676.ユージアル石2  Eudialyte (グリーンランド産)

 

 

ユージアル石の結晶 -グリーンランド、カンゲルルアルスーク産

 

18〜19世紀にかけての博物学時代、自然界に対するヨーロッパ人の知識は、公務や商取引によって植民地から本国に送られた物産や、探検家、商人(標本商)、アマチュア好事家といった人々の手を経て辺境地・奥地で採集された標本が大量にもたらされたことによって、世界的な規模に広がっていった。
グリーンランドの鉱物については、19世紀の初め、カール・ルドビッヒ・ギーゼッケ(1761-1833)の採集した標本が礎石となり、コレクションを研究した学者たちがさまざまな新鉱物を記載していったのがひとつのエピックとなっている。

このギーゼッケという人はアウグスブルク生まれのドイツ人で、本名をヨハン・ゲオルグ・メッツラーといった。理由ははっきりしないが、20歳の時にはすでにギーゼッケを名乗っており、ゲッチンゲン大学で法律を学んだ。卒業後、オーストリアのウィーンを拠点に俳優として活動し、シカネーダーの劇場では「魔笛」 の舞台に立った(cf.モーツァルト石)。
一説によると「魔笛」の台本を書いたのはギーゼッケであるという。彼は友人たちに、(作者と言われる)シカネーダーは、彼が書いた台本に(シカネーダー演ずる)パパゲーノとパパゲーナのパートをつけ加えただけだと語っていた。
鉱物への興味は学生時代に芽生え、大学ではブルーメンバッハの鉱物学を受講した。ウィーンにいた頃、フリーメーソンの会員になり、鉱物学専門の学識者が多く所属する支部に入った。支部での交友をきっかけに、30歳代後半に鉱物熱が再燃し、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリアなど各地を歩き回って標本採集をした。

経済的な問題から(と思われるが)役者生活に見切りをつけた彼は不惑を前にウィーンを離れ、1800年5月に鉱物標本商として立った。1801年にフライベルク鉱山学校の門を叩き、ヴェルナーの下で鉱物学を学び直した。そしてプロイセン鉱山顧問官の肩書きを得て、1803年から1805年にかけて北欧各地で資源調査を行った。数年に渡って精力的にヨーロッパ各地を訪れた後、コペンハーゲンに拠点を構えた。
グリーンランド行を思い立ったのは遅くとも1804年の秋で、地質調査に関連する助成金をデンマーク王に申請したがこれは不首尾に終わった。しかしフェロー諸島とグリーンランドへの(私費での)渡航許可が下ったため、1805年の夏、まずフェロー諸島を訪れた。帰路にはノルウェイを回ってコングスベルクの銀山やアレンデルの鉱物産地を訪れている。

そして 1806年4月、いよいよグリーンランドに向かった。ギーゼッケはベルリンに滞在した折にカーステン式の分類に従う鉱物種カタログを編纂していたが、旅に持参したのはそのカタログと日記だけで、ほかの一切はコペンハーゲンの牧師館に預けていった。
5月の終り、パアミウトに着いた。小舟でユリアーネ・ホープの南部へ行き、それからウミアクに乗ってカップ・ファルベルに向かった。帰路、カコトルに近いフィヨルドに寄って、10月半ばにゴッタアブ(ヌウク)に着くと、そこで冬を越した。ウミアクは主にエスキモーの女性が数人がかりで漕ぐ乗り物で、彼は自分も漕ぎ方を習い、やがてウミアクを駆使して海岸線のほとんどを探検する。
次の年には同じ経路を辿って北へ向かい、ウペルナビクの北部地域を旅した。1808年の前半は犬ぞりでディスコ島(ケケルタルスアク)を旅した。最初の年に採集した標本の大半はデンマーク船フリューリンに載せてコペンハーゲンに送られたが、船はイギリス公認の私掠船に捕獲されてしまった(世はナポレオン戦争の時代で、デンマーク王国はフランス側に組していた)
ギーゼッケがニュースを知ったのはこの年の5月で、もともとグリーンランドには2年ほどいて帰るつもりだったのだが、こうなっては仕方なく、滞在を1年延ばして、また標本を集め直すことにした。
もう一度南へ下り、ユリアンヘープやゴッタプ(ヌーク)を再訪した。その年の冬はいつにまして寒さが厳しかった。また夏が来たとき、彼はコペンハーゲンに残していた一切合財がイギリス遠征軍の砲撃(1807年)による火災で灰燼に帰したことを知った。そこでもう一年留まることにした。

