨の姿は毎日あり、16日以降は鯨の中を航行するようだった。19日、大渦巻きに翻弄されて北へ流された後で、きわめて穏やかな海に入った。やがて濃い霧が籠め、すぐ近くにいる互いの船影も見えなくなった。そして霧の向こうから岸に打ちつける激しい寄せ波のような轟きが伝わってきた。座礁でもすると大事である。デイヴィスらは小船を下した。30分おきに空砲を撃って位置を知らせるよう銃手に告げて、状況を調べに出た。音のする西方へ進んでゆくと大きな氷塊に囲まれた。とよもす響きはたくさんの海氷がうねる波にゆられて立てる音なのだった。夜になって船に戻り、回収した氷から良質の水を得た。進路を北に向けた。そうすれば陸地があっても回避出来ると考えたのである。翌日、霧が晴れると、果たして船はひしめく氷に縁どられた海を隔てて、砂糖菓子のように白い雪に覆われた陸地に沿って進んでいた。「かつて目にしたことがないほどの、徹底的に崩壊した岩と山脈の陸地」であった。デイヴィスは「荒廃の地 land of desolation」と名づけた。
翌日は北風が吹いた。船は海岸沿いに南南西に下った。その夜、彼らは陸地に向かう開水面があり、海岸あたりをカヌーが通るのを見たように思ったので、翌朝は小船を下して上陸可能な地点を探しに出た。が氷に阻まれて陸に近づけなかった。陸と氷とを避けて針路を南にとった。23日は東北東から西南西に伸びる陸影を見ながら南西に進み、翌24日は東西に伸びる岸を見ながら西に進んだ。沿岸はやはり氷で埋まっていた。おそらくこの氷のせいであろう、おそろしく寒かった。気候はイギリスの4月のようでむしろ暑いくらいだったのだが、陸地から吹く風にさらされると途端に冷え込むのだった。デイヴィスは船員へ食糧の特配を指示し、士気の維持を図った。陸影は 25日には見えなくなった。探検隊は船首を北西へ回し、北西航路の発見を目指して4日間進んだ。
7月29日、北緯64度15分。向かい風の中、北東方に陸地を認めた。沿岸に氷がないので風待ちのため近づいてみると、海峡は穏やかで航行しやすく、陸に深く入り込んだ入り江がいくつも見られた。多くの島々からなる土地なのだろう。ある小島に上陸して水と木材を補給した。人が生活した形跡があった。
別の島で、デイヴィスらはある大きな岩のてっぺんに上がり周囲を見渡した。そこで住民たちは侵入者に気がついたらしい。白人たちにはまるで泣き叫ぶように、あるいは狼の遠吠えのように思える、悲しげな声が聞こえてきた。カヌーに乗って近づく大勢の人影がある。デイヴィスらは大きな音を立てて、船の仲間に合図をした。船長は急ぎ救援隊のボートを降ろし、楽師たちを連れてきた。こうして最初の接触は、音楽が奏でられ、白人たちが踊り、親しさをアピールする中で行われた。異人たちもこれに応じ、太陽を指さして自分の胸をたたいた。白人たちが真似をすると、彼らは警戒を解いた。夕暮れまで両者はともに踊り、贈り物を交換し、それから白人たちは船に引き上げた。ここの住民は太陽を偶像崇拝する民族なのだと考えた。簡単に懐柔できて、くみし易い、と思った。
入り江は、北米に消息を絶った友ハンフリーに因んでギルバート入り江と名づけられた。翌日はまた交歓と贈り物の交換に過ぎた(あざらしの毛皮やら衣服やら、ヤリやオールや異人の生活用品の数々を手に入れた)。あたりの岸辺には夥しい数の海獣や魚の骨が散らばっていた。海崖はフロビッシャーがメタ・インコグニータから持ち帰った鉱石にそっくりの岩でできていた(「モスクワ・ガラス」と報告されている)。岩の上にハーブが育ち、その実は甘く、熟した汁の味は発酵酒のようだった。丈の低い白樺や柳のやぶが生えていた。デイヴィスらは異人たちが毛皮をたくさん貯えているとにらんだ。異人たちはデイヴィスらがそれを欲しがっていると考え、取りに戻って明日持ってくると身振りで伝えた。しかしその夜、風向きが順風に変わった。8月1日早朝、デイヴィスらは神の命ずるまま、入り江を離れて北西航路を続けた。
