ひま話 銀鉱の島・鯨漁りの海 (2017.5.11)


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 (当時の世界・極地方地図)
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(ジョン・デイヴィスの探検航海)

◆イギリスのジョン・デイヴィスが行った3度にわたる北西航路探検は、カタイへ繋がる北方海廊への漠然とした希望を残しつつ、尻すぼみに終わった。デイヴィスは4度目の航海を、今度は太平洋を北上してアメリカ大陸の西側からヨーロッパへ向かう逆ルートで計画していたが、志を果たす前に海に消えた。1605年マラッカ海峡においてイギリスと日本との海賊船団同士の争い(パイレーツ vs 倭寇)に巻き込まれ、ために年貢の納め時を迎えた、ということになっている。
彼の3度目の航海の後、イギリス人やオランダ人は北欧・北米間の海域を盛んに往来して、北大西洋や北氷洋に充満する海産資源を収穫する新たなビジネスにいそしんだ。その中にはグリーンランド島に立ち寄って住民たちと交易を行う者もあったと考えられるが、この種の(民間レベルの)活動に関する記録はあまり知られていない。

1585年以来、スペインと交戦状態に入ったイギリスは、1588年にはアイルランド沖でアルマダ(至福艦隊)との海戦を戦った。そして勝者となったが制海権を握るにはまだ長い年月を必要とした。
ロンドンの商人たちは 1600年に東インド会社を設立し、翌年、インドへの最初の貿易船を送り出した。航路はアフリカ大陸南端の喜望峰を回るルートで、アフリカ沿岸基地に拠るポルトガル軍の攻撃に曝されることを覚悟せねばならなかった。
そうした事情から北西航路の発見は(もし可能なら)依然重要な課題であった。ジョージ・ウェイマスは東インド会社に探検航海を提案し、会社側は成功報酬500ポンドを約して応じた。遠征費用は成否に関わらず会社が負担するが、報酬は成果がなければ支払われない。ウェイマスはこの条件で探検隊を指揮した。1602年5月2日、2隻の船団はエリザベス女王からカタイの皇帝へ宛てた親書を携えてロンドンを離れた。皇帝はおそらく英語を解さないだろうという理由で、親書には英語のほか、ラテン語、スペイン語、イタリア語の訳がつけられ、また絵手紙になっていた。往復には18ケ月間かかると見込まれた。
船団はグリーンランド南岸沖からデイヴィス海峡をこえて西へ向かうルートを進み、バフィン島南東部の海峡(フロビッシャー海峡(実際は湾)、ハドソン海峡など)をいくつか調べた後、より高緯度に海峡を求めて北上した。北緯68度53分あたりまで進んだが、そこで厳寒にさらされた船員たちの不安は抑えがたいまでに昂じた。カボット以来のおなじみの状況である。船員たちはウェイマスを軟禁状態におき、極地方で越冬を試みることがいかに無謀であるかを説き、より低緯度(57度から60度あたり)に北西航路を探索すべきだと主張した。ウェイマスは結局これに応じ、船団は南下してハドソン海峡に進入した。しかしその後再び戻ってラブラドル半島を55度まで南下し、9月初旬にはダートマスに帰港していた。予定より1年以上早い。ウェイマスは東インド会社に対して苦しい釈明を余儀なくされた。とはいえ実際のところ、当時の知識・装備レベルでは極地の越冬はほとんど自殺行為に等しかったのである。補記1

◆デンマーク(=ノルウェー)では、17世紀初、クリスチャンW世(在位:1588-1648)がグリーンランドへ遠征隊を送ることを計画した。デイヴィスによって土を踏まれたこの島には、かつてノース人の植民地が存在し、今も存続している可能性が高いのであるから、デンマークは是非ともこれと再接触を果たし、領有権を天下に明らめなければならないと考えたのである。しかし、当時、植民地への航路を知るものは国内になかった。そこでジェームス・ホール(ヤコブ・ハルト)というイギリス人が主席水先案内人(航海士)に迎えられた。ホールの経歴はイギリス東部ヨークシャー地方の港町ハルの出身ということ以外、なにも分からない。ただグリーンランド西岸の地理に通じていたことは確からしく、おそらくデイヴィスの遠征(のいずれか)に参加した者ではないかとみられている。あるいはフロビッシャーの航海に3度とも参加したクリストファー・ホールの息子ではないかとも言う。
また船長を務めたジョン・ナイトも、経歴不明ながら北氷洋航海の経験を見込まれて登用されたとみられる(ナイトは1605年の第1回探検で猫号(20トン)の船長を務めた。翌年、イギリスの北西航路探検を率いてラブラドル半島に消息を絶つ)
デンマークがイギリス人航海士を登用したのはこれが最初ではなく、1579年の遠征ではジョン・オールデイという人物が雇われ、船団をグリーンランド沖に案内している。この時は(ほかの数多くの遠征隊と同じく)海氷に阻まれて上陸が叶わなかった。ともあれ16世紀末から17世紀初にかけて、グリーンランド南方から北米大陸に至る海域はイギリス人にとって通いなれた道となっていたようだ。ちなみにクリスチャンW世はイギリスのジェームズ1世の義理の兄弟にあたる。

