ひま話 ミュンヘンのレジデンツ宝物庫 (2022.9.18)


レジデンツにはヴィッテルスバッハ家重代の家宝を収蔵した宝物庫があって、1,200点以上の宝飾品が公開されている。ルネッサンスやバロック期、あるいは中世期、古典晩期にまで由緒を遡る品もあるそうだ。普通この種の財宝は経済資産であって、必要に応じて換金されたり、譲渡されたりするのが習いである。時には細工物から宝石を外して売却することもあるし、逆に台の金属を鋳潰して地金に戻しつつ、外した宝石を新しい宝飾品の製作に転用することもある。しかしここでは多数のアイテムが手をつけられずに数世紀の歳月を越えた。大公アルブレヒト五世が 1565年に定めた遺言で、彼が特に貴重とみなした蒐集品について、ゆめ売却することなく家宝として伝えゆくよう求めたからである。

後継者はその言葉を守ることを徳としたらしく、息子のウィルヘルム五世、孫の選帝侯マキシミリアン一世はさらに家宝の類を拡充したことで知られ、続く人々もよくこれらを維持した。
選帝侯カール・テオドールは 18世紀後半にヴィッテルスバッハ一族のパラタイン(伯領)が保有した宝物をミュンヘンに移してさらに収蔵品を増やした。19世紀初には公国から王国に昇格したのを機に製作した王国宝器の類が加わり、また1803年の教会財産没収で得た中世期の傑作がいくつも入って、蒐集点数は頂点に達した。

宝物庫には典礼用具や(レリカリーズと呼ばれる容器に納めた)聖遺物といった宗教的器物も多数含まれている。 上述のウィルヘルム五世やマキシミリアン一世が、17世紀初に宮廷礼拝堂のために蒐集したものが基盤となり、19世紀初に教会から得た作品、中世期の金細工師が精魂を傾けて製作した古い器物が加わった。水晶(ロック・クリスタル)、真珠、こはく、各種の色付宝石、金、象牙といった素材は、世俗的な財宝にもキリスト教的な財宝にも欠かせなかった。

蒐集品は 1731年にはすでに父祖の間にしつらえた特製キャビネット(現在、陶磁器を納めているキャビネット)に収納されて、来訪者の眼を瞠らせたものだが、1897年に新たに陳列室が作られて一般にも公開されるようになった。バイエルン王国は 20世紀に入って解体し、二次大戦の際には蒐集品の避難が行われたが、戦後ミュンヘンに戻され、 1958年から再び公開されている。この時に増えた収蔵品もあるということだ。

神聖ローマ皇帝ハインリッヒ 2世が所蔵したとされる、閉じ金付の皮装幀本。装飾に真珠を嵌めてある。1014年〜1024年頃のもの。真珠は古くアラビアからエジプト世界にかけて宝飾物として重用されたもので、後にギリシャ世界にも入ったが、欧州での価値は中世キリスト教世界において漸く高まったと考えられる。真珠はけがれなく完全無欠のまま貝の中に現れる。すなわち処女懐胎の象徴としてマリア信仰を担い、時にキリストその人にも擬された。真珠は純潔と神の無欠性をその持ち主が体現する証となった。

王妃ギゼラの十字架。 
バイエルン公ハインリッヒ2世(喧嘩公)の妻で、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世の母となった「ブルゴントのギーゼラ」は 1006年に没したといい、レーゲンスブルク(この頃のバイエルンの首都)の大聖堂付墓地に埋葬された。
彼女の娘のギーゼラは篤信のキリスト教徒として育てられ、ハンガリー王シュテファン1世に嫁して王妃となった。バイエルンは当時ハンガリーへの植民を進めており、王妃ギーゼラは西欧世界とのかけ橋としてハンガリーのキリスト教化、西欧化の礎となった。この十字架は彼女が作らせて、母の墓に埋葬を願ったものといわれる。従って 1006年以降に製作されたらしい。
オークの台木に金を被せ、七宝を描き、さまざまな色宝石や小粒の真珠をちりばめて荘厳したもの。金色の地に緑色のエナメルと宝石とがよく映える。
王妃ギーゼラは今日ではキリスト教の聖人に列せられ、その墓はパッサウにあって聖地とみなされている。

神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(973-1024)の宝冠。
AD800年のカール大帝の戴冠、あるいは 962年のオットー大帝の戴冠以来、ローマ皇帝権はキリスト教と結びついた世俗最高の君主覇権として、イタリアやドイツを含む西欧社会に冠した。ザクセン朝のオットー大帝の後をオットー2世、3世が継いだが、3世には直系子孫がなく、継いでオットー大帝の甥のバイエルン公ハインリッヒ2世(喧嘩公)を父に持つ彼がローマ皇帝に選ばれた。ハインリッヒ2世帝は敬虔なキリスト教徒で、普遍的なキリスト教国家を理想に神権統治の強化をすすめた人物といわれる。