8月6日。北緯66度40分。西方に陸地を発見した。湾部に進入して、雄大な山峰の下、海崖が金色にきらめくあたりに投錨した。山はローリー山と、その下の湾はエクセター湾と、湾の北端はダイヤーズ岬、南端はウォルシンガム岬などと命名された。ホッキョクグマがいたので、喜んで狩った。岸辺には丈の低い薮やプライムローズのような花が見られた。山地は木も草も土もない岩肌で、巨大な岩塊が聳えるばかりだった。気候は穏やかだった。
8日、南南西から北北東に伸びる海岸線を南に下ってゆき、南端の岬に出た。そこから西へ向かう水路を北西航路への入り口と考え、神の御加護岬と名付けた。霧が出てくる中、「ノースランド」の沿岸を進んでゆくと、水路が二股に分かれた。2隻は分かれて進み、ここに5日間を過ごした。
14日、人が住む形跡を認めた。15日、犬を見た。狼だと思って殺したが、毛皮製の首輪をつけており、どうやら飼い犬らしかった。次には橇を見つけ、17日には石積みの竈を見つけた。こうして航路を求めて進むうち、彼らはこれが北西に開いた海峡であると推測すべきいくつかの徴を認めた。この海はいくつもの島々の間を水路が通る瀬戸の様子をしていた。水色は大洋となんら変わりなかった。西方の島々には鯨の骨が見られた。東海域では鯨を見なかったのだから、西から来るのに違いなかった。海峡を20リーグ進んでも水深は90ファソムあり、西へ向かうほど深くなってゆく…。
彼らは今後の方策を検討した。気前よく特配を続けたため、食糧が乏しくなっていた。21日、北西の風に乗って沿岸を巡り、たくさんの湾や入り江を見つけた。やはりこの陸地は島の集まりらしい。23日、再び人が生活する形跡を見つけた。24日、帰国にお誂えの風が吹いた。そこで彼らは「ノースランド」を離れた。翌月9月10日、「荒廃の地」にかかり、激しい嵐に遭った。27日、イギリスの島影をみた。その夜は大嵐になった。30日、遠征隊はダートマスに帰着した。
◆2度目の航海。
出資者たちが、この報告に満足したか、といえばもちろんそうではなかった。デイヴィスやエイドリアン・ギルバートは探検が順調に成果を上げたと説明するのに随分忙しい思いをした。しかしデイヴィス自身はこの航海で自信を持ったらしい。北西航路は北東航路と違って、ほとんど一年中通航できそうだとか、気候も耐えられるくらいだし、魚がいくらでも獲れるし、アザラシや鯨や海鳥もたくさんいるから、毛皮や羽毛や鯨油の取引きなら今度の航海で発見した土地ですぐにも始められる、などと楽観的な予想を並べた。
商人たちは気を取り直し、翌年はさらに船を2隻増やして遠征隊が組まれた。デイヴィスは120トンのマーメイド号に乗った。前年の航路へはデイヴィスらの2隻が向かい、リチャード・ポープの乗るサンシャイン号ともう1隻は「荒廃の地」の東の海域を、アイスランドとグリーンランドの間を抜けて、可能ならば北緯80度まで北上し、北西に抜ける航路があるかどうか探ることになった。
5月7日にダートマスを出港した船団は、シリー諸島からアイルランドの南部を回航して南南西に向かい、13日になって北西に針路をとった。4隻は緯度60度まで共に進み、6月7日に2手に分かれた。この後、サンシャイン号らは氷の浮かぶ海を北上し、島影を見つけて接近、6月12日に島の港に入った。北緯66度。アイスランドであった。大勢のアイスランド人が暮らし、彼らに交じってイプスウィッチから来たイギリス商人たちの姿があった。それから北西に向かったが、島のように大きな氷山に挟まれてしまった。夜までかかって抜け出した後は針路を南西へ転じた。7月7日、「グリーンランド」を目にした。雪に覆われた山は高く、青かった。海岸は氷で隔てられて上陸できなかった。船は氷山を道連れに沿岸を南下し続けた。17日、昨年目にした「荒廃の地」に差しかかったが、やはり上陸できなかった。翌日の深夜、船は氷に閉じ込められ、脱出するのに大変な思いをした。こうして8月3日、緯度64度15分、前年訪れたギルバート入り江に達した。グリーンランドの北を回れなかった場合の会合地点をここと定めていたのである。