◆遠征隊は海軍の船と人員とによって編成された。総司令官のカニンガムはスコットランド人ながら 1603年以来の海軍将官で、この後も長くデンマークに仕えた人物である。3隻の船団は1605年5月2日にコペンハーゲン(コープマンハブン)を出航、ヘルシンゲル(エルシノア)を通り、長距離航海に備えてノルウェーのフロッコリー島で水や木材を積み込んだ。北海をフェア島へ向かいオークニー諸島をかすめると、以後はなるだけ緯度を維持して西進した。こうしてグリーンランドの南端に至る経路は、デンマーク=ノルウェー国内(ベルゲンやトロンハイム)の古い記録に示された高緯度航路とは異なっていた。つねに視界を限る濃い霧、流氷、凍てつく寒風、時化を伴う強風は北方海域の航海に避けて通れないものだったが、デーン人たちはひどく不安を覚え、しばしば航路の正しさを疑ったようである。そもそも彼らはイギリス人の指揮下にあることが不満であったし、ホールが海図を渡さないことにも苛立っていた。
ホールはしかし正しく船団を導き、 5月30日、グリーンランド南岸を視界に捉えた。その地はクリスチアン岬と命名された(北緯59度50分。今日のフェアウェル岬または近傍とみられる)。陸地との間には海氷がひしめいて上陸を阻んでいた。
一行は彼が「荒涼岬」(Cape Desolation) と呼ぶ峨峨たる山稜の聳え立つ不毛の地を遠望しながら西へ進んだ後、陸影を離れて流氷を迂回しつつデイヴィス海峡を北上した。デーン人たちは引き返すことを主張したが、ホールはこの進路を行けばやがて氷のない上陸可能な地点があると説得した。

ある日、海氷がもたらす濃霧があまりに深くなり、互いの船影を見失う事件が起こった。再び合流することは出来たが、赤獅子号(70トン)の船長ゴスケ・リンデノウ(デンマーク貴族で副司令官を務めた)は今後も事故が起こる危険があるとして、海図の写しを提供するよう強く求めた。ホールは、決して勝手に離れて単独行動をとらないとの誓約を得てから応じた。数日後の 6月11日、北緯66度あたりで赤獅子号は離脱した。理由は推して知るべしというほかない。
ホールは彼らが氷海に怯えたのだと言った。実際、デイヴィス海峡では氷山に衝突したり、圧し挟まれたり、海氷に封じ込められてしまう危険とつねに隣り合わせであった。おそろしい寒さが彼らを襲った。士気は下がりがちで、カニンガムが乗る旗艦トロスト号(慰めの意。アン女王の愛犬の名。60トン)も、ナイトの猫号も、引き返したがる乗組員を抑えるのに苦労していた。
一方、デンマークの史家は別の理由を挙げている。ひとつは植民地探索の任務である。当時、ノース人の東植民地はグリーンランドの南端付近あるいはその東側にあると信じられていた。北上を続ければ目的地から遠ざかるばかりだから、リンデノウは職務を果たすために引き返した、というのだ。別の史家は、船足の鈍い赤獅子号はつねにほかの2隻から遅れがちであり、条件の悪い氷海を一緒に進むことが出来なくなったのだとしている。

ともあれ、2隻から離れた赤獅子号は進路を南東にとり、ほどなく陸影を認めたので小船を送り上陸地点を探した。しかし安全な開水面を発見できず、さらに南下して北緯62-63度あたりでようやく投錨した。今日のフィスケナエスセット付近とみられる(リンデノウらはキング・クリスチアン・ハーバーと呼んだ)。そこは原住民の集落地であった。3日ほど留まった間に沢山の毛皮やセイウチの牙、イッカクの角などを入手した。そして2人のイニュイを捕獲して、まっすぐ帰国の途に就いた。7月28日、コペンハーゲンに帰還し、グリーンランド再発見を報じて熱狂的な歓迎を受けた。もちろん植民地を見つけてはいない。

◆一方、トロスト号と猫号とは、赤獅子号が針路を転じた翌日の 6月12日、北緯66度30分あたりに好適な入り江を発見して停泊した。キング・クリスチアン・フィヨルド(デンマーク・フィヨルド)と呼ばれた場所である。今日のイティレック・フィヨルドとみられる。ここもまた原住民たちの夏の集落が展開されており、湾を進みながら彼らの姿が認められた。早速接触して「イリアウート!」と呼びかけると、自分の胸を叩き、腕を太陽に向かって差し上げたものである。そして近づいてきた原住民にナイフを贈った。集落に案内してもらったり、古釘を求めて毛皮を持ってくる彼らと取引きしたりした。その後はお決まりの投石や投げ矢などによる攻撃があり、火器による応戦が行われた。翌日になると、あるいは別の場所に移動すれば、また「イリアウート」、取引き、投石、発砲の繰り返しである。(「イリアウート」は、我々は友達か?、信頼してよいか? の意とされている。人によって、イルイアウート、イリュート、ヨータなどと聞こえたようである。白人が太陽を指さない限り原住民は近づいてこなかった)

