684.氷晶石 Cryolite (グリーンランド産) |
氷晶石は見かけはなんの変哲もない白色の石塊だが、アルミニウムの精錬に欠かせぬ原料として、かつて非常に重要な鉱産資源であった。ナトリウム、アルミニウムのフッ化物で、組成式はNa3AlF6。物質名をヘキサフルオロアルミン酸ナトリウム(Sodium hexafluoroaluminate)という。かなり珍しい複ハロゲン鉱物である。
産地は偏在しており、アメリカ、コロラド州のパイクス・ピークやロシアのミアースクにも大塊を産するが、商業的規模の鉱床が存在したのは世界でただ1ケ所、グリーンランドはイヒドゥート(イビットゥート/イビクドゥト)のアルスク・フィヨルドだけだった。グリーンランド・スパーとも呼ばれたこの石は、グリーンランド産の鉱石鉱物としてもっとも有名なものだろう。
氷晶石の変哲のなさは屈折率にも表れている。無色透明の結晶を水に沈めると、あたかも消え去ったかのように見える。つまりその屈折率(1.338)は水のそれ(1.333)にほぼ等しいのだ。白色不透明な塊でも水につけると透明度が増して輪郭が薄れ、ちょうど冷蔵庫で出来た白濁した氷で水割りを作ったような感じになる。まさに氷の如き石である。
ピーター・バンクロフトは、水晶を含む大理石状の塊をスライスして水に浸けると、水中に(両頭付きの)水晶が浮かんだように見えて実に素晴らしいと述べている。コペンハーゲン大学博物館では氷晶石の標本を水に浸して展示しているそうだ。
17世紀にグリーンランドに入植した漁師たちは、この石を漁に用いる綱や網の重しにした。一説に、海水(屈折率1.339)に浸けると石が見えなくなって魚に気づかれないからだというが、バンクロフトは、ただのファッションかもしれないし確かなことは分からないよねとコメントしている。(比重2.95〜3なので、もちろん海水に沈む)
こんな目立たない石が世にも珍しい(ヨーロッパ大陸ではついぞ知られなかった)鉱物だと分かったのはグリーンランドから渡ってきた標本が分析された1799年のことだった。その石は、ちょうどギリシャ・ローマ時代に水晶が融けない氷とみなされたと同様に、まるで融けない氷のようだと言われた。アンドラダはギリシャ語の霜(凍った)に因んで
Chryolite (Cryolite) と命名した(補記1)。
この時点では氷晶石はグリーンランドのどこで採れるのか不明で、きわめて珍しい代物だった。
産地を発見したのは(あるいはヨーロッパに知らしめたのは)ギーゼッケである。日記によると彼はグリーンランドに上陸した年にアルスク・フィヨルドを訪れ、標本を採集した(1806年9月)。その後
1809年8月にも産地を再訪したようである。(ギーゼッケが帰欧後に著した「氷晶石について」(1822 エジンバラ・フィロソフィカル・ジャーナル)では、1806年に産地をすっかり調査したと述べる一方、1809年の再訪については触れていないらしい)
氷晶石は通常塊状で産し、まれに擬6面体の自形結晶を見せる。透明な結晶は低温環境で形成されたもので、単斜晶系の構造を持つ。560℃以上の温度環境では立方晶系に遷移する。よくある曇った塊は、高温履歴を経たことで霜が降りたような外観を呈するのだという。
硬度 2.5〜3.0。へき開は3方向に完全。熱に容易に融け、ブンゼンバーナーで熱すると、ナトリウムの黄色い炎色反応を示しつつ速やかに融ける。「溶融すると透明な粒になるが冷えると不透明になる」とコメントした鉱物書もある。