◆一方、マーメイド号のデイヴィスらは、6月15日、北緯60度、西経47度に陸地を発見した(おそらく北緯59度45分西経44度にあるグリーンランド南端)。岸辺は厚い氷に閉ざされていた。帯状に広がる浮氷を迂回するため
57度まで南下し氷のない海へ戻ったが、その後何度も激しい嵐に見舞われた。6月29日、北緯64度、西経58度30分、再び陸影に接した(この経緯度点はデイヴィス海峡の真ん中あたり)。折からの逆風を避ける場所がないか小船で調べに出ると、そこはあのギルバート入り江であった(北緯64度18分西経51度73分にある現在のヌークあたり)。ここなら木材が手に入るし、御しやすい住民もいる。前年の上陸点近くのある島に入った。雪が少なく、海に氷がなかったからだ。真水を探しに船を出すと、異人たちがカヌーで向かってきて威嚇の声を上げた。だが、顔見知りの船員を見つけると熱烈歓迎に変わった。デイヴィスは商人を連れて彼らに会いにゆき、贈り物として20本持ってきたナイフを居合わせた全員(18人いた)に1本ずつ渡した。
今回は沿岸調査用の縦帆船を半組みで持ってきていたので、翌日、さっそく陸に上げて組み立てにかかった。その間にも異人たちは交換用のさまざまな物品を持って押し寄せた。「イルイアウート」と呼びかけながら近づいてくるのが彼らの流儀だった。
デイヴィスは異人たちの生活ぶりや住居の様子、また植生や地理などを調べたかったので、小船に乗って調査に出た。残る者たちには絶対に誰かを傷つけてはならないし、発砲してもならない、と釘をさしておいた。土地はイギリス北西地方のような趣きのムーアだった。入り江の奥まで行き、さらに数マイル内陸に進んでから戻った。その間、ずっと異人たちがつきまとっていた。
翌日も調査に出たが、異人たちはデイヴィスについて離れなかった。何をするにも手を貸そうとする。煩わしくなったデイヴィスは部下に彼らを引き離させようとしたところ、やり過ぎて取っ組み合いが起こってしまった。白人たちは異人が手ごわい格闘家であることを知った。
縦帆船は7月4日に仕上がった。この日、木を集めに出た船長は、ある島に墓を見つけた。あざらしの毛皮で覆っただけの簡素なものだったが、その上に十字架が倒れていた。デイヴィスはキリスト教徒の墓だと考えて、以前、ディー博士が話してくれたことを思い出した。コルテレアル兄弟のひとりが北西の地に何人かの仲間を埋葬した、というのである。
ところで異人たちは、だんだん遠征隊の手に負えなくなっていた。白人たちから見ると彼らは偶像崇拝者で、おかしな妖術を使おうとする。肉を生で食べ、塩水を飲み、草を食む。気性のさっぱりした感じのいい人々だが盗癖があり、ことに鉄製品に目がなかった(銅製の道具は持っていたが、鉄器は知らなかったようだ)。鉄のためなら乗ってきたカヌーでさえ喜んで交換したがるのはいいとしても、索具を切ったり、小船を持ち去ったり、オールや槍や剣や銃や投石器や、鉄を使った道具をなんでも勝手にとっていく。
7日、デイヴィスは縦帆船に乗ってまた調査に出た。ここが広い陸地につながっているのかどうか、どうしても知りたかったのである。高い山の上に登って周囲を見渡したが、山並みは高く展望は開けなかった。しかし翌日、広い川を遡り、彼らはそこがやはり島々の集まりで水路が無尽に走っていることを確認した。
戻ってみると船のイカリが盗まれていた。船員たちはデイヴィスが発砲を許可しないことがいかに間違っているかを訴えた。異人たちの投石や窃盗を手を拱いて見ているのは我慢ならなかったのである。それでもデイヴィスは許可を与えなかった。
10日、彼は「ニューランド」に上陸して何人かの異人を船に招待して丁寧にもてなした。しかし日没前になると異人たちはもう1隻の船ムーンライト号(史家はムーンシャイン号とする)に投石を繰り返し、船員の一人が怪我をした。デイヴィスは憎悪の念に駆られ、威嚇射撃を命じて異人たちを蹴散らした。