6月20日、ホールは猫号に乗って沿岸探査に出発した。本来はカニンガムも同行するはずだったが、留守の間に船員たちが船を出してしまうおそれがあったのでトロスト号に残らざるをえなかった。カニンガムは期限を定め、それまでは何としてもホールを待つと約束した。ホールは船を進め、あたりの特徴的な地勢を、アン(女王)岬、ソフィア(太后)岬、ナイト諸島、カニンガム山、カニンガム・フィヨルド、などと命名していった。途中で襲撃を受けたりしながらも測量航海を続けて、調査の結果を4枚の海図にまとめた。また後になって、見つけた土地の肥沃さ、快い気候、植生の豊かさ、あちこちで目にする野生動物たちの夥しさについて感銘の言葉を残している。猫号は北緯68度35分まで北上した。おそらくディスコ湾を望んだと見られ、ホールはその先へ進もうとしたが、あまり遅くなるとトロスト号が先に帰ってしまうかもしれないと船員たちに説得されて引き返した。途中 7月4日にカニンガム・フィヨルド湾口付近に 2日間留まって鉱石標本を採集した。

7月10日に戻ってみると、ありがたいことにトロスト号は彼らを待っていた。カニンガムらは原住民たちと割のいい取引きが出来ていた。一行は仕上げに4人の原住民を攫った。そのような命令を受けていたらしい。押し寄せる追っ手を大砲を撃って蹴散らし、帰途についた。8月10日、コペンハーゲン着。国王の懇ろな賞賛の言葉を受けた。植民地は見つからなかったが、グリーランドへの航路をデンマークにもたらしたこと、西岸域の地理を明らかにした海図を作ったこと、原住民との交易の可能性を開いたことなどが高く評価されたのである。翌年5月に作成された契約書によると、ホールは専任航海士として年500リクスダラーを受け取る身となった。当時、一般の航海士の年給は50〜90リクスダラー、船長のカニンガムの年給が300リクスダラーであったから、いかに破格の待遇かが分かる。採集した鉱石に銀が含まれると分析されたことも背景にあった。もっともこのことは当面の秘密であったらしく、この年の航海報告書には何も記されていない。(フロビッシャーが「金鉱」を発見した時も、その所在位置は記録に載せられなかった。)

ちなみにカニンガムが捕虜にした原住民の一人は反抗的だったので撃ち殺され、デンマークに着いたのは3人だった。リンデノウが攫った2人とあわせて5人になる。彼らは今後の島人たちとの友好的な接触を進める仲介役を期待されて厚遇された。彼らの方は機会があれば逃げ出して故郷に戻ろうと試みた。翌年の遠征に少なくとも2人が伴われたが、航海中に死んでしまった。

◆クリスチアンW世は再度の航海を計画し、議会の承認を得て遠征費用に充てる新税を設けた。1606年の第二回遠征は5隻の船団が組まれた。総司令官にデーン人貴族リンデノウが就いて旗艦トロスト号に乗った。水先案内はホールである。カニンガムは副司令官として赤獅子号の船長を務めた。今回は銀鉱の採掘が主目的であった。

5月27日にコペンハーゲンを出港した船団は、グリーンランド南岸まで前年と同様の航路を進んだ。その後デイヴィス海峡を南下してくる中間流氷原を大きく西側に迂回しながら北緯66度まで北上し、それから東に針路を転じた。途次、地図上にフリースランドのある経緯度を通ったが島影に遭わなかったこと、(実在しない)バス島をはっきり見たことが記録されている(ホールは見たと述べているが、別の航海士の記録にはない)。また北米大陸も目の当たりにした。気象状況はしかし思わしくなく、グリーンランドに到達したのはトロスト号とオルネン号(ハンス・ブルーン船長)の2隻だけだったようである。
7月27日、彼らは(ほぼ2ケ月かけて辿り着いた)カニンガム・フィヨルドに入り、南岸のマッセル入り江で採掘活動を行った。北緯67度4分。前年沿岸探査の際に岩石を採集した場所である。今日のシシミウト(旧ホルスタインボルク)のすぐ北にある似た形の双子フィヨルドのうち南側のものと比定されている。
その間にホールは周辺の湾口を探検した。8月10日、一行は帰国の途についた。原住民との取引きはほとんど行われなかった。隊員たちは疲労の極に達し、鉱石を積み込むのが精一杯で、デンマークによる領有こそ宣言したものの、その後は夏の終わろうとしているグリーンランドを足早に離れることしか出来なかったようである。帰国の前日、リンデノウは何らかの咎があったらしい船員を一人、船から降ろして追放した。男は原住民たちに囲まれて、あっという間に殺されてしまった。その後、船にやってきた原住民のうち5人を攫って陸を離れた。10月4日、デンマーク着。積み帰った鉱石は銀を含んでいないことが分かった。雲母であったという。

◆こうなるとデーン人たちは、遠征で発見された土地は、古い記録に記されているほど暖かな気候でもなければ、産物が豊かでもない、と考えないわけにいかなかった。しかしそれは当然のことかもしれなかった。ノース人の植民地はサーガにエリクス・フィヨルドと呼ばれる湾にあり、そこはグリーンランド南東部のまだ辿り着いていない場所にあるはずだから。
そうした考えからクリスチアンW世は、翌1607年も探検隊を送ることとした。規模を縮小して2隻の船団(旗艦はトロスト号)がカーステン・リチャードソンの指揮下に編成された。航海士はもちろんホール。
遠征隊はリンネス岬から西北西に針路をとり、北緯60-61度あたりで島の南東部に上陸するよう指令された。そして教会や僧院、農場などを探すのである。ノース人に出会うとすれば、彼らはアイスランド語か古いノース語を話すであろうから、この地方の出身者が接触にあたることとされた。そこからさらに北部の探検を行う。そして発見したものは何であれ機密情報として扱い、最初に国王その人に報告することが命じられた。ホールは出発前にフロビッシャーの航海記録を念入りに調べたようである。というのは当時の地図はフロビッシャー海峡をグリーランド南部に描いており、今回の遠征は彼の航海をなぞることになりそうだったからだ。(cf. ホンディウスの北極地方地図 (1606年)