ところでローマ皇帝権の所在を証する宝器(帝国宝器)の一つとして帝国冠があり、歴代皇帝の多くはこれによって戴冠したという。一連の宝器は代々受け継がれて、現在はウィーンの王宮に保管されている。であれば、ヴィッテルスバッハ家が私蔵したこの冠はその系譜に属するものではあるまい。しかしローマ人風の横顔を彫ったカメオを嵌め込んであるのは、やはりローマ帝国の伝統を継ぐ者を示すと思われる。

宝冠には翼を背負った天使たちが立っている。キリスト教世界では王権ないし帝権は神によって与えられた使命と考られていたことの反映だろう。するとさまざまな色石が嵌め込まれてあるのも、出エジプト記に規定された高位聖職者の胸当ての石のように、なんらかの民族の象徴あるいは徳の象徴であるのかもしれない。
聖書の胸当てには12個の石があり、第一列が紅玉髄・クリソライト(かんらん石)・水晶、第二列がガーネット・青色玉・赤縞めのう、第三列が黄色玉、めのう、アメシスト、第四列が黄色ジャスパー、縞めのう、碧玉と書かれている(聖書の版によって異なる)。
一方この宝冠の石は、まあ見た目だけでは確かなことは言えないが、こはく、サファイア、エメラルド、めのう、水晶、アメシストなどを使っているようだ。
ウィーンにある帝国冠は正面に四列12個の色石が嵌められてあり、その上に十字架が屹立したデザインとなっている。ミュンヘンの宝冠は十字架がなく天使がいる。却ってその起源の古さを示すようにも思われる。
ハインリッヒ2世帝に子はなく、ザクセン朝最後のローマ皇帝となった。

ローマ皇帝位が教皇権とともにキリスト教世界の勢力を二分していたのは 13世紀にシュタウフェン朝が断絶する頃までだった。その後の大空位時代に皇帝権は衰微して名目的なものとなった。 15世紀半ば以降はハプスブルク家が独占的に帝位を占めた。

イングランド王リチャード2世の妃だった「ボヘミアのアン」(1366-1394)の宝冠。1370-80年頃のものとみられる。
当時の教皇の強い引きによってイングランドに嫁したアン王妃は、華美で洗練されたボヘミアの宮廷文化をイングランド宮廷にもたらしたといわれる。経済的・政治的メリットの乏しい結婚と、彼女の贅沢三昧の暮らし方は国民に受けなかったが、王との仲は睦まじかったという。
この宝冠はヘンリー4世の娘が 1402年に選帝侯ルドヴィヒ3世に嫁した時の持参金の一部としてハイデルベルクのパラタイン宝物庫に入り、 1782年にミュンヘンの宝物庫に移された。イギリスの王冠として現存する最古のもの。
解説によると、金地の台冠にエナメル装飾を施し、サファイヤ(青石)、ルビー(紅石)、真珠、ダイヤモンドを嵌めてあるという。
が、どれがダイヤモンドなのかよく分からない。
14世紀当時はインド産のダイヤモンドが漸くヨーロッパに入ってきていたものの、へき開による分割やカット技術がまだ知られておらず、原石の結晶をそのまま、あるいは表面を軽く磨く程度で使った。ヨーロッパにあったのは比較的低品質のものや双晶による三角板状の結晶だったらしい。…が、ほんとについているのか。
また紅石もコランダム種のルビーなのかどうか怪しいと思う。

バイエルン王国の宝冠。
フランスのナポレオンに組したバイエルン公国の選帝侯マキシミリアン・ヨーゼフ4世は、1806年1月1日をもってバイエルン王国国王マキシミリアン・ヨーゼフ一世となることを宣言した。ただちに宝冠を含む王権を象徴する宝器の製作がパリの宮廷宝石工房に委ねられた。請負った宝石職人には当時の第一人者だったマルティン−ギョーム・ビエンネがいた。
宝器はもちろんミュンヘンの宮廷に納品されたが、その後の政治的事情は戴冠式の挙行を許さなかった。実際、宝冠は専用クッションに載せて王の傍らに置かれることがあっても、これをかぶったバイエルン王はその後一人も現われなかった。
王冠には高品質のエメラルド、ルビー、ダイヤモンド、真珠などが嵌め込まれている。すでにカット技術の確立していたダイヤモンドがまばゆく輝く。

同じくバイエルン王国の王権宝器として製作された王妃の宝冠。大小さまざまな真珠を流れるように並べ、ダイヤモンドとエメラルドを配して、清楚かつ威厳をたたえたデザインに仕上げている。さすがのパリ・モード。女性用の冠に真珠を多用するのは西欧キリスト教国の長い伝統であるが、日本の皇室もまた真珠を好んで身装具に採用しているようである。こちらは 20世紀において、養殖真珠が長く日本のお家芸であったことと関係しているかもしれない。

 

レジデンツ博物館へ    宝物庫2へ  宝物庫3へ


このページ 終わり [ホームへ]