翌日、5人の異人が、仲直りだか物々交換だかのためにやってきた。デイヴィスらはその一人を拘束し、イカリを返したらこの男を放免することを伝えた。しかしその後すぐに風が吹き始めたので、男を連れたまま出航することになった。脅しつけると男はよい仲間になった。寒がりで、デイヴィスが与えたイギリス流の衣服を非常に喜んだ。アマクジュアクと名乗るこの男は、その後出会う異人たちとの取引(イルイアウート)に随分と役に立ったし、彼らの言葉の辞書を作るときは進んで手伝いをしたという。
◆7月17日、北緯63度8分。夥しい数の氷山の群れに遭遇した。その一つはたとえようもなく巨大で高く、湾や岬を形づくり、懸崖の上に陸地があるようだった。それで小船を出してみたが、やはり全体が氷で出来ているのだった。30日までこの巨大氷山群の周囲を航行したが、どうにも迂回できそうになかった。大気は冷たく、行く手は氷塊で埋まっていた。船の装備は索具から舵から凍りつき、氷が張りついた。昨年の今頃はまったく氷がなく、航路は完全に開けていたというのに。船員たちは体調を崩し、探検の望みを失った。どうか未亡人や孤児たちを作るような目に遭わせないでほしいとの懇願にデイヴィスは動揺したが、一方で北西航路を発見した暁に手に入るであろう栄光を想うと事業をあきらめる気にもなれなかった。また成果を上げずに帰る不名誉も望まなかった。結局、大型のマーメイド号を残し、志願者を募って小型で機敏なムーンライト号のみで先へ進むことにした。
船団はいったん東南東へ引き返し、北緯66度33分西経70度に発見した雪氷のない陸地に停泊した。8月2日である。ムーンライト号の手入れをする間に、陸地を調査したが、東も西も北も海に囲まれた島のようだった(特徴的な形の山から、後にサッカートッペン「砂糖帽子山」の名で知られる場所)。気候は暑く、マスキータと呼ばれる羽虫に刺しまくられて、さんざんな目に遭った。ここにも異人たちが住んでいたので、友好の印に贈り物を与えた。衣服や生活様式は先に会った異人とほとんど変わらなかったが、話す言葉の調子は少し違っているようだった。彼らとも物々交換をした。
◆8月12日、マーメイド号をおいて、再び西方へ向かった。14日、北緯66度19分。氷に覆われた陸地を発見した。15日、進路を南へ向け航行。18日、北緯65度、北西方に陸地を見た。その南には陸がなく、どうやら西へ抜けられそうであった(「神の御加護」岬の南の海とみられる)。午後になると南南西に陸地が見えたので停泊した。その後彼らは船を南へ向けたが測量してみると南西へ進んでおり、西に向かう強い潮流に乗っているらしかった。目にする陸地は島嶼のようで、水路は先へ続いていると思われた。19日の午後、雪が降り始めた。強風を伴っていたので、帆を降ろし岸辺に難を避けた。雪は一晩降り続いた。嵐が去った翌日、上陸して高い丘から眺望すると、そこが島であることが分かった(レゾリューション島とみられる)。午後、イカリを上げ、北北東の風に乗って島を離れた。南の沿岸に西への航路を探したが、28日になっても陸地はまだ南へ延びていた。緯度にして67度から57度まで下ったのであるが。
この陸地には数えきれないほどの鳥、カモメやウミネコが棲んでいた。釣りをすれば、タラが山ほど獲れた。緯度56度によい停泊点があった。両岸に樹木が茂っていた。豊かな植生である。上陸してほしいままにさまざまな鳥を獲った(後にナイン伝道所が建てられる、ラブラドル海岸の湾部という)。
さらに南へ下り、9月3日、北緯54度30分に、小イカリを降ろし、釣りを試すと、釣り針が海面に触れるか触れないかのうちにタラが入れ食いで獲れた。誰もがこんな漁場は見たことがない、と口を揃えた。
9月6日、北北西の風、出航前に保存食用の魚を獲りに5人の船員たちをある島の浜辺に上げた。ところが非友好的な異人が藪に潜んでいて、襲いかかってきた。仲間は銃撃で異人を追い払ったが、2人が殺されてしまった。その夜から天候は大荒れになり、10日まで続いた。艤装を解き、マストを切り詰め、大イカリを降ろし、後は天候にまかせて岸辺に漂うほかなく、船は惨憺たる有様となった。
11日に嵐が去ると、風は西北西から吹いた。夏も終わりである。遠征隊はイギリスに向けて出航し、10月4日ダートマスに戻った。