5月13日、コペンハーゲンを出航、フェア島からやや北寄りの針路を進んだ。6月8日、北緯59度にグリーランドの陸影を遠望した。しかしはるか沖合まで埋め尽くす氷のため上陸可能な場所は見つからず、折からの悪天候で2隻は一再ならず互いを見失った。北上を続けて北緯63度に達したとき、彼らはすでにフロビッシャーが植民を試みた地点の対岸に渡ったと判断したが、その間ずっと海氷が陸地への接近を阻んでいた。64度まで上り、また下りして探したが、開水面は見つからない。7月1日、上陸を強行しようとして果たせず、士官たちはまるでカナンの地を前にしたモーゼのような心境になった、と記録は伝えている。乗組員たちは疲労と寒さですっかり参ってしまい、もはや持ちこたえられそうになかった。真水のストックが尽きた。相次いで暴風が襲ってきた。このままではロシア沿岸まで吹き流されかねない、と考えたホールは、いったんアイスランドに退いて立て直しを図ることにした。だが大嵐はそれを許さず、本国に戻るよりほかに道はなかった。7月25日、船団はコペンハーゲンに帰港し、往路のフロッコリー島以来初めて陸地を踏んだ。こうして3度目の遠征は失敗に終わった。

◆領有宣言をしたものの、デンマークによるグリーンランド島遠征はしばしの幕間を迎え、植民地探索は世紀の半ばまで行われなかった。1606年の失敗に関わらず、ホールの念頭には依然銀鉱の夢が息づいていたようである。彼はいつしかデンマークを離れていた。イギリスの冒険商人たちと語らって資金を持ち寄り、自ら隊長となって銀鉱の島への遠征を計画したのだ。出資者にはサー・トーマス・スミスやサー・ジェームス・ランカスターら、当時のロンドンの有力商人たちが名を連ねた。

1612年、4月10日。140トンのペイシャンス号と60トンのハーツ・イーズ号(アンドリュー・ベイカー船長)の2隻がハル港を出航した。ハーツ・イーズ号には後に極地探検家の雄として仰がれるウィリアム・バフィンが(おそらく航海士の一人として)乗っていた。その場で鉱石を調べられるように鍛冶師も乗っていた。船団はグリーンランド南端(フェアウェル岬)を回ってデイヴィス海峡を北上した。海氷の具合はデンマーク隊の時よりも良好で、陸地を視界に捉えつつ進むことが出来た。そして先の航海では近づけなかった、より南方の地域を探検することが出来た。
5月27日、一行は北緯64度、今日のヌークあたりに上陸した(ホールは希望港と呼んだ)。 6月16日まで留まり、沿岸調査用の縦帆船と鉱石運搬用のはしけを整えた。翌日、適当な停泊点を見つけてから(おそらくサンドル・イソルトク・フィヨルド)、ホールは調査船に乗って北方にあるはずのイティレック・フィヨルドを探しに出た。1605年の航海でトロスト号がホールの帰りを待った場所である。26日、首尾よく湾を見つけると、その日のうちにペイシャンス号を迎えに戻り、7月15日には再びイティレックにあった。18日、ホールはハーツ・イーズ号に乗ってかつての北方探査コースを辿り直した。しかし目当ての場所を見つける前に事件が起こった。22日、アメルロク・フィヨルド(デンマーク隊がラメルズ・フィヨルドと呼んだ湾)に入ったホールはボートに乗って陸地に向った。その時近づいてきた原住民の一人が彼を槍で貫いたのだ。翌日、ホールは死んだ。遠征隊にとって青天の霹靂であった。

バフィンの記録によると、原住民たちはホールだけを狙い、他の者に危害を加える意図はなかったらしい。
「してみると、彼らはデーン人たちがやってきた時からホールを見知っていたのであろう。デーン人たちはこの川のあたりで5人の原住民を連れ去り、誰も二度と戻らなかった。そしてこの次の川のあたりで大勢の原住民が殺されたのだ。従ってホールを殺した男は、連れ去られた者たちの誰かの兄弟か親族だったと考えるべきだろう」とバフィンは推測している。遺骸は、遺言通り、付近の島に埋葬された。
7月24日の朝、一行はホールが探していたカニンガム・フィヨルドの湾口南岸に入った。そしてデーン人たちが鉱石を掘った跡をいくつも見つけた。それから湾を4リーグほど遡った後、夜になって掘り跡に引き返し、標本をいくらか積んでラメルズ・フィヨルドに待機するハーツ・イーズ号に戻った。この石についてバフィンは、「それは光輝いており、我々の鍛冶師ジェームス・カーライルが調べたところ、何の値打ちもない石で、金属をまったく含んでいなかった。モスクワ・スラッド(モスコヴァィト:白雲母のこと)に似ていた。」と述べている。それから原住民たちはもう取引きにやってこないと判断して、キング・フィヨルドのペイシャンス号の元へ戻った。7月25日である。
隊長は殺され、原住民はもう物々交換にこない。一行はベイカー船長を新しい隊長に選任し、その指揮の下、8月4日に帰国の途についた。2隻ははぐれ、ペイシャンス号は9月19日にロンドンに、ハーツ・イーズ号は17日にハルに入った。