硫酸で分解され、フッ化水素酸を生じる。これはガラスを腐食させる(危険である)。塩化アルミ水溶液に溶ける。
以上の性質から、塊状であっても識別は難しくない。とりあえず水にチャプンだ。
ちなみにロウソクで炙ると弾けて砕片化するという。加熱すると発光し、また砕くときにも発光することがあるらしい。
イヒドゥートはグリーンランド南西端の小さな町で、北緯61度を少し越えたあたり、ヘルシンキやアンカレッジと同じくらいの緯度にあった。
氷晶石の鉱床は、銅や鉄の世界的な鉱床と比べるとはるかに小規模なもので、広さ
300 x 550mほどの花崗岩塊の上部に載って、約 80 x 200m
の区画をなした。
付近の堆積岩と花崗岩との接触帯には方鉛鉱などの金属鉱石脈があり、イヒドゥートの資源開発は初め、方鉛鉱に含まれる銀を目的に行われた。1854年であったが、半年後には品位が低すぎて採算が合わないと判断され、終わりになった。
同じ年、やや遅れて氷晶石の採掘が始まった。その頃、デンマークの化学者
J.トムセン(1826-1909)が、氷晶石から炭酸ソーダと明バンを製造する方法を発明したことによって需要が興ったのである。
この年コペンハーゲンに向けて出荷された氷晶石は高々15トンだった。翌年はフィヨルドを氷の壁が封鎖したため、出荷がかなわなかった。1859年にトムセンの特許が認められると、需要が本格化した。イヒドゥートにはいくつかの鉱山会社が入ってきたが、1864年までに統合されて以後一社専売体制となった。
出荷品の一部はフランスにも送られた。そこでは氷晶石を使って新金属アルミニウムをダイレクト精錬する研究が進められた(1854年、フランスのドビルは、ナトリウムを使ったアルミニウムの安価な製造法を発見し、1856年にはナポレオン3世の援助を受けてパリ郊外に世界初のアルミニウム工場を作った)。氷晶石はまた鏡用のガラス製造にも用いられた。
初期の採掘は坑道掘りで行われたが、1868年、デンマーク軍付の技術者ゼーレン・フリッツが露天掘り法を採用して生産性を著しく向上させた。彼は海岸沿いに堤防を築き、海際に延びた鉱床から海水を締めだした。
採掘した鉱石を運ぶためにピットからドックまで牽引用の溝が掘られていたが、秋になると溝を深くして海水を引き込み、運河にした。こうして冬(11〜3月)の間は海水をピットに導いて適当な高さまで冠水させた。侵入した海水は凍りつき、鉱夫の作業にちょうどよい足場となったのである。春がくると運河を埋めて溝に戻した。足場が融け出すとポンプで排水した。そうして夏の間、露出したピットの底部を掘り進めた。フリッツの創案はほぼ半世紀間、成功を収めた。
イヒドゥートでは冬の数ケ月、港が氷結する。ほかの時期も海は荒れている。1870年代まで鉱夫たちが郵便を受け取るのは年に一度のことだった。一次大戦が終るまで、デンマークからの便船は夏の間に1,2度往来するだけだった。しかし採掘は上述の方法で冬場も続けられ、夏になると船に鉱石を積めるだけ積んだ。そして好天を待ち、コペンハーゲンの精錬工場に向けて、はるばる3000kmの海路を送り出したのだ。ちなみに現地での生活必需品は、魚以外すべて外地からの輸入に頼っていた。
19世紀の終わり頃には、ガラス、エナメル、アルミ産業で氷晶石の新しい需要が生まれていた。なかでも膨大な消費を喚起したのはアルミ産業だった。
1886年、アメリカの C.M. ホールとフランスの P.L.T.