◆ギルバート入り江に入ったポープ隊に話を戻すと、到着した翌8月4日には上陸して異人たちと交渉を持った。商人たちはせっせと物々交換に励んだようである。何があったかはっきりしないが、それから2週間ほどの間に行き違いが起こったらしい。それとも、行き違いはすでに前月のうちに、デイヴィス隊との間で起こっていたとみるべきか。白人からすると異人たちは、欲しいもの(鉄)が交換で手に入らないと盗んでいく、ということになるのだ。
21日、薪を集めにある島に6人の船員が上陸したとき、大勢の異人が投げ矢を向けてきた。救援の小船を送って発砲すると逃げていった。そこはかつて異人たちと白人たちがともに球技などをして仲良く楽しんだ浜辺だったのだが。
船長らは24日から30日にかけて、前年に訪れた他の停泊地を見て回った。30日にイギリスに向けて出帆したが、途中立ち寄った浜辺で物々交換をし、また諍いが起こった。異人たちは矢を投げ、白人たちは矢を射ちナイフを振るった。乱戦の挙句は、もはやおきまりとなった発砲沙汰である。8月31日、ポープ隊はギルバート入り江を出てイギリスに向かった。異人たちは近づこうとせず、浜辺からその様子を眺めていた。
9月27日、アイルランドの島影を捉え、10月2日にはワイト島を拝した。6日、テムズ川を遡上して帰還した。デイヴィス隊に遅れること2日であった。
こうして2度目の航海は終わった。デイヴィスはサンダーソンに送った手紙にこう書いた。(サンシャイン号は)「アイスランドにゆき、そこからグリーンランドにゆき、エストティランドにゆき、そして「荒廃の地」にゆきました。商人たちはそこに20日間とどまって原住民と交易を行いました」と。
かくてデイヴィスの遠征隊は歴史の空白を埋め、ヨーロッパ諸国人の耳目に久しぶりに「グリーンランド」の実在を明らかにしたのだった。
ただしこの時点でデイヴィスが、「荒廃の地」やギルバート入り江はその北の「グリーンランド」と一続きの陸地であると考えていたかどうかは定かでない。それにしても、なんと当時の航海の吹く風まかせであったことか。
◆3度目の航海。
2度目の航海はデイヴィスにとって不本意なものに終わったが、出資者たちはもっと不本意であった。飛び切りの漁場を発見したし、アザラシの毛皮を500枚以上も手に入れたとデイヴィスは主張したが、それで埋め合わせがつくとは誰も考えなかった。結局は翌年もまた航海が計画されることとなったが、今度は費用を出来るだけ切り詰め、隊の一部は漁場に赴いてタラを獲って帰るよう釘をさされた。
1587年の航海は、大型船エリザベス号、3度目の航海となるサンシャイン号、そして20トンの小型船エリン号の3隻で、船員はほとんど漁師であった。彼らは北西航路の探検よりも漁で歩合を稼ぐことの方を大事に考えていた。イギリスを離れるやすぐにも漁場に行きたがった。漁期はもう始まっていると言うのである。脅したりなだめたりしながら、探検隊兼漁船団はギルバート入り江にやってきた。ピンやら針やら腕輪やら、鉄製品をしこたま積んできて毛皮と交換するつもりだったのだが、異人たちもまた「イルイアウート」と呼び掛けながら、鉄を手に入れるために毛皮を持ってやってきた。しかしやはり前年と同じことが起こった。異人たちは組立て中の縦帆船を持ち去り、バラバラにして鉄釘を回収したのである。
隊の中でも内輪もめがあり、どの船が探検に向かい、どの船が漁に行くかで、大いに紛糾した。デイヴィスは悩み、神様に相談し、結局譲歩して大型のエリザベス号を漁船に振り替えて、自分は一番小さな、盛大に水漏れのするエリン号に乗って探検に向かった。この船ときたら、一直の間(4時間)に、ポンプを300回は動かして排水する必要があった。デイヴィスの船は北上して、6月24日、北緯67度40分まできた。そこで鯨の大きな群れにあった。2人の異人がカヌーで近づいてきて、「イルイアウート」と呼び掛けた。鉄を手に入れられると知っていたようである。彼らはユニコーンの角と思われる品を差し出した(イッカクの角であろう)。