こうしてグリーンランドの銀鉱探しは終わった。ホールは道半ばにして逝った。バフィンらは彼が生前に伝えた道標を辿って、デーン人の掘り跡を発見し、鉱石を調べ、銀が含まれないことを確認した。しかし、これはデーン人がすでに明らかにしていたことを追証したに過ぎない。ホールは掘り場に銀鉱がないことを承知していたはずである。その上で、自らの財産をかけて再度遠征に出たのだから、何か別の心積りがあったのでなければならない。とはいえ、それは彼の胸の中に秘められており、その死とともに失われてしまった。
後世、人々は遠征の記録や残された海図を読み解いて、「銀鉱」が発見された場所を頻りに詮索した。しかし、この地域からが出たという報告は今日まで知られていない。補記2

◆デンマークによる本格的な植民活動は18世紀に入ってからのことになるが、その間(その後も)、グリーンランドにはさまざまな国の船が訪れた。多くは捕鯨や遠洋漁業の関わりで(木材や水の補給のため)島の南西岸に投錨し、近くの原住民集落との交易で海獣の毛皮や牙を手に入れた。ホールが乗船したペイシャンス号は、1616年と18年とにグリーンランドに行き、鯨油を積んで戻った記録がある。といってもおそらく島の西岸でなく、当時の捕鯨拠点であった東側海域(グリーンランド海)のヤンマイエン島やスピッツベルゲン島(Het nieuwe land (新しい土地)とも呼ばれた)へ赴いたものと思われる。(このあたりもグリーンランドと呼ばれた)

デンマークではクリスチアンW世が領土拡大の望みを持ち続けて、1618年にインドに最初の貿易船を送った。1619年にはイェンス・ムンクの指揮する船団を北西航路探検に派遣したペイシャンス号の主席航海士だったウィリアム・ゴードンが航海士として乗り組み、またデンマークのかつてのグリーランド遠征隊員たちも乗っていた。彼らはハドソン湾に進入した。スピッツベルゲン周辺にも遠征隊が送られた。北緯74度以北に聳えるこの島は、1596年、オランダのウィレム・バレンツが発見したが、グリーンランドと地続きであると推測され、デンマークの領有権を主張出来ると考えられたのだ。 但し実効支配したのはイギリスやオランダであった。(補記3)

ウィリアム・バフィンもまた、探検から帰るとモスクワ会社が始めたスピッツベルゲン島での捕鯨に加わり、2年の間、極地経験を積んだ。その後トーマス・スミスらの北西航路調査協会(北西協会)に移って、航海士として遠征に参加した。ロバート・バイロット船長とコンビを組んでディスカバリー号(55トン)に乗り、1615年はハドソン海峡の「氷の迷宮」に進入してハドソン湾北部を探査した。
翌1616年にはデイヴィス海峡をはるかに北上した。この年の氷の状態は例外的に良かったらしい。6月1日にデイヴィスが達した北限、サンダーソン・ホープ(ウペルナビク:北緯72度12分)に入るまで航海は順調に進んだ。そこで海氷に阻まれて1ケ月の足止めを食ったが、その間、原住民たちと友好的な接触を持って、鳥や鮭などの食料を得た。6月30日に海が開けるとその後はまた順調であった。8月までこのあたりを閉ざすはずの中間流氷原が例年より小さく、すでに南下して去っていたのである。わずか2日でメルヴィル湾(当時は未発見)沖を横断してダドリー・ディグズ岬を越え、北に拡がった湾を北緯77度45分まで上った。そしてバフィン湾に繋がる海峡(彼は入り江と考えた)にスミスやジョーンズ、ランカスターら大株主の名前をつけた。
スミス入り江の北には山が続いているとみて通り過ぎた。ジョーンズ入り江とランカスター入り江は海岸の前に氷原があって接近出来なかったため、ボートでの探査を行ったが、いずれも湾口は氷で塞がれ、西側には冠雪した山があると報告された。南下してデイヴィス海峡に戻り、7月28日、サッカートッペン(砂糖帽子山)付近に上陸した。そこで壊血病草(トモシリソウ(友知草)、あるいはマルバギシギシ)やヤナギの若芽を採って食べ、乗員の健康回復を図った後、帰路についた。8月30日、ロンドン帰着。
遠征隊が達成したこの海域の最北航海記録はその後 200年以上破られなかった。実際それはあまりに恵まれた航海で、バフィンを崇拝したロス艦長の遠征隊が 1818年にスミス海峡に臨むまで、不可能事として長らく疑問視されていた。(翌1819年にイギリスで発行されたある地図には、「バフィン湾」に「1616年に発見したとバフィンが述べているが、信じがたい」と注釈されていた。)
1616年の時点で北西航路の探検航海は 33回を数えたが、北米大陸の北側の地理はまだほとんど明らかにされていなかった。この後もイェンス・ムンクの遠征など数度の試みがあったものの、バイロットとバフィンの遠征隊を超える前進は19世紀に至るまで成らなかった。