1810年の夏はデンマーク/ノルウェイとの連絡が事実上分断されて、グリーンランドに船は来なかった。そのため多くの時間を越冬の準備に費やさざるを得なくなったが、ギーゼッケは寸暇を惜しんで採集を続けた。彼の生活はつましく、可能なときには朝起きて夜眠るまで石を切り出したり割ったりして過ごしたという。
真冬のグリーンランドの気温はマイナス35℃まで下がり、激しい吹雪で荒れた。彼は犬ぞりではるか北方のウマナクまで旅をした。翌年にはグリーンランドを離れるつもりで採集に励んだのだったが、帰路に予想以上の時間がかかった。その理由をギーゼッケは「ウミアクの漕ぎ手が漕ぐよりも食べることに夢中だったから」、と記している。彼と離れたくない誰かがいたのかもしれない。そのためリッテンバンクに戻ったとき、デンマークへ向かう船はすでに出港した後だった。

1812年はまた船が来ず、状況は悪化して銃弾と火薬が底を尽いた。グリーンランドでは食料の調達に支障をきたし、各地を飢餓が襲った。
1813年の夏、待望の船が来た。彼はスコットランドのレイスへ向かう便をなんとか確保して、ようようかの地を後にした。船は8月8日にゴッドヘブンを発った。その日の日記にこう記されている。「今や私は7年間の試練の時を終えて、とうとうこのみじめな土地をあとにしたのだ」。
船は同月、イギリスのエジンバラに入った。その後イギリス東岸を回ってハル港に降りたギーゼッケの(ヨーロッパの)衣服はすっかりくたびれて見る影もなく、エスキモーの着る毛皮と羽をまとった姿は、さながらパパゲーノのようだったという。

帰欧後の彼の身の振り方は No.678 で述べるが、グリーンランドでの行績は彼がイギリスに着く前からすでに欧州の一部の学者の間で高く評価されていた。イギリス船に掠奪されたコレクションがエジンバラで(レイスで?)競売に付され、学術研究の対象となっていたからだった。

ユージアル石はカンゲルルアルスークで発見された鉱物で、ギーゼッケが初めて採取したのだったが、彼はこれを新鉱物と思わず、ガーネットと鑑定していた。他の鉱物学者たちも同様に誤認を繰り返した。ギーゼッケの採集品の多くを研究したアランは(彼についても No.678 で述べる)、「まったく知られていないタイプ(形状)のガーネット」と記している。
最初にユージアル石を新種と認めた文献は諸説あってよく分からないが、初めて化学分析を完遂したのはシュトロマイヤーで、容易に溶解する性質に因んで「ユー(よく)・ディアル(溶ける)石」と命名したのも彼である。(⇒No.677参照)
ユージアル石はかすみ石閃長岩に随伴する造岩鉱物として、またペグマタイト鉱物として大量に産する(日本には出ないが)。共産するほかの鉱物に先行して晶出することが多いため結晶形がよく整っており、通常、疑似八面体形状を示す。一方、粗い粒子をなして明瞭な結晶面を持たない産状も珍しくない。また、カタプレイ石やジルコン、長石、錐輝石、方沸石(またはほかの沸石)など、他の種への変成が激しく進んだ例も報告されている。

cf.No.35 ユージアル石

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