そして翌日は朝から交換を目的に異人たちが大挙してやってきた。船は北上を続け、30日にはついに北緯72度12分に達した。今日のウペルナビクあたりである。ここでは磁針は北から28度も西に偏った。あたりの海岸をロンドン海岸と名付けた。21日以来、海は西と北に広く開けていた(海氷がなかった)。陸地はつねに東側にあった。この日風向きが北に変わった。海からほとんど垂直に切り立つ、万年雪を抱く「サンダーソンの希望」と名付けた高峰を望みつつ、船は沿岸を離れて西に向かった。
7月2日、西に巨大な流氷原が現れた。北から吹く風に逆らわず、南側を迂回して進んだ。しかし翌日は流氷の中にはまり込んだ。7日の真夜中、神助により、氷原を脱することが出来た。しかし
10日にはまた巨大な氷原に沿って航行した。これらは、今日の地理で言えばバフィン湾からデイヴィス海峡を南下して大西洋に押し出してくる中間流氷原と考えられる。高さ2〜3mの流氷が塊となって、ときには300kmに渡って広がり、繋がり流れているのである。
13日、いったん東の陸地に戻り、海水と太陽の熱とで氷が解けるのを待って出直すことにした。19日、ようやく西の陸地にある懐かしのローリー山を視界に捉えた。海峡口に進入し、数日かけて北岸を航行したところ、そこは閉じた湾であった。北岸の島々をカンバーランド諸島(実際は半島)と、湾をカンバーランド湾と名づけた(今日も残る地名)。鯨が船の側を通り過ぎ、西の島々の間へ消えていった。磁針は西へ30度振れていた。
24日、南岸を見ながら再び海に出た。30日、北緯63度と62度の間にある浅瀬あるいは入り江を通り過ぎた。ラムリーズ入り江と名づけた(実は、ここがフロビッシャー海峡だった)。あたりの海にはところどころ強い潮流があった。渦巻き、落ちかかってくるような激しい潮が寄せる。まるでアーチ橋を通過して落ちる大量の水のようである。31日、ウォーウィック・フォアランドと名づけた陸地の近くで、強風を伴う怒涛の落水に出遭った。全帆を上げて通過したが、その時、船と陸地の間にあった氷山は強い潮流に引かれて船と同じ速度で動いていた。同じ日、大きな湾口を通過した。そこでは潮流同志がぶつかりあって、海は吠え猛り、大渦をなしていた。
これがこの1ケ月の間探検してきた陸地の南端であった。ここからデイヴィスは漁に行った船団と合流するためエリン号を南東海域に向けたが、約束の場所で彼らと会うことは出来なかった。15日、北緯52度12分に至り、それからイギリスへ戻る航路をとった。9月15日、ダートマス入港。ほかの2隻は数日前に帰港していた。
デイヴィスはサンダースンに、北緯73度まで北上したが、そこでは氷のない海があらゆる方角に開けていたこと、そこを通って(カタイへ)行ける可能性は高く、実行も容易と思われることを述べた。しかし、探検航海はこれで打ち切りとなった。
◆彼はカタイへ至ることは出来なかったが、今日のグリーンランドとバフィン島の間の海峡(デイヴィス海峡)周辺
-グリーンランドの西海岸とバフィン島の東海岸-
の地理を明らかにした。
16−17世紀のグリーンランド島の東部沿岸ははるか沖合まで氷の支配する海で、白人たちの上陸を長く阻んでいた。一方、西岸にはギルバート入り江のように(夏場は)雪や氷がなく、上陸可能な湾部や入り江が点在していた。そうした場所にはイニュイ(エスキモー)たちも仮寓を張り、生活を営んでいた。ギルバート入り江でデイヴィスの探検隊が見た倒れた十字架の墓場は、この地に西植民地を作ったノース人たちのものだったと考えられている。
最後にグリーンランド島周辺の現在の地図と16世紀末頃の地図とを示し、デイヴィスの航跡を辿る参考に資す。当時の地図はどういうわけか、フロビッシャーが発見した海峡をグリーンランドの南部においている。この誤りは2世紀の間、訂正されずに残った。デイヴィス海峡は18世紀初には鯨取りたちが押し寄せる「氷山捕鯨」の海となった。
(続く)⇒ 銀鉱の島・鯨漁りの海
現在のグリーランド周辺の地図。