◆最後に当時の捕鯨産業の状況に触れておきたい。というのも、16世紀半ば以降、盛んに行われた北方航路探検のもっとも実り多い収穫は、カタイへの到達でも金銀鉱石でもなく(いずれも実現しなかった)、北の海に浮かぶ巨大な油樽、すなわち鯨の発見と、鯨から得られる鯨油だったと考えられるからである。

もともとヨーロッパにおける捕鯨は、スペインとフランスとの国境付近に住むバスク人のお家芸であった。秋から冬にかけてビスケー湾に姿を見せるセミ鯨を漁ったバスク捕鯨は11世紀にはつとに知られていた。13〜14世紀には湾内だけでなく、船を仕立てて外洋にも鯨を追ったとみられ、地元フランス、スペインだけでなく、フランドル、イギリス、デンマークなどの市場にも鯨産品が出回った。
ところが15世紀になるとビスケー湾に鯨が現れなくなった。漁り過ぎたのでなく、(気候変動など)何らかの理由で鯨の活動圏が変化したと考えられている。バスク人はセミ鯨を求めて大西洋を北上するようになり、16世紀前半には遠くコルテ=レアルやカボットが見つけたニューファンドランド(new-found-land: 新しく発見された地)からラブラドル沖を漁場とするようになった。この海域でのバスク捕鯨は1560年代に全盛期を迎えた。ニューファンドランドには13ケ所に及ぶ捕鯨基地が設営され、彼らが北米に追ったセミ鯨はサルダと呼ばれた。年間1,000頭を越す鯨が漁られたという。
鯨油はバスク地方の輸出品として鉄に次ぐ重要な産品であった。中世のヨーロッパではオリーブの実やアブラナ科の植物の種から採れる油を灯火としていたが、主産地の地中海沿岸が異教徒の支配下にはいったため、代替品として鯨油の需要が高まった。毛織物産業の発展で、羊毛や皮革を洗浄する石鹸の原料としても需要が増えた。脂身は潤滑油となり、ヒゲは羽飾りや帽子、コルセットやスカートの張り骨、ブラシの毛などに用いられた。

1570年代に入ると諸物価の高騰と鯨油価格の値下がりが影響して、大資本を必要とするバスク捕鯨は衰退へ向かった。それでも5月から8月にかけてのシーズンには、毎年50隻前後の捕鯨船が北米海域に乗り出した。当時この海域を4度にわたって航海したアンソニー・パークハーストは、そのたびおよそ100隻のスペインのタラ漁船と、30〜40隻のバスク捕鯨船を見たと述べている。ハンフリー・ギルバートが 1583年にニューファンドランド島へ最初の植民団を導いた時、そこには40隻ほどのヨーロッパ船があった。スペイン、ポルトガル、フランス、そしてイギリスの、主に小型のタラ漁船団だったが、その中にあって 3-400トン級のバスクの大型捕鯨船団は一際威容を放っていた。海岸には簡素な村が作られていた。ギルバートの武装船は彼らが見守る中、厳かにイギリスによる領有を宣言したのである。
この頃には、しかし北米海域のセミ鯨の姿は目立って減り始めていた。鯨産品の取り扱い量は半減し、船団を仕立てる資金も詰まりがちになった。
バスク人はそれまで「もっとも気高く、もっとも利益になる漁業」として捕鯨に誇りを持ち、他国への技術流出を拒んでいたが、やがて外国の捕鯨船団に進んでスカウトされていくようになった。

◆ノルウェーの北岸を回って北東航路の探検を行ったイギリスは、結果的にロシアとの取引きを始めて有卦に入ったが、やがてオランダが白海貿易に参入すると独占が崩れて事業のうまみが薄れた。そこで航路でしばしば目にする鯨を漁ることを真剣に考えるようになった。1577年、モスクワ会社は20年期限付きで、あらゆる海域で捕鯨を行う特許を得た(期限が切れた後、また取り直した)。捕鯨に必要な物資や人員、諸掛りの費用はすでに見積もってあった。1580年にリチャード・ハクリュートは、「ノヴァヤゼムリャへ向かう船は、人が住んでいれば羊毛製品の需要が見込めるだろうし、人がいなければ鯨を探せばよい」とモクスワ会社にアドバイスしたし、ロバート・ヒチコックは、「捕鯨は費用のかからない快適な事業で、油がたくさん取れる。鯨油は一樽10ポンドになる」と気楽な算盤を弾いた。ただ当時のイギリスには技術がなかった(15世紀中頃まではイギリス人も鯨を漁っていたというが定かでない)