エルーは、溶融した氷晶石にアルミナ(酸化アルミ:ボーキナイトなどの鉱石)を溶かし込み、電解溶液法によって電極に純粋な金属アルミニウムを析出させるプロセスを、それぞれ独自に開発した。ホール・エルー法と呼ばれるもので、単独では
2054℃という高い融点を持つアルミ鉱石を、氷晶石(融点1012℃)を加えることで 1000℃以上低い温度において溶液化出来たのである。
変哲のない氷晶石は、実はアルミ精錬用のフラックスとして他に替えがたい省エネ物質だったのだ。
需要は飛躍的に伸びた。Brauns によると、1897年には 13,361トン、1908年は 5,740トンの氷晶石が出荷された。運搬船もその頃には 19世紀式の帆船から新式の蒸気船に変わっていた。グリーンランドは(デンマークは)氷晶石の輸出によって巨万の富を得た。余談だが、二次大戦中、ナチスに占領されたデンマークに代わってアメリカがグリーンランドを保護下に置いたのは、氷晶石資源を守るためだったという。また1960年に創設された航空会社グリーンランド・エアーは氷晶石鉱山の利潤を資本金とした。
だが、やがて鉱脈が乏しくなった。新しい脈は見つからなかった。アルミ産業は発展し続け、氷晶石の供給は需要に追いつかなくなった。一方、世界各地に潤沢に存在する安価な蛍石から合成氷晶石を作る方法が考案された。そうして1世紀間にわたった操業の末、鉱山は1962年に採掘を終えた。氷晶石の総採掘量は350万トンに及んだ。
その後も夏になるとコペンハーゲンに向けて、護岸用に海に投入されていた原鉱(約50万トン)や貯鉱が出荷されていたが、1987年にはストックが尽き、氷晶石事業は終息した(鉱山自体は83年に水没していた)。1980年頃には
150人程度の住民が生活していたイヒドゥートはほどなく放棄され、ゴーストタウンとなった。
今日、アルミ精錬に供されているのはすべて合成氷晶石である。
ロンドン絵入り新聞 1856年2月2日。グリーンランドの鉱山開発記事の図版。
「鉛鉱山と氷晶石 アルクスル・フィヨルドにて」
補記1:欧州にもたらされた最初の標本は、デンマーク王立グリーランド公社がコペンハーゲンに持ち帰ったもので、1795年に
H.C.F.シューマッハーが研究したという。ついでブラジル人の J.B.d.アンドラダとデンマーク人の
P.C.アビゴー(Abildgaard)が研究した。アンドラダは水中で見えなくなる性質を記録しており、「この鉱物は雪白透明でよく光り、加熱するとまるで氷のように発泡せずに溶ける性質がある」等と述べた。その後、ベルリンの M.H.クラプロート(1802年)とパリの
N.L.ヴォークランとがそれぞれ組成分析を行った。
補記2:氷晶石の自形単結晶はきわめて稀。標本としてはカナダ、ケベック州のフランコン石切場に約1センチ大の結晶が出ている。日本では氷晶石の産出は報告されていない。
補記3:金属(元素)アルミニウムを指す語として、イギリスでは英語アルミニウム (Aluminium)が用いられる。古代ギリシャやローマでアルミニウム塩の明バンを alumen(alum)と呼んだことに因む。ドイツ語やフランス語も同じである。一方、アメリカでは米語アルミナム(Aluminum)を用いる。こちらは1807年にイギリスのデービーが得たアルミニウム酸化物が当初アルミウムと呼ばれ、後にアルミナムと呼ばれたのを受け、光るものを意味する「a lumine」に通じる語感のよさから、1925年に米国化学会が採用した用語であるという。
補記4:チャールス・マーティン・ホール(1863-1914)はアメリカの冶金化学者で、学生時代にアルミナと氷晶石とを混ぜて溶融し、電気分解により金属アルミニウムを得る方法の特許をとった。この技術をメロン財団の援助で企業化し、1888年ピッツバーグ製造会社を立ち上げて副社長についた。この会社が後のアルコアである。
ポール・ルイ・トゥーサン・エルー(1863-1914)はフランスの冶金化学者で、ホールと同じ年(1886)に同じ方法による金属アルミニウム精錬法を完成した。彼は後に電気製鋼法をも研究し、エルー炉と呼ばれる電炉を発明した。
デンマークの科学者エルステッド(1777-1851)が初めて金属アルミニウムを製造したときと比べると、彼らの方法による製造コストは200分の1になったという。