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メルカトルの(1595年地図の)銅板を引き継いだホンディウスの北極地図(1606年)。
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上の地図のグリーンランド周辺部。
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補記1:北方航路とジョン・ディー博士(1527-1608)との関わりは長い。そもそもモスクワ会社が初めて北東航路に商船隊を送った時、抜擢された若きリチャード・チャンセラーは、ディー博士が懇切に航海術の基本を手ほどきし、ともに月日毎の天体位置を示す天体暦を作った教え子であった。チャンセラーの後任としてモスクワ会社のパイロットに選ばれたボロー(バラ)兄弟も彼の教育を受けている。フロビッシャーの航海の相談役にもなれば、同じころ行われたフランシス・ドレークの世界周航計画にもかんでいたとみられる。
ハンフリー・ギルバートの顧問を長く続け、1580年には彼が持っていた航路開発勅許の権利を一部譲渡されていた(北緯50度以北で新たに発見される陸地の権利)。デイヴィスの航海に先だっては、エイドリアン・ギルバートを立会いに天使を召喚し、航海計画と原住民の改宗についてお伺いを立てたりした。
ディー博士のカタイへの憧れは東洋の(神秘的)叡智への憧れに繋がっていたが、同時にエリザベス女王の率いるイギリスこそ、世界を統べる大帝国となるべき資質を具えた国家であるという強い信念を持っていた。その確信の下にイギリスの領土拡張を論じ、海外進出政策のたゆまぬ推進役として働いた。彼の稿本「高名で資源の豊かな地の発見について」は、大部分が東洋についての記述であるという。
1577年に出版された「航海全科」の扉絵は彼自身の手になるもので、女王陛下の指揮する無敵の帝国海軍こそが、イギリス国家の安寧を維持し揺るぎなき権力を保証することを、さながら錬金術書のメタファーに満ちた図版の如くイメージしていた。1577年11月28日の日記には、グリーンランド、エストティランド、フリースランドを領有する権利を女王陛下に進言したことが記されている。博士の見解によれば、これらの土地は女王の祖先であるアーサー王(アルトゥールス)が支配した広大な領土の一部なのであった。博士がアトランティスと呼んだ北米大陸もまた女王の権利の下にあった。北ウェールズの領主オーウェン・グゥィネッドの息子マドックが、フロリダの地(付近)に入植していたからである、と。彼は「モンマスのジェフリー」の「ブリタニア列王史」の記述を根拠とした(今日では偽史書/フィクションと考えられているが、かつては史実とみなされていた)。
「アーサー王は、アイスランド、グリーンランド、そしてロシアをめぐるすべての北方諸島を征服し、さらに北極の地にまで支配権を広げた。これらの地と、スコットランドとアイスランドの間にあるすべての島に植民した。…グリーンランドの先のもう一つのグリーンランド(オルテリウスの地図などにあるグロックランドのことか?
sps)にもアーサー王の植民者が入植したのだから、かのエストティランド(北米・アトランティス)も彼の臣民の領有する島だとの説も信頼すべきであろう」、とディー博士は述べた。
補記2:代わって1594年頃からオランダが北東航路探索に乗り出す。
イギリスのモスクワ会社は1607年と08年、ヘンリー・ハドソンを北極圏調査に派遣した。当時語られていた、「北極海の外縁部は氷で閉ざされているが、夏の白夜のため北極海そのものには氷がない」という説を確かめようとしたのである(氷はあった)。その後、北東航路の探検を依頼されたハドソンは、カラ海まで進んだ後、早々に北東航路に見切りをつけ、北西海域に転じてラムリーズ入り江(フロビッシャー海峡)の通過を試みた。これがイギリス最後の北東航路探検になる。)
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