一方、イギリスを追うオランダでは 1594年にファン・フィレ(遠国)会社が設立され、翌年、喜望峰経由でインドに貿易船が送られた。同時に北東航路の探検が始まった。 94年と95年の政府主導の遠征は、いずれもカラ海まで進まなかった。政府は手を引いたが、2度の遠征に参加したウィレム・バレンツが翌年3度目の遠征を試みた。船団はノルウェー北岸から真っ直ぐ北極点に向かって進んだ。これは未知の海域で、青々とした海に白鳥のように流氷が浮かんでいた。小さな島を発見し、上陸して巨大なクマを仕留めた。ベーア島と名付けた。さらに10日間北上を続けて、氷に覆われた尖峰の連なる陸地に至った。スピッツベルゲン(尖んがり山)島であるが、バレンツらはグリーンランドに達したと考えた。島の岸辺で海鳥の卵を採集して食糧庫を満たし、氷に覆われた西岸に沿って北緯80度に至った。荒涼とした土地である。しかし島のまわりにはアザラシやセイウチがうようよいた。そして波の静かな湾内に、動作の緩慢な巨大な鯨が集まって潮を吹いていた。セミ鯨の仲間のホッキョク鯨(グリーンランド鯨)である。脂皮の厚さが50cmに達し、ほどなく捕鯨の対象となって、「大当たり」鯨 right whale と呼ばれる。
遠征隊はこの後ベーア島まで戻って二手に分かれた。東に針路を向けたバレンツの船はノバヤゼムリャ島の北岸を回ってカラ海に入ろうとして身動きがとれなくなった。船は氷に締めつけられ押し上げられて損壊、アイスハブンに越冬を余儀なくされた。補記1

イギリスもバレンツの発見を追った。モスクワ会社に北極圏調査を依頼されたヘンリー・ハドソンは 1607年にスピッツベルゲン島の西方を北緯80度23分まで北上し、帰路にこの島を再発見してニューランドと呼んだ。彼もまたアザラシやホッキョク鯨を見て帰った。
モスクワ会社は 1604年からベーア島でセイウチ猟を始めた。油を採り、牙を採った。やがてスピッツベルゲン島でも海獣猟が始まり、1611年には6人のバスク人を乗せたマリー・マーガレット号が初めての捕鯨を行った。翌年になると、やはりバスク人を乗せたオランダの捕鯨船がやってきた。北極海域は俄かに活況を呈した。バスク、スペイン、フランス、デンマークも船を送った。捕鯨拠点を巡って武装船を動員した激しいせめぎ合いが展開されたが、1619年にアムステルダム島に捕鯨の町スミーレンブルク(脂皮の町)が建設されると、次第にオランダの優位が明らかになっていった。この町では盛時、2000人を越す人々が夏を過ごし、鯨を解体して鯨油を搾り取った。イギリスも毎年10隻前後の捕鯨船を送ったが、鯨油生産量は国内需要を賄うに至らなかった。
ホッキョク鯨は衰退したバスク捕鯨を一時的に復活させた。当初はスピッツベルゲン島北部のビスケー岬を基地に活動したが、1630年代には島を利用出来なくなった。そこで捕獲した鯨を船の上で解体・搾油する技術を開発して、グリーンランド海やノルウェー沖での外洋捕鯨を行うようになった。世紀の半ばには 50隻の船団が北極圏で活動した。しかしオランダが仕掛ける価格競争に対抗することができず、再び衰退期を迎えた。

◆島を実効支配したオランダであるが、やがて肝心のホッキョク鯨が次第に湾内から消えていった。どんな海洋資源も獲り過ぎれば枯渇してゆく。そこでオランダもまた「氷山捕鯨」に移行して鯨を追った。沿岸基地を必要としないことで活動領域が広がり、規模も増した。波風の強い氷の浮かぶ外洋での操業にあわせて、横梁を追加し外回りを鉄板で補強した、長さ33m、400トン級の捕鯨船が投入された。1660年代のことである。オランダ捕鯨が全盛を迎えた1680年には250隻近くの捕鯨船がグリーンランド周辺の海域を動き回った。彼らは北極圏捕鯨をほぼ独占し、ヨーロッパ鯨油市場の7割を押さえた。鯨産品の取扱い高はアジアとの香辛料貿易を越えた。1699〜1708年の10年間に出漁した捕鯨船の数は1652隻、鯨の捕獲数 8537頭、売上額は2638万フローリン、純利益 473万フローリンという。

こうして18世紀に入る頃にはスピッツベルゲン周辺の鯨資源は尽きて、グリーンランド東部海域からも鯨の姿が減っていった。捕鯨船はグリーンランド島を回って西へ進み、デーヴィス海峡にも鯨を追った。この海域は 1670年代、氷山捕鯨が本格化してほどなくオランダの小型交易船が訪れるようになり、西岸の原住民と海獣の毛皮や牙などの交易をして、副業に鯨も漁っていたのだが、1720年までに主力の漁場となってオランダ捕鯨の第二黄金期を支えた。ピークの 1721年には258隻の捕鯨船が出漁し、うち3割がデービス海峡に集まった。翌年には 137隻が活動した。本国から遠いこの海域に向けて、捕鯨船団は2月末にはもうオランダを出航した。ラブラドル半島からバフィン島(カンバーランド)あたりを北上しながら漁をし、5月にデーヴィス海峡を渡ってグリーンランド南西岸に入った。6月にはバフィン湾の南部まで進んだ。そして9月初めに帰路についた。中間流氷源を縫って進む航海は危険であったがメリットもあった。氷の張った海で息継ぎのために浮上する鯨を、限られた開水面で待ち受けることが出来たからである。17〜18世紀にかけて、グリーンランドの周辺は鯨漁りの海となっていたのだった。

(続く ⇒ 18世紀デンマークのグリーンランド植民

参考:捕鯨史については、山下渉登著「鯨」、森田勝昭著「鯨と捕鯨の文化史」を参照した。


補記1:当時、北極圏で越冬に成功した例は 1596-97年にウィレム・バレンツ隊がノヴェヤゼムリャの北東岸アイスハブン(北緯76°あたり)で行ったものだけで、この時は越冬を見込んで食糧や装備を用意してあった(バレンツは亡くなった)。これに次ぐのは 1630年、捕鯨シーズンが終わってスピッツベルゲン島に置き去りにされたモスクワ会社の船員8名が翌年5月に救出された例だという。
1633年、オランダ北方会社は、スピッツベルゲン島とヤンマイエン島での越冬を試み、それぞれ7名の隊員を募集した。前者は成功したが、ヤンマイエン島の隊は全滅した。スピッツベルゲン島では翌年も越冬が試みられ、全滅した。この後、越冬は行われなかった(沿岸捕鯨から氷山捕鯨に移行したため、島を死守するに及ばなくなった)。

ちなみに 1610年、北西協会の依頼で北西航路探検に出たハドソンは、ハドソン湾の南のジェームズ湾あたりでやむなく予期しない越冬を行ったが、乗組員たちは壊血病と飢えのため極度の苦しみにさらされた。翌年、乗組員たちはハドソンを置き去りにしてイギリスに戻った。1612年、ハドソンを探すためにトーマス・バットンがハドソン湾に入り、南岸で越冬を行った。この時の準備は万全で、厳しい規律や「多忙療法」が功を奏し、いわば越冬実験は成功した。19世紀初の極地探検家パリーは、バットンの越冬をほんとうの意味でのただ一つの成功例だと述べている。
この二度の困難な遠征に用いられた船はディスカバリー号だった。次いでギボンズ船長のハドソン湾北部探査に出た後、1615年のバイロットとバフィンとのハドソン湾探査に、翌年はデイヴィス海峡北上に活躍した。5度の極地探検を支えたのである。戻る

補記2:グリーンランド西岸の鉱業史は、18世紀のエゲデによる植民活動以降に始まる(エゲデ自身は、自分はこの方面に暗いがアスファルトはあちこちにあると述べた)。ディスコ島に石墨が発見され、その後、石炭が掘られた。19世紀の半ばに銅が掘られた。同じ頃、イヒドゥートでは含銀方鉛鉱の採掘が行われたが採算が合わず、すぐに氷晶石の採掘に移行した。アルミ精錬に不可欠だった氷晶石は「グリーンランドの白い金」と呼ばれた。
20世紀に入って北西部のマーモリリク(黒天使鉱山)に亜鉛、鉛、銀、鉄などの鉱床が発見され、1990年に閉山されるまでの70年間に1200万トンの閃亜鉛鉱や含銀方鉛鉱が採集された(2013年再開)。
商業レベルではないが、近年、西岸のカンゲルルススアークにキンバーライトや超塩基性のランプロフィライトの岩脈が発見され、微小なダイヤモンドを含むことが注目されている。南部のナルナックには石英中に肉眼レベルの自然金が見い出される。グリーンランドでは古くからさまざまな希元素鉱物の産出が知られるが、これらからウランや希元素を抽出することが検討されている。戻る

補記3:17世紀初、スピッツベルゲン島(スヴァールバル諸島)はグリーンランドの一部と信じられたため、イギリスやオランダはデンマークに許可を仰いで捕鯨を始めた。イギリスはその後、デンマークに統治権の譲渡を持ちかけて拒否された。そこで 1615年にイギリス領を宣言したが、国際的に認められなかった。島だと分かった後もデンマーク(=ノルウェー)領ということになっていたが、実際には長らく統治されなかった。今日、名目的にノルウェー領とされているが、ノルウェーの統治権を認める条約国は自由に上陸・利用してよいことになっている。

ちなみに19世紀アメリカのマッコウクジラ漁を材とした「白鯨」の中でメルヴィルは、「昔にグリーンランドの岸にオランダ人の部落があって、その名をシュメレンブルグまたはスメーレンベルフといい…」「その村は、オランダの捕鯨船隊が、故国オランダまで持って帰らないで、脂肪を処理するためにできた場所であった」(阿部知二訳)と、スピッツベルゲンの捕鯨基地を伝説的に回顧している。メルヴィルの時代には捕鯨業の主役はアメリカに変わり、捕鯨対象はセミ鯨からマッコウ鯨に変わっていた。体表の脂肪だけでなく、巨大な頭部から鯨脳(油)が採れるマッコウ鯨を賛美する一方、セミ鯨については(ヒゲは採れるにせよ)一段低く扱っている。25〜29℃で凝固する鯨脳をメルヴィルは抹香(マッコウ)と呼んで、その結晶を手ですくって液状にする作業の間に両手に感じた感触や芳醇な香気についてほとんど宗教的な感想を記している。
アメリカ東海岸からホーン岬を回り、太平洋をはるか日本沖(ハワイ〜小笠原海域)やマラッカ沖まで進んだ当時のアメリカ式捕鯨航海は延々3、4年に及び、仕留めた鯨は船舷に引き揚げられて解体された。そして船上のレンガ築炉で脂肪を煮て油を搾り出し(その滓がまた燃料になる)、まだ温かい未精製油を樽詰めにする作業が当たり前となっていた。新鮮な脂肪を細切れにして大樽に突っ込んでそのまま本国に持ち帰ったかつての(数ケ月ほどの)グリーンランド捕鯨は、すでに遠い夢語りであった。


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